2011年5月24日火曜日

電車内空間について考える

都会で電車に乗ることは非常にストレスを感じる行為だ。通勤で毎日感じるストレスの重圧で、よく自分の精神が壊れないものだと、我ながら感心する。
ひとによって我慢の許容範囲は違だろうが、私にとって我慢ならないのは、(1)足を組んで投げ出している輩、(2)イヤホンから音漏れ、(3)扉の所に立ち続け乗降の妨げになる人、だろうか。

それぞれの行為の「心の源泉」について考えてみたい。
足を組む行為は、普通くつろいだ時に時々無意識にする行為だ。しかしそれはあくまで、他の人の邪魔にならないことが前提の行為であるはずである。しかしなぜ電車内で、まるで自分の家の居間のように「くつろいで」しまうのか。あるいはそんな認識もなく、無意識にそうしてしまうのか。足を組む人を見ていると、座席に座ると反射的にそうする輩が意外に多い。無意識に、ということだろうか。
しかし、その多くは、誰かが前を通過したりする時には、ちょっと足を引込めたり、また混雑してくると、文字通り「姿勢を正す」。彼ら、彼女らにとって、車内でくつろぐことは、意識化するまでもいかない、たいした問題ではないのだろう。

でも、と考えてしまう。何と言ったらいいのか、「転ばぬ先の杖」なのか、「李下に冠を正さず」なのか、うまく表現できないが・・・。例えば、適度に人のいる公園のベンチで、自慢のサバイバルナイフを磨いている人がいるとしよう。その人は、もし子どもがそれと気づかず近づけば、危ないと思って、すぐに引っ込めるだろう。誰かが不用意に近づいても、「自分はその事態に対処できる」という自信があり、大丈夫だと思っている。その心情と似ていないだろうか。

「常識」で言えば、公園のベンチでサバイバルナイフは磨かないというのがスジだろう。(「常識とは何か」については別項で考察したい。) 万が一ということがある。危険とは分からず、追いかけごっこをしていた子どもが不意にぶつかってくる可能性だってある。

「転ばぬ先の杖」を考えない人は、オルデカの言う「大衆」そのものではないか。万能感をもった浅知恵の人々と言えないだろうか。彼らは「想像力」を持たない。その行為が他の人にどう映るかは関心外の「オレ様」なのだろう。

朝の通勤時間帯には、暗黙のルールがある。ほとんどの人はそれに従い、“従順”に“秩序よく”乗っている。だからかなり混雑しても意外とスムーズだ。混雑の中、少しでもお互い気持ちよく、しかも乗り降りで手間取って電車が遅れたりしないようにしている。当たり前と言えば当たり前だ。電車が遅れて遅刻するのは自分だから、みな協力する。

ところが帰途の電車は様相が一変する。迷惑野郎は後を絶たない。まるで自宅の居間にいるように足を投げ出し、足を大きく組んでくつろいでいる。ドアの脇に立ち、乗降の邪魔になっても平気。大音量のイヤホンから耐えられないノイズを発信する。なぜか。帰り道という「気楽さ」がある。一杯飲んでほろ酔い気分であったりする。しかしそれだけではないのではないか。何かが人の意識のスイッチを逆に入れているように思う。往路の通勤・通学の反動なのか。それが何かは、今のところ考えつかないが・・。





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