2015年10月25日日曜日

コンプライアンスって何? 郷原信郎さんの著書から「法令遵守」を考える


郷原さんの書著は、いつも的を得ている。いろいろ勉強になる。
「法令遵守が社会をつぶす」を読んだのは、随分前だったけど、日頃から何となく思っていたことを見事に「明文化」して、はっきり、しかも論理的に解き明かしてくれた。

もう具体的内容は忘れてしまったけど、これこそ「溜飲を下げる」と言うのだろうか。
もちろん、郷原さんは法令を守らなくてよいと言っているのではない。単純な「規則さえ守ればよい」という考え方ではダメだと言っているのだ。と思う。

 中小企業に勤めて、危機管理について、改めて考えなければならなくなった。で、コーポ―レートガバナンスの本も役にたつが、それだけではなく、再び郷原さんの図書館で借りてみた。

「組織の思考が止まるとき」は、発行年月日を見ると、2011年2月となっている。東日本大震災が起こる少し前だ。
内容は法律の古典「日本人の『法意識』」にも通じるところがある。

以下、(印象に残った)内容を簡単に記す。

○多民族国家アメリカでは人種、文化、慣習が異なる多くの民族が一つの社会を形成し、社会としてのまとまりを維持するために「法令と契約による拘束」を中心にすることが不可欠だった。社会の中心に司法制度が位置づけられた。

○日本社会でも「法令遵守」という言葉は古くから社会内で定着してきた言葉だったが、それはアメリカ社会におけるComplianceという言葉とはかなり異なる意味を持っていた。

○民族の多様性がない日本では同質性から社会内における協調関係が維持され、暗黙の了解、合意が重要な機能を果たす社会。法令や契約に基づいて司法手段によって問題を解決するのは社会的逸脱者が犯罪を行った場合や感情的対立など特異な事象が発生した場合の最終的な手段であった。

市民生活や経済活動は、社会内の不文律としての「掟」や失墜、「村八分」など社会内における制裁手段が用意されていた。

○ところが2000年以降、グローバリズムの名の下、日本社会のアメリカ化が進み、法令や契約を社会内の解決手段として最大限に使いこなすアメリカで「法を守ること」という意味で使われるComplianceが、「法令遵守」という訳語と結びつけて使われるようになった。

○日本社会における法令や司法の位置づけのアメリカとの違いが考慮されることなく、企業などの組織の取り組みとして重視されるようになり、「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしていくことになる。

コンプライアンスの本来の意味は「他からの求めに応ずること、従うこと」である。これを組織と社会の関係に置き換えれば、コンプライアンスとは「社会の要請に応えること」


「法令遵守」という言葉、法令を守ることの自己目的化が、様々な弊害をもたらしている。

○「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしている今の世の中では、どうしても(組織のピラミッドの)下の方に注意が向いてしまう。

○何々規則、何々基準、マニュアルを守ったか守らなかったをチェックされるから、それを守ろう、守ろうという方向に注意が注がれる。その結果、一番肝心な(ピラミッド)の頂点から注意が離れる。

社会の要請にバランスよく答えていくには、組織の中で共通認識を持つことが必要。それによって組織のコラボレーションが可能になり、社会の要請に応えるパワーを生み出す。
そのプロセスこそ組織にとってのコンプライアンスに他ならない。


○フルセットコンプライアンスのすすめ
1:組織としてどういう社会の要請にバランス良く応えていくか方針を明確にする。
2:そういう方針が実現できるような組織体制を作る
3:作った組織が実際に機能し、実際に社会の要請に対して反応して動いていかなければならない。
▷トップとボトムのセンシティビリティー。自ら敏感に反応すること。縦のコラボレーション
▷横のコラボ
4:治療的コンプライアンス 不祥事対応
5:環境整備コンプライアンス

