2011年9月12日月曜日

小さなほころびを紡ぎなおすことの意味

ほぼ毎日曜日にランニングをする多摩川の河川敷は、特定の場所で、真冬を除いてバーベキューが行われている。だいたいは大学生と思しき男女のサークルだったりするが、なかには幼い子どもをつれた家族連れのグループなどもいる。都会で手軽に野外でバーベキューを楽しめるところはそうないので、それはそれで結構だ。まだ日が高いのに悪酔いした若者の表情を見るのは気持ち悪いが、そのくらいは「我慢の限度」内の話だし。

橋のたものと一角に、ビニール袋に入れられたゴミの山があった。その数20以上が行儀よく並べられていた。もちろんそこはゴミ捨て場ではない。河川敷には管理者の自治体が「ゴミは持ち帰りましょう」と看板を立てている所もある。なのにである。どうしてゴミは集積されているのか。

ほぼ間違いない想像として、誰かが最初にそこに残置した。そして後に続くものが、おそらく「ああ、ここに置いておけばいいのね」と勝手に自分たちに都合よく解釈して、自らのゴミを並べた。それがどんどん続いていったのだろう。きっと彼らには悪いことをしたという意識は希薄だ。
いや、いけないと思っていても「誰かに倣った」ことで免罪し、そしてそのあとのことを考えないようにしているのだろう。

 実際、翌週、別の場所だったが、地元の人と思われるご婦人たちがうんざりしたカオで「行儀のよいゴミ袋」を片付けていた。

 かつて、NYのハイスクールで、「割れた窓をそのままにするな」という取り組みがあり成果を上げたことを新聞で読んだ。荒れる学校現場で、壊れたものをそのままにしておくと、更に追い打ちがかけられる。これは落書きにも顕著に表れる。落書きされた現場をそのままにしておくと、どんどん落書きが増えていく。だから落書きをさせないためには、落書きを根気よく消していく以外によい方法がないという。
多摩川(川崎市側)2011.10.23
こうしたゴミは河原のいたる所にある


 「だれか」がやってくれること。と思うメンタリティーは、意外なほど罪深いと思う。このブログの最初の方に記したが、湯浅誠さんが言っていたことを再び思い出す。「見ようとしないものは見えない」と。それは考えたくないことは考えないようにしていると同義だろう。誰かに倣ってゴミを放置し、そのあとのことは考えないようにする。

 消費税を上げるのは、おそらくほとんどの人にとって抵抗があるだろう。何も小選挙区で争っていて、大衆にすり寄ることしか頭にない代議士だけではない。しかしどう考えても、このままではこの国の財政は立ちいかなくなるのはあきらかだ。しかし大衆は、それを考えたくない。目を背けたい。だから議論自体がなかなか進まない。

 原子力発電所には、万全の安全網が必要だった。しかし最悪の事態は考えたくない。優秀な技術者たちも、だからそれだけは考えないないようにした。結果、この事態になってしまった。

 河川敷にゴミを残置していくことなど、世の中の大きな流れからするとたいしたことではないかもしれない。そんなことをぐだごだ書いたってだれも興味を持たないし、読むだけ時間の無駄と思うだろう。しかし、それは、この国の様々な欠陥とつながっているのではないか、と思わずにはいられない。

 NYのハイスクールの窓と同じだ。小さな「ほころび」を治めることができない国には、おおきなほころびは絶対に治められない。

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