2016年1月23日土曜日

軽井沢バス事故、「原因」ばかり追求するメディアの愚。

YOMIURI ONLINEより「引用」
15人もの若者などが犠牲になった軽井沢のツアーバス事故は、1週間たっても連日メディアでは「原因」を巡って報道が続いている。

・ギアがニュートラルになっていた。
・時速100㎞を越えていた、等々。
メディアの言うところの「新たに分かった事実」として報道されている。原因を追究することは一見、一番重要なことに見える。確かに事実関係を明らかにするのは大切だ。しかしメディアがそればかりに囚われているのは、「真理」を追究するという観点からは見誤る。

 メディアのそうした「原因」報道の、出どころはほとんどすべて「警察の調べ」だ。警察の交通課のやる仕事を報道しているにすぎない。

 事故→警察の仕事→マスコミのいわゆる「サツまわり」(多くは若手の記者だ)の記事。という構図の中でこの報道は消費されている。メディアにとっては警察情報は言ってみれば一番「確実」な情報であり、「間違いない」報道ができる「便利な情報源」だ。ほとんど予想の範囲を越えない事故の「原因」ばかりをテレビのキャスターたちが、いかにも深刻な顔をして、伝えている姿は滑稽でさえある。

 アドラー心理学を持ち出すのは、いささかオカト違いかもしれないが、原因論より目的論の方が、真理に近づくのではないか。

死亡した運転手は「大型バスには不慣れだった」という「原因」が語られるが、「不慣れな運転手」がみな大事故を起こすのだろうか。違うだろう。この運転手の「目的」は何だったのか追求することこそ、真相に迫ることだ。それは「事故原因」を調べる警察情報を伝えるほど簡単な話しではないのは分かる。しかしその困難さを追求することこそメディアの役割だろう。警察調べは別に今の時代メディアを介さなくても開示されればいい情報だ。

NETより「引用」
①運転手が予め決められたルートの高速道路ではなく碓井バイパスを走っていたのはなぜか。
②なぜ100㎞ものスピードが出されていたのか
③ギアがニュートラルになっていたのはなぜか
目的論的に今回の事故を考えるとうこいうことになる(のではないかな)。

①なぜバイパスを走ったのか。
大型バスはUターンが難しい。一般道を走行していたバスが入るべき高速の入り口を間違ってやり過ごしてしまった場合、どうするか。よく知った道ならば、どこまで行けばUターンできる。戻れるということが分かるが、知らない道だと難しい。まして国道18号線の碓井バイパスの登りに差しかかると難しいだろう。運転手にはバイパスを行くしか選択肢がなかった。(のではないか)
それとも、高速道路料金を節約するため、あえてバイパスを行ったのか。そうだとすると高速料金の負担は個人持ちだったのか。もしくは領収書なしで経費がもらえる仕組みで、彼は「節約」したのか。
②なぜ100㎞も出ていたのか。
碓井バイパスはずっと登りが続き、軽井沢に出る最後のところでとつぜん下りになる。(確か)。大型バスが坂を上るのは相当な馬力が必要だ。アクセルを目いっぱい踏み込んで走っていかのかもしれない。それが急に下りになった時、うまく対処できなかったのではないか。登りが急に下りになると、ついスピードが出すぎてしまうということは運転ではよくあることだ。

③なぜギアがニュートラルに入っていたか。
バスのようにエンジンや駆動軸が後ろにありギア操作が前(運転席)にあると、ギア操作が難しい、つまりギアが入りにくいということが(少なくとも昔は)あった。だから運転手はよくダブルクラッチを分でいたのをよく見た。クラッチを踏んだままギアを変えるのではなく、いったんニュートラルでペダルを離し、改めてクラッチを踏んでギアを入れるのだ。
スピードが出すぎて、減速するためにシフトダウンをしようとしてギアが一瞬ニュートラルになったが、うまくシフトダウンしたギアに入れることができなかった。その間に下りでスピードが増し、しかもカーブでハンドル操作をしなければならなくなり、どちらも中途半端になってしまった。
などが、シロウトでも考えつくことだ。

これらは想像でしかない。ブログだから勝手なことを書ける。マスメディアはそういう訳にはいかないことは分かる。しかしそれを様々な「傍証」を集めて、説得力ある「推論」を構築することこそ、メディアの役割なんじゃないですか。
 警察発表と、犠牲になった方々の「お涙ちょうだい」話しばかり垂れ流すマスメディアは、ますます信用を失うだろうし、次第にメディアそのものが飽きられ、視聴者・読者は離反していく。まあそれでもいいけど。そんなのカンケーないから。




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