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2019年1月6日日曜日

さようなら蔵王スキー場。さようならタ〇ミヤ。

去年の今ごろ「蔵王は“残念なスキー場”になり下がってしまった。残念!」と書いた。
今年も年始の3日~5日に蔵王を訪れた。今回はこれまで「定宿」にしていた、ある大手電機メーカーの健保組合が運営する保養施設が閉鎖されたため、新たに宿を探さなければならなかった。ネットで探した限りでは、3日の夜は、温泉があるそれなりの宿泊施設はどこも一杯でなかなか見つからず、山形市内でリッチモンドホテルをとって蔵王まで“通う”ことにした。4日の夜は蔵王で手広くホテル事業を行うタカミヤグループの瑠璃倶楽リゾートを予約した。
●スキー場
去年より更にさみしい所になっていた。リフトの運行は同じだが、正月3が日というのにガラ空き。リフトに近い中心部の駐車場はさすがに一杯だったが、キャパが大きい大森ゲレンでの駐車場は難なく停められた。リフトを並ぶことまったくない。天気が悪くホワイトアウトしていると、人が少なすぎて不安になるくらいだ。
樹氷で“有名”なロープーウェイの山頂駅に行った。正月からスキーをしないアジア系外国人の観光客をたくさん見かけた。山頂駅には荒天用にたたみ6畳分はあろう大きな樹氷の写真パネル(布製)があり、それをバックに外国人観光客は記念写真をとっていた。
スキー場のレストハウスもさびしい。メニューの選択肢が少なく味気ない。明らかに年円縮小しているように見えた。4日は世間は仕事はじめということもあり、更に人が少なかった。5日は土曜日。でも人の数は前日とあまり変わらない。子どもたちのスキー教室的グループを何組か見かけたのがせめてもの「救い」だった。彼らが将来の大人のスキーヤーになるから。
●宿
ネットで申し込んだけど、こちらの手違いで「リフト券付きプラン」で申し込んであった。しかしリフト券はすでに3日券を勝ってあり、不要だった。しかしフロントでは「申し込みプランは変えられない」と言うばかり。あまりの柔軟性のなさに、いささかイヤな思いがした。何も食事を変えろとか部屋を変えろなどど無理難題を言っている訳ではない。リフト券代を抜いていただければいいだけだ。それすら「出来ない」というサービスだ。こちらに最初間違いがあったので抗議するということではなかったので引き下がったけどね。そして夕食。もっともらしく「お品書き」がついていた。それを見ると「お造り」には「鯛と鮪のお造り」と記してあった。しかし出てきたものは「コンニャクと鮪」だった。別にどうしても鯛が食べたいわけではない。どうでもいい。けれど書いてあるものと出てきたものが違うと気分が悪い。鯛がないと指摘すると、宿はしばらくして鯛の刺身をひとり3切づつ小皿で出してきた。メニューの手違いでしたと言い訳していた。この対応に不満があった訳ではない。宿側は誠意を持って対応してくれた。だからそのことを非難すのではない。ここで感じたのはそうしたメニュー設定とお品書きなどという基本的な連携がうまくなされていない宿だということだ。人手不足もあるのかもしれない。サービスに関しての基本的姿勢だ。1泊、ひとり2万円を越す宿泊料は、年に1回とはいえ我が家にとっては決して安くない金額だ。やはり気分はよくない。
タカミヤグループは、縮小する蔵王温泉街の宿の中でおそらく勝ち組だ。ネットで空き状況を見てもこの先もほぼ埋まっている。入り口に台湾のホテル業者と提携したことが宣伝されていた。だから宿にもアジア系外国人も多かった。
 その分、サービスが雑になっているとは思いたくない。しかしあまりいいリフト券プランのことといい、食事といい、気持ちよく過ごせたとはとうてい言い難かった。

もう蔵王はいい。この時期の最高の雪質は少々惜しいけど。
さようなら蔵王。さようならタカミヤグループ。もう誰にも蔵王を薦めないしタカミヤも薦めない。
温暖化で樹氷ができない年も増えている。10年後(生きているかどうかわからないけど)蔵王スキー場はもうないかもしれない。


2017年9月16日土曜日

EV(電気自動車)革命は、原子力発電問題を避けてとおれない。なぜメディアはそのことを避けるのか

 

東電・柏崎刈羽原発
フランスやイギリス、また中国でも将来ガソリン車の販売を禁止し、電気自動車に移行させる案がここにきて急浮上している。
 排気ガスとして有害物質を出す、化石燃料を使った車から、それ自体はクリーンな電気自動車へシフトさせていこうという世界的潮流は次第に大きくなっている。それはそれでたいへん“良きこと”だ。
 新聞報道もこの自動車社会の将来の動きを先取りした報道になりつつある。しかし、こうした報道(の多くに)、触れてない部分がある。
 当たり前のことだが大量の電気を作りだすには膨大な電力供給が必要だ。そのためには、(現在のところ)原子力発電を抜きには実現できない。これは自明のことだろう。
慶応大学が開発した電気自動車(NETより「引用」)
ガソリン車から電気自動車になっても、その電気を化石燃料で作るのなら、かえって熱効率は悪い。石油を燃やして電気を作るのにも、それを送電するのも、いわゆるエネルギーロスが起きる。車に直接石油(ガソリン)を使った方がはるかに効率がいいのは自明のことだ。
 大量の電気を作りだすには太陽光や風量などだけでは、現在のところとても賄えないのが現実だ。原子力発電の有効利用があって初めてそれは実現するハナシだ。原子力発電は火力に比べて温暖化ガスの排出ははるかに少ない。その意味ではクリーンエネルギーと言っていい。エネルギーとしての有用性と、原発の危険性はきちんと分けて論じ中ればならない。
 東京電力・柏崎刈羽原発の一部に「適合」がなされたが、朝日新聞は社説などで、疑問を呈していた。その部分だけ見ればスジの通った「ご主張」かもしれないが、エネルギー政策全体を、この新聞はどう考えているのか、どうしていくべきなのかという主張はわからない。結局、反原発の人々の「意に沿う報道」でしかないと見えてしまう。それは、一部の知識人にも言えることだけど。
 何も、危険なままで原発をどんどん稼働させろ。福島第一で原発被害に遭われた方々のケアなんていらないと言っているのではない。要はリスクへの覚悟をどこに置くかという問題だ。原発リスクと温暖化リスクのバランスをどこでとるのかとう問題だろう。
 こうした最も根源的な問題に目を向けさせるのが大手メディアの役割なのではないか。そうしたことを避け、原発の部分の問題だけをことさら一番の問題のようにあつかうだけの報道には、トランプさんでなくても「Fake News!」と言いたくなる。

