2012年3月8日木曜日

「穢れ」と「言霊」。 原発問題、がれき問題の根っこはこれだった。

朝日に載った環境省の全面広告 山手線の吊り広告にもあったが、
なぜか、読売、日経などでは見かけなかった。
東日本大震災によるがれき問題で、環境省が朝日新聞に協力を呼び掛ける全面のカラー広告を出した。政府も野党も自治体に対して協力を促している。
なぜ放射能とまったく関係ないがれきまで、受け入れてもらえないのか。一部のヒステリックな人々が強い拒否反応を示すのか。

一番納得のいく説明がされたのは、精神科医の斉藤環氏だった。
2月26日の毎日新聞紙上で、斉藤氏は言う。
通常の地域エゴと様相が異なるのは、津波による被災地のがれきまで、ほとんど放射性廃棄物も同然の扱いを受けているから。これは京都の五山送り火で、岩手・陸前高田の松が拒否された時点で予想されたもの。最近でも子どもに青森の雪を見せようとした那覇市の企画が反対の声でいったん中止に。こうした反応の根底には「放射能=穢れ(ケガレ)」の発想がある。」と。


震災直後には、福島で製作された橋げたが西日本の自治体で拒否されたこともあった。福島県産だけでなく被災地域の農畜産物を忌避する、いわゆる風評被害も同様の構図だろう。メンタリティーも含め、それらは「不浄」なものとして日本(特に西日本)の(一部の)人々に意識化されているのだ。


斉藤氏は「戦後日本でケガレが科学的根拠を圧倒したケースは「らい予防法」くらいしか思いつかない。」と書く。一番納得のいく、「腹に落ちる」説明であった。


では「放射能は穢れた存在」という「空気」が醸成された要因はどこにあったのだろうか。政府のアナウンスの不手際。(結果責任はあるものの、初めての事態で同情の余地はあると思うが・・・)、そしてマスコミの冷静さを欠いた報道。受け取る側のリテラシーの問題。すべてが相まって、穢れの「空気」が出来上がった。これが日本人のエートスなのだろう。


一方、原発問題について、どうして安全が確保されなかったのか、いわゆる「原子力ムラ」が形成されたのか、雑誌エコノミスト(2011年6月7日)で、2人の経済学者が鋭い指摘をしている。大垣昌夫(慶応教授)・大竹文雄(阪大教授) 。

「ことばには霊の力があるから悪いことを言うと実際にそのことが起こる」という古代からの言霊(ことだま)信仰 故に 「最悪の場合」は可能性があっても言及しないよいとされる」。「現 代日本社会の考え方は、言霊信仰そのもの。この文化の最大の欠点は最悪に場合について冷静な議論をし ないこと。」だと指摘する。

「本来官僚が担ってきた役目だが、官僚は自分の任 期内に最悪のことが起こらない可能性が高いなら沈黙を保つ。 原子力の安全神話維持されてきた背景はここにある。」と。
同様の指摘は確か東洋経済誌上で北川達夫氏もしていたようい記憶する。

原発を建設・維持していく過程で、少しでも「安全性は絶対ではない」という、いわば当たり前のことが、電力会社も政府も公の席では絶対口にできなかった。つまり「絶対安全」という説明をするしかなかったのだ。

日本人の「不吉なことを言うと本当になる」という、言霊信仰がために。
そしていつしか、原発当事者たちは、「絶対安全」という自らの「主張」に縛られ、最悪の場合の備えを怠ってしまった。「原発の安全神話」は、当事者たちが進んで作り上げたのではなく、大衆の要求によって作り出されたのであろう。

「原子力ムラ」はさんざんメディアで叩かれ、今回の事故の諸悪の根源、つまり「原因」として描かれた。しかしそうではない。最初からムラが形成されていたのではなく、原子力政策が、反対運動の中で進められていくなかで次第に身を寄せ合ってできた「結果」なのである。

電力会社や政府を擁護するつもりはない。当然結果責任はある。しかし彼らの瑕疵の一端は、われわれの側にもあるということだ。いま、巷で蔓延する「ゼロリスク」信仰も、言霊信仰と同類のものだろう。

「穢れ」といい、「言霊信仰」といい、どうしてわれわれはこうした「迷信」に縛られるのか。自らは「合理的だ」と思っていても、やはりその呪縛から逃れられていない自分の自戒も込めて。


ジャックラカンは難しい、
私には。しかし読む価値はある。
毎日新聞の斎藤環氏のコラムはしばしば鋭い。
ジャック・ラカンの解説本だと思って読んだが、正直ちょっと難しかった。しかしラカンに接した初めての本でもあり、「読んでよかった」。





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