2011年5月24日火曜日

電車内空間について考える

都会で電車に乗ることは非常にストレスを感じる行為だ。通勤で毎日感じるストレスの重圧で、よく自分の精神が壊れないものだと、我ながら感心する。
ひとによって我慢の許容範囲は違だろうが、私にとって我慢ならないのは、(1)足を組んで投げ出している輩、(2)イヤホンから音漏れ、(3)扉の所に立ち続け乗降の妨げになる人、だろうか。

それぞれの行為の「心の源泉」について考えてみたい。
足を組む行為は、普通くつろいだ時に時々無意識にする行為だ。しかしそれはあくまで、他の人の邪魔にならないことが前提の行為であるはずである。しかしなぜ電車内で、まるで自分の家の居間のように「くつろいで」しまうのか。あるいはそんな認識もなく、無意識にそうしてしまうのか。足を組む人を見ていると、座席に座ると反射的にそうする輩が意外に多い。無意識に、ということだろうか。
しかし、その多くは、誰かが前を通過したりする時には、ちょっと足を引込めたり、また混雑してくると、文字通り「姿勢を正す」。彼ら、彼女らにとって、車内でくつろぐことは、意識化するまでもいかない、たいした問題ではないのだろう。

でも、と考えてしまう。何と言ったらいいのか、「転ばぬ先の杖」なのか、「李下に冠を正さず」なのか、うまく表現できないが・・・。例えば、適度に人のいる公園のベンチで、自慢のサバイバルナイフを磨いている人がいるとしよう。その人は、もし子どもがそれと気づかず近づけば、危ないと思って、すぐに引っ込めるだろう。誰かが不用意に近づいても、「自分はその事態に対処できる」という自信があり、大丈夫だと思っている。その心情と似ていないだろうか。

「常識」で言えば、公園のベンチでサバイバルナイフは磨かないというのがスジだろう。(「常識とは何か」については別項で考察したい。) 万が一ということがある。危険とは分からず、追いかけごっこをしていた子どもが不意にぶつかってくる可能性だってある。

「転ばぬ先の杖」を考えない人は、オルデカの言う「大衆」そのものではないか。万能感をもった浅知恵の人々と言えないだろうか。彼らは「想像力」を持たない。その行為が他の人にどう映るかは関心外の「オレ様」なのだろう。

朝の通勤時間帯には、暗黙のルールがある。ほとんどの人はそれに従い、“従順”に“秩序よく”乗っている。だからかなり混雑しても意外とスムーズだ。混雑の中、少しでもお互い気持ちよく、しかも乗り降りで手間取って電車が遅れたりしないようにしている。当たり前と言えば当たり前だ。電車が遅れて遅刻するのは自分だから、みな協力する。

ところが帰途の電車は様相が一変する。迷惑野郎は後を絶たない。まるで自宅の居間にいるように足を投げ出し、足を大きく組んでくつろいでいる。ドアの脇に立ち、乗降の邪魔になっても平気。大音量のイヤホンから耐えられないノイズを発信する。なぜか。帰り道という「気楽さ」がある。一杯飲んでほろ酔い気分であったりする。しかしそれだけではないのではないか。何かが人の意識のスイッチを逆に入れているように思う。往路の通勤・通学の反動なのか。それが何かは、今のところ考えつかないが・・。





2011年5月18日水曜日

自分の立ち位置を見つけるということ

 ふつう都会で電車に乗ると、だいたいの人は、なんとなく混み具合や人の流れを意識して、駅について扉が開くと乗降する人がスムーズに流れるように、その立ち位置をちょっとずらしたり、体をひねって手に持ったカバンが他の人の妨げにならないようにしたりする。多くの子ども、大人のそうした動きをみながら、電車内の「お作法」を身に着けていくものだと思う。それが常識というものだし、些細なことのようだが、そうした小さな行為の積み重ねが人の流れをスムーズにしている、と思う。
 しかしそうした動きを意識化できない人を時々見かける。否、毎日のように通勤途上で見かける。つり革や手すりにつかまったまま仁王立ち(それが女性でも)になっているヒト。扉の脇に陣取り、(最近は多くが携帯電話をいじっているが)まるで「この場所は私が獲得した所よ。動く必要はない」と言っているかのように動かず、扉が開いて乗降客の行き来の妨げになっても、まったく感じないヒト。こうした人が増えているのか、もしくは実は減っているのかよくわからないが、昔から一定数はいるだろう。

 多くの人は社会生活を営む中で、他人との関係性を意識し、その距離を測りながら微妙に立ち位置-スタンスと言ってもいいかもしれない-をずらしていくものかと思う。仕事での関係性、夫婦の会話、また子どもとの関係性で言えば成長に合わせて変えていくのがふつうだ。電車内での無意識の行動と同様に、それは協調、協力であり、ある面妥協でもある。妥協であってもそれは物事がスムーズに流れるための無意識の知恵だ。

