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2017年10月28日土曜日

北アルプス・大キレット越え 還暦を前にして

9月24日~26日、今年の「夏山登山」をようやく敢行した。今回の狙いは槍岳~北穂高岳の「大キレット越え」だ。多くの人が憧れるであろう、大キレットは、テレビでも何回も取り上げられ、まあ山を少し歩いた経験のある人なら行けそうなところだけど、毎年滑落事故が何件か起きているのも確かだ。
 それなりの体力も必要だ。日数をかけて槍に1泊、北穂に1泊とできれば余裕もあろうが、2泊3日しか日程がないなかで、どうルートをとるか。結構悩んだ。
当初の予定は、東京をたつ日は涸沢に1泊し、翌日北穂にあがり、大キレットを超えて南岳小屋に入り、翌日下山というルートだった。
 19歳の息子に誘われ、後押しされて行った。

 9月24日、低気圧の去った東京を朝4時半すぎに出発、途中どういう訳か甲府盆地の手前で雨に降られるも順調に松本まで中央高速を行き、沢渡の駐車場に8時前後には到着した。時間の節約のためタクシー(定額で4,100円)で上高地へ。登山届を出し準備を整えて8時半に出発。
25年ぶりに訪れた涸沢カール 息子と
息子と逆算して涸沢を午後1時に出られればこの日のうちに北穂高岳まで上がろうと決めていた。横尾まで約11㎞の道のり。河童橋で恒例の記念撮影をして歩き始める。かなりのスピードだ。息子についていくのがやっとだ。この日のためにランニングを続け、この半年は田園調布の急坂でのトレーニングを続けてきた。すべてはこの日のためだったと心にかみしめて歩いた。 
 徳澤で小休止を入れて横尾についたのが10時半。実質2時間。地図のコースタイムでは3時間10分のところを、ほぼ3分の2の時間で行く。諏訪湖パーキングで買った大き目のパンはすぐになくなった。あとは準備してきたカロリーメイトやジェルの行動食でエネルギーを補給して10時50分に横尾を出発、涸沢を目指す。
 3年前に槍に行ったのがおよそ30年ぶり。涸沢へも25年近く行っていない。久しぶり涸沢にちょっと胸がわくわくする。少し歩くと屏風岩が見えてきた。やはりずごい絶景だ。天気も絶好。だけど先を急ぐため、あまり景色を楽しむことなく先を急ぐ。
 細い登山路を、年配のグループ登山者に「すみません」と何度も断りながら抜いていく。われわれが抜かれたはトレイルラン風の若い男性1人だった。小屋泊まりを前提に荷物は最低限にして身軽に行ったけれど、それでも私にとっては登山は1年ぶり、5月の鳥海山・山スキーからでも4か月ぶりの登山なので、やはり少しはきつい。それでも順調に行って午後0時50分すぎ、約2時間余りで涸沢小屋まで行きついた。
東京から一気に登ってきた北穂高岳山頂。翌朝

 涸沢小屋のテラスでカレー(ものすごくおいしかった)を食べてちょっとくつろぐ。目標の1時出発は無理だけど1時半には出発できそうだ。北穂高岳を目指すことは息子との間で決定された。午後1時半、涸沢小屋を出発。この日のうちに北穂まで上がれば明日は余裕を持って大キレットを越えられるし、槍までいける。
 しかし朝四時前に起きて交代で車を運転して上高地から涸沢まで一気に上がってきたので、さすがに身体はちょっと疲れている。足も張ってきた。カレーを食べてくつろぎすぎたせいか、涸沢小屋からのいきなりの急登はへばり気味だった。身体の筋肉が登山モード入るまでは時間がかかった。地図のコースタイムで行ければ午後4時半にはつける。幸い天気もいい。次第に息子に遅れながらも、なんとかついていく。少し離れると待っててくれる。必死に歩くと地図を見るのも面倒になる。すべて息子にまかせる。こちらの都合で小休止を提案できるし、遠慮がいらない分、登山パートナーとしては最高だよね。
 途中長いクサリ場があるが、登りはその脇をクサリを使わず登れる。あとは急ではあるがほとんど危ないところはない。最後の急登を登りきるり、デコボコ稜線を少しいけばひょっこり北穂高岳の山頂に出た。午後4時前だった。2時間半足らずで到達できた。
 
 山頂手前で滝谷を登ってきたという3人組に出会った。ものすごい量の登攀用具を身につけていて、見るからに「オオッ・・・!」という感じだった。
 北穂高岳小屋には涸沢からの途中で電話した。涸沢カールからは電話は通じなかったが半分ほど登ると電波が入った。北アルプスは便利になったもんだ。
 