 欧州の電気自動車への移行計画のニュースで、象徴的なったのが、イギリスやフランスが「完全」を目指すのに対して、ドイツは「ディーゼル」は捨てないというような記事だった。これは、ドイツが原発ゼロを目指していることと無関係ではあるまい。反対にフランスなどは原発に積極的だ。

 電気自動車のニュースと原発問題は実は大きくつながっている問題だということ。まずそれを読者(や視聴者)に分かってもらってから、ディテールの報道に入るべきだよ。

トヨタの燃料電池車「mirai」
水素自動車に未来はあるか?
先日、中原街道(東京)を走っているのを見かけて、「オオ・・!」と思った。静かに増えていくんだろう。水素ステーションもすでに2件、知っている。


 

2016年11月12日土曜日

小池百合子はあまり好きじゃないけど、今彼女が闘っていることは支持する。

戸田ボート場
悪いけど、ボート競技はどれほど日本の皆さんに親しまれているんだろうか。応援に行く人が周囲に大勢いた、スポーツニュースで大々的に取り上げられたという話は聞かない。もちろん、だからって、昔から五輪種目のこの競技を軽んじていいと言っているのではない。
 レガシー(遺産)だと言って、数百億円の施設を台場に作ることに、その費用を負担する納税者は納得できるのだろうか。なぜ波が多少立つところではダメなのかという程度問題の話だ。

 小池百合子さんは、そんな人々のホンネをすくい上げようとしているように見える。

 ボート競技の当事者たちにとっては、それは立派な施設で快適な環境で競技することは望みだろうけど、全体最適から行って、それ相応の費用対効果があるのかどうか当然斟酌されるべきことだ。

 人にはアンビバレントな考えはつきものだ。東京五輪で日本人が活躍してメダルをとる姿を見たい。(それがある種のナルシシズムであることは置いておいてね)。一方でそのための費用を、オマエが出せと言われたら、「ちょっと・・・」と躊躇するだろう。そういうものだ。身勝手なのが人間の「本性」なのだから。
 
 ボート連盟?の人たちに、税金から支出する費用を多くの納税者はどう思うと思いますか?今後その施設どうやって維持するんですが?と聞いてみたらいいと思うけど。メディアは決してそうした不躾な質問はしないよね。


横浜国際水泳場
水泳競技場も、レガシーと言うならば、五輪後に一般の人々が水泳を楽しめる施設でなくては、なるまい。東京湾の埋立地の先端に作られても、交通の便を考えると、あまりいい場所とは言えない。作るならば、より多くの人が利用できるような場所に作るべきでしょう。

スポーツは市民に広く親しまれてこそ価値がある。メダルを取るという一時的なナルシシズムのために施設が作られることにはちょっと疑問を感じる。

 横浜国際プールは何度も通っているけど、立派な施設だ。ここが現状のままで『国際大会標準』に合致しているかどうか知らないけど、改修で対応できるんじゃないの。
 辰巳の水泳競技場はいささか古いけど、こちらでも十分でしょ。

 辰巳に関して言うと、ここは一般市民に、十分開放されているとは言い難い。競技大会が優先されるのはいいとしても、もう少し一般の利便に応えた設備にならないだろうか。

辰巳プール
水泳は日本では多くの小中学校に施設があり、健康的なポピュラーなスポーツだ。それは非常にいいことだと思う。そのすそ野をいっそう広げる一助になる施設であってほしいよ。

 五輪誘致の際のお金の不透明さ、(これは長野の時もあったけどついにうやむやで終わった)から始まり、競技場の建設問題、エンブレム問題。余りにもオカシなことが多すぎる。小池氏はそうしたことへの素朴な疑問を問いかけているだけだ。

 この人のことはそれほど好きではない。けど、いま彼女がやろうとしていることは、支持しますよ。森喜朗と闘ってください。






2016年5月3日火曜日

震災復興増税には絶対反対だ。誰も文句をつけられない事は間違っていてもすすんでしまう。

NETより「引用」
熊本地震で倒壊や住むことが「危険」と判断されたは家の方々は避難を余儀なくされ、大変な日常を強いられているのは、各種報道で伝えられている。早く、安心して暮らせるようになってほしいと祈る気持ちは、東日本大震災の時とどうよう、自然な気持ちでありこころからそう思う。おそらく多くの人がそのことに同意するだろう。

 しかし、だからと言って、「増税」はまた別問題だ。最近の世論調査(日経)によると安倍首相の内閣支持率は上昇している。その理由は熊本地震に的確かつ十分取り組んでいる姿勢が評価されているという。
逆の見方をすれば、こういう危機に対して、懸命に取り組む姿勢を見せることが(大衆の)支持率アップにつながるという訳だ。それはそれでいいし、何の文句のつけようがない。
しかし「誰も文句がつけられないこと」または「文句をつけにくい事柄」は注意する必要がある。
文句をつけにくいことをいいことに、勝手で不合理な政策が推し進められてしまう。

「震災復興の政治経済学」(齋藤誠著・日本評論社)は、東日本大震災の被害が過剰に見積もられ、それが間違っているにもかかわらず「政策的エビデンス(証拠)」としてその後もまかり通ってきたことを、緻密な経済的分析であらわしている。
わたしたちは所得税は震災復興増税をとられている。額にしたらわずかかもしれないし、この程度なら、被災地の方々のためになるならという気持ちになる。しかしそこに陥穽がある。
確かな検証も行われず、また報道されるように使い切れない予算、まったくカンケイないことに使われる予算があることがつまびらかになっ
ている。だから増税には反対だ。

 被害額、今後必要な額が正確に見積もり、その上でいまある国家予算をどう工面すればそちらに回せるのか、各省庁が努力して初めて、増税という話になるだろう。決まった予算には手をつけず、足りないから国民負担という発想はどう考えてもオカシイ。納税者を愚弄している。
だまされてはいけない。震災を口実に予算を増やそうとする思惑にもっと目を向けるべきだ。

「震災復興の・・・」の著者、齊藤誠氏は、本書の中でさまざま「間違った政策」を検証し、必要なのは「公共の精神」として、次のように述べている。

▷震災復興政策の決定に対するフレーミングが膨張した背景には、公共事業をめぐる利権を復活させようとする思惑があった。原発危機対応に対するフレーミングが矮小化された背景には、東電のステイクホルダーたちの間に原発事故に対する責任をできる限り免れようとする底意があった。私的な利害に抗する知的な実践こそが非常時における公的な秩序を形成することに資するのではないか。そうした知的な実践を重んじる精神を公的な精神と呼んでみたい。(P327)


2016年2月11日木曜日

書籍の“価値”について考える




岩波新書
●渡辺靖「<文化>を捉え直す 864円。
●小熊英二「生きて帰ってきた男 1080円
●原武史「『和天皇実録』を読む」780円

ここ半年の間に読んだ岩波新書は、ジャンルは違えどどれも価値ある「良書」だ。著書の方々のような明晰な頭脳はない私のような「読者」でも、一定の知識を得、物事を“深く”考えることに導いてくれる。ありていに言えば、どれも「読み応え」のある本だった。