電車内の些細な「不愉快」であり、「どうでもいいこと」かもしれない。でも位置をずらせない人を観察していると、この人は他のシーンでも、きっと自分の立ち位置を容易に変えない人なのだろうと思ってしまう。変えないという態度は、ある意味で立派である。「頑固」というのは換言すれば「粘り強い」人であり、自分の意志を貫く人かもしれない。でもこれまで50年余りの人生で己の能力の限界を悟り、妥協に妥協を重ねながら半世紀を生きてきた者にとっては、その心情がよく分からない。

 自分の立ち位置は、人や物との距離の中で意識化されるし、自分自身の置かれた状況を俯瞰して眺めることができる「もうひとりの自分」がいて初めて、立ち位置をずらす行為ができる。そうした、もうひとりの自分を電車内の人の群れの中で見つけることはたやすい。が、人生の中でそれを見出すことは案外難しいかもしれない。

(ここまで書いたのは確か去年の12月だった。後が続かず「編集中」のままであっ。
 3.11を経てもう少し書き加える。)

石巻市(旧雄勝町)
 震災地の報告は別項にするが、がれきと腐った魚の臭いの中を車で走りながら、やはり自分の立ち位置を考えていた。あの惨状を目の前にして自分は何もできない。ただ見て感じることしかできなかった。それは今の自分がサラリーマンとして給与をいただきながら家族を養い、また適当に息抜きしながら生きていて、その生活を投げ打ってボランティアに飛び込めない、いや飛び込まない人間だからなのだろう。
 
 誰かの役に立ちたいと思っても、行動に移せる馬力がもはやない自分がいた。車を降りて惨状をながめ写真をとっている自分は、被害に遭われた方々からはどう見られているのか、気になった。これほど周囲の目を気にしたことはなかった。自分の立ち位置が問われていた。
 石巻市大川小学校は多くの児童が犠牲になったところだ。無念だったと思う。なぜ自分がこんな目に遭うのかと。何の落ち度もない子どもたちだ。

 翻って自分は、自宅に帰れば、また普段と変わらない日常に戻る。そして仕事や家族のことやなんやかやで、震災のことを忘れている自分がいることに気づく。そんなものなのかもしれない。しかしそれでいいのか。 
 仙台から帰ったあと、一つだけ変わったことがあった。毎朝目が覚めると、「ああきょうも生きていた」と思うようになったことだ。日常を生きることに少しばかり感謝の気持ちが芽生えた。
 あと何年自分の人生があるのかわからない。しかしこれからの時間は常に「生きる立ち位置」を念頭に置いていきたい。(写真は大川小学校付近 北上川の河口から1キロ遡ったあたり)
 子どもたちに合掌。

2011年4月1日金曜日

捨て石について~囲碁から学んだこと~

囲碁を学んで、いまさらながらに気が付いたことがある。碁盤に白と黒の石を置いていき、領地の広さ(目の数)を争う囲碁というゲームは、どういうものなのか。改めて“解読”してみたい。ただしこれはあくまでも初心者の浅知恵でしかないことは、予め断っておく。  

    囲碁の簡単なルールは小学校低学年の時から知っていた。しごく単純なものだ。相手の石を囲えばその石をとれる。「目」に石を入れることができるのは石を取る時だけ。従って(つながっていない)2つの目がある領地は絶対にとられない。この単純さの中に、凡人では考えも及ばないような深く、複雑な動きがあるのだが、それはとりあえず脇に置いておく。

  さて、初心者は(少なくとも私は)、置いた石をすべて「生きる」、つまり相手に取られないように頑張ってしまう。そして結局はすべてを失うのだが・・・。しかしちょっとテクニックを覚えていくと、「捨て石」という考え方が有効なのが分かってくる。私の場合、それは入門書を読んで学んだ。

  「捨て石」とは、 置いた石のいくつかを犠牲にすることで他の領地を生かし、相手より多くの目を獲得するという方法だ。考えてみれば当たり前だ。相手もまた同じように領土を広げようとしていて、いずれどこかで黒と白の石はぶつかり、どちらかが取られるのだから。

  「布石」とは石を置いていく戦略のことである。だから「捨て石」もまた布石のいち方法である。この、ごく当たり前のことに気づいた時、企業経営者や幹部と言われる人々、またヒエラルヒーの真っただ中にいるサラリーマン戦士に比較的囲碁が好まれることとつながった。

  ネットを「囲碁and経営者」などで検索すると、もっともらしい言説が出てくる。曰く、経営トップに立つ者は囲碁で戦略を学ぶとか、逆に、囲碁のうまい経営者は強いなどと。だが「捨て石」に関する記述は見当たらなかったが、実は「捨て石」こそが上に立つ者のキーワードなのだと思う。