 一度は泊まりたかった北穂高岳小屋。山頂直下の狭隘な場所に建つだけに決して広くはないが、きちんと手入れがされていて、気持ちいいい小屋だった。混雑はしていたがそれでも1人1畳は確保されており寝床も快適。枕も不織布のカバーがあり清潔。宿泊者は水や湯がタダだ。本当にいい山小屋だ。
 
 日の沈みかけるころ、小屋の北側から槍を見る。多くの人が熱心に写真を撮っていた。
素直に美しい光景だった。こういう景色を見ることができるのが、登山の喜びでもあることを改めて感じた。かなりの年配の方が思わず「ああ~生きててよかった」と言った。周囲の人が私を含めてみな笑った。それほど和んだ雰囲気だった。
 その方の夕食が同じテーブルの島だった。失礼ですけどと言って年齢を伺ったら74歳とおっしゃっていた。40代と思われる息子さんと来ていた。こちらも19と59の40歳トシの離れた親子だと、同じテーブルの人に言ったけど、そのことによって自分は何を訴えたのか、あとで考えてしまった。
 夕飯を食べるとすぐ眠くなりまもなく眠りにつく。余裕の息子は消灯の9時まで外で星空を眺めていた。
北穂からの下り。手がかりは多くそう難しくない。
翌25日(月)。絶好の天気だ。この時期夜明けの時間が5時半ごろなので朝食をとってから、日の出を見られる。
 最近、各地で「天空の宿」とか「天空のカフェ」とか流行っているらしいけど、本当の「天空の〇〇」は3,000mを越えたここ北穂高岳山荘や槍や奥穂などだろう。

大キレットは一般的なガイドは槍~南下して南岳~大キレット~北穂高岳~涸沢岳~奥穂高岳のコースで書かれている(と思う)また、テレビの“山岳番組”でもこのコースで紹介してる(ように思う)。しかし実際歩いてて、結論から言うと、北上するコースの方が、気分的には歩きやすいように思う。ヤマケイのガイドでは、槍を目指す北上コースだと、下りの方が多くやや歩きにくいと書いてあったけど、少なくとも北穂~槍で言えば、ほとんど標高は変わらないのでどのみちアップダウンはある。
長谷川ピークを見上げて、ちょっと震える(笑)

 北上の方がいいという第一の理由は、北穂からだと、まず急な下りがあるが、その後は、わりとすぐに核心部の飛騨泣きや長谷川ピークを迎えることだ。大キレットのハイライトを疲労がたまる前に通過するのは精神的にラク(特に私のような老人には)だし、景色も天気がよければ、次第に迫ってくる槍の姿を常に見ながらなので心躍るものがある。
 また、なにより長谷川ピークのナイフリッジを登りで行けることだ。下りは梯子が続くが、慣れればそう怖くない。(最低限、片手で自分の身体を支えるくらいの筋力は備えておくことが、安全のためには必要だと私は考えるけどね。そのために筋トレも行っているし・・、一応)
 どこが一番怖かったかと言われても、今はなかなか思い出せない。結構「必死」だったということだろう。あそこを緊張感なしで行く人はまずいないだろう。だからこそほとんどの人、それも老若男女が無事通過しているのだから。(事故はしばしば緊張の糸が切れたところで起こる)

おそらく長谷川ピークを過ぎた下りだ。
ともかくも、大キレット越えは写真を参考に。もっともヤマケイやガイド本の写真の方が分かりやすいけど。
 北穂高岳小屋から大キレットを越え南岳山荘までは2時間弱の道のりだっだ。渋滞もなかったこともあり、コースタイムよりいくぶん短時間で通過した。南岳山荘まで来ると一息、あとはそう難しいところもないし、槍まで歩くだけだ。もちろん途中梯子はあるけど、ほとんどが登りだったのでそう怖くない。地図のコースタイムで2時間45分。2時間ちょっとで槍ケ岳山荘に到着。ここでもカレーとうどんを食べる。
 かくして19歳の息子に引っ張ってもらって、なんとか59歳にして大キレットを越えた。それも「弾丸登山」で。

 シュリンゲで簡易のハーネスを作り一応身につけていたけど、結局使わなかった。いちいち着けていては、かえって危ない。飛騨泣きのクサリなんかものすごく太くてカラビナを通すこともできないくらいだった。

 槍ケ岳山荘でしばし休んだあと、空身で槍の山頂へ。3年ぶりだけど今回は晴天。30年近く前、妻と槍を目指した時、彼女の高山病の症状と雨模様の天気で頂上に行かずに下山しした時のことを思い出す。(この時は横尾から涸沢~奥穂にはいったけど)

