2013年11月20日水曜日

スマホの「とりこ」になった “かわいそう”な人々。山手線でのある出来事から。

何があっても子どもだげは
守りたい。
先日、山手線でのある出来事である。
午前9時台に大崎から外回りに乗った。幸いドアのすぐ脇、車両の端の3人掛けの座席の一番扉側の席に座れた。次の五反田で、人が乗り降りするとき、無意識に開いていた新書本から目を上げると、若い女性が乗ってきた。この女性はそのまま反対側の座席の前に進んでいったが、私の脇を通る際、カバンに付けられた、例のアレ、ピンクの丸い「お腹にあかちゃんがいます」バッジがチラっと目に入った。

 彼女が立った前のシートには、若い男1人と女性が2人座っていた。3人とも、いわゆる「スマホ」をいじっていた。前に妊婦が立ったこと自体に気付かないのか、それとも気づいて無視したのかどうかは分からない。しかしその3人の誰も席を譲ろうという行動に出ることはなかった。

 電車は次の目黒で非常ボタンが押されたとかで、しばらく五反田駅に止まっていた。妊婦の前の席の輩たちはどうすか、しばらく見ていたが、一向に行動を起こそうという気配がない。そのうち停まっている電車には人がどんどん乗り込んできた。

わたしは、カバンで座席を確保してから、この女性の肩を軽くたたき、後ろから席を勧めた。ただそれだけの出来事だった。

 でも気分は非常に落ち込んだ。“若者”への怒りというより、悲しくなった。この国はそういう国なんだと思うと。

 この小さな出来事は、たまたま偶然、何千人に一人の性悪な若者が3人に遭遇しただけかもしれない。フツーならこんなことは起きないのかもしれない。それは分からない。でも実際に、そういう場面に遭遇すると、少子化なんて止めようがない。子どもを産むことがイヤになる国だと思ってしまう。この国は。

 スマホは人をとりこにする魔力を持っているのだろうか。席を譲るという行為だけでなく、電車内で、他人の行動をまったく気にとめない輩は、かなり見かける。扉の脇に立ち続け、乗降の妨げになろとおかまいなし。足を組んで投げ出しても平気。そんなんのはザラだ。毎日、通勤で電車に乗るたびに、“民度”の低さを実感する。

 スマホの魔力とはいったい何なのか。ここ数日、そのことをずっと考えていた。そして思いに至ったのは、スマホをいじる行為は「モノを考えない」ということだった。

 テレビジョンもそうかもしれないが、ネット情報やゲームを行う行為は、実は「考える」という行為ではない。単に情報をアタマに流し込んでいたり、画面に動物的に反応しているだけではないか。そこには「深く考える」という行為はない。だから、とりこになってしまった人々は、常識では考えられない行動を平気で行うのだ。それは、選挙でも一時のブームで投票する、中味よりも見た目や印象で選択する行為ともつながっているような気がする。

大衆は、スマホによって、ますます「大衆」に堕落していく。これが今の状況だ。
たかが(だと多くの人が思うだろう)、妊婦に席を譲るの譲らないのというたわいもない話かもしれない。譲らなくても、妊婦のカラダには何も影響がないかもしれない。それでも、それではいけないと「考える」ことが、重要なのではないか。

「自分はとりこになんかなっていない」と言い張る、スマホのとりこになったかわいそうな人たち。それを毎日眺めながら通勤している。


(追想)
 以前には、通勤に利用する池上線でこんなことがあった。私は車両の端の一番奥の席に座っていた。旗の台から妊婦が乗ってきてドアのすぐ脇、私の位置からは2人隣りの座席の前に立った。
この時、座っていたのは30前後の女性だった。明らかに妊婦と気が付いたようだったが、そのまま目をつぶり「寝たフリ」をしていた。結構、混雑した車内で、私の位置から声をかけるのがちょっと難しい感じだった。しかしこちらとしては気になる。2駅目で電車が止まった時に、声をかけて席譲った。そのあとは、「寝たフリ」の女性の前に立っていた。終点で降りる時、その女性が立ち上がったので、耳元で言ってやった。「鬼」と、ひとこと。

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