6月24日 朝日新聞より「引用」 |
平和を願わない人は武器商人か「希望は戦争」と言って論壇に話題をふりまいた赤木智弘氏くらいかもしれない。(ほかにもネット上にはウヨウヨいるのかもしれないが、私は見ない。)
6歳の“純粋”で“無垢”な子どもの率直な思いとして、「へいわってすてき」という言葉は改めて大人に突きつけられた「課題」に他ならない。
6歳の“純粋”で“無垢”な子どもの率直な思いとして、「へいわってすてき」という言葉は改めて大人に突きつけられた「課題」に他ならない。
しかしである。ちょと斜に構えて見てしまうと、本当にこれでいいのかと、ちょっと考えてしまう。沖縄は平和教育が盛んだと仄聞する。それはそれで結構なことだけど、ただ「平和を願う気持ち」を、教え込まれて身につくものではないだろう。この与那国の子のように自分の家族から体験として聞き、考えることによって、絞り出されてきた言葉だ。
その先、「どうしたら平和を獲得できるのか」ということまで、きちんと考えることこそが、真に平和を獲得することではないのか。
こんなことを考えてしまったのは、西部邁の「どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由」を斜め読みしたから。
普通なら私の志向からすると「右翼のじいさん」が「晩節に吠えている」くらいにしか思わず、書店で見ても無視する類の本だ。しかしいくつかの誌(紙)で書評に取り上げられていたこと。西部氏を、若手論客の中島岳志氏が「師」と仰いでいることを思い出して、図書館で借りてみた。
中味はだいたいが「老人の小言」風であり、あまり面白いと思わなかったが、それでも、何か所か読むべき価値のあるパートもあった。オルデカを取り上げて現代日本の「大衆性」について述べていること。また「平和とは大国による力の均衡」と言っている部分などだ。
中島氏は「保守」と「右翼」の違いを明確に説明してくれて、わかりやすが、その区分けに従うと西部氏は「右翼」ではなく「保守」であることがわかる。
「平和とは力の均衡」とは、よく言われることではあるが、“日本という国”ではあまりこれが共有されていない。特に革新系と言われる人々には、その現実をことさら避けているようなところがある。
「さきの戦争」では、沖縄では地上戦で多くの一般住民が犠牲になった。日本軍の盾にされもした。そうした現実の中で、平和を願う気持ちは、他の地域にも増して代々受け継がれてきていることは想像に難くない。そういう人々の「平和なんて力の均衡でしかないのさ」、「武装していなかったら、とっくの昔に尖閣列島だけでなく先島諸島全体がすでに中国のものになっているよ。チベットをみればわかるでしょう。」なんて言うことが正しいモノの言い方なのかどうかはわからない。
しかし教育とは、理想論だけを刷り込むのではなく、現実を知ること(それは偏狭な知識だけでなく、広く教養も含めて)こそ必要なのではないのか。と、考えてしまった。
与那国の小学1年生に向かって「理想論だけじゃダメだ。」と教えろと言っている訳ではない。理想を思考するひとつの出発点にして現実(それはしばしば見たくないものであったりする)に向き合う学習こそが大事なのではないか。
メディアの伝え方は、しばしばそうした「本質」から半ば意識的に目を背けて、キャッチな「へいわってすてき」だけに飛びつく。これこそが一番の問題なのかもしれない。
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