  凡人は、すべての人が仲良く生きられるようになればと思う。しかし経営エグゼクティブはそうは思わない。捨て石になる(する)人がいて初めて領土(会社)は守られるのだと。「総資本」対「総労働」とまでは言わないが、労働組合的な皆が豊かにという発想は、経営者側の捨て石があってこそ組織は生きながらえるという考えとは原理的にかみ合わないのだ。

   小沢一郎という人は囲碁愛好家として知られている。これは単なる趣味ではない。彼のこれまでの政治活動、いや政局活動を振り返ると、犠牲を払うことで、より多くを獲得するのだという、囲碁の「布石」=戦略とぴったり符号する。

  企業社会では 「捨て石」状況はいたる所にあるだろう。派遣労働者、季節工などは、最初から捨て石として布石されたものかもしれない。酷なようだがそれが現実だ。大企業の下請け構造そのものもそうだろう。正社員は最初から捨て石として決定して訳ではない。事態が進んでいくうちに次第に捨て石になっていくのだ。それは石の置かれた場所と相手の戦略が複雑に絡み合って決定されていく。

捨て石も、あっさり取られてしまうものもあれば、最後まで「捨て石」としてあることで存在感を示し、重要な役回りを担うこともある(と思う)。でも最後は、やはり犠牲にされる存在なのである。それが捨て石だ。

  社会人1年生として世間にデビューした若い諸君に告げる。組織は必ず捨て石を「必要」とする。社会全体のパイが広がらないのだから、なおさらだ。自分が捨て石になるのかどうかは、いま見てきたように、自身の努力だけでは決められない。相手があり全体状況があって、その形勢判断があって初めて、「経営トップ」によって決定されるのだ。いま自分のいる位置が捨て石になる可能性があるところかどうか、早く悟ることが肝要だ。

2011年3月12日土曜日

スキー場の黄昏と希望

 「私をスキーに連れてって」という映画が評判になったのは確か1980年代の初めだった。(ウィキペディアによると1987年11月公開となっている)。私自身はすでにそのころ「スキー愛好家」であり、この映画に魅了されたという訳ではないが、周囲に聞くと、世の中的には、この「わたスキ」が一大スキーブームの先駆けになったという。

 そもそもスキーは登山と並んで戦後の一大レジャーであった。多くの人が満員の夜行列車に揺られながらスキー場を目指した。 (「サザエさんを探して」という朝日新聞の土曜版コラムでも取り上げられていた。)

 しかしいま、スキー場は黄昏ている。私の知る限り、今シーズン、12月の八方、正月の蔵王、2月平日の苗場、そして3月初めの志賀高原とどこも人は少なく滑る分には快適であった。しかし苗場なんかでゴンドラもリフトも動かしていないものがあり、さびしい営業だ。レストハウスもすでに「廃墟」と化しているところも多い 志賀高原の焼額山のロープウェイで一緒になった年配の方がしみじみ言っていた。ピークは1998年の長野五輪の時かな。それ以来落ちるばかりだ、と。その人が泊っている400人収容可能だという宿は、前夜わずか14人だったという。

  ビギナーにとってスキーは確かに面倒くさいスポーツである。道具をそろえ、時間をかけて、その場所まで行き、慣れない重い道具を身に着けリフトに乗ってようやく準備ができる。 (ここまで記したのが3月11日より以前であった。 3月11日を境として、スキー場の黄昏などという、この状況下ではのんきな言説は語れないので、しばらく時間を置いて、以下は再開した。)

  いまスキーヤーの多くは、比較的コアな人々だ。スノーボーダーも、かつては無謀な若者が多く、技術がなく自らを制御することができず、スキー場の危険な存在だった。しかしそういう人は今や少ない。少なくとも私は今シーズンにそういうボーダーは見かけなかった。スピードは出してもコントロールできる人々だ。

 かつて、平日のスキー場は学校名の入ったゼッケンをつけて講習を受けていた、高校生や大学生であふれていた。ゲレンデそばの、いわゆるロッジと言われる宿には、大食堂があり、10畳の畳部屋に6~7人が詰め込まれて、4日間か5日間、みなスキー訓練(それは体育の授業の一環でもあったのだと思う)を行っていた。 私がよく参加していたのは、YMCAのスキーキャンプだ。小学生のころは毎年冬休みと春休みに参加するのが楽しみだった。そしてゼッケンを着け、斜面に並んで順番を待ちながらスキーを教わっていた。

 そうした光景を見ることは、いまはまれだ。ほとんどいないと言っていい。スキー講習の「聖地」志賀高原の熊の湯スキー場で、唯一高校生のスキー教室を見ただけだった。集団で講習を受け、少しでもスキーに親しめば、中には興味を持ってその後続けてみたくなる人が出てくる。が、こうしたスキー教室そのものが行われない中で、スキーをやろうという人は、新たにはなかなか生まれない。  

