2014年10月18日土曜日

大田区立図書館とのバトルの記①。 「公共物」について考える

大田区立図書館でのできごとから考える。

洗足池のほとりに立つ大田区立の図書館
先日(と言っても3か月も前になるけど)、大田区立のある図書館で新書を借りた。
(「こどもの貧困」(岩波新書))。初めから借りることを決めていたので、書庫から取り出しそのまま借りて帰って家で開いてみたら、なんと書き込みがあるではないか。鉛筆書きだったが、いたるところに線が引いてある。

書籍の内容からいって、おそらくボンクラ学生かなんかが、やっつけでリポートをまとめるのに借りて「引用」(要するにアナログ的コピペ)をするため、線を引いたのだろう。前半3分の1位まで、“要所”にマーキングされていた。

本の損傷としてはたいした部類にならないが、かねがね思っていた図書館運営に対しての不信と不満が湧いてきた。

 まず窓口に行き、なぜ「破損」した書籍を書庫に置いてあるのか。、いつ誰に貸し出されたのか、返却時に確認したのか等々質した。
しかし、「書庫から自分で出して書き込まれると分からない」と言うだけだ。

 あえて執拗に質したのは訳がある。
 書籍や雑誌、CDを借りると、染みていたり破損していたり、またCDなどは歌詞カードがないものも多い。もちろん一義的には利用者の方に問題があるが、問題ある利用者に対して「啓蒙」して税金で賄われている公共財を守るのが、管理・運営する人の役目だろう。それがきちんとなされていない事実に不信感があったからだ。

 この図書館に限らず、いま公共の窓口は、「お客様」の不満が出ないように、迅速な対応を心掛けている(ようだ)。 「お待たせしました」「少々お待ちください」「ありがとうございます」等、時にはバカ丁寧な対応が、フツーだ。
この図書館も例外ではない、利用者を「お客様」と呼び、そのお客様を窓口でお待たせしない対応には心血を注いでいるよに見える。しかし反面、返却された図書をきちんと確かめるという必要な作業を怠っていると感じていた。

これでは、借り手に、公共物を丁寧に扱おうというインセンティブが働かない。
平たく言えば、「どうせ見ていないんだから、少々汚しても、敗れても平気」という気分になるというものだ。大衆は。

この図書館の運営を担っているのは○(株)TRC・図書館流通センターだ。
http://www.trc.co.jp/

たまたま同じ指定管理者が運営を行っている港区のさる図書館では、扱いが違っていた。返却時には必ず、ページをめくり破損等がないか確かめていた。また汚れが見つかった場合、利用者に「指摘」をし、注意を促していた。
小さなことだがこうした積み重ねが、利用者の意識を変えさせる。それが大田区のこの図書館ではなされていなかった。
つまり、会社に問題があるというより、個々の図書館の運営方針に問題があると感じたのだった。

ここで朴念仁ジジイのしつこさを発揮することになった。
窓口に「責任者」を呼んでもらい、破損した図書を放置していることに対して文書で回答するようにお願いした。

数週間待って得た回答は、お粗末なものだった。突き返してしまったのでその時の文書は正確には覚えていないが、よくある謝罪文と「適正な運営に努めてまいります」というお粗末なものだった。

そこで次の手に出た。区役所に行き、条例に基づいた情報公開請求で、指定管理者との業務委託契約書、大田区内での図書等の破損と弁済状況の文書を求めた。
日程を合わせて、公開文書を閲覧できたのは1か月後くらいだった。
その結果、さまざまなことが分かってきた。

(長くなりそうなので、以下別項で、)








2014年10月11日土曜日

剱&槍 息子と登頂の記 ~56歳の記録として~ ①剱編

①台風一過を狙った計画

今年の夏の異常気象では、観光地は大きな打撃を受けただろう。それは山小屋とて例外ではない。7月下旬から8月一杯の1か月半、週末が好天に恵まれたのはなかったかもしれない。槍岳山荘のブログに8月本当に晴れたのは4日しかないと、書いてあった(と記憶する)