 この日の宿をどこにとるか。槍ケ岳山荘はもういいかなと息子も私も思っていた。メシは悪くないけど布団は結構古くて重い。それほど心地よい部屋ではない。(以前にも書いたけど、剱の剱御前小屋と剱山荘は至近にあるためか競争原理が働き、ふとんはミズノのプレサーモ、畳も高機能のものだった。)

 それで、持っていたスマホ(妻のお古)で殺生ヒュッテとヒュッテ大槍を比較。で、後者に泊まることに。東鎌尾根を小一時間あるいて3時ごろには小屋につく。
 ヒュッテ大槍は非常に心地よい小屋だった。支配人の方も非常に感じのいい人だった。生ビールを飲む。うまい。
 翌日は6時半前に出発、東鎌尾根を水俣乗越の分岐まで行き、そこから槍沢に下り、上高地を目指す。帰りは、「お約束」の徳澤園でソフトクリームを食べ、明神から橋を渡って嘉門次小屋でイワナと蕎麦を食した。ここまで来ると、軽装の観光客も大勢いて、シャバに戻った感じだ。
 帰りもタクシーで沢渡まで行く。(定額の4100円)。沢渡で温泉に入り、そこの休憩所でちょっと昼寝してから東京へ。
 かくして2泊3日で、北穂~大キレット~槍の「弾丸登山」を無事終了した。
ああ、いつまでこうした山登りを続けられるのだろうか。人生もだいぶ残りすくなくなってきたけど。
(写真はまだ随時 足します)
このブログを見た人は、また覗いてみてください。

 
 





滝谷かな?

 
 

2017年10月16日月曜日

那須雪崩事故、高校生8人死亡。「事故の責任」を「再発防止」にすりかえるな。最終報告から

右・猪瀬修一教諭(NETより「引用」)
今年3月、那須連山の茶臼岳で、急斜面をラッセル訓練させられていた高校生らが雪崩に巻き込まれて8人が死亡した事故。検証委員会は本日(10月16日)、最終報告を出した。事故の最大の要因は組織の「危機管理意識の欠如」だとしたうえで、「引率した教員は斜面を登るにしたがって雪崩が起きる危険性を認識できたはずだ」と指摘した。
 当然すぎるくらいの報告だ。しかし検証委員会の人間は、会見で「再発防止につなげたい」と締めくくっていた。
 事故の責任を「再発防止」にすりかえてはいけない。改めて言う。まず業務上過失致死で、ふもとの旅館でぬくぬくと温まっていた栃木県の高校体育連盟の教諭を逮捕すべきだ。バスを運転していて重大な過失で乗客が8人死亡したら、まず逮捕されるだろう。なぜ危険な訓練を行って高校生を死なせた教師が逮捕されない。どうみても法の下の平等とはいえない。登山、それも雪山の山行が、登山をしない者には分からないという事情もあるだろうが、それは勉強不足、認識不足と言わざるを得ない。
 子どもたちの命を預かっているという意識の低い教師たちは、正しく罰せられるべきだ。ニュース報道だと、検証委員会の最終報告を受けて、「警察は、こうした報告も踏まえ、引率した教員の安全管理に問題がなかったか、業務上過失致死傷の疑いで早ければ年内での立件を目指すことにしている」と、言うが、書類送検、在宅起訴などと生ぬるいことは許されない。きちん今後の成り行きを見ていきた。

 誤解のないよう言うが、高校生が冬山に登ることを禁止したり、高校が制限したりすることは絶対反対だ。往々にしてこういう事故が起きると行動を制限する方向に物事が動く。しかし、それは絶対違う。
 危険の可能性があるからこそ、そのリスクをきちっと認識して適切に行動することが求められているのだ。そのために責任ある者は、正しく罰せられることが必要なのだ。処分を曖昧な形で決着させ、高校生登山の冬山を禁止する(すでに禁止されているとも言われている)ようなバカな対応だけは許されない。

 追記:言うまでもなく、高校生の登山活動は、小学生の運動会のピラミッドとはまったく違う性質のものだ。事故があいついだピラミッドは、子どもたちが危険を自ら回避できない状態だ。混同してはいけない。
 ピラミッドに関して言うと、一部のバカな教師が「皆で協力する心が生まれる」「一体感ができる」など安直な考えを持っている結果だ。もっと言うとああいうことをやらせると、子どもたちをコントロールしやすいのだろう。容易に想像がつく。

2017年6月3日土曜日

春スキーの醍醐味。鳥海山ロングコース(湯の台~)