戦後は長らく、日本の経済省庁は法令に基づかない行政指導によって経済活動、企業活動をコントロール。ほとんどが官僚の裁量で行われてきた。その時々の国家や社会の状況に応じて社会の要請に応えるための活動として行われてきた。
○それは単に法令にそのまま従っていればよいというものではなく、むしろ法令上明確に規定されているのではなく、行政上の裁量に委ねられている事項についてどのように対応するかが官公庁の判断として重要だった。
○ところが「法令遵守」の波が押し寄せ、官公庁組織も「頬憂い遵守」さえしておけばよいという考え方が幅を利かせている。しかしそのような「法令遵守」に凝り固まったコンプライアンスを行うことによって官公庁が本当の意味で社会の要請に応えていくことができないのは明らか。


不祥事事例の“研究”
○社保庁の不祥事
「年金改ざん」問題。
「標準報酬遡及訂正事案」
標準報酬月額を遡って引き下げる手続きへの批判。

 これは、それによって支払うべき保険料が遡って安くなるので保険料の滞納が帳消しになる一方、将来受け取る年金額も減少する。事業主自身の申告に基づいて行われた。
給与から天引きされる従業員の報酬月額が本人の知らないうちに事業主によって勝手に引き下げられたとしたら、それは事業主による保険料の着服・横領だが、事業主自身のものは実質的に被害はない。
 すべての法人事業者と従業員5人以上を常時雇用する個人事業主は厚生年金への加入が義務付けられている。この制度は経営基盤が安定していて大企業向けの制度。
中小零細企業は法人であっても実態は個人事業に近いものがある。事業主と家族が取締役という例も多い。支払困難になった事案について「遡及是正」を行うことは加入者間の負担の公平を確保しながら年金財政を維持していくにはやむを得ない措置。
 なぜなら事業者が倒産して多額の滞納が確定すると、保険料を支払わなかった事業主にも将来多額の年金が支給されることになるから。その資金は他の保険加入者が負担するという不合理が生じる。
これが「法令遵守」で考えると全く違う。
これが「年金改ざん」などと社会問題化した背景は、度重なる不祥事に対して厚労省や社保庁が「法令遵守」的対応ばかりを繰り返し、問題の本質を明らかにして国民の理解を求める努力をしてこなかったから。


○事故米問題の本質
残留農薬に汚染されたいわゆる「事故米」が工業用ののりなどの非食用として政府から売り渡されたあと、不正に食用として転売された事件。
問題の本質は2つ。
①健康被害  ②転売による利益を得る悪質は経済犯罪
①は結果的に人体への影響が懸念されるようなものではなかた。農水省の対応のまずさが批判を大きくした。


▷法令に納得していなければ「遵守」できない。

○「法令遵守」をはき違える放送事業者
放送法第4条の遵守だけでは問題は解決しない。
・放送によって権利侵害を受けた人が3か月以内に請求があった時は遅滞なく真実かどうか調査。判明した日から2人いないに訂正、取り消しを行う。
これは放送事業者が自浄能力を備えているという前提があって初めて機能する。
ところが、単に「法令遵守」といい観点からこの条文に違反しなければいいという考えをとると、放送法の趣旨とは全く相反す事態になる。まず調査を行うことが大事。

○「あるある大辞典」の納豆ダイエット
週刊朝日が海外専門家のコメントに疑問をもってインターネット・電子メールで確かめたら、その専門家のコメントはまったくねつ造だった。

○TBS「朝ズバ!」の不二家関連報道
元従業員の証言。顔なし証言で不二家バッシング。信頼回復対策会議という第三者機関の関連資料からねつ造が発覚。

○日テレ「バンキシャ」の岐阜県裏金問題
偽証証言の報道は、たまたま証言者が逮捕され取り調べで偽証証言を供述したから偶発的に発覚。放送事業者の自主的調査だけでは「報道の自由」「取材源の秘匿」に守られ事実は明らかにならなかった。

「あるある・・」の関西テレビが民放連を除名処分に、番組打ち切り
日本テレビは報道局次長が岐阜県庁を訪問・謝罪。社長が引責辞任。
TBSは最後まで誠実な対応をせず、無理な弁解を押し通す。
BPOも言い分をほぼ丸のみ。

社会的影響から言ったら、あるあるは小さい。
バンキシャも岐阜県庁が直ちに調査を行ったことから比較的影響は小さい。
朝ズバは、不二家に与えた影響は多大。不二家は山崎製パンの子会社になる。フランチャイズの2割が廃業。