7月の海の日に目指した剣岳は去年、今年と2年続けて悪天で断念。去年は剣沢小屋まで行ったが登頂を目指す日が大雨で引き返す。今年は、立山への長野県側からの玄関口、扇沢まで行きながら室堂のライブカメラを見て、やめた。ここから往復1万円の交通費を使う気になれなかった。
大町駅に車をとめて昼飯にそばをたべて、少し仮眠をとって、日帰りで東京に退散した。

あきらめの悪い「老人」としては次のチャンスをねらっていたが、お盆前後の夏休み時期には、台風11号が日本を通過するところだった。
チャンスは台風一過しかないと確信し、山梨に大雨洪水警報が出ている中、中央高速に車を走らせ、大町駅前の旅館に、家族3人宿をとった。
素泊まりひとり4200円。小雨が続くなか、それでもわれわれと同様の山を目指すグループ、家族連れが一組づついた。
夕食は、駅前通りのカフェ風の店でとる。こんな(と、言っては失礼だが)ところに珍しい店だ。だが、この店以外商店街はさびれていた。目立った店といえば、駅前のタクシー会社、地元の学校の制服を取り扱う洋品店、ここの「名物」カツライスを売り物にする居酒屋風食堂、あとは郵便局と電力会社の支店くらいしかない。そば屋もあるが、お盆だと言うのになんと閉まっていた。
さびしい大町駅前。北アルプスの登山基地でもある町だが、やはり過疎化の波の例外ではないのだろう。
さて、
翌日、まだ少し雨雲が残るなか、バイパス沿いのコンビニで「朝食」を済ませて、扇沢まで車を走らせ立山を目指す。ねらいどおり台風は日本海に抜けていたが、中部地方には前線がかかり不安定な天気だった。
8時台のトロリーバスに乗り黒部ダムへ、薄日ものぞき、まだこの辺はまずまずの天気だ。私は去年息子と来たが、妻にとっては夫婦2人で行ったとき以来だから25年ぶりの黒部だ。ケーブルカーを一台遅らせて、ダムの展望台でしばし写真をとったら景色を眺める。そしてダムを渡り立山を目指す。


②室堂~剱山荘

室堂についたのは11時前。立山は最後のトロリーバスで着くと、建物の中のため、意外にも外の様子が分かりにくい。とりあえず山支度をしてから、恒例(と言っても去年だけだが)の立ち食いの立山ソバを2つ頼み3人で分ける。
きょうは、われわれ(私と息子)は剣山荘泊まり。妻はみくりが池山荘までだ。少し時間に余裕がるので、ホテル立山のコーヒーショップに入ることにした。
ここからは外がよく見える。濃い霧と小雨模様だ。周囲の客は一般の観光客ばかり(正確には少しは登山姿の人もいた)の中、人目もはばからず、順番にトイレを済ませ雨具を着込みスパッツをつけて山の準備を済ませ12時過ぎに歩きだす。

雨はさほどでもないが、意外と風が強い、視界もよくない。一番緊張していたのは、剱を目指す私の息子ではなく、妻だったかもしれない。なにしろ3月に八方尾根でのスキーで膝を痛め、医者から長くかかりますと言われていたのだから。まともに歩けるようになったのは2週間後。加齢とともに治るには時間がかかる。みくりが池山荘までわずか20~30分とはいえ、不安があったに違いない。
ともかくも3人楽しく山荘までついた。ここで妻とは分か、雷鳥沢を経由し剣山荘を目指した。