 世の中には、他に楽しいことは山ほどあるから、別にスキーがレジャー&スポーツとして衰退してもよいではないかという考えもあるかもしれない。しかし、である。自然の中で、寒さを感じながらも爽快感を得るこのスポーツには、スキーならではの魅力がある。それを少しでも多くの子どもたちに経験してもらいたい。
 
 銀世界の中で自然を考え、自然と向き合うきっかけになればと思う。  例えば、標高1800m余りの北アルプス八方尾根の第一ケルンから見る峰々の景色は、言葉に表せないほどのすばらしい眺めだ。リフトやロープウェイで一気に高度を上げて山の上まで行くのは、山屋から見れば邪道かもしれない。それ自体が自然破壊だという主張もあるだろう。それはその通りだ。私も山の頂上までリフトやケーブルを引くことには反対だ。しかしより多くの人が楽しめるようにある程度の「開発」は、もちろん自然に配慮しながら行うのらば容認したい。どこまでがよくて、どこからがダメなのかはきちんと議論を経て決めればよい。

 スキー場の黄昏は深刻だ。旅館やロッジは相次いで閉鎖している。バブル期に開発された小さなスキー場はもはや経営がなりたたない。ある程度の集約化は避けられないが、逆に空いていることを逆手に、若い人たちにもっと来てもらいたい。冬場、まずスキー場に行くこと。それがきっかけになるのだから。そこにスキーというレジャー&スポーツに希望がある。

2011年2月11日金曜日

泳ぐことについて語る時僕の語ること②

 2011年2月11日。東京も雪になった。氷点下の中、8時過ぎには家を出てプールに向かう。こういう寒い日は朝からプールにやって来る物好きはそういないだろうと思うかもかもしれないが、逆である。泳ぐ人(走る人、筋トレの人も同様だろうが)は、こういう日こそ、施設がすいていてのびのび身体を動かせると考える人ばかりなのである。気のせいかいつもの休日より混雑している。

 「泳ぐこと」の一連の動きは、ひとつの儀式だ。電車に揺られて施設まで行き、着替えてシャワーを浴び、そして泳ぎ、風呂につかり、髪の毛を乾かし、ベンチでしばし休む。このおよそ1時間半は、いわば流れ作業だ。しかし、それは単に習慣化された惰性の所作というのではない。気持ちの上では悩んだり、後悔したり、少しばかりの勇気を出したりと、自分の中でひとつのストーリーを形成している。
 この日は、普段にも増して身体は芯から冷え切っていて硬かった。シャワーがひとつの関門だ。何回通っても体を濡らす瞬間はちょっと躊躇する。どうにか第一の関門を乗り越え監視員のカウンターの前を軽く会釈しながら通り、いつものコース(低速コース)に行く。

 「たかが泳ぐだけ」にどうしてこんなにも毎回心悩むのか。特に冬場、水に入る瞬間は、まるで肌に貼った絆創膏を産毛が抜ける痛さを覚悟して一気にベリっとはがしてしまう行為そのものだ。一挙に水に入り、すぐ泳ぎ始める。身体に寒いだの、イヤだのと考える余裕を与えないようにするためだ。筋肉はまだ起きていない。肌は水の冷たさを受けでこわばってくる。しかし我慢してゆっくり腕を回す。
50mプールを1回、2回と往復するうちにようやく肌と筋肉が慣れてくる。最近は体力も少しは備わり1000mを越してからもなんとか気力がついてくる。この日は思いのほか調子がよかった。2000mを50分を少し過ぎるくらいで泳ぎ切った。

 快感は事後的に得られる。泳ぐことを続けていて得られたのは、そんな単純なことだけかもしれない。村上春樹さんが「走るとき語る時、僕の語ること」(新潮文庫)の中で書いていたことが、印象に残っている。

『誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。 いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的に自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹がたったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしてらその分自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って呑み込めるものは、そっくりそのまま自分の中に呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物(いれもの)の中、物語の一部として放出するようにつとめてきた。』(文庫版 P48から 引用)

怒りとか悲しみとか恐怖とか、心の動揺を抑えてくれるのは、体を動かすことだけかもしれない。心と体のバランスをいかにとるか、50を越して自分の中で大きなテーマになっている。
 「走るときに語るとき・・」については、また別の機会に“語り”たい。