コンプライアンスのあり方を考えるには
「法令遵守」から「社会的要請への適応」

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この書著で言及されていた放送事業者の問題は、「メディアの劣化」などと、紋切型の言説で切って捨てるには、あまりにも根深い問題だ。

「法令遵守」の背景に、日本社会の“大衆性”の台頭があるのは、間違いないだろう。この問題でも日本は「反知性主義」的社会になりつつあるのだろう。残念だけど。

2015年10月24日土曜日

消えた「竜王戦」。<多様性>か<選択と集中>か、NHKの番組編成から考える。

  NHKのBS放送から囲碁名人戦の中継が消えたことを、先日書いた。10月から始まった恒例の将棋「竜王戦」の中継もなくなった。
1日24時間×7日フルに放送している中で、囲碁名人戦(や本因坊戦)、将棋(名人戦・竜王戦)の中継放送など2日合わせてもわずか3時間~4時間程度だ。
いろいろ事情はあるのかもしれない。ニコ動で中継しているとか、主催する新聞社との関係とか。しかし、どちらもクリアできない問題でもないように思われる。

 内実は分かりようがないが、主因はなんといってもNHKのBS放送の編成方針にほかならないだろう。同じような旅番組、同じようなスポーツ中継、同じような歌番組、同じような映画ばかり並ぶ番組編成・・・・と言ってしまったら、どれも「違う」「それぞれに個性や特徴があるものばかりだ」という反論が聞こえてきそうだけど、興味のない者にとっては、そう見えてしまうプログラムだ。まあ、反対に将棋や碁に興味のない人にとっては、竜王戦や名人戦で誰がどう対局しようと、同じように見えてしまうのだろうけど。

とにかく、NHKの衛星放送は「多様性」より「選択と集中」を選んだということだ。
集中の中味は、BSプレミアムの場合、ほとんど①紀行(旅・食・サブカルチャー)、②娯楽(映画・ドラマ・演劇・歌・お笑い)に集約されると言っていいかもしれない。「多様性」は、この範疇の中だけで行われている。

 公共放送の首脳陣もバカではない。おそらく確かな統計的根拠に基づいて、これが一番、衛星放送の契約件数を伸ばすのに一番効率がいいからそうしているのだろう。

 経済活動の原則(要するに一番もうかるようにするにはどうしたらいいか)から考えれば、一番売れるものを多く作ることだ。あまり売れないものを少数作り続けることは効率がわるく、もうからない。これ当たり前のこと。放送番組の制作が大量生産と同等かどうかは分からない。ニッチな生産が支持を得ることもあるけど、大衆というマスを相手にするには、「大量生産」が効率がいいのは確かだ。

 NHKという組織は「国民の皆様から預かった受信料を無駄にすることなく一番効率的と思われる方法で使わさせて頂いています」ということなのだろう。
世の中で、将棋や碁をたしなむ人など、効率性からいったら「無視できる数」ということなのだろう。
おりしも、「週刊将棋」という週刊新聞が休刊するというニュースが出ていた。ベタ記事でほとんど問題にされないレベルだったけど。こういう
NHK衛星放送の囲碁・将棋関連の放送の減少、将棋新聞の休刊、こうした、それぞれでは小さな出来事が積み重なっていくうちに、文化(囲碁や将棋をそう呼ぶとして)が消えていってしまうのだろう。NHKはそうれに加担しているという自覚もなく。

囲碁も将棋も、凡人には想像もできない非常に高度な思考が見えないところで繰り広げられている。ビッグタイトルの中継は、その解説を通じて「見える化」し、知的刺激を与えてくれるシンプルだが非常にいい放送番組だった。
そんなものは「皆様のNHK」の運営には何のカンケイもない話なんだろう。
残念でならないけど、これが大衆社会の公共放送というこだ。



