2015年8月1日土曜日

木曽御嶽山の「捜索再開」に、あえて異を唱える。+追記

netより「引用」

 57人が死亡し、戦後最悪の火山災害となった木曽御嶽山の事故。先日9か月半ぶりに行方不明者の捜索が再開された。
 昨日1人の遺体が発見されたが、なお5人の不明者がいる。不明者の家族にとって肉親がどうなっているのか、自分の気持ちの整理をつけるためにも早く「発見」してもらいたいと思うのは、ごく自然なことだ。私自身も登山をする子どもがいるし、自分も登る。
 もし何らかの事故に見舞われたら同じ気持ちになるだろう。だから、そうした家族の気持ちを何ら否定しない。人として大切なことだ。
 しかし、それと捜索を続けることは分けて考えなければならない。1人の遺体が発見されたということは、他の5人についても発見の期待が高まる。家族にとっては朗報だ。最後のひとりが発見されるまで、捜索は続けられるのだろうか。

これまでのべ何千人もの人員が投入され、標高3000mを超え、しかも火山灰で埋め尽くされた過酷な条件の中で、捜索は行われてきた。それはすべて「税金」で賄われている。それがはたして「正しい」ことなのだろうか。

netより「引用」
人命は何よりもまして重要だ。生きている見込みがあれば捜索を続けてもらいたい。しかし災害では72時間と言われる生存確率の高い時間を経過した場合、それは、マスコミは絶対そういう表現は使わないが、「遺体の発見」のための捜索になる。
 
 宗教観はひとそれぞれだが、日本人はどうちらかというと「遺体」にこだわる傾向があり、残された家族も「発見」が「けじめ」と感じる。だから行政も「家族の気持ちを組み」「遺体の発見」に多大な人的、金銭的資源を投入するし、そうせざるおえない状況になる。

テレビも大衆紙も企画を組んで、「残された家族の思い」を大々的に伝え、それが行政の方向性すら左右するようになっている。でもそした流れには、何か違和感を覚える。

 行政が何に税金を使うかは、形式的に言えば選挙民選んだ「選良」が代議して決めるのだが、実際は、大くの場合、首長の方針で決まる面がある。首長にとっては「残された家族に寄り添う、やさしいリーダー」というイメージは選挙でプラスに働くだろう。そしてこういうことに対して、注文をつける(文句を言う)ことははばかられるから、ほとんど批判の声はあがらない。

netより「引用」
かくして捜索は冬直前の山が危険になる時期ぎりぎりまで続けられ、そして再開された。だれも文句を言わないどころが、まるで日本国民全員がこの日を待ち望んでいたかのような雰囲気にメディアも静かに「訴える」。

本当にこれでいいのだろうか。今回は「戦後最悪の火山災害」という冠(カンムリ)が付いている。しかし災害による行方不明者はすべてのケースについて公的資源で捜索が続けられる訳ではないだろう。実際海難事故ではある程度日数が経つと打ち切られる。1、2人の行方不明の山の事故は限りなくあるが、延々捜索が続けられる訳ではない。

「火山災害は予測不可能の突発事故であり、その意味では被害者に瑕疵はなく、他の災害といっしょにできない」と言う人もいるだろう。しかしどこまでが自己責任でどこから「災難」なのかなんて手線引きはできない。身もふたもない言い方だけど、運・不運もある。

私はこう考える。生存のみ込みがあるのなら、行政が捜索を続けることに異議はない。繰り返しになるが人命は何よりも大切だからだ。しかし72時間が経過したら、(もちろんもう少し見込んで1週間としてもいいが)、それは「遺体発見」の捜索になるのだから、捜索にかける費用対効果も斟酌して決定されるべきだ。打ち切りも当然あってよい。

残された家族も意識を変えることが必要だ。冒頭に記したように気持ちは理解するが、「カオを見るまでは『死』を信じたくない」という、素朴な思いを乗り越え、現実を受け入れ生きていくことが、長い目でみれば必要だ。それが“遺された人”にとっても責務でさえあると思う。

だから捜索再開には「反対」する。
悲しみの気持ちを乗り越えて生きていく「強さ」が家族にも、行政にも求められている。


追伸
8月6日。長野県は捜索を中止することを決めた。理由の詳細はあまり報道されていないので、わからないが、常識的な判断だろう。
オカシイのはメディアの方だ。捜索再開の時は、多くのメディアで(少なくとも、私が通常見ているテレビの公共放送や築地に本社のある新聞)、「捜索再開を待ち望む家族の思い」を大々的に伝えていた。それも見ている側、読む側が、感度移入しやすいストーリー仕立てで。しかし捜索の打ち切りを伝える報道はほとんどベタ記事だった。
遺族にしてみれば、梯子をはずされた思いだっただろう。
マスコミはずるい。論理の一貫性から言えば、「最後の一人が見つかるまで捜索を!」と主張しなければオカシイではないか。
場当たり的、その時、その時で読者・視聴者を獲得できればいいという姿勢そのものだ。
彼らメディアは「報道とはそういうもの」としたり顔で言うだろう。だから信用されないということに気付いていないのか、分かっているけどやめられないのか。おそらく後者だろうが、火山噴火に散った人々やその家族は「いいネタ」として消費されただけだった。

山をやるものとして、彼ら犠牲者に、合掌。







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