2012年4月23日月曜日

社会運動家「湯浅誠さん」を支持し、いち市民として支えたい。

もっぱら「攻撃」が得意だったり、そういう役割だったりする人が、いったん防御に回ると、意外にもろかったりすることがある。
一番それを感じたのは、大相撲を見ている時だった。(あまり見ないけど)
回転のいい突っ張りで相手を土俵際まで攻めたてるも、いなされ脇から攻められると、もろい。
確か、「富士桜」という力士がいて、そう思ったものだ。

市民運動家や社会運動家と言われる人々の中で、もっぱら行政や“社会のありかた”を方を批判して、非妥協的に運動している人もそういう傾向がある(のではないか。)
つまり、自分たちは「正しいことをやっている」「批判されるようなことはない」という思いが強いが故に、批判されることに慣れていない。また批判を受け止めて糧とする習慣がない。彼らにできるのは批判した者に対して批判し返すことだけだ。

湯浅誠さんのブログに掲載された、「内閣府参与辞任のご報告」が、3月の新聞各紙の論壇時評で取り上げられていた。
http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html
長文のこの文章は、「読むに値する」まっとうで有益な文章だ。
○社会運動が批判だけして、社会が変わらないのは「誰かのせい」と言いつのっているだけではなにも変わらない。調整(≒妥協 と言ってもいい)を経て、実をとることの大切さ。
○官庁の役人は真摯に調整を行い物事を決めているのに、マスコミや「市民運動」側は、出てきた結果だけを見て、批判すること。
○予算を獲得することの大変さ。
○ヒト・モノの「ムダを削れ」という政府への「要求」はかえって、社会運動にかえって悪影響を及ぼしていること。
○行政の縦割りを批判するが、社会運動、市民運動の方にも縦割りの弊害が大きいこと。
等々(順不同)
ちょっと乱暴に書いたが、だいたいこういう主旨だ。湯浅さんは社会運動家として、政府の一員になって初めて分かったこと、学んだことを率直に記している。後段は、自己批判(反省)も含めて既存の社会運動への批判である。
この文章に対して、市民運動家などから「批判」が出ているという。どういう批判なのか具体的には知らないが、だいたい想像はつく。
フツーの市民運動家は、冒頭書いたように「批判に弱い」。だから批判し返すことでなんとか面目を保とうとする。湯浅さんの行動、考えを批判するのなら、それではどんな「社会運動」が、効果のある実質的な運動なのか、代替の「思想」を示すべきだろう。
「市民運動家」への違和感。「気持ちはわかるけど・・・」といった思いは、多くの人が感じていることではないか。その違和感を湯浅さんは、論理的に的確に指摘したにすぎない。しごくまっとうな言説だ。
社会運動に直接関わらない(関わったことのない)私にとってできることは、湯浅さんを支持し、市民として支えることしかない。
永江朗さんの「新・批評の事情」で湯浅誠さんが取り上げられている。永江さんは、湯浅さんをオバマ大統領になぞらえて、彼の政治家としての高い資質を指摘している。オバマ氏は弁護士として社会活動を経験し政治に移行していった人である事実を踏まえて。



同様の趣旨は、「世界」3月号で「社会運動の立ち位置」という小論でも述べられているが、こちらはもっぱら自分の経験と反省、テーマを絞って述べられてい、社会運動体への批判はない。
湯浅さんほどの“書き手”で知名度もある人なら、自らのブログに載せた一文を出版社が雑誌掲載してくれるだろうに(そうすれば原稿料も入る)。しかしそうしないところが、この人の誠実さなのだろう。加えて、社会運動家が社会運動家を批判するのは、なかなか勇気のいることかもしれない。

ブログで湯浅さんは、もうひとつ重要なことを指定していた。世の中「劇的」に変えることなどできない。調整を経て地道にやっていくしかないことを強調。橋下大阪市長の手法を批判し、それに雷同する民意に危険な臭いを感じていた。同感である。


2012年4月19日 朝日新聞より「引用」


朝日新聞の「耕論」で、湯浅さんは、内閣府参与の辞任についてなどインタビューに答えている。
朝日のこの欄は、質問がいつもちょっと意地悪だ。今回も、湯浅さんの服装が変わったことを指摘して、「政府側にたつと違うのね」と言いたげな質問をぶつけていた。
こういうところが朝日のキライなところだ。

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