 もっとも、この3人の著書は特別かもしれない。持続的にすばらしい著書を出している、日本の、いや「人類の」と言っても過言ではない「知識人」の人たちだからだ。
その著書が「新書」という形で読者に届けられている。しかし、どれも「安価」だ。
内容から言ったらこの値段では申し訳ないくらいだ。

「インターネットはタダ」「そこから何でも知識が得られる」と思っている安直な人々から見れば、書籍の価値など考えてもみないのかもしれない。この価格でも「納得」できないのかもしれない。
本(情報)の価値は人によってとらえ方は違う、一概に比較するのは意味がないと言わてしまえばそれまでだけど、世の中には一定の「共通価値」があるという前提で個人的主観として以下を論ずる。(論ずるというほどの内容でないけど)

良書(「良書」という言い方は、なんだか「PTAご推薦」のようなきな臭い感じがするのであまり使いたくないけど、価値ある本という意味で使っている。)は、広く読まれる“べき”であり、そのために安価な価格で提供される“べき”という考えに立つなら、この価格が妥当なのかもしれない。

だから、いくらなら妥当かということに意味はなく、出版社は販売部数の予想など市場の動向を見ながら、その妥当な価格を決めているのだろう。

一方、最近、タイトルに魅かれて図書館で借りて「見た」本が下の2つである。




















●小倉広「アドラーに学ぶ職場コミュニケーションの心理学」日経BP 1400円
●できる男は超小食   主婦の友社 1200円

広い意味での「人事」と「ダイエット」は興味分野だけど、とてもこの値段を出して買う気にはならない。図書館で順番を待って借りた。実際、貸し出しでは人気で、1か月以上待った。

▼「アドラーに学ぶ・・」
著者が傾倒するアドラー心理学に則した、いわゆるハウツー本。ところどころにアドラー心理学のエッセンスが記されているが、かれはアドラーの一次研究者ではなく、おそらく様々なアドラー解説本から内容を「引用」したにすぎないだろう。しかし巻末に「参考文献」は記されていなかった。
内容の大半は、どこかで彼が書いたかまたは別の人のよくある、ハウツーにすぎない。
ほとんど斜め読みで「理解」可能で、1時間もあれば読んで余りある。悪いけどこんな本をお金を出して買う「サラリーマン」はかわいそうだ。騙されているとも言える。図書館も公費を使って購入する書籍なんだろうか。借りといて文句を言うのもなんだけど。

▼「できる男は超小食・・・」この著者は他にも「生き残る男は細マッチョ」という同じような本を著している。内容は、要するに食べ過ぎるな、適度な運動が必要だという健康の基本を極論的に述べているだけだ。面白いことに彼の主張は「アドラーに学ぶ」に出てくる「認知バイアス」のお手本のようなところがある。つまり自分の考えに都合のいい事例を取り上げてつまみ食いして書いている。牛乳を最悪の食品として書いているのはその典型だ。食品には良い面と悪い面の両方があるだろう。その一方だけを取り上げて避難するという、詐欺師的論述にほかならない。

話が本題の「書籍の価値」ということから、いささかずれた。
しかしなぜ、内容の薄っぺらなトンデモ本が1200円や1400円で売られ、内容のある価値ある本が安価なのか、理解することが難しい。世の中それで経済が回っているのが不思議だ。

別に、価値ある本をもっと高くして売れと主張している訳ではない。これだけの内容のある本を安く手に入れられることは、読者として有り難いことだ。しかし著書の立場にたては、これだけの内容の本を書いたのだからそれなりの報酬を得られるようにすることが必要だろう。そのことが次の執筆につながっていく。

この項は書いていて、自分が何が言いたいのかだんだん分からなくなってきた。
ただ、上記の岩波新書の著書の方々にお礼を言いたかっただけかもしれない。
もう終わりにしよう。

追記:
自分でもスッキリしないのでもう少し満員の山手線の中で考えた。
市場価値としてどういう値段で売られていても、まあそれはいいとして、これを公立の図書館に入れるとなると別問題じゃないかなと思い到った。

内容のうすっぺらな本を「高値」で購入するのは、だれがどういう基準で選んでいるのか、当然問われてしかるべきた。税金という「公金」で運営されているのだから。
岩波新書、上の3冊分の値段で、下のトンデモ本は2冊。

図書館のありかたそのもに関わってくるけど、公立図書館としてはどちらを購入するかは、よく考えた方がいい。二者択一の問題ではないというだろうが、そうではない。選書のありかたそのもにつながる大事なことだ。と、思うけど。






















1080円 864円

2016年2月2日火曜日

軽減税率という愚 日経記事が新鮮だ

 消費税を10%にする時に軽減税率を導入するという、一部政党の強硬な主張に沿った政府・与党の決定は、「日本という国」が反知性主義で満ち溢れている、どうしようもないクニであることを証明した。この国で生きていくことが恥ずかしいくらいだ。しかし小市民にとっては逃げ出すこともできず、とどまるしかない。
1月27日 日経新聞より「引用」
財務省案の給付制度はまっとうだということを、かつてこのブログに書いたが、「それを証明する」と言ったらたいへんおこがましいけど、日経新聞に、まことに明快な記事が掲載されていた。(1月27日「経済教室」)。

 東大教授・加藤淳子氏の論は極めて明快で論理的だ。多くを語る必要はない。この記事をよく読むべきだ。軽減税率を強硬に主張した政党の方々と、その支援組織の婦人部の人たちは。

とは言うもののこういう方々には「認知バイアス」がかかっているから、記事が見えないんだと思うけど。

この記事がもう少し早い時期に出ていれば、もしかしたら状況は少しは変わっていたかもしれない。

2015年10月25日日曜日

コンプライアンスって何? 郷原信郎さんの著書から「法令遵守」を考える


郷原さんの書著は、いつも的を得ている。いろいろ勉強になる。
「法令遵守が社会をつぶす」を読んだのは、随分前だったけど、日頃から何となく思っていたことを見事に「明文化」して、はっきり、しかも論理的に解き明かしてくれた。

もう具体的内容は忘れてしまったけど、これこそ「溜飲を下げる」と言うのだろうか。
もちろん、郷原さんは法令を守らなくてよいと言っているのではない。単純な「規則さえ守ればよい」という考え方ではダメだと言っているのだ。と思う。

 中小企業に勤めて、危機管理について、改めて考えなければならなくなった。で、コーポ―レートガバナンスの本も役にたつが、それだけではなく、再び郷原さんの図書館で借りてみた。

「組織の思考が止まるとき」は、発行年月日を見ると、2011年2月となっている。東日本大震災が起こる少し前だ。
内容は法律の古典「日本人の『法意識』」にも通じるところがある。