前剱の手前の最初のクサリ場 結構こわい所
去年来たのは7月中旬、そのときに比べれば残雪の量は格段に違う。去年は雷鳥沢に降りる石段も一部雪の上を歩いたが、さすがにお盆の時期、快調に下ってゆく。しかし雨具をつけての山行は本当に憂鬱だ。汗の蒸気を外に放出するゴアテックスの有り難さを感じながら、別山乗越への登り返しを行く。
ここも雪渓が残るのはごく一部で、アイゼンを着けるほどでもない。(実際今回は4本爪すら持っていかなかった)。
剱御前小屋のある別山乗越は非常に風が強かった。小屋の中でしばし休憩とる。
ここからは基本的に下りだ。
剣山荘に着いたのは午後3時過ぎだったと思う。入り口を入ってすぐ脇にある乾燥室はすでに多くの雨具でいっぱいだった。なんとかスペースを確保して雨具を干す。もし明日雨模様だったら雨具を来て出発しなければならない。濡れた雨具を朝から着るのは、なんとも気分が悪い。雨具を乾かすのは大事な作業だ。
剣山荘は快適だ。去年泊まった剣沢小屋もそうだが、わりと最近建て替えられている。2軒あるから競争原理が働くのだろう、2つの小屋に泊まってみてそのことを強く感じた。

山小屋につくとシャツは湿気でかなり濡れていた。剣山荘は半分くらいしか泊まっていなかった。
昔(もう20年以上も前)の山小屋のイメージからすると、ずいぶんゆったりしていて、快適なスペースだ。フトンはミズノのサーモ何とかという軽くて暖かい、清潔なヤツ。ベッドの畳も合成のもので快適だ。こんなにも山小屋は進化していたのだ。

思えば、最初に泊まった山小屋は鳥海山の山頂小屋だった。結婚前だから1985年のお盆の頃だっと。ものすごく混雑し、毛布も2~3人で1枚という感じだった。

さて、快適な剱山荘で、シャワーも浴びてスッキリし、夕食にも満足した。食後、ペットボトルに入れて持参したワインを飲みながら衛星放送のデータ放送で翌日の天気を息子とにらむ。

なんとか天気は持ちそうだ。翌朝の朝食は5時半。6時出発を目指して床に着く。


③登頂当日

山小屋では早寝はできるが、その分あまりにも早く目が覚めてしまう。9時前に就寝して、目が覚めて時計を見たらまだ12時前だ。それからウトウトしながら、たぶんまた寝たり目覚めたりしたのだろう。4時前には目と身体は、もう起きる準備が整っていた。息子は隣でまだ寝ている。こちらが起き出したに目覚めて時計を見て、なんだ4時じゃねえかという風にまた寝た。

ゴソゴソやっているのに観念したのか5時前には起き出した。着替えて準備をして水を飲みトイレに行った。外に出てみると剱岳がよく見える。「よし、やった」と心で叫ぶ。早い人は早い。(当たり前か)。まだ薄暗い中、登り始める人々も多い。カニのタテバイで渋滞に巻き込まれるのを避けたいのだろう。天候が急変するリスクもある。早く出るにこしたことはない。

この時は、朝飯弁当にすればよかったと、少し後悔した。でも焦りも禁物だ。5時半の朝食前になるべく準備を整え、食堂に並んでいち早く、朝ご飯を食べる。やはり暖かいゴハンと味噌汁はありがたい。味噌汁をお代わりしたくなった。

6時丁度だったと思う。私と息子は剱に向け出発した。余計な荷物は小屋にデポし、なるべく身軽になった。ヘルメットをかぶりハーネスをつけて歩き出した。

快調な登り、前剱までは何の問題もなく到着。写真を撮る余裕もある。
途中、ちょっとコワイところもあるが、それでも順調に前へ進む。息子との剱は2年越し、都合3度目のトライだ。内心、胸が躍る。私にとっては20年ぶりの剱でもある。

カニのたてバイの最後のところ
カニのタテバイは意外とあっけなかった。「ほぼ垂直な岩」というような表現をしているガイドブックもあるが、おそらく70~80度くらいではないか。クサリの4,5ピッチ分、20メートルくらいはあるが、ハーネスにシュリンゲにカラビナをつけた確保用のロープはダブルで用意して、万が一にも転落しないようにした。その安心感があるからこそ、足がすくむことなくスムーズ登れる。