 バックカントリー(BC)スキーと言うのだろう。“最近”の言い方では。
来年還暦を迎える身としては山スキーという言い方の方がすっきりするけど、まあそれはどうでもいい。
2017年の大型連休は全国的にほぼ天候に恵まれた。5月4日、今年大学生になった息子と、鳥海山の湯の台から山スキーに出かけた。ここ数年ですばらいい経験が出来た。
登りは7時間半、下り1時間半という苦行だったけと、本当によかった。鳥海山(このブログの表紙でもある)風景を、7年ぶりにナマで見た。

※以下に記すのは登攀記録ではない。単なるスキー登山の感想記だ。そのつもりで“見て”ね。

 山形県の旧八幡町(現在は酒田市と合併)の湯の台から鳥海山を目指すコースは、道路の除雪がされていないので、かなり下から歩きださなければならない。今回は牧場地帯の上、標高660mからの登山となった。
 前日酒田駅前に宿をとり、(バイクツーリングや工事関係者向けのビジネスホテル)、朝4時ずぎに出発、1時間ほど車を走らせて湯の台を目指す。休暇村との分岐点を右折して牧場脇をしばらく行くと、すでに15台ほどの車が道端にとめてあった。この先はまだ雪が残っていて進めない。車をとめて準備にかかる。食料(コンビニで買ったおにぎりを2つづつとフリーズドライの野菜スープ。さばのレトルト、あとは行動食などだ。
息子と2人で山に行くのは何度目だろう。去年の夏の北岳、一昨年は受験で行かず。その前が剱と槍。山スキーでは月山にも行った。
 スキーとシール、ストック、息子は一応アックス(ピッケル)も持つ。クランポン(アイゼン)は12本爪と6本爪の両方を用意してきたが、6本爪を持っていくことにする。
ストックは普通のゲレンデスキー用のものだ。
 5時半前後に歩き出す。車道に雪が残っているので歩き出しからスキーをつけてシール登行を始める人もいたが、我々はスキーはかついで歩く。九十九折の道をショートカットしながら登っていくが、いまいちコース取りが難しい。ガイドブックにある「宮様コース」をうまく見つけられず方向的には(山頂を向いて)右のずれた所を登ってしまったみたいだ。それでも尾根を間違えた訳ではないので、すこしトラバースしてコースを修正すると、ブナ林を切り開いた「宮様コース」(だと思われる)ところに出た。皇室が滑るというだけで木を伐採してコースを作ってしまうということが、時代とはいいえすごい発想だ。(これで思い出したのが、もう10年以上も前のことだけど、天皇が出席する全国植樹祭を行うある県が、会場の整備のために“違法伐採”をして整えたという“事件”のニュースを思い出した)
 結構急な宮様コースをツボ足で直登すると緩やかな尾根のとりつきに出た。そこからまたしばらく登ると、滝乃小屋にたどり着く。
ここで初めてシール登行にした。結構くたびれた。登り始めから滝の小屋まで2時間半。けっこう道のりは長い。滝の小屋の裏手に出ると鳥海山の山容が一望できる。独立峰の雄大な白い世界が広がっている。空は雲ひとつない青一色だ。これほどの晴天に恵まれた登山は記憶にない(笑)。ここからはどこを登っても外輪山につけそうだ。我々は左に巻きながら尾根を登っていった。
新山方向を見る。登っている“物好き“がいるよ(笑)
  ここからのスキー登行が、けっこう長かった。遮るものがほとんどない雄大なフィールドは広くも見えるし、すぐ行けそうな気もする。しかしスキーを上へ上へと滑らせながらも意外に遠い。途中から急登になってくる。外輪山に正午まで着くことを目標にしていたが、ちょっと難しくなってきた。午前11時過ぎ、腹もだいぶ減ったので「お昼にしよう」と息子に言ったら、ちょっと「えッ」と意外なカオをされた。トホホ。でも同意してくれて、まだ登りを残しながら板をはずし靴を緩めて、休憩をとる。コンビニで買ったおにぎり2つと、お湯を沸かしてフリーズドライの具だくさん野菜スープ、アンパン、それだけでは足りずウィダーのジェル、まだまだ入りそうだけど、あまりくつろぎすぎるとその先に進めないので、我慢する。20分くらいの休憩だったろうか。ここからはアイゼンをつけて再びスキーを担いでの登山になった。
19歳になった息子と
それでも1時間ちょっとだったろうか。地図を正確に読める息子に、もうすぐだと励まされながら1時前に外輪山にたどりつく。この時の喜び、達成感は、本当に何物にも代えがたい。 この日のために、日々、嫌いな筋トレをして、ランニングをして、水泳してるんだから。
風がものすごく強かった。息子はここから伏拝岳(2035m)まで往復する。こちらはちょっと気力が出ず、そこに留まった。午後1時すぎだったと思う、シールをはずし、