2015年10月15日木曜日

フルマラソンへの道② 道具が結構重要なんだよな



こぞって着用していた高速水着(ネットより「引用」)
北京五輪の時だったか、SPEED社の高速水着が「速い」という評判をとり(事実、この水着を着た選手が次々記録を塗り替えていたと記憶している)、ミズノやアリーナと契約していた日本人選手も、この高速水着を着てレースに臨んだことがあった。
 このとき北島は五輪の場で「I'm a swimmer」と書かれたTシャツを着ていて、ちょっとした話題になった。アイ・アム・ア・スイマー、すなわち「泳ぐのはオレだ。(水着じゃない)」と主張していた。このことを雑誌か新聞で知り、今でもかなり印象深く覚えている。
北島の主張は、かっこよかった。道具に翻弄されるのは、競技者として本来の姿ではないことを、静かに訴えていたのだ。まあ彼もSPEEDを着てレースに出たけど、ちゃんと勝った。今ではこの水着は公式試合では使えないらしいけど。すごい水着だった。

 スポーツを行う時に道具に踊らされるのは、いささか躊躇する。情けない。「弘法筆を選ばず」なんて古いことわざを持ち出すのもなんだけど、自分も「アイ・アム・ア・ランナー」=「走るのは自分だ」と、かっこよく言ってみたい。

 でも、やはり道具が結構重要なこともまた事実だ。
スキーをしていると、これはもう道具(板や靴)を何にするかで、滑りが違う。。

 という訳で、30㎞走は新しいランニングシューズで臨んだ。 NEW BALANCEの新シリーズ「VAZEE PACE」。
メーカーのうたい文句は、長距離を目指すための、弾力性と反発性、そして240gという軽量性だ。

ディゼロ・ジャパン・ブースト2
アディダスのブーストシリーズ(具体的にはアディゼロ・ジャパン・ブースト)とどちらがいいか迷った。ブーストの弾力性も手で触ると非常に魅力的に見えた。実際履いてみるとカカトの具合もいいのだが、残念かな、シューズの形状がイマイチ自分の足に合っていなかった。足型が合う人にはお勧めかもしれない。

結局2週間ほど考えて、つま先の形状がより自分の足に近いこと、また前が上に反っているので、足抜けがよさそうなことから、NBのものにした。。結果はオーライ。

RC1100 185gと超軽量
これまでは、自分の実力に対して、少し高めシューズを履いていた。軽さが魅力なのと、少しでもベアフットランができるように、店のススメもあり、自分なりに考えてあえて選んだ。ニューバランスの「RC110」。
写真は最新モデルだけと、自分のは旧型で、色は違うし、仕様ももしかしたら少し違うかもしれない。でもなかなかいいシューズだ。

雑誌に載っている記事で、少し上のシューズを選ぶのが良いという記事を後から見つけて、選択は間違ってはいなかったと妙に納得したりもした。



で、新しいシューズで30㎞走ってみてどうだったか。これまで長時間になると足がむくんだりりして異常に長い薬指があたって爪を痛めていたが、このシューズではそれがなかった。また足抜けもよく、疲れが出たあとに真価を発揮した。
20㎞くらいまでなら、ベアフットランニングをなんとか続けられるので、ヒールの底が浅いシューズでも、なんとか走れたし、苦にもならなかったが、苦しくなってくるとさすがにお尻が落ちて走ることになる。自分でも落ちているのが分かるけど、なかなか修正できずに走る。そういう状態で、このバジー・ペースは真価を発揮した。(続く)

2015年10月14日水曜日

フルマラソンへの道①30㎞走を初体験。

 フルマラソンを目指す者にとって、30㎞走はひとつの関門だろう。(ランニング雑誌によく書いてある)。初めて30㎞を走った。なんとか。

 なぜ走るのか。 村上春樹さんの最新刊エッセイ「職業としての小説家」にかなりの分量を割いて、身体を鍛えることが記されている。頭を使うこと(創作活動)と身体を鍛えること(ランニング)は一体のものであることが、経験則からも生理学的にも必要なことだと。
 まったく同感というほかない。それは50を超えてから本格的走り始めた者にとって、体験的に実感できるものだ。
 30㎞走は、自分にとってフルを目指す一里塚というよりも、心を鍛えるひとつの「手段」だという意識があった。ともかく走ってみようと。