渋滞は4,5人待ちだった。縦に列をなして登るので、躊躇している暇はない。ある意味で無心でひたすら上に進む。先に登らせた息子が写真をとってくれた。

もちろん転落したら間違いなく大けがをする岩場である。しかし意外とここで事故は起きないないようだ。適度な緊張は人を注意深くさせるのだ。事故が起きるのは油断した時、気の緩みが生じたときだろう。それは下りで多い。

山頂に着いたのは8時すぎ。案外ひろくすでに30人以上の人たちがいた。ガイドに引率されたオバさんのグループもいてにぎやかだった。時間からするとこの人たちも別山尾根を来たのだろう。
オバさんたちは、「怖いもの知らずな」人たちだ。すごい。

山頂でしばし写真をとったりして喜んでいると、一転にわかに黒い雲がかかり出し、ポツポツ雨が降ってきた。
ヤバいと山頂にいた誰もが思ったに違いない。岩は濡れるとすべる。雨の中を下るのはリスクが格段に増す。

下山路は「カニのヨコバイ」だ。ここは最初の一歩が難しい。特に上背のない者にとっては、見えないところで足場を探す。息子はちょっと怖がったがなんとか取りつく。ポツポツ大粒の雨が降り始め、すこしクサリが滑る。息子はアンザイレンのカラビナをかけながら慎重にトラバースする。
後ろが詰まりはじめているので、少しあせるが、もちろんここでせかしたりはしない。足場はしっかりしているので、一度横にステップを刻むコツがわかれば、あとは問題ない。

わたしはかねがね息子に行ってきた。万が一の時、片手で自重を支える筋力と握力がないとまずいぞ、と。滑った時、一瞬でも片手で身体をささえることができれば、かなりの確率で落下を逃れることができる。そのための筋トレを私はこのトシになっても続けているのだ。
話しは横道のそれるが、年齢を重ねると筋肉を傷めることが多くなる。急激に力をいれると筋繊維が切れるのか、痛みがかなり長い期間続く。去年、久しぶりにバタフライをやった時、気を付けていたのだが、右の二の腕の筋肉を傷めてしまった。痛みが完全にとれるまで8か月近くかかった。トホホというほかない。

カニのヨコバイを過ぎると、まもなくハシゴがある。7から8mで晴れていればまあなんでもないところだ。しかし突風が吹き始め、雨も次第に強くなる中、急激に温度低下で手もかじかんできた。手袋は濡れてきている。最初に私がおりて息子が続く。鉄製の濡れたハシゴはすべる。手にもちからが入りにくい。おまけにハシゴの上に立つと、ちょうど風の通り道なのだろうか、身体が持っていかれそうになる。息子はかなり怖がった。下から「サポートするから慎重に降りろ」と促す。
あとから振り返ると、実はここが一番しんどかったかもしれない。急激な天候の変化は怖い。
トイレにも行きたくなった。

剱の「不便」なところは、避難できるところが下山路の小さなトイレ小屋しかないことだ。なんとかこの小屋の脇までたどりつく頃には雨はますます強くなってきた。かじかんだ手にはうまく力が入らずやっとの思いで雨具を身に付ける。スパッツをつけるのに手間取った。かがみ込んでチャックを閉めるのはけっこうたいへんだ。

山頂です。このあと天気が急変した。
オシッコをしたいのを我慢しながら、再び歩きだす。この後は、途中鎖場はあるものの、さして危険なところはない。ひたすら先を急ぐ。着ていた服はだいぶ濡れていたので、雨具を着ると蒸れて気持ちがわるい。しかしゴアテックスはありがたい。身体が暖かくなればしだいに蒸気は抜けてくれる。

