小池龍之介さんは朝日の夕刊に時々コラムを書いていて、ちょっと興味と持った。「平常心のレッスン」(朝日新書)は、著者の「東大教養学部卒の僧侶」という経歴から思わず買って読んだ。
Wikipediaによると、学生結婚と離婚歴、家庭内暴力や女性遍歴など、そう褒められた生き方をしてきた訳ではなさそうだが、そんな経験を経てたどり着いた「境地」が記されていると思えば、素直に読める。
たまにはこういう書籍もいいもんだと思うようになったのは年取ったということか。それとも謙虚になったということか。
この本は、いくつか「走ること」に役立っている。ヘタなランニングハウツー本よりは、ずっとましな指南書になっている。
いわゆる「相談」というのが、すでに自己決定していることの「確認」として機能するように、ハウツー本を読んで感じることは、実はすでに実践していたり、考えていたことの確認として意味を持つ。
「平常心のレッスン」も「自己確認」として読んだ部分と「新たな知見」として学んだ部分がある。
○「平常心のレッスン」から
▽仏道とは、一言で言うなら苦しみを減らす方法。 四苦=生老病死(しょうろうびょうし)や「一切皆苦(いっさいかいく)」など釈迦は言葉を換えながら生きることの苦しみを教え、その苦しみの仕組みを見抜くことで苦しみを減らすのが仏道の修行の目的。
→「生きること」を、そのまま「走ること」、「泳ぐこと」に置換する。走り始めた当初、走ることは結構苦しかった。以前から泳いでいたので、いわゆる息が上がるということはなかったが、足の筋肉の痛みという物理的な苦しさと、走りながら「なぜ、痛みに耐えてまでオレは走ろうとしているのか」と、自問自答することの苦しさが混ざり合った「苦しさ」だった。
WEB上より引用 |
▽瞑想修行を続けていると、最初は苦手意識が消えるのが一時的でしかなかったのが、徐々に継続的、持続的に消えたままになる。瞑想修行はその意味では、記憶の呪い、過去というカルマから解放されるレッスンだと言える。
→苦手意識というのは非常にやっかいな代物だ。学習、人、スポーツ、あらゆるものについて回った「経験」である。走ることの利点は、自分のペースで行えること。もちろん仲間を作って楽しく走っている人たちはいるが、自分には向かないと思っている。(まあこれも「苦手意識」なんだろうか。)ひとりで走っていれば、苦しみから逃れることも、誰にも気兼ねなくできる。でもそうしなかったのはなぜか。ひとりで走っているうちに、苦しみ=苦手意識というカルマから解放されたのだろうか。
▽歩く瞑想 足の感覚に意識を集中する。
▽坐禅で呼吸に意識を集中する理由。 呼吸は無意識に行っていることがポイント。
→「呼吸」という無意識で行っていることに、意識を集中させるというのは、走っていると自然にできるようになる。ランニングでは実は「走ること」も無意識で行っている。人間の基本動作であるが故に意識しなくても走れるから。そこを意識して、リズム、足の運び、フォーム、など様々なことを考える。しかしこれは意識すればするほどやっかいだ。これでいいのかと迷いもまた増幅するからだ。
しかし呼吸を整えること、走りに一定のリズムを持たせることだけは分かる。
この年になると、泳ぐことも走ることも、スピードを早めることはなかなか難しい。自分の呼吸が乱れない速さは自ずと決まってきてしまう。ちょっと無理をすると、「呼吸」が乱れて、続かなくなる。
しかし距離を伸ばすことは、少しずつだが何とかなる気がしている。疲れを残さずに泳いだり、走ったりする距離は、実際少しずつ伸びてきた。
水泳はようやく2㌔を越した。いまはもう少し泳ぐ。走ることもここにきてようやく20㌔の壁をちょっとだけ乗り越えた。でもサボるとまた戻ってしまうだろう。ようやくハーフマラソンの完走が見えてきた程度だ。フルマラソンへの道はまだ遠い。
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