2013年4月11日木曜日

「交通事故で死ぬ直前の人の顔をみた」教訓から 

3月29日の関越道下りの事故(TBS webnewsより引用)
3月29日(金)の朝7時台、関越自動車道の下り線の東松山付近を走っていた。
3つあるレーンの真ん中の走行車線を時速100キロ前後だったと思う。

右側のドアミラーの映ったのは、極端に中央分離帯に寄って、少なくとも私のクルマよりスピードを出して走っていた小型乗用車だ。その後ろをピッタリ、大型ワゴン車(たぶんエルグランドだった)が着いていた。よくある、追い越し車線でスピードを出し、前の車をあおって「どけ」と主張するアレである。危ないなと思いつつやり過ごすのを見ていた。

  小型乗用車はいったん左により、エルグランドは猛スピードで走り抜けていった。そして、それを追うように小型乗用車は再び追い越し車線に出ると、スピードを上げて私のクルマの横を走り抜けていく。その際、どんなヤツが運転しているのか、横を向いて顔を見た。口髭を生やした初老の男だった。普通に前を向いていたと思う。

 そのわずか10秒前後あとだと思う。中央分離帯の植木の葉が大量に舞い上がっていた。何が起きたか分からなかったが、走行車線を走る私の前のクルマがハザードランプを点けた。スピードを落として走ると、ほどなく右側に先ほどの小型自動車が「転がって」いた。(記事&写真参照)

この状態の真ん中の走行車線を走りぬけて、衝突は免れたのだった。

 正に転がっていたという表現がぴったりの光景だった。路面にはガラスのような細かい破片が散乱していたので、踏みつけないように前を見て慎重に進む。それでも40~50キロは出ていたと思う。だから転がった車を見る余裕ななかった。同乗していた家族は、車から腕が出ていたのを見た。

 後から分かったのは、事故をおこしたのは、私が横顔を見た、あの小型乗用車だったのだ。そして運転手は死んだ。事故死する直前に、私はその顔を見たのだった。

 記事によると、事故を起こした乗用車は追突したようだ。直前の状況から推察すると、中央分離帯に擦るようにぶつかり、反動で走行車線に飛び出して黒い車に追突したのではないだろうか。乗用車だけが転がったのを見ると急激な進路変更があったことは間違いなかろう。

 当たり前のことだが、車間距離は重要だ。どんな場合でも100mは空けるよう心掛けているが、追い越しの前や混雑している時は必ずしも理想的にはできない。しかし、自分に当初の落ち度がなくても、ひとたび事故に遭遇するとその大切さが分かる。

前の車と詰めて走っていたら、転がった車のために急激にスピードが落ちた車列で追突していたかもしれない。また、もし転がった場所が真ん中の車線だったらぶつかっていたかもしれない。
不運にも事故に巻き込まれた黒い車は、前を走っていて追突されたのだ。これは、いくら前に車間を空けていても避けられない。


 この日はもうひとつ事故(の跡)に遭遇した。あやうく事故に巻き込まれるの回避した後、関越から上信越自動車道に入り、妙義山あたりを走行中、反対車線の橋の上で未明に発生した、ガス欠車で停まっていた乗用車にトラックが追突した事故だ。(記事&写真参照)

この事故のことは朝、出かけるとき関東甲信越のニュースでやっていてので、分かっていた。







 横川SAでひと休みすると、先の遭遇した事故の影響で、関越道は下りが通行止になっていた。当然と言えば当然だが、それによって上信越道も東京からの車が遮断されて、すこぶるすいていた。
ストレスなく走ることができた。

 振り返ってみると、もう少し、おそらくは数十秒、前を走行していたら、あの小型乗用車に追突されて、事故に巻き込まれていたかもしれない。また10分か20分、家を出るのが遅かったら、通行止めになった関越で予定通り行動できなかったかもしれない。(通行止めは結局13時半まで続いたようだ)。偶然が幸いしたと言っていいだろう。それはそれで貴重な経験になった。

いまの車は性能がいい。100キロで走行車線を走っていると、軽自動車でも120~130キロで追い越していく。細くて半径の小さなタイヤでよく怖くないと思う。

人は危険な目に遭ってはじめて、その危険に気づく。いつも事後的に悟るのだ。だから事故は繰り返される。予め事故の危険を「思い知る」ことはできないのだろう。だから「安全教育」が行われたり、さまざな経験から、自覚的に危険を察知する能力を身に付けることが重要になるのだ。
特に自動車は性能があがり、アンチロックブレーキやエアバックなど「安全性の向上」がされているだけに、本質的な危険がかえってみえにくくなってしまっている。それがアブナイのだ。

登山では、いくばくかの経験を積むと、危険なことがある程度分かるようになる。危険なところでは慎重になるクセがつく。ケガしたりアブナイ目に遭うのは、あまり危険とは思えない所だったりするのも、そういうところでは無意識に「安全神話」が頭の中でできあがって油断するからだ。

大丈夫と思う心そのものに危険があることを、改めて「自覚」した出来事だった。








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