もう、だいぶ下ってきたところ
いよいよ滑る。ほとんど誰もいない広大なフィールド。雪は締まっていて起伏もほとんどなく非常に滑りやすい。問題なのはこちらの足の疲れだけだ。なんて楽しいんだろう。
 適度な緊張と楽しさ、一気にという訳にはいかないけど、大回り、小回りとどんどん高度を下げていく。さっきまでいた外輪山ははるか遠くになった。
鳥海山から臨む日本海
登ってきた宮様コースを下り、ブッシュを抜けて、そして道をを歩いて1時間半ほどで車までたどり着く。ホッ。


左の写真は外輪山付近から見た日本海。このブログの巻頭写真と同じような位置からだ。
季節は違うものの、変わらぬように見える風景はなつかしい。
 でも実は、中味は変わっているのかもしれない。同じように見える水田も休耕田が増えたり、海の表面は同じように見えるけど、水産資源は激変しているかもしれない。
 山も同じだ。以前と同じようにみえるが実は異常気象の影響で植生が変わってきているのかもしれない。
鳥海山はイヌワシの生息地だ。(「だった」と、過去形かもしれない)。90年代、西武鉄道がここにロープウェイをかけようとして、大きな問題になった。人口減少、高齢化になやむ旧八幡町は本心ではかなり乗り気だった。でも自然環境保護の高まりなどで、反対運動も活発化し、結局この時は西武はやめた。その後の西武鉄道の凋落はみてのとおりだろう。あのころ、西武は東北で、第2の雫石や安比をねらっていたのだろう。秋田県阿仁町でも同じような騒動が起きた。しかしそうした時代はもう過去のものになった。
 自然を楽しむことはロープウェイをかけることではない。ただこうした自然をもっと身近に感じられる方策は、もう少し知恵を絞ってもいいかもしれないけど。


2017年5月13日土曜日

月山・春スキーの黄昏’(たそがれ)。スキースポーツはどこへいく

2017年5月5日の月山(ピークは姥が岳)
山形の月山は4月にオープンする春・夏スキー場だ。一般のスキーヤーがアルペン気分で楽しめるといういうことでは、全国で唯一と言っていいスキー場だろう。大型連休中は、いつも多くのスキーヤー(ボーダー)や、山頂を目指す山スキーの人、登山の人でに賑わってきた(と思う)。少なくとも、初めて月山で滑った1985年以来、いつ来ても唯一のリフトは混雑していた。
 
 2017年の大型連休、3,4,5日は全国的にほぼ好天に恵まれた。4日に鳥海山で山スキーをしたあと(これはものすごく充実した山行だった)、5日に月山に向かった。大変な混雑は覚悟の上、眺望とブナ林を楽しめればいいと考えて行った。
 
 車が行ける終着点・姥沢の駐車場がいっぱいだと、いつも麓の志津集落からバスが運行して運んでくれる。これに乗れば、帰りはブナ林の中を滑って降りてくることもできる。
酒田市(旧八幡町)の鳥海山の登山口・湯の台を8時ずぎに出発し、志津についたのは10時前だったと思う。バスはちょうど出たばっかりだったが、志津の駐車場には数台の車しかとまっていなかった。姥沢への道も制限されていない。車で上がっていくと駐車場にはまだ十分に余裕があった。身支度を整え、リフトまで500mほどの雪の中を登っていくと、リフトにも人待ちはなかった。
 どう考えてもこれまでの大型連休中の月山では考えられなかったことだ。人が少ないのは明らかだった。リフトで上に登る。月山の山容が見えると、それでも山頂を目指している人の「点」は数十人確認できた。ここ数年ゲレンデにできるコブのラインも何本かある。その意味では山スキー(登山)マニアやコブ愛好家?など、元々の山屋、スキー屋たちは、きちんと来ているようだ。しかしマジョリティとしての一般スキーヤーは目に見えて少ないということか。
 
営業していなかったリフト終点の売店
若者たちのスキー離れが言われて久しいが、大型連休を春スキーに時間を費やす人は目に見えて減ったということか。月山は、自動車専用道路の完成で、山形市内からは1時間半程度、仙台からも2時間ちょっとで行けるようになった。以前にくらべてアクセスは格段にいい。しかし人は減っている。
 
 姥沢からリフトに乗って終点までいくと、トイレと小さな小屋があり春スキーシーズン中は売店もあって、玉コンニャクやソバなどが食べられた。しかしそれも閉じていた。
混雑していないということは、訪れた人にとってはうれしいことだが、なんだかちょっとさびしい気もする。
 レジャーの多様化だとか、若者が車を持たなくなった。SNSやゲームにレジャーがシフトしているという巷間言われる言説だけでは、“納得いかない”何かもやもやを感じる。
 (世間的には変わり者?の)我が息子は山屋として、オールドスタイルで鳥海山、月山といっしょに行った。
 話はそれるが鳥海山の素晴らしい山スキーは息子の強い誘いがなければ、遠くて億劫でいかなかっただろうと思うと、息子に感謝している。(鳥海山の山スキーについては別に記録を残したい)