以下、(印象に残った)内容を簡単に記す。

○多民族国家アメリカでは人種、文化、慣習が異なる多くの民族が一つの社会を形成し、社会としてのまとまりを維持するために「法令と契約による拘束」を中心にすることが不可欠だった。社会の中心に司法制度が位置づけられた。

○日本社会でも「法令遵守」という言葉は古くから社会内で定着してきた言葉だったが、それはアメリカ社会におけるComplianceという言葉とはかなり異なる意味を持っていた。

○民族の多様性がない日本では同質性から社会内における協調関係が維持され、暗黙の了解、合意が重要な機能を果たす社会。法令や契約に基づいて司法手段によって問題を解決するのは社会的逸脱者が犯罪を行った場合や感情的対立など特異な事象が発生した場合の最終的な手段であった。

○市民生活や経済活動は、社会内の不文律としての「掟」や失墜、「村八分」など社会内における制裁手段が用意されていた。

○ところが2000年以降、グローバリズムの名の下、日本社会のアメリカ化が進み、法令や契約を社会内の解決手段として最大限に使いこなすアメリカで「法を守ること」という意味で使われるComplianceが、「法令遵守」という訳語と結びつけて使われるようになった。

○日本社会における法令や司法の位置づけのアメリカとの違いが考慮されることなく、企業などの組織の取り組みとして重視されるようになり、「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしていくことになる。

○コンプライアンスの本来の意味は「他からの求めに応ずること、従うこと」である。これを組織と社会の関係に置き換えれば、コンプライアンスとは「社会の要請に応えること」


○「法令遵守」という言葉、法令を守ることの自己目的化が、様々な弊害をもたらしている。

○「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしている今の世の中では、どうしても(組織のピラミッドの)下の方に注意が向いてしまう。

○何々規則、何々基準、マニュアルを守ったか守らなかったをチェックされるから、それを守ろう、守ろうという方向に注意が注がれる。その結果、一番肝心な(ピラミッド)の頂点から注意が離れる。

○社会の要請にバランスよく答えていくには、組織の中で共通認識を持つことが必要。それによって組織のコラボレーションが可能になり、社会の要請に応えるパワーを生み出す。
そのプロセスこそ組織にとってのコンプライアンスに他ならない。


○フルセットコンプライアンスのすすめ
1:組織としてどういう社会の要請にバランス良く応えていくか方針を明確にする。
2:そういう方針が実現できるような組織体制を作る
3:作った組織が実際に機能し、実際に社会の要請に対して反応して動いていかなければならない。
▷トップとボトムのセンシティビリティー。自ら敏感に反応すること。縦のコラボレーション
▷横のコラボ
4:治療的コンプライアンス 不祥事対応
5:環境整備コンプライアンス

○戦後は長らく、日本の経済省庁は法令に基づかない行政指導によって経済活動、企業活動をコントロール。ほとんどが官僚の裁量で行われてきた。その時々の国家や社会の状況に応じて社会の要請に応えるための活動として行われてきた。
○それは単に法令にそのまま従っていればよいというものではなく、むしろ法令上明確に規定されているのではなく、行政上の裁量に委ねられている事項についてどのように対応するかが官公庁の判断として重要だった。
○ところが「法令遵守」の波が押し寄せ、官公庁組織も「頬憂い遵守」さえしておけばよいという考え方が幅を利かせている。しかしそのような「法令遵守」に凝り固まったコンプライアンスを行うことによって官公庁が本当の意味で社会の要請に応えていくことができないのは明らか。


不祥事事例の“研究”
○社保庁の不祥事
「年金改ざん」問題。
「標準報酬遡及訂正事案」
標準報酬月額を遡って引き下げる手続きへの批判。

 これは、それによって支払うべき保険料が遡って安くなるので保険料の滞納が帳消しになる一方、将来受け取る年金額も減少する。事業主自身の申告に基づいて行われた。
給与から天引きされる従業員の報酬月額が本人の知らないうちに事業主によって勝手に引き下げられたとしたら、それは事業主による保険料の着服・横領だが、事業主自身のものは実質的に被害はない。
 すべての法人事業者と従業員5人以上を常時雇用する個人事業主は厚生年金への加入が義務付けられている。この制度は経営基盤が安定していて大企業向けの制度。
中小零細企業は法人であっても実態は個人事業に近いものがある。事業主と家族が取締役という例も多い。支払困難になった事案について「遡及是正」を行うことは加入者間の負担の公平を確保しながら年金財政を維持していくにはやむを得ない措置。
 なぜなら事業者が倒産して多額の滞納が確定すると、保険料を支払わなかった事業主にも将来多額の年金が支給されることになるから。その資金は他の保険加入者が負担するという不合理が生じる。
これが「法令遵守」で考えると全く違う。
これが「年金改ざん」などと社会問題化した背景は、度重なる不祥事に対して厚労省や社保庁が「法令遵守」的対応ばかりを繰り返し、問題の本質を明らかにして国民の理解を求める努力をしてこなかったから。


○事故米問題の本質
残留農薬に汚染されたいわゆる「事故米」が工業用ののりなどの非食用として政府から売り渡されたあと、不正に食用として転売された事件。
問題の本質は2つ。
①健康被害  ②転売による利益を得る悪質は経済犯罪
①は結果的に人体への影響が懸念されるようなものではなかた。農水省の対応のまずさが批判を大きくした。


▷法令に納得していなければ「遵守」できない。

○「法令遵守」をはき違える放送事業者
放送法第4条の遵守だけでは問題は解決しない。
・放送によって権利侵害を受けた人が3か月以内に請求があった時は遅滞なく真実かどうか調査。判明した日から2人いないに訂正、取り消しを行う。
これは放送事業者が自浄能力を備えているという前提があって初めて機能する。
ところが、単に「法令遵守」といい観点からこの条文に違反しなければいいという考えをとると、放送法の趣旨とは全く相反す事態になる。まず調査を行うことが大事。

○「あるある大辞典」の納豆ダイエット
週刊朝日が海外専門家のコメントに疑問をもってインターネット・電子メールで確かめたら、その専門家のコメントはまったくねつ造だった。

○TBS「朝ズバ!」の不二家関連報道
元従業員の証言。顔なし証言で不二家バッシング。信頼回復対策会議という第三者機関の関連資料からねつ造が発覚。

○日テレ「バンキシャ」の岐阜県裏金問題
偽証証言の報道は、たまたま証言者が逮捕され取り調べで偽証証言を供述したから偶発的に発覚。放送事業者の自主的調査だけでは「報道の自由」「取材源の秘匿」に守られ事実は明らかにならなかった。