 これまでハーフマラソンのレースには4回ほど出場したが、フルは未経験だ。適当な機会(大会)がなかったことと、普段のランニングは、特にフルを「目標」にしてトレーニングを積んでいる訳ではなかった。でもアタマの片隅のどこかに、一度は出てみようという気持ちがあるのだろう。そして出るからには、制限時間ギリギリでボロボロになってゴールするなんているみっともないことは、主義としてしたくない。それなりの記録でゴールしたい。という気持ちが、これもまた心のどこかにあるのだ。具体的にはサブ4だ。60前の初老が、初マラソンでサブ4なんて無謀な目標かもしれないが。

  いつもひとりで走っている。だれのアドバイスも受けず、励まし合う相手もいない。いつも同じところばかり走る。だからランニングを楽しむ要素は極めて少ない。自分でもよく続くと思う。
でもともかく続けていられるのは、走ることで他の生活の要素のパフォーマンスも上がるという“感覚”を何となく、理屈ではなく、身体として感じているからに他ならない。だから村上春樹さんの言いう「身体と頭脳の一蓮托生論」(と勝手に命名)には、ものすごく共感した。
 (「走ることについて語る時、ぼくの語ること」は、ほとんど私の“バイブル”だ)

 今年の夏も暑かった。8月はなるべく朝早くに走った。それでもものすごく汗をかくので15㎞が限界だった。それでもコンスタントに毎週走り、月間ペースとしてはなんとか120㎞をキープした。120㎞という距離は、(当たり前だけど)、フルマラソンに日常的に参加しているような方々から見れば、フンと鼻で笑う距離でしかないだろう。雑誌を見ていると月間300㎞、500㎞なんてザラにいるようだから。反対に走らない人から見ると、120㎞と聞いただけで驚かれる。まあそれはともかく、120㎞~150㎞が自分のこれまでの月間ペースだ。

 夏の終わりに多摩川を20㌔走り、9月に入ってからは日曜ごとに(1回休み)22㎞~26㎞を走った。そして10月12日体育の日、初めての「30K」だった。
タイムはEPSONのリスタブルウォッチで平均速度5分55秒/㎞。なんとかキロ6分を切った。しかしキツかった。「孤独との戦い」などという紋切型の言葉で表せない。音楽も聞かず、ひたすら走ることだけを考え続けた3時間だった。

 コースは拙宅から丸子橋たもとまで1.5㎞。東京都側を丸子橋~二子玉川、二子橋を渡って、川崎側を二子橋~丸子橋~ガス橋と行き、ガス橋を渡って東京都側を多摩川大橋~更に先の六郷大橋の途中までを行く。河川敷にいくつもグラウンドが並ぶ所で多摩川大橋まで引き返し、川崎側を上流に向かい、ガス橋で東京都側に行き、再び大橋を目指し、途中で道なりに引き返してあとは丸子橋まで行く。更にそこから坂を上がって自宅に戻るコースだ。

 不思議と、いわゆる「ランナーズハイ」の状態にはならなかった。ハイになる以前なのか、足(ふるらはぎ)の痛みが気になって、これをどう克服するのか、そればかり考えていた。手持ちのエネルギー(アミノバイタル5000と、ブドウ糖)をいつ飲めば効果的なのか、500ccのスポドリはどういう配分で飲むか。いろいろ考えることはあった。
 
 とにかく走った。しかしこの時は、少し休んだとしてもあと12㎞余り走る余裕は足にも気持ちの上にもなかった。少なくとももう1度、できれば2度は30kを走って、その次を目指したい。フルマラソンを目指すというより、自分の精神と頭脳を鍛えるために。

2015年10月11日日曜日

中小企業はたいへんだ。行政の“理不尽な”要請に応えることができるのか。

 従業員170足らずの小さなカイシャの総務をやっていると、これまで大組織のいち歯車だった時とは全く違う世界が見えてくる。

 そもそも知らいないことばかりだった。社員に給料ひとつ払うのも、社会保険の引き去り、所得税の源泉徴収、住民税の特別徴収、(実際には社員からはとらないが)児童手当負担額の計算など、実に複雑で、しかも細かい知識がないときちんと対応できない。だから多くの企業では給与計算そのものをアウトソーシングしているところもあるようだが、これを自前で行うとなると毎月たいへんだ。「給与奉行」などソフトも販売されているが、だからと言ってソフトに入れてしまえば、それで終わりという訳ではないだろう。最期は手計算で「検証」しなければ、正確な給与支払い額は出てこない。