2011年1月21日金曜日

自分が崩れ落ちてゆくという体験について①

 突然、背後から腰のあたりをピストルで撃たれたようだった。激痛が襲い、立っていた身体をまったく支えきれず崩れ落ちた。何かの戦争映画で見た、銃撃を受けて倒れこむ兵士の姿だったに違いない。崩れ落ちるわずかの時間に、そういう自分を見つめる「別の自分」がいた。誇張でも後付けの理屈でもない、本当にそんな瞬間だった。
 意識こそはっきりしていたが、床にうずくまった状態でしばらく動けなかった。頭は回転した。この危機をどうしたらいいのだろうか、と。時間にして10数分だったろうか、瞬間的な痛みの“余韻”を感じながら、少しずつ体の向きを変えていいた。これが所謂「ぎっくり腰」かと、冷静に思い至るには、しばらく時間がかかった。
 場所がまた悪かった。自宅近くに借りている古いビルの中のトランクルーム。日曜日の夕方、自動ロックが掛り、利用者以外は入ってこられない上、いくつも小さく仕切られた物置にするため、内部の通路は複雑で、自分の借りている場所は、入り口からも見えない所だ。でもなぜか真っ先に頭を巡ったのは、ちょっとのつもりでビルの前の大通りに路上駐車した車だ。「駐車違反を取られるかもしれない。」身体の一大事の時に、車の心配が先に来るというのは、ちょっとどうかと思うがそう考えたのだから仕方ない。車には携帯電話も財布もすべて置いてきてしまった。なんとしても車までは「帰還」しなければならない。痛みと必死さで背中に汗をかいているのがわかった。ゆっくり時間をかけながら、つかまり立ちをして、壁を這うようにトランクルームを脱出した。扉から目の前のエレベータまではわずか3m足らずだが、つかまる所がなく、とてつもなく長い距離に見えた。手の広げてバランスを取りながらすり足で進む。1階に降りたち、更に10m程通路を進み、そして歩道に出る。わずか10㎝の段差がこれほど恐ろしいものなのかと、思い知らされた。
 日曜日の夕方、歩道は走り抜ける自転車やジョギングをする人など、普段より人通りが多い。2.5mの歩道を横切るのは、かなりの勇気が必要だった。なんとか車までたどり着き、助手席側から入り込んで、携帯で家人に助けを求めた。
 これが、生まれて初めての「ぎっくり腰」体験である。経験者にしてみれば、「そんなもんヨ」という程度かもしれないが、初体験者にはいささかきつい洗礼だといえよう。
 実際あとからweb siteで「体験」を覗いてみると、いくつも「やった人でなければわからない痛さ」とあった。私自身も、こう言うほかない。経験則に依存した物言いは、好きではないが、今回ばかりは言いたくなる。
 そして分かったこと。足腰の弱った年配者にとって、人通りの多い道を歩くこと、段差を越えること、が、如何に恐怖であり、大変なことかということが。
物事には分かっているつもりでいても、本当は分かってなんかいないことが多々ある。そのことに自覚的であることの大切か、骨身にしみた経験だった。
 翌日は仕事を休んで整形外科へ。整形外科への疑問は、また次回。

2010年11月22日月曜日

泳ぐことについて語る時僕の語ること①


 2000m泳ぐ。クロールで約55分。いまコンスタントに10分で400m泳いでいる。昨夜は久しぶりの午前様だったが、いつものように東京体育館9時の開館から水に入った。
外気温が次第に下がってくると、体が冷えているせいか水に入る瞬間がつらくなる。思い切って足からざぶんと入り、一回頭を水につけてすぐに泳ぎだす。皮膚は冷たい水に接して毛穴が縮こまっていく。体はまだ固い。辛抱だ。200mほど我慢すれば次第に体は温まってきて、いつものように回り始める。こうしていつもの土曜日が始まった。

そうまでして泳いでいるが、思えば泳ぐことをそんな楽しいと思ったことは、これまでない。もちろん泳いだ後の心地よい爽快感や達成感は味わうが、泳ぎながら楽しいという気分にはならない。そこがスキーやパラグライダーと違うところだ。

NHKの番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で水泳選手北島康介を取り上げた回を見た。(11月8日放送)。南カリフォルニア大学の競泳チームの一員として週6日練習を続ける北島は言う。「毎日2時間近くもプールの底を見続けるのはけっこうつらい」と。またコーチは、「水泳くらい退屈なスポーツはない。だから飽きさせないようにデズニーランドを目指す」つまり練習に様々な変化を取り入れて目先を変えてトレーニングする、と。

 これまで水泳を続けてきて、あまり楽しいとは思ったことがなかったにも関わらず、「退屈なスポーツ」という認識を持ったことはなかった。それは「退屈だ」と思わなかったからではない。きっと退屈で単調なことに気付いていた。しかしそれを意識してはいなかった。水泳とはそんなもんだといつも自分に言い聞かせてきたからだろうか。

確かに退屈だ。プールの底を見続け、同じ運動--それも長くラクに泳ぐなら、なるべく同じ単純な運動にした方がよろしい--を繰り返すことが、「正しく泳ぐ」ことだ。そういうものだと思って、「自分の体にイイコトしてる」という思いだけが支えになって泳いできた。改めて、北島やコーチの「退屈なスポーツ」という認識を聞き、そのことに気付かされた。まるで、これまであまり美味しくないものを食べてきたが、それはそれで「こういうものだ」と思っていたら、ある日同じものを食した人に、「これまずいよね」と指摘され、これまでの自分を否定されたような、ちょっと気まずく恥ずかしい気になるのと同じかもしれない。