「あるある・・」の関西テレビが民放連を除名処分に、番組打ち切り
日本テレビは報道局次長が岐阜県庁を訪問・謝罪。社長が引責辞任。
TBSは最後まで誠実な対応をせず、無理な弁解を押し通す。
BPOも言い分をほぼ丸のみ。

社会的影響から言ったら、あるあるは小さい。
バンキシャも岐阜県庁が直ちに調査を行ったことから比較的影響は小さい。
朝ズバは、不二家に与えた影響は多大。不二家は山崎製パンの子会社になる。フランチャイズの2割が廃業。

コンプライアンスのあり方を考えるには
「法令遵守」から「社会的要請への適応」

*********************

この書著で言及されていた放送事業者の問題は、「メディアの劣化」などと、紋切型の言説で切って捨てるには、あまりにも根深い問題だ。

「法令遵守」の背景に、日本社会の“大衆性”の台頭があるのは、間違いないだろう。この問題でも日本は「反知性主義」的社会になりつつあるのだろう。残念だけど。

2015年10月11日日曜日

中小企業はたいへんだ。行政の“理不尽な”要請に応えることができるのか。

 従業員170足らずの小さなカイシャの総務をやっていると、これまで大組織のいち歯車だった時とは全く違う世界が見えてくる。

 そもそも知らいないことばかりだった。社員に給料ひとつ払うのも、社会保険の引き去り、所得税の源泉徴収、住民税の特別徴収、(実際には社員からはとらないが)児童手当負担額の計算など、実に複雑で、しかも細かい知識がないときちんと対応できない。だから多くの企業では給与計算そのものをアウトソーシングしているところもあるようだが、これを自前で行うとなると毎月たいへんだ。「給与奉行」などソフトも販売されているが、だからと言ってソフトに入れてしまえば、それで終わりという訳ではないだろう。最期は手計算で「検証」しなければ、正確な給与支払い額は出てこない。

 小企業といっても「大組織」の完全子会社で、その意味では倒産のリスクはなく、仕事もまあ受注できるようになっている。それでも結構、会社の維持に神経を使うのだから、ふつうの独立した中小企業であれば、その大変さは想像に難くない。これまで大組織の中にいる時は考えもしなかったことだけど、本当に経営者は緊張の連続だろう。

 社会は善良な経営者ほど苦労する構造になっている。従業員を路頭に迷わす訳にはいかないし、様々な「お上」の要請に真面目に応えるとなると、どんどん出費がかかる。

 障害者雇用の数値目標はいま中小企業まで拡大されている。達成しないと課徴金をとられる。また高齢者雇用の圧力も強い。労基署の“回し者”が訪問してきて、会社の定年を65歳にしろと迫る。そのくせ管理職を増やすと「名ばかり管理職」ではないだろうなと、疑いの目をして、きちんと残業代を払えと無言の圧力を見せる。それではと請負で仕事を出すと、「偽装請負」ではないかと疑われ、派遣労働者を入れると、こんどは3年たてば自動的に社員化しなければならず、それもなかなかできないので、せっかく仕事を覚えてくれた人をなくなく「切る」ことになる。下請け取引で「優越的地位の乱用」はないか、3条書面はちゃんと作っているのかなど、「法律に則った対応」を求められることも多い。

 社会が人口も増え成長期にあるのであれば、多くの企業は(放漫経営でない限り)、まあそこそこ発展し、お上の要請にも何とか応えることもできただろう。しかし現代はそうではない。人口が増えないということはパイが増えない。経済学の初歩で考えても、それはゼロサム社会(この書名の本もずいぶん前だったな)で、パイの奪い合いにほかならない。単純化して言い換えれば、栄える会社と衰退する会社が半々だということだ。

 前述の様々なお上の要請も、半分の会社はこたえられるが衰退する会社では難しいということだ。竹中平蔵や八代尚宏などリバタリアンにしてみれば、こうしたことは、衰退する企業は市場から退場し、労働力も発展する企業に移っていくだけのことと、切り捨てるかもしれない。確かにマクロ的に見れば、その通りかもしれない。しかし現実はそう簡単ではない。属人的に個々の人はそう簡単には異なる職種の仕事にすぐ移れる訳ではない。それも年令がいけばいくほど、新たなスキルを身に付けるのは難しくなり、労働力の移動はそう進まない。

 そこに社会のひずみが表れる。
だからと言って障害者雇用の課徴金をやめろとか、高齢者雇用をしなくていいとか、児童手当負担金はいいらないと言っているのではない。必要なのは行政が個々の会社の「本当の実情」(重複表現でけどまさに重ねてそういうこと)を見極める目を持ち、個々の企業ごとの対応ができるような仕組みを作ることだろう。言うは易し実現するのは難しいことかもしれないけど。

 それぞれのお役所はそれぞれ崇高な目的意識を持って、日々「行政指導」にあたっているのだろう。善意に考えればね。でも、小さなカイシャで日々その窓口になっていると、あまりにも要請が多すぎるように思えてならない。アンケートの類も結構多い。「今後の政策に生かすために・・・・、ご協力を・・・」という要請文がどれも添えられている。実際に行っているのはコンサル会社で、アンケートの提出先は、そのコンサルの下請け企業だ。

 どう表現してよいか分からないけど、経済学でいう「合成の誤謬」が行政の行うことでも顕著になってきていて、行政の要請に応えられる企業は「半分しかない」ことが分かってもらえていないのだろう。何しろお役所の方々は(よっぽどの無能者か犯罪者でない限り)、自分の組織が「なくなってしまうかもしれない」ということを実感として感じることはないからだ。

PS:マイナンバーが始まる。給与生活者にとっては、これはある意味で「朗報」のはずだ。なにしろ所得隠しを防ぐ結構有効な手段だから。法人番号も始まる。こうした施策を新に有効なものにするには、それによって社会の公平性が保たれるかだろう。




 

2015年9月3日木曜日

「無駄」とどう向き合うか。西成活裕さんの著書から考える。


世の中、突き詰めると、「『無駄』」をどうするか」のために生きているような気がする。
 カイシャでは経費節減、業務の効率化、経営資源の有効活用などという言い方で、日々「無駄」と闘うことが日常業務だ。ヘタすると、社会的価値を生み出すという企業本来の目的がどこかに消えて、無駄をなくすこと自体が目的になってしまった錯覚に陥りかねない。

 ともあれ、無駄はなくしたいというのが、私生活でもあることは確かだ。ムダなお金は使いたくない。時間のムダもいやだ。日々、無意識に「無駄」と闘っている。

 なぜか、2008年刊のこの、西成さんの書籍を買って読んだ。「渋滞学」のあの人だ。夏前に新潮選書の書籍目録が新宿紀伊国屋に置いてあって、それを家のソファーに寝転がって、何かいい本なないか“物色”している時に気に留めた1冊だったからだ。
 