前剱、一服剱と、戻りながら剱山荘を目指した。雨は剱岳の周辺だけだったのだろうか、遠ざかるにつれ弱くなり、いつしかやんでいた。あの強風と雨はなんだったのかと思うほど落差の大きい天気だ。

前剱あたりだったろうか、これから山頂を目指すであろう親子連れとすれ違った。父親が小さなナップザックで、中学生くらいの子どもは何も待っていなかった。雨具を持っているのだろうか?あまりにも無防備な感じでちょっと驚いた。剱山頂までの往復は、順調に行けばさほど時間を要するところでもない。運動靴でビニール雨合羽でも、何とかなるかもしれない。しかしそういう「心構え」で登山をしていいのだろうか。最悪の事態を想定した構えで行くのが山ではないのか。そんなことを考えた。息子も「あればヤバい」と言い、帰ったあと「絶対遭難した」と言ってネットニュースで探していた。

剱山荘に帰ってきたのはちょうど11時少し前。トイレに飛び込んで、膀胱にたまった水分を吐き出す。気持ちいいい。結局持って行った弁当は小屋で食べた。ごはんはものすごく冷たくなっていたが、いつものことながらひとつ山仕事を終えたあとの食事は格別だ。

小一時間小屋で休み、室堂に向かった。
劔岳にかかる不気味な黒い笠雲 これが超局地的に雨を降らせたのかも
90年に登った時以来、24年ぶりの剣岳は、こうした無事終えた。息子とこうして登山する自分をあのころは想像すらできなかった。もちろん子どもはいなかったし、「四半世紀」後の自分を考える想像力すらなかった。息子とは2年越しの剱岳。終わってみれば「フツーの登山」かもしれないが、私にとっては、55年の人生の中で大きな山行だった。メデタシメデタシ。

余話。このあと室堂まで一気に戻った。さすがに雷鳥沢から最後の登り返しの階段はへばった。それでも3時前には室堂にたどり着き、みくりが池山荘でソフトクリームを食べ、ターミナルで、一ノ越までハイキングしていた妻と合流して、休むまもなくトロリーバスの列に並んだ。

扇沢についたのは5時ごろ。この日の宿は決まっていない。それから電話をかけまくって八方のスキーの時の定宿の民宿に転がりこんだのだった。






2014年10月2日木曜日

「八月の六日間」。久しぶりに読んだ小説。十分想像力を味わった。


「小説」を読まなくなってずいぶん経つ。
昔は、夢中で読んだ時期もあった。
村上春樹は支持するが、小説は初期のものを読んだだけで、あとはエッセイばかり読んでいる。

「作りモノ」に対して懐疑がある訳ではない。単に、「作りモノ」を読んだり味わったりする気が起きないだけだ。

それよりも、教養書(と言っても新書やペーパーバックが主ですけど)を読むことの方が、面白いし、充実するからだ。

村上春樹はエッセイの中で、なぜ小説を書くかということについて、オウム信者になりかけた人のことを取り上げていた。村上の小説を読んで、踏みとどまったエピソードだった。
だから「ボクは小説を書き続ける」という趣旨を記していたと思う。

その意味から言うと、齢を重ね50代の半ばになった今の自分には、「迷い」があまりなく、小説の力を借りなくても、なんとか生きているということなのだろう。

と、前置きが長くなったが、新聞の書評につられて久しぶりに購入して読んだ「八月の六日間」は、とても面白く、夢中で字を追った。

山行の工程の中に日常を織り込ませて、40歳になろうという(小説の中でなる)主人公の心理を描いている。行ったことのある山の風景を思い浮かべながら、そして、そこですれ違った主人公と同じような年恰好の女性を思い浮かべて、読んだ。

「小説」という自分にとっては昔懐かしい味を、思いがけず食したような気分だ。

山歩きが好きな人、または山に行ってみたいと思っている人には非常におすすめの一冊だ。

ちなみに購入した書籍は6刷だった。売れているのだろう。