2012年5月25日金曜日

走ることについて語る④ 「手段」が「目的」に変質する時

「山と渓谷」4月号の「単独行」の特集記事を読んでいて、以前は年に100日近く山に入ったが、いまはランニングが主になり、山行が格段に減ったという女性が対談記事で載っていた。(記憶で書いているので、日数などは不正確です。)

これを見て、「やっぱり」と思ってしまった。
ランニングを始めたきっかけは、加齢による体力を補い、スキーや登山をより快適にできるようにするため、つまり「手段」だった。だから、格好から入るということはなく、Tシャツに山用のハーフパンツ、安売りのズック靴で始めたのだった。

しかし、回を重ねるうちに(それまで、思ってもみなかった膝の痛みやスタミナ切れなど自分にとってはタイヘンな経験をしたが、そのことは割愛)、ちゃんとした靴を揃え、ウェアーもそれなりのものを購入し、そして本屋やジムでランニング雑誌を見るようになるにつけ、大会にも出たいという意欲がふつふつと沸いてきたりしてきた。

図書館で借りてペラペラめくったが、
あまり面白いとは思わなかった。
山行の計画を立てた時、ふいにあたまの中に「山に行くとその日は走れないな」なんで思ってしまって、走ることが、いつのまにか自分の中で「目的」化しかかっていることに気付いた。いけない、いけないと、誘惑を振り払うように「山を捨ててはいけない」と言い聞かせた。

トレイルランはもともと山ヤだった人が多いのだろうか。実情は知らないが、なんだかそんな気がする。私は“まだ”その境地まではいってない。

ランニングがそうであるように、「手段」が「目的」に変質していいものはある。しかし、その変質が弊害を生むことも多い。


例えば、防衛は一国の身の処し方の問題であり、外交など他の要素との兼ね合いで決まる。防衛は国にとって「手段」でしかない。しかし防衛省の当事者にとっては、どの装備をどう充実させるかというディテールが大事になり、それは「目的」と化す。

こんな例は枚挙にいとまがない。お役所でなくても大きな組織だと、「部分最適」が採用されて、全体のリソースを眺めまわして「全体最適」を決定することができなくなる。経済で言う「合成の誤謬」というやつに似ているのではないかな。どんな組織でも、悪意をもってコトを進めている人はそういない。みな立場上よかれと思って行動している。しかし全体を見渡すと、本当にそれでいいのかということになる。

ちょっと話しが逸れた。
人は「走るために生まれてきた」のかもしれないが、「走ることだけ」が「生まれた目的」ではない。あたりまえのことだが、走ることが「目的」になっていく。そう誘因される「何か」が走ることにはあるのかもしれない。

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