 もちろん「無駄」ということに、ことのほか関心があり、「合理的」であることをこのやく愛する性格も作用した。
 一読して「う~ん」とうなってしまった。「学問」と言うには、有名な「渋滞学」の域に届いていなかった。前半は「学」になろうとして言葉の定義や論理を展開し、中盤は「トヨタ生産方式」の具体的な紹介。後半は西成さんの社会に対するエッセイだった。
 
 決して内容が「無駄」だった。読んで時間を「無駄」にした、ということではない。トヨタ生産方式をこれほど具体的に読んだことはなかったし、エッセイも「無駄」という視点から、エンデの「モモ」から、「成長の限界」まで、さまざま知識人の著書が簡潔に紹介されているという点では、「無駄」を再認識するきっかけにはなった。

 でも一番印象に残った、実用的な記述は、結局「高速道路で車間距離を40メートル以下にすると渋滞が起きる。だから車間距離を詰めないことが肝要だ。」ということだったかもしれない。

 西成さんは「直観力」についても述べていて、これはこれで参考になる話だけど、直接「無駄学」とは関係ないお話だった。

断わっておくが、この書籍をけなしているのではない。とにかく最後まで読んだ。でも「渋滞学」のように後世まで残るテキストではなかったということかな。無駄について改めて深く考えるきっかけにはなったけど。


2015年3月26日木曜日

「図書館はタダ」で、いいのだろうか


新潮45の2015年2月号の特集は
「『出版文化』こそ国の根幹である」だ。

この特集の中に、「図書館」批判の論文がいくつか出てくる。

●図書館の“錦の御旗”が出版社を潰す/石井昻

を興味深く読んだ。

図書館のありかたについて、再度、少し考えてみたい。
これまで「大田区区立図書館とのバトル」で少し触れてきたが、
石井氏の主張には、出版社の言い分として傾聴に値するものがる。

言っていることは、きわめて明瞭だ。
「本を1冊作るのには大変な労力が必要であり、それ自体は赤字。出版社はヒットした書籍の重版で、かろうじて持っている。
だから新刊本を貸し出すのはやめてほしい。せめて半年猶予がほしい」というものだ。

 形ある物を作り出すのは、どんなものでも、それなりの労力がいる。創作料理でも、テレビ番組でも、また家ひとつでもそうだろう。しかし私たちは、出来た結果しか普段は目にしないから、そこまでの道程でどんな人々の創意工夫と努力があったなどとはあまり想像できない。いや、「しない」のだ。

 それは、『消費社会』のメンタリティーそのものであろう。イイ物が安価にお金を出せば買える時代。それはそれで「良いこと」だが、そのためにわれわれはすべてのものが、安価、もしくは安易に買えるものだと錯覚してしまう。結婚相手だって、アプローチしたり、振られたり、さまざま努力して得なくても、お金を出して結婚斡旋会社に「ベストマッチ」を探してもらえば手に入れられる時代だ。
だから、多くの人が錯覚を持ってしまうのも止むを得ないかもしれない。

 ユニクロのヒートテックが開発されるまで、関係者のさまざまな探究心と苦労があったかもしれない。しかし大量に作って売ることで、そのコストは回収できるので、この会社は、作るのが大変だったんだヨなんて、あまり主張しない。着る方も1,000円以下で快適に着ている。

だから「良書」もそんなもんと思ってしまうのか。
でも、それでいいの?と石井氏は問いかけているのである。読みやすい新書ならば、2時間もあれば読み終わってしまう。皮肉なことに「良書」ほど、スラスラ読めるから読書時間が少なくて済む。
(反対にウッカリ「悪書」を読み始めると、なかなかページが進まないので時間がかかったりする。(まあそれも楽しみであるけれど)

石井氏の主張は、ひとつの書籍を生み出す苦労話ではない。モノを生み出す手間ヒマを素直に記してくれたと思う。読む方も、こうした制作者に創造力を働かせる必要があるだろう。

貧乏人は本を読むなと言っている訳ではない。ベストセラー本を大量に図書館が購入するのは、如何なものかと、疑問を呈しているのである。その主張に私は同意する。

でないと、出版社はどんどん「単に売れる本」ばかりに傾斜していってしまうだろう。それでなくても、新書はいささか粗製乱造気味なんだから。



一方図書館はいまどういう状況か。
 これは何度も記してきたが、住民への「サービス向上」である。多くの自治体で図書館業務が委託や指摘管理者に「下請け」されている中で、入館者数や貸し出し冊数は、「サービス」のひとつの指標となっているだろう。だから、多くの人に貸し出されるようベストセラーをいち早く多く取りそろえる。それが「指定管理者の生きる道」だ。

自治体経営者(首長)は、「お役所批判」を極力避けるように行動することが構造化されている。
「お役所は非効率」「税金の無駄遣い」との批判されるのを一番恐れる。次の選挙を考えると、「お役所仕事を一掃しました」と言いたい。
だから「民間並みのサービス」をすることが一番とされているのだろう。

私の知る限り、いま平日、日中の図書館は、リタイア人、ヒマを持て余す人の憩いの場だ。

よく利用する都心・港区のある図書館に、開館時間の9時を少し過ぎたろに行くと、新聞・雑誌コーナーに陣取っている大半の人は、いわゆる「お年寄り」。そして時々、近くに「棲む」ホームレスらしき人もいる。

住まいの近くの都内住宅地の某図書館も、似たようなものだ。
新聞コーナーはいつ同じ顔ぶれの人に占領されている。

行き場所のない人に夏は冷房、冬は暖房のよく効いた場所と読み物をダタで提供してくれる、こんないいところはない。

何もこれが悪いという言っているのではない。平日働いている者にも、もう少し使い勝手のいい図書館になってほしいということだ。せめて閉館時間をせめてもう少し遅くする。年末年始も、閲覧のみでいいから開館する。それが納税者へのサービスなんじゃないかな。

売れる本を買い漁って、出版社を苦しめるのが公立図書館の役割ではないだろうに。

図書館の役割を考えることは、出版社の社会的役割を考えることであり、それは大きくいえば、われわれの生きている社会の『文化』を考えることでもある。出版社を「向こう」(すなわち、“売れる”大衆的読み物ばかり出す組織)に追いやらないためにも、読者の側も、守っていく「心遣い」が必要だろう。
 もちろん出版社も私企業であり、石井氏も書いていたように「高給批判」もある中で、程度問題ということもあるが、ルールは確立されてもいい。

 再販制度の問題は古くて新しい課題だろうが、いまのところ、この制度が「自由な経済活動を著しく妨げている」問題とは思えない。性急な制度改革をする緊急度がテーマではないだろう。

ただ、「消費税の軽減税率の適用」には反対である。(新聞社が主張しているが、出版社が主張しているかどうかは知らないけど)。
これは税制全体の問題であり、税の軽減という形で「保護」するのは、まったくオカと違いだ。税はあくまで「公平」であるべきだ。(別項「消費税は最も公平な税制」で記したことを、再度考えてみたい)

