2015年3月2日月曜日

原因論ではなく、目的論から「川崎中1男子殺害」を考える

3月1日の現場

 ●3月1日、午前9時半ごろの「現場」テレビ局は5社来ていた。その他スチールカメラも数人。花束の輪の正面からカメラを構え、手を合わせる人の「いいショット」をとろうとして、いつまでも動かない。カメラマンにとってそれは「お仕事」なのだろうが、あまりいい気分ではなかった。








●六郷橋付近から見た多摩川の河口方向。現場は右の2つの高層マンションの向こう側だ。
真新しいマンションから数百メートル進むと現場はある。味の素の工場の間にあたる。工場とマンションのギャップが、この土地の置かれた状況を物語っているようだった。









●土手の上から見た様子。
  現場は支流?の河口のようになっていて、
多摩川の本流からは少しヘコんでいて、河 原 を歩いていても見つけられない。進んでいくとふいに、現場が現れる。前は工場の敷地で、すぐそばのマンションからも死角になっている。






川崎の中1男子殺害事件は世間に大きな衝撃を与え、連日報道が盛んだ。
民放テレビのワイドショーも、逮捕された18歳と17歳の“少年”の「心の闇」をいろいろ言い立てている。ネットには顔や家族の写真も堂々と載っている(らしい)。

 いつもこの手の事件が起きるとメディアは 「なぜ、殺人に至ったのか」という原因を探る方向に向かう。しかしアドラー心理学に従えば、原因ではなく目的を考える方が、この事件を正しく見るのに有効なのではないか。
 
 ある意味で、原因は割と単純だ。
 飲酒して理性の掛け金が外れた少年が、集団心理の中で、際限のないイジメをエスカレートさせた。ということなのだと推察される。それ以外に「原因」を見出すことは難しいように思われる。どこかの犯罪心理学か少年心理の「専門家」も発言していた、少年事件としてはわりと典型的なケースだと。「チクられたことの逆恨み」と、新聞も見出しを付けた。

 言うまでもないが、逆恨みする人のすべてが、凶行に及ぶ訳ではない。だから、「原因」をいくら探っても、またその原因が正しく言い当てられていたとしても、それは何の役にもたたない。

 では、彼の「目的」から考えると、どういうことなのか。
 主犯とされる少年は、自らの権威を集団の仲間に見せつけることだったのではないか。集団のリーダーであり続けるためには、常に力を誇示しなければならない。
 事件の1週間前に別のグループから、中1男子に万引きを強要したり、それを拒否すると暴力を振るったことを咎められた。その場にはおそらく他の仲間もいたのだろう。主犯格の少年の権威は著しく落とされたち違いない。
 
 平たく言えば、「仲間(もしくは手下)の前で恥をかかされた」と思ったのだ。この状態をそのままにしておくと、自分はグループの長でいられなくなると思っても不思議はない。それは無意識(フロイト的に言えば「前意識」)にそういう心理が働いた。
 「何とか自分のリーダーとしての権威を取り戻したい」。主犯格の少年は、皆に恐れられる存在としての地位を失いたくなかった。だから自分の「強さ」を見せつけた。お酒の力も手伝って、「決行」してしまった。


 「目的」も「原因」も、同じようなものかもしれない。しかし原因をいくら探っても、「再発防止」にはならないような気がする。だって人を恨む輩は、世の中にあまたいるだろうが、全員が、「仕返し」をする訳ではない。原因を探って、それを除去することが「解決策」になるとは限らない。

 だとすれば、どうすることが再発を防げるのか。目的が「自らの威厳(もしくは権威)を保つため」だったとすれば、そうした行為が(宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の言葉を借りれば)「つまらないからやめろ」と言うことだろう。自らに権威があろうとなかろうと、どうでもいい、虚勢を張るのはバカバカしいと。フラットな自分になってみろと。

 しかし世の中は全く逆だ。時の首相は自らの権威を保つために腐心する。自分は常に正しい、「この道しかない」と、言いつのる。国家も同様だろう。世の中では権威を保つことは、「正しいこと」なのだ。消極的姿勢を見せたら「負け」というのが世間の常識になってしまっている。

 主犯格の少年にとって、殺人に至った行為は、「権威」を保つための幼稚な行動だったに過ぎない。そうして考えると、彼の行為は世の中の「価値観」の合わせ鏡でしかない。

中1少年に合掌。



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