2015年3月30日月曜日

ランニング「向かい風」考。iPS細胞山中教授から学ぶ。

ネットより「引用」
今年の京都マラソンをサブ4で完走した、iPS細胞の山中伸哉教授が、BS1の「ランスマ」という番組でインタビューで興味深いいことを言っていた。(もう1か月も前の放送だけど)

いつも鴨川を走ってトレーニングしている山中教授は、
・河川敷を往復すると行きか帰りのどちらかが必ず向かい風になる。
・追い風の時は、それが追い風とは分からない。自分の調子がいい、快適に走れると思ってしまう
・向かい風はすぐ身体に感じる。(それは皆そうだけと)。風に抗って走るのはたいへん。だけど帰りは追い風になる。

というような主旨で言っていた。

追い風の時は、それが追い風とは気が付かない。または気が付きにくいということを「自覚」するのは、簡単なようでなかなか難しい。
山中教授は、自らの研究生活を重ね合せて言っていたのだろう。

 ちょっとは走る者として、大事なことに示唆を与えてくれたと思う。わが練習場・多摩川でも、もちろん追い風もあれば向かい風もある。
 山中さんが言うとおり、向かい風にぶち当たった時に、その風を恨みながらハアハア言いながら走るが、追い風は「ああ、追い風を受けて快適だ」などとは思わない。調子よく進むな、くらいにしか思わないのだ。そういうものなのだ。ランニングは。


 高度成長期、多くの企業が成長・発展しカイシャを大きくした。まだ、この時期やバブル期には、カネが余った公的機関がハコ物を多く建てた。しかしそれが「追い風」の中だから出来たとは、当時の当事者たちは気が付かなかった。

 ダイエーは、拡大路線を取り続けて結局破綻した。堤義明の西武・国土計画Gも、リゾート開発にまい進し、結局立ち行かなくなった。堤清二のセゾングループもそうだろう。

 彼らはみな、当時、日本を代表する「経営者」としてメディアに持ち上げられた。しかし終わってみれば、それは単に「追い風」に「押されて」スピードを上げていたにすぎなかったのだ。

逆風になった時、持ちこたえる体力はなかったし、追い風に支えられた「過去の成功体験」が忘れられず、逆風に対応する術を持っていなかったのだ。

大塚家具の「お家騒動」の報道で、創業者・父親のおバカぶりを見ていても同様だ。

人生はいつも「逆風」だと思って前に進まないと、STAP細胞のようなことになるし、自ら築いたものを失うことになる。
結構、大きな教訓だ。ランニングでも研究でも経営でも、フツーの仕事でも同じことだ。つい忘れてしまうから、あえて書くことで記憶にとどめておいた。それだけです。

やっぱり山中さんは、すごい人なのだ。己を知っているし、己が置かれている状況を常に正確に、そして誠実に受け止めて前に進めることができる人なのだ。

サブ4を目指そう。己をの限界を知るために。



2015年3月26日木曜日

「図書館はタダ」で、いいのだろうか


新潮45の2015年2月号の特集は
「『出版文化』こそ国の根幹である」だ。

この特集の中に、「図書館」批判の論文がいくつか出てくる。

●図書館の“錦の御旗”が出版社を潰す/石井昻

を興味深く読んだ。

図書館のありかたについて、再度、少し考えてみたい。
これまで「大田区区立図書館とのバトル」で少し触れてきたが、
石井氏の主張には、出版社の言い分として傾聴に値するものがる。

言っていることは、きわめて明瞭だ。
「本を1冊作るのには大変な労力が必要であり、それ自体は赤字。出版社はヒットした書籍の重版で、かろうじて持っている。
だから新刊本を貸し出すのはやめてほしい。せめて半年猶予がほしい」というものだ。

 形ある物を作り出すのは、どんなものでも、それなりの労力がいる。創作料理でも、テレビ番組でも、また家ひとつでもそうだろう。しかし私たちは、出来た結果しか普段は目にしないから、そこまでの道程でどんな人々の創意工夫と努力があったなどとはあまり想像できない。いや、「しない」のだ。

 それは、『消費社会』のメンタリティーそのものであろう。イイ物が安価にお金を出せば買える時代。それはそれで「良いこと」だが、そのためにわれわれはすべてのものが、安価、もしくは安易に買えるものだと錯覚してしまう。結婚相手だって、アプローチしたり、振られたり、さまざま努力して得なくても、お金を出して結婚斡旋会社に「ベストマッチ」を探してもらえば手に入れられる時代だ。
だから、多くの人が錯覚を持ってしまうのも止むを得ないかもしれない。

 ユニクロのヒートテックが開発されるまで、関係者のさまざまな探究心と苦労があったかもしれない。しかし大量に作って売ることで、そのコストは回収できるので、この会社は、作るのが大変だったんだヨなんて、あまり主張しない。着る方も1,000円以下で快適に着ている。

だから「良書」もそんなもんと思ってしまうのか。
でも、それでいいの?と石井氏は問いかけているのである。読みやすい新書ならば、2時間もあれば読み終わってしまう。皮肉なことに「良書」ほど、スラスラ読めるから読書時間が少なくて済む。
(反対にウッカリ「悪書」を読み始めると、なかなかページが進まないので時間がかかったりする。(まあそれも楽しみであるけれど)

