2016年2月27日土曜日

東京五輪への懐疑 本当に「良いこと」なのだろうか

2020年東京五輪がいろいろつまづいているのは、さまざまな報道の通りだ。毎週末に通う、千駄ヶ谷駅に来るたびに、東京体育館の向こうに見え隠れしていた『国立競技場』のことを、いやでも思い出す。

構造物がなくなってみると、―私的な印象では―意外と狭いというものだった。野球場なども概ねそうなんだけど、普段テレビでしか見ないものは、撮影するカメラの広角効果なのか、広く見える。しかし実際はアタマで想像するほどでもない。かつて放送局に勤務していた者でもそうした錯覚に陥るのだから、テレビそのものが提供する情報の錯覚には気を付けなければなるまい。

東京五輪にはもともと「反対」だった。かつてこのブログでも今回はトルコに譲るべきだと書いた。五輪選手たちの誘致活動の人々の涙する姿を見て、ヘドが出るとはこのことだと感じた。

話はそれるが、いま中東の一連のISの騒動に乗じてトルコはクルド人への攻撃を強化している。五輪がもしトルコでの開催地になっていたら、この国もこれほど露骨なクルドjンいじめをできなかっただろうと思うと、歴史の「IF」=「畏怖」を感じてします。

2年以上前だったか。NHKの歌番組「SONGS」にサザンオールスターズの桑田さんが出演していた。国立競技場のすぐ近くのVICTORのスタジオの屋上でインタビューに答えて、当初東京でオリンピックというのはどうかなと思っていた。けれど決まったからには前向きに考えていかなければ、という趣旨のことを答えていた。しごくまっとうで、また多くの人々が共有するような思いだろう思ってみていた。それがのちに「東京VICTORY」という歌になったのだろう。

これも逸れるが、「東京VICTORY」に歌詞にはフクシマへの思いもちゃんと入っていて、桑田さんの眼差しのやさしさ、確かさを感じている。(ランニングしながらこの歌を聴くと元気が出る)。

東京五輪が決まったあと、私自身も「反対」の気持ちが薄らいできたのは確かだ。薄らいだというより、決まったことに反対してもしょうがないという諦めや、どうでもいいという気になった。ただしカネは使うなよと。

しかし、既報のとおり国立競技場を巡る建設費問題やエンブレム問題など、出るわ出るわ何だこれは、という“カオス状態”に。
そうした直接的な問題とは別に、東京五輪とは何なのか、納税者(国民)に何をもたらすのかという問題はきちっと論ぜられるべきだろう。

世界2月号の尾崎正峰氏の論文は、秀逸だ。
1月のアサヒ新聞の論壇時評でも、「注目論文」として取り上げられていた。

●五輪憲章では「国の競い合いではない」ことが謳われていること。
●日本のスポーツ関係予算は極端にエリート養成に偏っていて、市民スポーツの予算がごくわずかなこと。

要はこの2点だ。

東京で市民スポーツを行う身として、公共のスポーツ施設の少なさをかねてより感じている。それがこの論文では具体的数字として示してくれている。(詳細は読んでみてください)

東京の50mプールで市民が利用できるところは非常に少ない。千駄ヶ谷、辰巳、そして世田谷区立の施設。(これは「東京プール難民」としてブログにも書いた)

東京の人口から言ってもあと2,3箇所、千駄ヶ谷のような施設があってもいい。いやあるべきだ。国民の健康向上は、医療費の削減にも寄与し、巡り巡って自治体の利益にかなうことは自明だ。

行政として、市民スポーツを後押しするのは体育館などのハコ物を作るだけではないだろう。たとえば河川敷のランニングコースをもう少し整えるとか、サイクリング道路を整備するとか、いくらでも知恵はあると思う。

結局は、五輪は日本政府の宣伝材料と国威発揚という古典的な道具に使われているに過ぎないのではないか。

国民の側にも問題がる。五輪で金メダルを取ることをノー天気に喜んでいるし、メディアはそれを後押しさえしている。しかし女子ソフトボールの例が端的に示すように、五輪種目からはずれたら、まったくと言っていいほど見向きもしなくなった。国民は結局ソフトボールやそのプレーヤーが好きなのではなく、単に金メダルを取れる種目だから応援していたに過ぎないことが証明されてしまった。
もしレスリングや柔道が五輪種目でなかったら、現在のような関心は集めないであろう。

五輪は罪作りな「祭典」だ。冷静に考えれば、もういらない。それぞれの競技はそれぞれ世界選手権をやればよい。



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