 小企業といっても「大組織」の完全子会社で、その意味では倒産のリスクはなく、仕事もまあ受注できるようになっている。それでも結構、会社の維持に神経を使うのだから、ふつうの独立した中小企業であれば、その大変さは想像に難くない。これまで大組織の中にいる時は考えもしなかったことだけど、本当に経営者は緊張の連続だろう。

 社会は善良な経営者ほど苦労する構造になっている。従業員を路頭に迷わす訳にはいかないし、様々な「お上」の要請に真面目に応えるとなると、どんどん出費がかかる。

 障害者雇用の数値目標はいま中小企業まで拡大されている。達成しないと課徴金をとられる。また高齢者雇用の圧力も強い。労基署の“回し者”が訪問してきて、会社の定年を65歳にしろと迫る。そのくせ管理職を増やすと「名ばかり管理職」ではないだろうなと、疑いの目をして、きちんと残業代を払えと無言の圧力を見せる。それではと請負で仕事を出すと、「偽装請負」ではないかと疑われ、派遣労働者を入れると、こんどは3年たてば自動的に社員化しなければならず、それもなかなかできないので、せっかく仕事を覚えてくれた人をなくなく「切る」ことになる。下請け取引で「優越的地位の乱用」はないか、3条書面はちゃんと作っているのかなど、「法律に則った対応」を求められることも多い。

 社会が人口も増え成長期にあるのであれば、多くの企業は(放漫経営でない限り)、まあそこそこ発展し、お上の要請にも何とか応えることもできただろう。しかし現代はそうではない。人口が増えないということはパイが増えない。経済学の初歩で考えても、それはゼロサム社会(この書名の本もずいぶん前だったな)で、パイの奪い合いにほかならない。単純化して言い換えれば、栄える会社と衰退する会社が半々だということだ。

 前述の様々なお上の要請も、半分の会社はこたえられるが衰退する会社では難しいということだ。竹中平蔵や八代尚宏などリバタリアンにしてみれば、こうしたことは、衰退する企業は市場から退場し、労働力も発展する企業に移っていくだけのことと、切り捨てるかもしれない。確かにマクロ的に見れば、その通りかもしれない。しかし現実はそう簡単ではない。属人的に個々の人はそう簡単には異なる職種の仕事にすぐ移れる訳ではない。それも年令がいけばいくほど、新たなスキルを身に付けるのは難しくなり、労働力の移動はそう進まない。

 そこに社会のひずみが表れる。
だからと言って障害者雇用の課徴金をやめろとか、高齢者雇用をしなくていいとか、児童手当負担金はいいらないと言っているのではない。必要なのは行政が個々の会社の「本当の実情」(重複表現でけどまさに重ねてそういうこと)を見極める目を持ち、個々の企業ごとの対応ができるような仕組みを作ることだろう。言うは易し実現するのは難しいことかもしれないけど。

 それぞれのお役所はそれぞれ崇高な目的意識を持って、日々「行政指導」にあたっているのだろう。善意に考えればね。でも、小さなカイシャで日々その窓口になっていると、あまりにも要請が多すぎるように思えてならない。アンケートの類も結構多い。「今後の政策に生かすために・・・・、ご協力を・・・」という要請文がどれも添えられている。実際に行っているのはコンサル会社で、アンケートの提出先は、そのコンサルの下請け企業だ。

 どう表現してよいか分からないけど、経済学でいう「合成の誤謬」が行政の行うことでも顕著になってきていて、行政の要請に応えられる企業は「半分しかない」ことが分かってもらえていないのだろう。何しろお役所の方々は(よっぽどの無能者か犯罪者でない限り)、自分の組織が「なくなってしまうかもしれない」ということを実感として感じることはないからだ。

PS:マイナンバーが始まる。給与生活者にとっては、これはある意味で「朗報」のはずだ。なにしろ所得隠しを防ぐ結構有効な手段だから。法人番号も始まる。こうした施策を新に有効なものにするには、それによって社会の公平性が保たれるかだろう。