2016年5月7日土曜日

熊本地震によて露わになった「支えているもの」

netより「引用」
組織が大きくなればなるほど、またそうでなくても、大勢の人間が“支え合って”、そして“協力して成り立っていると、思いがちなものも、実はごく少数によって支えられていたにすぎないということを、熊本地震は教えてくれた。

 城の石垣は頑強で、一面の大きな石全体が上の建物を支えているように見えていた。しかし違った。実は角のきれいなアーチ状の石が、そのほとんどを支えていたにすぎなかった。写真を見れば一目瞭然である。
netより「引用」

 組織も同様だ。多くは、張り付いているだけで、実はなんの支えにもなっていなかったりする。もちろん“多少の貢献”はされており、城で言えば、中の土砂がくずれてこないような役目は果たしてただろう。しかし、いわゆる屋台骨ではなかったのだ。

 それでは、「全体で支える構造」にする方が、より強固なものになるのか、それともあの角の石をより頑丈にする方が有効なのか、それはシロウトの私にはわからない。

 組織では一部のメンバーの献身的な支えがあって、なんとか持ちこたえているということが、実は多いような気がする。ふだんその周りに連続的に石があるので気づきにくい。

どの石が支えているもので、どの石が単に張り付いているだけのものなのか、組織を運営するには構造をしっかり見定めることが重要だろう。でないと重要な石をうっかり取り除いてしまうし、重要でない石を後生大事にして無駄・非効率を助長してしまう。

かつて「捨て石」について書いた。囲碁は、ほとんどド素人だけれど、将棋と同様、その解説を見るのは大好きだ。どういう思考でどういう戦略で、どうしてその石を打ったのか、自分には想像できない、天才たちのアタマの中を見せてくれるからだ。
シロウトは碁を打つと、どの石も大切にして、ひとつも取られないように頑張ってしまう。そして結局すべてを失う。しかしちょっと打てる人ならば、捨て石が分かる。換言すれば「おとり」とでも言うのだろうか。捨て石を打つことによって、他を活かすことができる。また場面の展開次第では、捨て石が生きることもあり、反対に大切な石を切り捨てることもある。(のだろう。)


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