 月山の話にもどる。以前にも書いたけど、山の自然に触れるということは、たとえそれがレジャー気分のスキーだったとしても貴重な体験だ。自然を感じ、ブナ林の存在を認識し、いい空気を吸うことの素晴らしさを体験できれば、それはやがて、この異常気象、地球温暖化への関心、自然環境保護の大切さへの認識への向かうだろう。

 東京・山手線の吊り広告にこんなのがあった。「検索より探索」。短い言葉でなかなかいいコピーだ。まず触れてみる。一番大切だ。


2017年4月22日土曜日

那須の雪崩事故でなぜ責任者が逮捕されない。引率登山の重大な責任。

NETより「引用」
8人の高校生と教師が亡くなった、栃木県の那須温泉ファミリースキー場での雪崩事故から、1か月近くなる。その間の報道への疑問、警察の対応への疑問、そしてなによりも学校や教育関係者への疑問ますます強くなるばかりだ。
 昨日(4月21日)の夕刊で、同じ場所で7年前にも、同じ高校生の講習で雪崩事故があったこと、同じ教諭が引率していたことが報じられていた。

 路線バスや観光バスなどグリーンナンバー(営業車)が運転者の過失で何人もの人が死ぬ事故が起きたら、ほぼ間違いなくその運転者は逮捕されるだろう。新聞報道風に言えば(専門的に正確かどうかは分からないけど)、「業務上過失致死の“疑い”で、バスを運転していた●●(容疑者)を逮捕しました」となる。

 バスに乗るということは、そこに身を預けることだ。従って、運転者やその管理者は、当然に乗客の安全に気を配ることが求められる。事故を起こせば、自損事故だったとしても過失が推認されて、逮捕されることだろう。その後、釈放されたり、不起訴になるとしても、交通事故の場合は、「とりあえず逮捕」というの一般的だと思う。(間違っていたら誰か指摘して)

左上の斜面が現場?(NETより「引用」)
引率登山も同じだということが、山を知らない人々(警察関係者も含め)には理解できないらしい。自らの意志で山に登り、雪崩や滑落、落石など事故に遭ったら、それはまさしく「自己責任」だ。しかし引率登山は違う。高校生に限らず、集められた人は引率者にある意味で生命の安全を預けている期間だ。いわゆるガイド登山でも同じだ。本人が引率者の言うことを無視して勝手に行動するなど、よほどのことがない限りありえない。
 
 引率者は、集団の安全を確保する必要がある。当たり前のことだ。そこで事故が起きれば当然、責任が問われなければならない。
 
 登山のことを知らない人々は、雪崩事故は自然現象で予測不可能だと思うかもしれない。また、好きで登山しているのだから本人にも責任があると感じるかもしれない。そういう、ヤマをしらない人々の“雰囲気”が、警察の判断を鈍らせている。しかしそれはれは違う。無免許の運転手が事故を起こして乗客が死ねば、当然罪に問われる。当たり前のことだ。登山に免許はいらない、従って法的に責任はないという考えは間違っている。繰り返しになるが、引率されている人は、責任者に命を委ねているのだ。
 
 今回の事故では雪崩に巻き込まれたグループを引率していた教師も犠牲になった。ご遺族には申し訳ないけど一義的には彼に重大な責任がある。引率するということはそれだけ重い役割なのだから。しかし昨日(4月28日)のNHKの報道によると、この教師自体が、あまり登山の経験がなかったことが報じられていた。父親はインタビューに答えて、彼に引率させていた今回の登山研修の責任を問うていた。当然だと思う。
 
 この経験の浅い(剣道部顧問も兼ねていたという)教師に先頭のグループを率いらせていた、教師グループの責任は重大だ。麓の旅館に待機していたという、猪瀬修一教諭(山岳部顧問)はまず一番責任を問われるべき人物だ。それが道理というものだ。
右:猪瀬修一教諭(NETより「引用」)

 猪瀬教諭の会見の模様に謝罪の言葉がなかったとネットで批判があるようだけど、言葉で責任や謝罪を口にするかどうかという矮小化された問題ではない。重大事故そのものも当然の責任者であり、まず逮捕して取り調べられるべき存在だ。
 
