2013年4月8日月曜日

「桜」一辺倒でいいんでしょうか。日本人の感性の深層

今年の桜は、楽しむ間もなく散ってしまった。時期が早かったため「スキー」に行っていた週末には、自宅近くの桜も、すでに葉桜に変身していた。豪雪と言われた今年の冬は、思いのほか雪解けが早く、季節の「異変」が起こっていると感じざるを得ない。何度も書く。地球温暖化が、何よりも心配だ。
桜の花を見て、何も感じない人は少ないだろう。多くの人が「きれい」だと思い、春の訪れを感じるにちがいない。が、それで本当にいいのか。毎年この季節になると考えてしまう。
「桜」は、この日本に暮らす人々にどんな感性をもたらすか。
①寒い冬に耐えて、訪れる喜び。→耐え忍ぶ心
②期間は短いが、その美しさを存分に発揮。→太く短く生きる美学
③誰もが同じように楽しめる共感。→無意識に求める同質性
こんなところか。

東日本大震災の被災地では、復興を願う証しとして桜を植えるところが多いという(確か、新聞からの不確かな記憶です)

しかしソメイヨシノは接ぎ木でしか育たない。寿命も60~70年だ。世代を超えて受け継ぐ木としてはどうみてもふさわしいとは思えない。それなのに「桜」だ。

このへんに日本人(と言われる)人々の感性の貧困を感じる。もっと多様な選択があってもいいのではないかと。1年にわずか1週間程度の満開の花びらを楽しむために、だれもが桜を選択するというのは、もうやめたほうがいいと思うのだが。

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