ではなぜ泳ぐのか。泳ぐことが好きかと問われれば、「少し…」としか答えようがない。泳ぐことが目的ではなく、それによって体力をつけることが目的だからだ、と自分に言い聞かせてきたからだ。

しかし単調な動きとプールの底を見続ける単調さの中で、いいこともある。それは「考える」ということだ。何往復目を泳いでいるか忘れない程度を頭に入れておけば、あとは頭を使える。なにしろ視覚的にはプールの底という情報は入ってこないのだから。じっくり考えられる。その日、あるいは前日の自分を振り返り、できたことできなかったことを整理し明日に備える。普段無意識に考えることを避けていたこと――悩みや思い--を文字通り水につけて「頭を冷やして」考える。水泳はこれには絶好の機会でもある。 具体的に何を考えているか。それは言えない。

もっとも、1コースを専用にマイペースで泳いでいるのではなく、公共施設のプールなので、何人かが続けて泳いでいて、その「駆け引き」というか「譲り合い」など気を使ったり、超スローペースで泳ぎながらインターバルを取らず他の人に迷惑な身勝手君にイライラさせられたりと、冷静ではいられないことも多いのが現実ではあるが、それでもアタマには考える余裕が多く残っている。

最近始めたジョギングはそういう訳にはいかない、と思う。街中を走るときは、車に気をつけたり歩行者とぶつからないようにしたり、さまざまな家並みが目に飛び込んできて、こんな家に住んでいる人もいるんだな、この家の持ち主はどんな人かな、すごい車が停まってる、などなど目と耳から入ってくる情報を処理したり惑わされたりする。考えていることがしばしば中断させられ、「あれ、いまどこまで考えていたんだっけ」なんて、「考え」なければならない。

誤解のないように言っておくと、水泳は決して単純な運動ではない。本当に泳ぎを究めようとする人にとっては単調な動きなどありえないし、北島もこれまで悩み、試しながら、如何に効率よく抵抗の少ない「型」を作っていくかに腐心ていると言っていた。自分も、効率のよい手のかき、伸びの姿勢をちょっとだけ考えながら泳いではいる。


 泳いでいて、くたびれてくると顎があがる。目線はプールの底か、少し下(後方)を見るのが「正しい泳ぎ方」だと、水泳教室に通っていた息子に教えられ、なるべくそれを心掛けている。しかし息があがってくると、気が付くと前を見ている。顎が上がったためだ。走っていても登山でも息が苦しくなってくると顎が上がるのは共通のだ。

最近でこそあまり意識しなくても顎が上がらなくなったが、それまでは気が付くと前を見ていた。いかんいかんとまた下を向くがいつのまにかまた前を見てしまう。その繰り返しが数か月続いてやっと自然に下を見ていられるようになってきた。それだけ体力もついて息があがらなくなったということでもあるのだが。
 泳ぐことについて語ると、まだまだ尽きない。以下次回。

2010年11月5日金曜日

見ようとしないものは見えない by湯浅誠さん


湯浅誠さんは、一昨年の年越し派遣村で一般にも広く知られるようになり、いまは内閣府の参与も務めながら貧困問題と取り組んでいる人だ。自分より年下で、心から尊敬できる人はそういない。しかし彼のことは心から尊敬する。4月、彼の出身高校で講演があるというので出かけた。

「岩盤を穿つ」(文芸春秋2010)を読んだ直後だった。著書には出てこない話しが面白かった。

そのエッセンス。浪人して頑張って東大の法学部に入った彼は、合格を見たとき、「ああ自分は頑張ったんだな。よく努力した。」と思ったという。当然であろうだれでもそう思うことだ。しかしその後、ホームレス支援などを通じて経験を積み、「いまから思うと、それは条件が良かったからだ」ということに気が付いたという。

彼は父親が日経新聞記者、母親が教師という“恵まれた”家庭で「静かに勉強できるひとりの部屋を与えられ、受験勉強を行うにはいい環境であった。誰しも自分の“成功”を自分の努力(だけ)と思い込む。置かれた環境や条件がよかったことを顧みることはない。つまりそういう「条件」を普通は顧みることはないということだ。

置かれたを条件を斟酌しないで、成功も失敗も「自己責任」という言葉で片付けていく世間の風潮に、湯浅さんは静かに抵抗を表明していた。

ホームレスになる人は、最初から条件が不利だった人が多い、という。雇用情勢がこれだけ悪化して昨今は冷静な見方も支配的になってはきたが、多くの人はホームレスを見て、「努力をしなかった人」「お酒やギャンブルに負けた人」つまりあまり同情する必要のない人として見てきたのではないだろうか。それは一面健全な考え方でもあると思う。しかしそれだけではないし、それだけとしか見ないことは何の解決にもならないことに私自身やっと気づき始めた。