石井氏の主張は、ひとつの書籍を生み出す苦労話ではない。モノを生み出す手間ヒマを素直に記してくれたと思う。読む方も、こうした制作者に創造力を働かせる必要があるだろう。

貧乏人は本を読むなと言っている訳ではない。ベストセラー本を大量に図書館が購入するのは、如何なものかと、疑問を呈しているのである。その主張に私は同意する。

でないと、出版社はどんどん「単に売れる本」ばかりに傾斜していってしまうだろう。それでなくても、新書はいささか粗製乱造気味なんだから。



一方図書館はいまどういう状況か。
 これは何度も記してきたが、住民への「サービス向上」である。多くの自治体で図書館業務が委託や指摘管理者に「下請け」されている中で、入館者数や貸し出し冊数は、「サービス」のひとつの指標となっているだろう。だから、多くの人に貸し出されるようベストセラーをいち早く多く取りそろえる。それが「指定管理者の生きる道」だ。

自治体経営者(首長)は、「お役所批判」を極力避けるように行動することが構造化されている。
「お役所は非効率」「税金の無駄遣い」との批判されるのを一番恐れる。次の選挙を考えると、「お役所仕事を一掃しました」と言いたい。
だから「民間並みのサービス」をすることが一番とされているのだろう。

私の知る限り、いま平日、日中の図書館は、リタイア人、ヒマを持て余す人の憩いの場だ。

よく利用する都心・港区のある図書館に、開館時間の9時を少し過ぎたろに行くと、新聞・雑誌コーナーに陣取っている大半の人は、いわゆる「お年寄り」。そして時々、近くに「棲む」ホームレスらしき人もいる。

住まいの近くの都内住宅地の某図書館も、似たようなものだ。
新聞コーナーはいつ同じ顔ぶれの人に占領されている。

行き場所のない人に夏は冷房、冬は暖房のよく効いた場所と読み物をダタで提供してくれる、こんないいところはない。

何もこれが悪いという言っているのではない。平日働いている者にも、もう少し使い勝手のいい図書館になってほしいということだ。せめて閉館時間をせめてもう少し遅くする。年末年始も、閲覧のみでいいから開館する。それが納税者へのサービスなんじゃないかな。

売れる本を買い漁って、出版社を苦しめるのが公立図書館の役割ではないだろうに。

図書館の役割を考えることは、出版社の社会的役割を考えることであり、それは大きくいえば、われわれの生きている社会の『文化』を考えることでもある。出版社を「向こう」(すなわち、“売れる”大衆的読み物ばかり出す組織)に追いやらないためにも、読者の側も、守っていく「心遣い」が必要だろう。
 もちろん出版社も私企業であり、石井氏も書いていたように「高給批判」もある中で、程度問題ということもあるが、ルールは確立されてもいい。

 再販制度の問題は古くて新しい課題だろうが、いまのところ、この制度が「自由な経済活動を著しく妨げている」問題とは思えない。性急な制度改革をする緊急度がテーマではないだろう。

ただ、「消費税の軽減税率の適用」には反対である。(新聞社が主張しているが、出版社が主張しているかどうかは知らないけど)。
これは税制全体の問題であり、税の軽減という形で「保護」するのは、まったくオカと違いだ。税はあくまで「公平」であるべきだ。(別項「消費税は最も公平な税制」で記したことを、再度考えてみたい)

※「出版文化」こそ国の根幹である、という通しタイトルにはちょっと違和感。別に国を守るために、出版文化があるわけではないだろう。国などという「再帰的」なものはどうでもいい。共通した言語で文化活動をしている「わたしの生きている“社会”」が大切なのだから。まあ、どうでもいいけど。




2015年3月9日月曜日

「LEKI」のストックの“危険性”

LEKI トリガーシステム(netより「引用」
スキーをしない人にはまったく関係ない話。

ストックメーカーにLEKIがある。ここのストックの一部は、利便性を高める構造的工夫がなされている。すなわち、ストックの手持ちのところにはフックの留め金のようなものがある。一方、このストック専用のスキーグローブには、親指と人差し指の間に、フックがあり、ストックと連結できるようになっている。
従来のストックのように、手首にストックのバンドをまいて、それと一緒にグリップを握る方式にくれべ、煩わしさがなく、かつ、ストックと手が連結できるものだ。
http://snow.gnavi.co.jp/tokushu/leki/

LEKIのホームページによると、これは「トリガーシステム」と言って、「安全・快適・操作性」を売りにしている。確かに、従来の伝統的なストックのストラップに比べて、快適で操作性もいいかもしれない。安全性については「一定の力が加わると外れる」となっている。

息子がこのストックと専用グローブを昨シーズンから使っている。しかしここに、落とし穴があった。
普通に滑っている時には何の問題もなく、快適だ。ただ、転倒した際にリスクが潜んでいた。

