2017年8月19日土曜日

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』から考える「祈る平和」への“違和感”。その2

磯田道史氏の『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』が、アサヒの書評欄の「売れてる本」で紹介されていたので、買って読んだ。磯田氏はしばしばNHKのBS放送の歴史番組にも出演する歴史学者で、甘いマスクと平易で親しみやすい語り口で歴史を語る学者だ。
 最初はお手軽本かな?という気持ちで読み始めたが、どうしてどうして、非常に中味の濃い充実した新書だ。Eテレの番組「100分で名著」を加筆修正したものだというが、内容がいいだけにNHK出版も新書化したのだろう。これを1000円以下で購入できるのは絶対オトク。得した気分になる。
 と、まあどうでもいいことから入ったけど、この書籍は立派な「司馬遼太郎論」になっているだけでなく、日本近代史をどうとらえるかという歴史研究書ととらえることもできる。それは加藤陽子氏の『それでも日本は「戦争」を選んだ』にもあい通じる、冷静で公平な歴史認識の提示になっている。
 
 この著書の中で出てくることに、合理主義と対局にある、神頼み、日本人は最後は神が守ってくれるという、盲信が方向性を誤らせたことが指摘されている。もちろんこれは、何も磯田氏が初めて指摘することではないだろうけど、改めて彼の視点で司馬遼太郎の著書を「活用」して伝えてくれている。
 祈ればなんとかなる。神が助けてくれるという日本教(山本七平)的考えが“日本”をオカシナ方向に導いていった。
 このことと、毎年8月に繰り広げられる、祈りの日々、祈りの人々を揶揄するつもりはない。祈りの気持ちはもちろん尊重する。けれど、そうした姿に違和感を覚えるのには、祈ることが、いったんヘンな方向に行くと、「平和を祈る」心情もまったく正反対のものに行きかねない、合理的思考を停止しかねない危険性を感じるからなのだろう。と、自分自身の違和感の「原因」が、磯田氏の本を読んでなんだかわかったように思う。
 
文庫本が出ていました
  言うまでもなく「世界の平和」は強大な軍事力(核の傘)を背景にして成り立っている。それが現実だ。メディアもそのことは十二分に分かっている。ライトもレフトもだ。なのに「祈る平和」はそれとは切り離し、まったく別のものとして扱い報道する。でもそれでいいの?、と感じてしまう。じゃあどうすりゃいいのかという答えは持ち合わせないけど。
 仮に、8月の平和の祈りの一連の行事(6月の沖縄の祈りも含めて)を、祈る平和の考え方はおかしい、もっとリアリズムを子どもに教えるべきた。核の傘があるから平和なんだってことを、なんんて報道を8がつ6日や9日や15日にしたら、そのメディアはどうみられるだろう。マスメディアで最右翼と言われる社でもさすがにそこまではしないだろう。ほとんど読んでないので実際は知らないけど。まあそれが常識的というものだ。
 
 でも、リアリズム、合理的思考に目を背けるのは如何か。祈ることの無力さも認識しなければ、現実を見誤る。それは加藤陽子氏や磯田氏の書著を読むまでもなく、日本が神風を信じて失敗してきた近代と同じだからだ。

netより「引用」
  アメリカでは今でも、原爆が戦争を終わらせたという認識が広く国民に共有されているという。かつて防衛大臣がこの言説を“紹介”したら、失言として世間やメディアから袋叩きにあって、辞任に追い込まれた(と記憶している)ことがあったけど。でもそれは一面の事実なことは確かだ。そういう認識と、「原爆投下の正当化」は分けて考える必要があるだろう。だからこそオバマ大統領(当時)は広島を訪れて献花したのだ。謝罪したかどうかを問うことを被曝者団体もレフトなマスコミも直前のところで抑えた。リアリズムの中で、結果的に出てしまった多くの犠牲者に対して敬意を表したのだ。オバマさんは。そのことに対して、われわれ日本人(という大雑把なくくりはあまり好きではないけど)も敬意を表さなければならない。
 原爆の威力がいかに悲惨な結果を招くか、そのことは伝えていかなければならない。その意味でも8.6や8.9は大きな意義がある。だからこそ、その日を祈りの日にしてはいけない、結果の悲惨さのリアリズムを伝える場にしなければならない。世界の指導者がそのリアリズムを見ることにより核ミサイルのボタンを押すことを思いとどまることが、万にひとつもあるかもしれないから。

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