「見ようとしないものは見えない。」

湯浅さんが東大の駒場のキャンパスに通い、渋谷で遊んいる時は、渋谷にいる多くのホームレスに気が付かなかった。それはなぜか、見ようとしなかったからだと。ホームレス支援のボランティアを始めて初めて、こんなにも多くのホームレスがいるのかと、彼らの存在を見る(認識する)ことができたという。

見たくない現実は見ないようにする。考えたくない困難は考えないようにする。ヒトの無意識はそういうふうに働く。学生時代、勉強していても苦手な科目はつい後回しになり、結局ちゃんとやらず、ますます不得意になる経験は数限りなくしてきた。今でもそうだ。気の進まない業務に関するメールは、見なければいけないと分かっていても、ついつい後回しになり業務が滞る。そこにヒトの弱さあるのだろう。
将棋の棋士で佐藤康光九段(永世棋聖)がいる。かつては竜王位や名人位にも就いた羽生世代のトッププロのひとりだ。彼はタイトル戦でも必ず相手の得意戦法にあえて乗ってくる。凡人の考えなら、まず自分が得意な戦法で戦うことを考えるだろう。しかし彼は違う。相手の得意戦法で戦いそれを破らなければ本当に相手を打ち負かすことにはならずタイトルは獲得できないと考えているのだろう。乗り越えるべきものが何か、きっと分かっているのだ。穏やかな風貌の中のどこにそんな闘志があるのか、棋士を見ていていつも思うが、それがトップを走る者の考えなのだろう。
湯浅さんの話しからトップ棋士の戦いのスタイルを考えてひとつ気が付いたことがある。
強くなるということは、自分の弱さに向き合うことなのだと。このトシになって気が付いた。見たくないものを見ようとしない自分の弱さが分かった時、初めて向き合える。向き合うことで考え、困難を突破しようという勇気も出てくるのだ。湯浅さんはそんなことを様々なエピソードを交えて教えてくれた。

2010年10月23日土曜日

東急電鉄という体質①


東急電鉄という会社は輸送力の増強や他線との接続、駅周辺開発などの設備投資にはとても熱心な鉄道会社だ。会社のサイトによると、バリアフリー化(エレベータ、エスカレータ、点字時刻表、点字ブロック等)を順次すすめ、除細動器(AED)の全駅設置は完了したそうだ。

大規模改良工事は着々と進められ、“輸送力増強”と“利便性の向上”に努めているそうだ。田園都市線の複々線化、大井町線の溝口までの延伸は完了し、東横線の特急、急行の10両編成化による輸送力アップとそれに伴うホームの延伸工事も進めている。渋谷-代官山間の地下化と副都心線との乗り入れも進め、また相鉄線との相互直通運転も2019年開業予定という。

通勤に使用したことがないので確かなことは言えないが、田園都市線の通勤ラッシュの混雑は尋常ではないらしい。“鉄道博士”、原武史さん(明治学院大学教授・政治思想史)の著書によると、混雑によって遅れが生じても東急はやがて駅でのアナウンスをやめてしまうらしい。(著書がどれだったか思い出せず記憶で書いている)。

東急電鉄にとって輸送力の増強は喫緊の課題なのであろう。合わせて直通運転による「利便性の向上」も欠かせない課題なように見える。しかし輸送力を上げるのと直通運転、また沿線の開発は一体となった企業の「成長戦略」そのもののように見える。

輸送力を増強する設備投資をしても、今より乗客数が伸びなければ設備投資資金を回収できない。そのため、他路線との直通運転によって乗客数の増加を図ることが必要になる。
かつて私鉄は沿線に遊園地や商業施設を作り都心から乗客を運び、その後は郊外に住宅地を作って都心に通う乗客を増やすことで成長してきた(原武史)。しかし人口そのものがさほど伸びない中で、こうした旧来型の「成長戦略」の期待値は低い。そこで他の線から乗客を奪う直通運転が必要となる。

ということは輸送力を増強しても同時に乗客数の増加を図っているのだから、混雑は解消されないということになるのではないか。「混雑解消のため」に「輸送力増強」を図り「お客様の利便性向上」に努めているというロジックは実は「会社のため」だったのである。

いち私企業が成長を目指すのは当然のことであり、東急の戦略に別に異を唱えるわけではない。が、それが鉄道輸送という地域独占で公的性格を帯びた企業としてもう少し正直な「物言い」はできないのだろうか。あまりにもあざとい感じがする。

冒頭のバリアフリー化や除細動器の設置は、ある面法律で義務付けられた施策だろう。それをいかいにも「お客様のため」と言うところがいやらしい。(一段と意地悪く解釈すると、バリアフリー化も、高齢化の中でお年寄りにももっと鉄道を利用させようという戦略と見ることができる。バスには老人パスがあるが電車にはないから。) …以下②へ

