2011年9月8日木曜日

何かに打ち込む姿は美しい。でも…

 平日昼下がりの、あるスポーツクラブ。
準ターミナル駅近くで、また住宅地も近いという立地のためか、ここのクラブは、「お年寄り」と表現するのはいささか失礼であろうが、でも明らかにリタイアした「初老」の男性と、年配のご婦人(有閑マダムなんて言葉がかつてあった)の方々の天国だ。たま~に、そういう時間帯に行くと、いろいろ面白い発見がある。
 一種、サロンと化しているし、また彼ら、彼女らが自分自身と闘っている場でもある。

 病院の待合室がサロン化しているとよく揶揄されるが、スポーツクラブのサロンは言わずもがな健康的であり、病院のそれとは違い、いいことだと思う。

鉄アレイ(イメージ)

ロッカーでは知り合いらしい初老のふたりが孫の話しに花を咲かせていた。その姿はちょっと、将来の自分を見るようで背筋が寒くなったが、まあそれはそれでよい。

ストレッチを行うマット上では、年配夫人が、半年前の3.11東日本大震災時、このスポーツクラブのサウナにちょうど入っていた時の話しをしていた。どのくらい揺れを感じ、(はだかで)どうしたらいいのか慌てたとか、これまで幾度となく話したであろう「十八番」を披露していて。たわいもない会話が続いている。
一方、マシンやダンベルのところでは、「懸命」に汗を流している人々がいる。
「そんなに頑張らなくてもいいのに」と声をかけたくなるくらい、一つのことに打ち込んでる初老の男女の姿は、珍しくない。

この日、5キロ程のアレイをそれぞれ両手に持ち、休みながらも何セットも続けている初老の男性がいた。(だいたい1セット10回~12回持ち上げるのがふつうである。)。その形相は、明らかに「さわやかに汗を流す」領域を超え、自虐的にすら見えた。その脇ではこれまた初老の女性が、専用のベンチで延々と腹筋を続けていた。インストラクターが声をかけると、大きな声で「休みながら120回したのよ」と“主張”していた。
 こうした「頑張るお年寄り」とはどういう心持ちなのだろうか。見ていると、単に健康維持のためのトレーニングといった趣を超えた何かがある。
誰しも自分が「頑張れる」人間だということを確かめたい。エクササイズは、ある意味でそれを最も単純に可視化された状態で、自分にも周囲の人間にも確かめられる行為なのだろう。
「まだまだへこたれない」「年齢に負けたくない」といった気持ちを、文字通り、身をもって表現しているように、私には見えた。
 年をとるというのはそういうことなのか。やがて自分も、そう遠くない将来その“サロン”の仲間入りするのだろうか。

 もちろん、体力を維持した健康体で齢を重ねたい。でもそんなに「頑張ってる」姿をさらけ出すことには、ちょっと躊躇もある。何かに打ち込んでいる姿は、美しい。でも、行き過ぎはどうかな。

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