 警察はなぜそうしない。同じ栃木県の「公務員」同士という甘えは存在しないだろうか。勘繰りたくもなる。

 引率登山に重大な責任があるという「知見」は、何も私のオリジナルではない。ジャーナリストであった本多勝一氏は、引率登山事故について繰り返しこのことを書いている。(本多氏のスタンスなどの好き嫌いはあるだろうが、少なくとも山に関する著述は優れている方だ)。

 繰り返す。
 栃木県高校体育連盟登山専門部会が主催した『引率登山』は、高校生たちがバスに乗っていたのと同じだ。引率していた教師らは、バスの運転手と同じ安全を確保する義務と責任がある。そのことを警察も一般市民も理解する必要がある。警察はなおも業務上過失致死容疑の疑いで捜査しているというが、少なくともすぐに家宅捜査で書類等を押収しておかなければならなかった。軽井沢のバス事故では運転手は死亡したが、旅行会社や運行会社の家宅捜査を行っただろうに、なぜ高校生が犠牲になる事故ではそうならない。

 報道も大いに疑問だ。軽井沢のバス事故では犠牲になった大学生らのことがさまざまなメディアで盛んに報道された。それだけメディアも重大なこととして、その犠牲者を同情的に報じた。それに比べれば今回の雪崩事故での報道、とりわけ山岳部顧問への報道は、少し及び腰だ。それは報道の担当者が登山そのものを知らないからだろう。勝手な「予断」をもって、自然現象、好きで山行に参加した高校生。その世話をしている顧問の先生。という構図を勝手にアタマの中で作り上げているだけだ。無知もはなはだしい。
 
 学校の会見でも、そうした「山好きの高校生を世話してあげているんだ」という雰囲気が、にじみ出ていた。猪瀬教諭という人物に「山や」としての、そして「教師」としての責任のかけらも感じなかった。

 ご遺族の方々はさぞかし悔しいだろう。告発すべきことだ。だれか力になってあげてください。

 

2016年10月29日土曜日

25年ぶりの北岳

広河原から見上げる北岳「意外に近くに感じる」
この夏、25年ぶりくらいで、北岳に登ってきた。
東京から1泊2日で北岳・間ノ岳をゆく「弾丸登山」。(7月31日―8月1日)
朝4時すぎ、自宅を出発。中央高速経由で、北岳登山のターミナル芦安の集落に6時すぎに到着。
 日曜日なので、広河原行きのバス停近くの駐車場はほとんどいっぱいだったが、奇跡的に1台空いていた。朝早くから誘導の人がいて、駐車。バスの時間まではまだだいぶあった。1便は5時半に出ている。往復で2時間はかかるので次の便は7時半台だ。でも乗合タクシーが待っていた。6人先着がいて、私と息子で8人。あとひとり来れば出発してくれる。ほどなくもう一人来て、バスで行くより1時間近くはやく出発できた。幸先いいスタートだ。

 広河原のビジターセンターで用を足して準備を整え、出発。橋を渡る手前で撮った写真がこれだ。(上)

大樺沢を登りきったところ
早くも目前に北岳が迫る。それだけ近いが、急登だということでもある。
川を渡って登山道に入り、**コースを進む。最初は緩やかな樹林帯だ。昨日までの雨のせいか少しぬかるんでいるが、歩きにくいというほどではない。

 大樺沢 左俣コースを行く。例年より雪が少なかったのか、河原の水は少なくガレ場の急登が続く。剱岳以来の2年ぶりの本格登山。この日に備えて普段から筋トレとランニングを行っているが、やはり実戦は違う。明日で58歳になる身体には少々きついというのが正直なところだ。
 それでもまあまあのペースで登っていく。1便のバスで来た人たちを少しずつ追い越していく。
二股でトイレに行こうと思ったけど混雑。あきらめて登り続ける。

大樺沢ルートの後半 梯子が続く
その後愚息にアクシデントが起きた。受験勉強で少々鍛え不足のためか、足(ふくらはぎ)に痙攣を起こす。山岳部で一応部長も務めた息子は、普通に登ればペースははるかに私より早い。ついていけないほどだ。実際、登り始めではどんどん置いていかれ、途中で待ってもらうという有り様だった。しかしその息子も浪人生活で、山は久しぶりだ。水分不足というよりは単に登りの筋肉をしばらく使っていなかったための痙攣のようでった。

 しばらく休めば何とかなると思い、5分ほど休んであと私は先にゆっくり登ることにした。幸い大樺沢は一直線で見通しが利く。息子には十分休んでから来るように告げた。しかし焦りもあって十分回復しないうちに再び登り始めたため、調子がでない。そんなこんなの繰り返しで、ようやく梯子場まできた。
真横から眺めるパッドレスはさすがに大きい
その内息子の痙攣も回復してきた。北岳パッドレスがよく見える。2人ほどテラスにいるのが見えた。行ってみたいという気持ちはあるが、それは単なる憧れのレベルだ。これから多くの時間を費やして訓練してそしてガイドにお願いして登るという人生の選択肢はないだろう。まあ、この目でナマで見上げるだけだ。