※「出版文化」こそ国の根幹である、という通しタイトルにはちょっと違和感。別に国を守るために、出版文化があるわけではないだろう。国などという「再帰的」なものはどうでもいい。共通した言語で文化活動をしている「わたしの生きている“社会”」が大切なのだから。まあ、どうでもいいけど。




2014年5月24日土曜日

「木綿のハンカチーフ」で涙拭くのは、今や男性になった。

太田裕美の「木綿のハンカチーフ」。
ウィキペディアによると1976年に年間売り上げベスト4になった、彼女の最大のヒット曲だ。

恋人を置いて都会に出て行った「男子」が、“魅力的”な都会生活に次第に染まっていく。そして、ふるさとで待つ「彼女」に、最後は「僕は帰れない」と、決別していく。
彼女は「木枯らしのビル街、からだに気を付けてね」と2番で歌ったが、3番では、決別の結果、最後の願いが「涙拭く木綿のハンカチーフ下さい」と言って、歌は「完結」する。

3番まで聞かないと、タイトルの意味がわからないこの歌は、作曲:筒美京平、作詞:松本隆と出ている。歌謡曲として最強のコンビによる歌だった。

オイルショックから3年、ようやくどん底から抜け出しつつあった経済状況の76年当時、おそらく都市より地方の方がまだ不況の影響を受けていたのではないだろうか、若者男子の多くが都会に職を求めて出ていった現実のようすを、よく表した「名曲」だ。

もちろん農家の後継ぎの「嫁不足」はすでにあって、それはそれで農村社会では大きな問題だったが、ここでは置いておく。

朝日新聞より「引用」
「木綿・・」のヒットから40年。最近の新聞記事によると、これとはまったく逆の現象が起きていることが報道されている。
地方から若い女性がどんどん減っているという。それは子どもを産む世代が地方から減少していることを意味している。

5月1日のNHK「クローズアップ現代」では、「極点都市、新たな人口減少クライシス」として、地方都市では老齢人すら減少しているところがあり、そうした所では、女性の働き場所だった介護施設すら職場減少していることを指摘していた。

大都市への人の流れ、特に若い女性の進出は止まらず、それが地方の疲弊と少子化に一層拍車をかけているという分析には説得力があった。

都会で家庭を持って生活するのはハードルが高い。結果、未婚のままの女性も増えていく。(もちろん結婚できない男性も増える)。
これが少子化を亢進するサイクルのひとつになているのだろう。

緩慢な変化は気づきにくい。まして都会で、自分や家族を養うのに精一杯の精一杯の生活をしていると、社会の全体状況なんかには、気を回す余裕など、多くの人にとってはないだろう。

ある意味、社会の病理ともいえる、今日的状況は、ジワジワ進行するガン細胞のごとく、日本社会を蝕んでいる。それは単に、都会が豊かで地方は疲弊するといった単純な物言いで片付けられない問題だ。

ヒトはだれでも豊かになりたいと望んでいる。もちろんその「豊かさ」とは、一様ではなく、人によって価値観も実感も違うだろうが、少なくとも今より後退することを望んでいる人はいないだろう。
さまざまな意味での豊かさを維持するには、地方も地方なりの維持能力を備えている必要がある。

気が付いた時には涙ふくハンカチすらもなかったという世の中にはしたくない。次世代の人々がすこやかに暮らしていくためにも。



2013年11月18日月曜日

意欲ある農家も大変だ。太陽のマルシェ、月島の野菜市を体験する。

山形・真室川町の「仁五右衛門芋」(さといも)農家。
11月の第2土曜日に、東京、月島の公園で開かれている「太陽のマルシェ」に行った。
http://timealive.jp/#Marche

 これは三井不動産が主体になって毎月第2土・日に開催している「日本最大級のマルシェ」というのが謳い文句だ。要するに 農産物を主体として「市」である。

この日は、曇り空で少し肌寒い日だった。昼前後のマルシェはそれでも結構込み合っていた。
周辺には、高層マンションが結構たくさんあり(俗に言うウォーターフロントということか)、また月島は古くからの下町住民も住んでいるところだ。来ている人の格好を見ると、「わざわざ遠くから」というよりは、近隣の住民が足を運んでいるように思える。
(高知市の「日曜市」を思いだした)

websiteもある
農家や加工業者?など全国の農業関係者が自慢の品を売っていた。
甘いフルーツトマトや金時いも、旬の果物など多彩な商品は、どれもおいしそうで思わず買いたくなるのだが、遠方より来た身としては、帰りの荷物の重さを思い、試食はすれど購入は正直ためらってしまった。しかしもし近くだっり、車で来ていれば思わず買っていただろう。

http://www.morinoie.com/

TPPで日本の農業の先行きを心配する人々がいる。ひとつは農協などの「既得権」勢力だろうが、そうではない、何ら利害関係がなくても、「自由化」が進むことに懐疑的な人々もいる。日本農業はどうなるのか、それは「やってみなければ分からない」としか言いようがない。

少なくとも、この太陽のマルシェに出店していた農家の方々は、「自由化」に対して反対か賛成かは、分からないが、農業に意欲を持って取り組もうとしていることは確かなのではないか。

自らが栽培した農作物を自信を持って、薦めていたように思う。
もちろん、ショーバイに慣れていない人たちもいて、その「薦め方」は一様ではないけれど。

それにしても、農業を継いでいくのは、タイヘンなことだと思う。
ブランド化、産地間競争、知名度アップ、販路の確保、マスコミで取り上げられるかどうか、有名レストランで使ってもらえるか、等々、ちょっと考えただけでの課題はたくさんある。

実際、マルシェを回ってみて、フルーツトマト(と言う名でもないところも含め)を扱っている屋台は4つか5つあった。金時いもも何軒かあった。

「皆さん頑張れ」としか、いち消費者としては言えないが、それでも消費者として意欲ある農家を支えていこうと思う。






結構な賑わいだった

流行りのドライフルーツ




どんよりした低い雲で少し寒かった

2013年11月12日火曜日

「食材“偽装”“事件”」を笑う。そんなにタイヘンな事件なのか?

