2011年8月9日火曜日

雲取山登山で考えた 首都東京の水源涵養林とペット連れの登山“客”

  
奥多摩から臨む富士山

  2011年7月16日-17日で、東京都の最高峰、雲取山(2017m)に登った。標準時間で上り約5.5時間のコースだ。目指す雲取山荘は、山頂から埼玉県側に少し下ったところにある。北アルプスなどと違い奥多摩、奥秩父には食事を出す営業小屋は少ない。(ここ以外私は知らない) 東京から比較的近くで、北アルプスや八ヶ岳などの同様な2食付の小屋泊まり山行ができるという点では、うってつけの山である。

 来る盛夏に予定している山形朝日連峰の縦走登山に備えて、小屋泊まりでなくても過ごせる装備と水・食糧を持って出かけた。林道脇から始まる登山道はずっと杉林の斜面を横切っていくようについている。


 途中、七つ石小屋に上がっていく途中に木々の切れ間から富士山が見える。そして急登の道を登り詰め七つ石小屋につくと展望が開ける。つくづく富士山は「見る山」だと思う。独立峰の美しい姿は何度見てもよいものだ。(ただし登るとなると、小屋のし尿の臭いがたまらなかった記憶がよみがえってくる。今は違うのかもしれないが・・・。)
雲取山山頂より富士山を臨む



 雲取山の登山ルートや展望については、いくつものサイトがあるのでそちらに譲る。今回の山行で、気になったことが2つあった。


 ひとつは、ペットを連れての登山である。昨年足慣らしに御岳山に行った時もそうだった。御岳山はロープーウェイで上まで上がれるので犬を連れた登山?客を多くみかけた。登山と言ってもハイキング、ちょっと遠出の散歩程度のところだからペット客には登山という意識はないのだろう。あまりいい気はしなかったが、ここはそんなものだろうと思いっていた。

 ところが雲取山という、まあ本格登山の範疇に入るところでもペットを連れている者がいるではないか。途中の登山道にフンがあり悪臭を放ってハエがたかっていた。その時はそれが何のフンかわからなかったが、犬連れに出会って合点がいった。雲取山の登山道は途中すれ違うのもやっとという狭いところもある。かなり大型の犬をつれていた夫婦にも出会った時はかなり驚いた。

雲取山荘はきれいで気持ちの良い山小屋だ

 雲取山荘につくと、そこにも犬をつれた人がいた。夜中、吠えていた。部屋が小屋の表(広場側)でなかったので、安眠を妨害される程ではなかったが、表側の人たちは迷惑だったのではないか。

 それにしても、で、ある。いったい犬を連れて登山するメンタリティーとはどういうものなのだろうか。単純に考えれば、その人たちにとって家族の一員であり、置いてはいけないということなのだろうが、だったら山に来るなといいたい。犬はそれを望んでいるのか。犬を連れていくのに他にふさわしい所だってあるだろうに。

 いわゆる「ペット愛好家」を私は好きになれない。今回の山を始め、様々な場所で遭遇した多くの場合、彼ら彼女らは、自分のペットを最優先に考え、周囲に気遣いができない人が多い。誰もが犬好きだと勘違いしている。


 まだ子どもが幼い時、こんなんことがあった。東京・立川市の「昭和の森公園」に行った時のことだ。ここには芝生があって子どもたちが自由に遊べる。芝生のよさは裸足で走りまわったり、寝転がったりできることだ。こともあろうにペットを連れた輩(年配の女性だった)は、この芝生に平然とペットに小便をさせていた。というより、ペットの小便を制御できないのだろう。さすがに、声をかけて注意した。件の中年女性はそそくさと逃げいった。帰りがけに管理人室にひとこと文句を言っていった。渋谷の代々木公園は、もっとひどい。ここは子どもを遊ばせるところではない。ペット愛好家の無法地帯だ。放し飼いにするのは“当たり前”。彼ら彼女らには人間が目に入らない。湯浅誠さんの言葉を借りれば、要するに「見えない」のだ。見ようとしないものは。(ブログ参照してください)

 山での楽しさやくつろぎを半減させてしまうペット愛好家、どうしても私は彼らを受け入れられない。


間伐された木が放置されている

 もう一つ気になったこと。それは植林地帯の荒廃だ。雲取山周辺は東京都の水源涵養保安林になっている。1000万都民の水がめのひとつ小河内(おごうち)ダムに水を供給する森林である。それが荒れている。日本林業の衰退と植林地帯の手入れがされない荒廃は、言われて久しいが、それを目の当たりにした思いだった。間伐された木はそのまま放置されていた。おそらく運び出す費用が出ないのだろう。それは足で登ってきた者ならば大変なのがよく理解できる。また間伐さえもままなず、密集して植えられた杉があまり育ちがよくなく細いまま林立しているところも多く見られた。


東京都の水源涵養保安林でもある杉林

 もしかしたら「捨てる所は捨てて、手入れをしている所はそうしている」のかもしれない。養生に限界があるのなら、それも仕方ないかもしれない。しかし枝が落とされず(枝打ちをしないとふしが多くなり材木としての価値は下がる)、あまりまっすぐには育っていない杉を見ると、杉そのものがちょっとかわいそうになる。かつて訪れた山形・金山町の民有林の杉は樹齢60年を超すものばかりでその立派さに驚いたことがあったが、東京都の森の杉の「育ちの悪さ」はそれだけに気になった。

 われわれはこの森をどうしていったらいいのだろうか。この問題はもう少し考えてみたい。



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