2012年3月12日月曜日

東京大空襲報道に見る、日本人の宿痾(しゅくあ)

3月11日は1945年(昭和20年)の東京大空襲の日だ。10万人以上が犠牲になった大空襲として、新聞の首都圏版やテレビの首都圏向け放送では、これを特集することが結構多い。おそらく読者、視聴者の評判もいいのだろう。だから特集を組む。
日本人に限ったことではないだろうが、「被害者としての私」を取り上げてもらえることは、心地よい心情に違いない。「こんなに大変だったんですよ」と。
しかし東京大空襲について、「アメリカ軍の責任」を厳しく追及する記事を見たことがない。これまで皆無だったとは思わないが、少なくとも目立ったものはないし、「被害者としての東京の民」ほど繰り返されてはいまい。広島・長崎の原爆投下、沖縄戦の犠牲など、「戦争の悲惨さ」を伝える報道の中で、なぜアメリカ軍の責任は追及されないのか。もっと言えば、アメリカの責任は、いつも隠されている。これがもし「加害者」側が中国や朝鮮・韓国だったら同じような論調で報道されているのだろうか。メディアが保守系、リベラル系に限らずだ。
結局、日本は「アメリカの52番目の州」と揶揄されても仕方がない国なのだろう。(それでもいいという論調もあり、一定の説得力を持っている)アメリカを加害者として糾弾することは日本にはできない相談なのだ。それが日本のエートス、少なくとも1945年以降の日本においては、スタンダートな選択であり、日本人の屈折した感情という「宿痾」なのである。

別にアメリカ軍の責任をもっと厳しく追及しろとは思わない。しかし戦争という国と国との戦いの中で、常に犠牲者と加害者がいて、そのどちらも当事者だということは「東京大空襲」でも忘れてはならないことだ。
また、国民は「犠牲者」、国は「加害者」という分け方は、物事を必ずしも正しく理解することにはつながらない。わわわれ「国民」自身も「加害者としての自分」を引き受けなければならない。

それができないと、名古屋市長の河村たかしのように、「南京大虐殺はなかった」ということを公人として平気で発言する人間が出てくる。

「宿痾」は治らない。治そうとしても無理だ。だからこのこのメタリティーを持ちながら、上手に付き合っていくしかない。
※虐殺の規模についてはいろいろ論争はあろうが、「なかった」という論は異常だ。それも根拠が、そういうことはなかったと叔父から聞いたという「伝聞」でしかないのは驚いた。彼を市長に頂く名古屋市民はあわれだ。

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