 プリンスホテルから端を発し、阪神阪急ホテルズに飛び火し、そしてすべての(と言っていいほどほとんど)のホテルやデパートまで広がった、いわゆる「食材偽装事件」。世間はなぜそれほど大騒ぎするのか、私にはよく理解できなかった。

 なにしろ生まれて半世紀、「ブランド食材」を目当てに、高級ホテルやデパートなどで食事をした経験がいっさいないし、基本的に「高いものは食べない」ので、偽装が発覚したことがどんなに「悔しい」ことなのか、さっぱりわからない。

アサヒのwebsiteより
偽装(メディアによっては虚偽表示などとトーンを落としているところもある)が、良いことだとは思わない。(あたりまえか)。でも昔からそんなのいくらでもあったではないか。

 食べる方も、それをお約束で食べていたのではないか。私はデパートやホテルのステークホルダーでも回し者でもない。彼らを擁護する気はサラサラないけれど、大騒ぎしている人々には、へきへきする。

 おそらく「高級」イメージのある場所での事件だったから、大衆は怒ったのだろうか。あるテレビニュースでは、「一生に一度あるかなかいの晴れの席で、大金を払って食べた高級料理がウソだったなんて許せない」という「消費者」の感想を紹介していた。

 他の番組では中年の女性アナウンサーが「消費者は怒っています」と、特集の前触れで唸っていた。きっと彼女は、頻繁に「高級食材」の料理をレストランで食べているのだろうと、思ってしまった。

みんなで誤れば怖くない
景品表示法では、グレーゾーンが多くて罪には問えないと、いろいろなメディアで伝えていて、だから「道義的責任」を声高に言うメディアすらもあった。

 ただ、新聞もテレビも次第にトーンが落ちてきている。さほど問題なことではないと認識しだしたためか、あまりに「告白」が多くて、ニュースバリューがなくなったためか、それとも、デパートやホテルレストランは、東京など都市部の新聞の折り込み広告では貴重な収入源になっているから、あまり騒げないことに気付いたのか、それらがミックスされた結果なのかどうか。

とりあえずお客様に頭を下げるポーズ
いずれにしても、大騒ぎする消費者に、またまた日本人の「大衆的振る舞い」を感じてしまった。それまで有り難がたがっていた物に何かあると、「けしからん」と180度態度を豹変させて大騒ぎして、事態を一層混乱に陥れるのが大衆だ。

 ちょっと卑近な例かもしれないが、(これは以前にも書いたが)、福島の有機栽培農家の食材を購入していた消費者が、原発事故があったという理由で、放射能の影響がない農家の食材までも「拒否」して引いてったのと構図は同じだ。いわゆる「風評被害」といういうのは、まさに「大衆的振る舞いによる被害」だから、当然と言えば当然なのだろう。

ちょっと話がそれました。

 さて、食材偽装をなくすにはどうしたらいいのか。法律を厳しくするのか。いやそうではないだろう。もちろん最低限守るべきことは決めなければならないが、あまりに細かく「決まり事」を作ると、それは社会的コストが上がるだけでなく、消費者にとっても、それこそ味気ない食生活しかないだろう。

AERA 11.19号より引用
ブランド食材をありがたがる風潮そのものが、今回の「事件」を生んだ背景のひとつだ。言ってみれば裸の王様だった大衆が変わること以外に、表面だけ「お・も・て・な・し」の文化はなくならないだろう。

 ホテルやレストランは寡占市場ではない。選択肢が著しく多い業界だ。あまりに「高級」をありがたがらない「心掛け」があれば、あとは自然淘汰されるだろう。
評判の店は繁盛するし、おいしくない店はやがてなくなる。これは当たり前のことだ。

※ただしこの業界にも例外がある。大都市のターミナル駅など好立地で、しかも一見さんの客が多いところは、マズくても生き伸びている。こうした店を見分けて避けるのは、結構難しいかも。

 その意味では高級ホテルや高級デパートの「食堂」は、それだけで好立地であり、ブランドにあぐらをかきやすかったという背景があるのも確かだろう。

 AERA11月19日号の記事はそれなりに面白かったが、一番、同意したのは、巻末のコラム「ぐっちーさんのここだけの話し」だった。
「引用」しておこう。



一応謝ればヨシ
「オレのせいじゃねーよ」と心の中で叫んでいる

2011年11月10日木曜日

財務省は悪ものなのか

経済政策は、どうしてこうも両極端の意見が対立するものなのか。
いわゆる「大きな政府」「小さな政府」論のような大きな“物語”でなく、マクロ政策においてである。

 ある学者は国債の発行をやめて財政再建しないと国が破たんすると言うが、正反対に景気対策にはじゃぶじゃぶ公共事業を行う必要があり、日本の中でお金が回っているので借金の心配はいらないという言う学者もいる。

 デフレは悪だという言説に対して、デフレは悪くないという著名学者もいる。成長がなければ経済はへこむという意見と、もう成長は見込めないのだから定常型社会を目指すべきだという人もいる。ゼロ金利はいけないという人ともっと量的緩和をしろという意見もある。

 こんなにも違う意見が乱立する経済、おそらく世間の人々(大衆)は本当に理解しているのだろうか。月例になった新聞やメディアの「世論」調査(「輿論」ではないところが悲しい)で、政府に望むことというと、必ず「景気対策」という項目がある。なんと無意味な質問なことだろう。
景気対策をどう行うかが問題なのに、「景気対策」という答えしか用意していない調査なんて一般大衆をバカにしているか、さもなくばこういう設問をするメディア各社が愚かなのかどちらかだろうが。

 ともかく、経済政策におそらく「正しい道」なんてない。あるのは何を選択するかという「決断」だけだろう。しかしその決断はしばしば大衆迎合的、もっと端的に言えば人気取りの政策が決断されてきた。故人を責めてもしかたないが、小渕は「世界一の借金王」とうそぶいて国債をがばがば発行した。それが景気にどれだけの効果があったのかは、ほとんど検証されていないのではないか。(検証した論文があれば教えてほしい。是非読みたい。)

 政策がどうしても大衆迎合的になるのはどの政党でも同じかもしれないが、国の天文学的な国債発行残高をどうするかは、真剣に考えられていない。政治の尻ぬぐいは「あとは官僚におまかせ」といったとこだろう。

  財務省は政治家が人気維持のために「決断」した国債発行を、この国を今後も維持するためになんとかしようと必死になっている、と思う。その表意が細川内閣の「国民福祉税」構想などの仕掛だったのではないか。

 私はなにも財務省の応援団でもシンパでもない。が、冷静に見ると総体として財務省(旧大蔵省)は、少なくともバブル崩壊以後は必至になっていると。残念なのはそういう役所にあって、一部の愚かな高級官僚が不祥事をおこしたことだろう。

 権力(のようなもの)を攻めたてていれば気の済む大衆と、そうした大衆を読者とする雑誌などのイエロージャナリズムが、ここぞとばかりに財務省をスケープゴートにして、面白がった。財務省陰陰謀説などという言葉も、不祥事以後よく聞くようになった。

 で、消費税10%問題である。われわれの子・孫にも日本が持続していくためには、最低限必要な税だろう。だれだって増税は困るが避けることができない道だ。

 それでも財務省を陰謀の悪人に仕立てて喜んでいるこの国の人々は、10%の道をふさぐのだろうな。悲しい。