2010年10月16日土曜日

24年ぶりに登った鳥海山


遠くから見ると、なだらかな裾野がそのまま日本海に直接そそいでいるように見える。それが秋田と山形の県境に位置する鳥海山の特徴だ。表紙写真は、山形県側の登山ルートのひとつ、湯の台口から登り、胸突き八丁のあざみ坂を詰めたところから見た庄内平野と日本海。久しぶりに味わう、こころ洗われる眺めである。
 左は、河原宿小屋から見上げた、通称大雪渓と小雪渓。8月下旬となり、今年の猛暑の影響もあってか雪渓は小さかった。用意した軽アイゼンは結局使わずじまいだった。
 ほとんど山の素人だった24年前、大平ルートを案内してもらいながら登った山は、大げさに言えばその後の生き方に少なからず影響を与えた。およそ4半世紀、あれから人生の3分の1か4分の1をこの間過ごしてきた。50代になって再びこの山に登れたことは、これからを考える上で、自分にとっては重要な儀式になったかもしれない。

2010年10月15日金曜日

「マディソン郡の橋」から学んだ「語る」ということについて


小説「マディソン郡の橋」を読んだのは、話題になり映画化され、日本でも公開されるとう時だったと思う。ウィキペディアで調べると、小説の発表は1992年、映画化は1995年9月となっている。最初にこの映画をいつ見たかは思い出せない。
今年の夏前、NHKの衛星放送でクリント・イーストウッド特集の中で放送していた。
「平凡な主婦とカメラマンの大人の恋」(衛星放送での辺見エミリのひと言解説)ということらしいが、そんな薄っぺらな視点で「マディソン郡の橋」を読んだり鑑賞したりした人はいないだろう 。
小説の内容はもう忘れてしまったが、映画は原作をほぼ忠実に再現していたように記憶している。

「“もうひとつ別の自分”を発見する」あるいは、「違う人生があったのではないかと思いを抱く」というのは見つけやすいテーマである。少なくとも15年前にこの小説を読んだ時に抱いた思いはそんなものだった。誰しも、自らの現在の生き方に大きな不満がある訳ではないが、何か漠然とした「違うものへの渇望」は持つのではないか。「マディソン郡の橋」はそのな人の性(さが)を、イタリアからアメリカに憧れて嫁いできたフランチェスカの心情の中に見事に具現化していた。

10数年ぶりに改めてこの映画を観て、もうひとつ違うテーマを“発見”した。それは「語る」ということである。映画で、フランチェスカはキンケイドに自分の思いを語る。夫はやさしい。なんの不満もない。2人の子どもにも恵まれ、農家としての生活にもそれなりに満足している、と。でも最後にぽつんと言う。「でも違った。憧れていた生活とは」

「でも違った」と語ることのできる相手とは誰なのだろう。当事者のパートナーやわが子に語れることではない。それは現に「違った」生活をともにしている人間に言うべきことではないし、言えることでもない。では同性の友人に語れるのか。それは人によるのだろうが、自らの「歴史」や「今の生活」を知る者にはなかなか言えない。それは愚痴にしかならないからだ。「あなたは、(又は君は)何の不満があるというの。優しい夫、健やかな子ども、順調な農場経営、少しづつだが豊かになる生活があるというのに、と。

しかしこれまでのナマの自分を知らない立場の異性には言える。少なくとも「マディソン郡の橋」でフランチェスカは、これまでおそらく一度も口にしたことがないことを、出会ったばかりのキンケイドにさらっと言った。言えた。それはきっと分かってもらえると思ったからだ。満足と不満が同居するアンビバレントな気持ちを。

「マディソン郡の橋」が伝えていたのは、「これまでの自分を知らない異性に、自分を語る」ということだったのではないか。再びこの映画を見てこのことに気付いたのは、自分も齢を重ねたからなのだろうか。映画の案内役をしていた辺見エミリ(またそのセリフを書いたであろうディレクター)には、「大人の恋」としか映らなかった映画は、まったく別のものを齢を重ねた私に提示していた。

「自分について語る」。それはある種のフィクションかもしれない。内田樹さんがどこかで書いていたが、歴史はいくつもある。人がその人生を語る時、相手によって微妙に語る事実を取捨選択するからだ。だからこそ現に自分のこれまでや今を知っている人に対しては「自分に正しく」は語れないのだ。自分の人生はこうだったと取捨選択しながら自分に納得して言える相手は、新たに出会った異性だけだ。

この映画で一番印象的だったのは、逢瀬を重ねるシーンでも別れのシーンでもない。フランチェスカの夫が死に際に、彼女に対して「ごめん。君にもいろいろやりたいことがあっただろうが、それを実現させてあげられなくて」と言い、彼女が枕元の夫を抱きしめながら涙を流すことろだった。夫はきっと分かっていたのだ。彼女の悩みを、でもどうすることもできず最期を迎えた。

自分について語るための相手は、齢を重ねれば重ねるほど必要な存在になってくる。非常に穏やかでどこか物悲しい音楽は、その思いを一層強めた。