 予想に反してこの日は天気はまあまあだった。翌日に通過するが、荷物を乗越にデポして山頂まで往復した。山頂についた時にはガスが濃く何も見えなかった。
そして北岳山荘まで下る。帰るだけなら肩の小屋に行けばらくだが、翌日は間ノ岳にも行くつもりだから、来た道をもどった。
北岳山荘はメチャクチャ混雑していた。手続きをとるのも30分近く待たされた。この日はカレーしか用意できないということで、値段も少し安かった。

一度目の“登頂”
当てがわれた場所は屋根裏。布団の幅は確保されたが、何しろ天井まで60㎝くらいしかない。ほふく前進と言うのだろうか、はいつくばってザックをずらしながら行くしかない狭いところだった。フトンを敷いて横になるとまだ4時半だがすぐウトウトして眠りについた。息子も同様だ。1時間近く寝てから荷物を整え、ヘッドライトを出して夕食への準備をする。そして妻にメール。便利になったものだ、ちゃんとメールできるんだから。

夕食はやっぱりカレーライスと味噌汁。少々物足りないけどそんなもんだ。我々のテーブルは他は韓国からの登山客だった。南アルプスでなくわざわざ北岳に来るのだから、山好きだというだけでなく、それなりに日本の山や山小屋にも慣れている人たちだろう。味噌汁をこぼして大騒ぎしていたけど漬物をまわしてくれたり親切な人々だった。

夕食はちょっと貧弱。
夕食ちょっと外に出てみた。星は見えなかったけど天気が悪いというほどではなかった。考えてみると私にとっては2年ぶりの登山だ。息子も同様だ。受験勉強という通過儀礼は大きい。
人生の残り少ない身にとってはあまりにも長いブランクのような気がした。

寝床に戻るとそんなことを考える余裕もなく、8時前にはほどなく眠りについた。夜中なんども目が覚めるが身体がくたびれているのでまたすぐ寝る。3時ごろには目が覚めたら、3時半に電灯が付いた。間ノ岳、農取岳と縦走する人たちはそそくさと出ていく。我々も4時過ぎには準備を始め、荷物をまとめてから食堂に並んだ。小屋に荷物を置き、6時すぎに空身で間ノ岳に向かった。意外なほどアップダウンがあったけど2時間ほどで往復した。

8月1日朝4時ずぎ、小屋から富士山が見えた
少し休んでからザックを背負い、今度は北岳山頂に登り返す。天気はさほどよくないが気持ちのよい登りだった。9時半ごろだったろうか山頂で記念写真をとって、下りに入る。

 2年のブランクで一番つらいのは、やはり下りかもしれない。前に足を出すのは普段のランニングや筋トレでなんとかなったが、足でブレーキをかける運動は普段はあまりできない。ストックを出して支えながらの下りとなった。結構シンドかった。

 途中小雨にも降られたけど、それでもまあ順調に下り、2時すぎには広河原まだ戻ってこられた。運よく乗合タクシーもあり、無事、登山終了。芦安のバスターミナル脇の休憩施設・白峰開館の共同風呂に入った。しかしこれが結構クセモノだった。トホホ。あれで600円も取るのかと思った。湯船も洗い場も狭い、脱衣所も貧弱。2日間の山行の疲れをいやすには少々ガッカリだ。汗臭い身体を洗い流すのが精いっぱいだった。帰り道に「金山沢温泉」というちょっとイイ日帰り温泉施設があった。駐車場も広い。なんだここに来ればよかったと、息子と嘆いて芦安を後にした。
「後悔先に立たず」なんてて、たかが日帰り湯のことで使うのもなんだけと、正直ガッカリだった。知らないというのは恐ろしい。

帰りの中央自動車道は、月曜日だったこともあり、まあ順調だった。

北岳そして間ノ岳。58歳の誕生日直前に息子と登った経験は、自分にとって、それはうれしいひと時だった。


 冒頭にも書いたけど、約25年くらい前に一人で登った時は、秋ということもあり、広河原までマイカーが入れた。確か10月始めごろだったと思う。
 ひとりで車を運転して狭い林道を行くのは少々怖かったような記憶が甦ってきた。北岳山荘には5,6人しか泊まっていなかったと思う。

当時の写真を探してみたくなった。











もう来ることはないだろう・・・。時間があれば違う山に行くから