2015年8月7日金曜日

『祈る平和』に感じる違和感 8月6日 「原爆の日」に思う

いわゆる(あえて「いわゆる」と言う)戦後70年。そして「被爆70年」は、その「節目の年」として、今年の「8月6日」は、語られた。明日は8月9日が語られるだろう。

「もう原爆の恐ろしさを伝える人々が少なくなってきた」「忘れてはならない」などなど、当然の言説がメディアで語られる。そのことに異議はない。正しいことだ。と、思う。
しかし、しかしである。
何か自分の中で「違和感」を感じてしまうのが、正直な思いだ。なぜなのか、考えてみたい。

「被爆70年の国民の思い」を否定するなど、それこそ非国民だと非難されそうだ。否定するのではない、それぞれの被曝者の方々の思いには寄り添いたい。
しかし、である。
かつてNHK教育テレビの討論番組で平和活動を行うNGOの女性が言っていたことを思い出す。「祈る平和主義」もあるが、「積極的に(動く)平和主義もある」と。

 ヒロシマ報道に違和感を感じているのは、まさにそのことかもしれない。
「祈る平和」は誰も否定できないよいことだけれど、そこには無力感も漂う。現実の政治はきれいごとでは動かないことを、歴史は語っているからだ。
「祈る」ことが悪いと言っているのではない。ただ、あまりにそのことばかりがクローズアップされすぎてしまうと、「なぜなのか」と感える思考が埋没してはしまわないか。

儀式化している8月6日、9日の催しは、祈るための祭祀になっている。若い世代がどれだけ「自分のこと」として原爆投下を考えるだろう。儀式で終わってしまうことの方が、よほど危ういと思う。

他人の葬式に出たことのある人は、経験があるだろう。儀式が執り行われている時は、厳かな気分になって、故人を忍ぶ。しかし儀式が終わってしまえば、そんな気分はどこかに行ってしまう。まして日にちが経ってもその故人を思い出して生活することなど、ありえない。儀式とはそういうものだ。
しかし「平和」は、常に考え、行動することが必要だ。8月6日に「祈れ」ば、ハイそれで終わりというのでは意味がない。そこに儀式への違和感がある。

「平和を祈り、平和を願う」ことは、あの原爆投下は、どういう意味があったのか深く考えることの妨げになってはいまいか。祈ることが思考停止になってはいけない。

渡辺靖さんの最新刊「アメリカのジレンマ」(NHK新書)によると、原爆投下を正当化できると考えるアメリカ人は54%、65歳以上では70%にのぼるという。(55頁 2015年の世論調査)
※もっとも18歳~27歳では47%で、歴史認識の世代間ギャップがあることも同時に述べている。

 なぜ原爆は落とされたのか。それを誘発したのは日本だったのではないか。そして、もっと突き詰めれば、アメリカに宣戦布告して戦争を始めたのは日本だったのではないか。それを主導したのはだれか、なぜ戦争をすることになったのか。考えることが必要だろう。

「それでも日本人は『戦争』を選んだ」を、いまごろだけど読んでみようと思う。そのことの方が祈ることより、価値があると思うから。






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