ストックと手が密着しすぎているため、転倒して手を雪面につく際、ストックが離れず、思わず開いた手の平で、親指が圧迫されてしまったのだ。去年3月、八方尾根スキー場のリーゼンコースで転倒し、右手の親指を骨折した。
 この時は、ストックにリスクがあると考えもしなかったが、今シーズン、まったく同じ箇所を同じように転倒して、再び骨折したのだった。本人から、ストックが密着しているので、親指がストックの下になって圧迫されたと言っていた。

 「安全に外れる」ためには、力の加わる方向などに制約もあるようで、必ずしもメーカーの説明通りにはならないということだ。

 雪がふわふわの新雪ならば、クッションになってそほど問題にならないだろうが、前回も今回も、雪が硬くアイスバーン状だったことが、けがにつながった。(アイスバーンだから転びやすいという問題もあった)
基本的に本人の注意不足ではあるが、ストックの構造にも、ケガの一因があったことは記しておき、スキーヤーに注意を促したい。

 何事も便利なものにはリスクもあるということを忘れてはなるまい。伝統的なストックの形状はそれなりに「意味」があったということだ。ちなみに私は昔ながらのグリップを使用している。

2015年3月4日水曜日

東急電鉄という体質③ 「マナー対策」考

東急電鉄発行の冊子を「引用」
  「東急電鉄という体質」という論考は、過去ブログを見てみると、2011年7月以来だ。

 今回は「マナー対策」を考えてみたい。
 どこので鉄道会社でもそうだろうが、マナーの悪い乗客対策には頭を悩ましていることだろう。おそらく苦情が一番多いのではないか。私自身もしばしば「アタマにくる」ことがある。(まあ、かといって鉄道会社のお客様相談室に電話をかけてみても事態が変わることはないので、行動は起こさないが)。

 鉄道会社の対策で一番優先順位が高いのは、言うまでもなく「人身事故対策」だ。これで列車が遅れると、振替輸送などの経費がかかるし、ラッシュ時であれば混乱もする。だから、山手線も、私鉄も、「お客様の安全のために」ホームドアの設置を進めている。
これが整えば、経費のかかる人身事故が減るだけでなく、朝夕のラッシュ時に駅員や警備員を配置する人件費を削減できる。どの会社も費用対効果を見据えながら設置を進めている。それはそれでいい。

  では「マナー対策」はどうか。冒頭に書いたように苦情が多いので、何等かの対策を講じる必要性は感じているのだろう。
啓蒙のポスターも毎年のように更新されている。

 半年ほど前に東急線の駅に置かれるようになったのが、この「マナー&安全ブック」である。A6版のコンパクトなもので、中味もソフトな語り口ながらストレートな「マナーの呼びかけ」になっていて、よくできていると思う。マナー対策に力を入れてますよ、というアピールにはなっている。

東急「マナー&安全ブック」より“引用”


 しかし、ここに(東急電鉄に限らず)大きな組織の陥穽を見た気がした。

 ここからは推測が入るが、おそらくこの冊子を作成したのは、本社の広報などの部門だろう。苦情が多いマナーについて、「お客様」相談室などの要請を受け、ポスターだけでは周知が不十分だからと予算をつけて作りあげた。そして各駅の窓口などに配備し、乗客にマナー向上を呼び掛けたのだ。

 このことに何ら業務上の瑕疵はないし、担当者は一仕事やったと思ったことだろう。
 しかしその効果があるかというと疑問だ。もともマナーの悪い「民度の低い」人々は、こんな冊子を手にとって見るという行動にはでない。イヤホンをしてスマホを握りしめて夢中になっている輩に対して、ほとんど冊子を読んでくれという要求は、無意味だ。
実際、私の使う駅では、いまも窓口に置かれていて、あまり減ったようには見えない。


マナー対策で一番効果がありそうなのは、毎日、車内で呼びかけることだ。「足を組んだり、投げ出さないでください」「ドア付近は広く開けて下さい」「歩きスマホは他のお客様の迷惑になります」と。ひつこいくらい、繰り返すことでしか、民度の低い人々の意識は変わらない。

しかし、そうした呼びかけは、時々思い出したように、しかもマニュアル通りにしされているに過ぎない。これが現実だ。なぜか。

 車両運行の現場部門にとって、一番大事なのは、安全運行・定時運行だ。日々車両を動かしたり、車掌業務に就いている方々にとって、事故が起きないことと時間に遅れないことに心血を注いでいる。だから、車内のマナー対策のためにアナウンスすることなど、余裕がある時にしかできないし、そのことが運行の現場で「評価」の対象にもなっていないだろう。
 車内での呼びかけが時々行われるのは、おそらく、運行マニュアルにやるように書いてあるからだろうが、安全や定時運行をおろそかにしてまで行うという「業務」ではない。

 だから日常的な呼びかけは行われないし、マナーの悪い乗客は減らない。広報部門も運行の現場で一番大事なのは安全と定時だということは当然分かっているので、「もっと呼びかけろ」とは言えない。だからせめてという思いで「冊子」を作った。

それぞれの部門にとって一番大事なことは違う。大組織になればなるほど、各々の連携が難しくなる。みな使命感を持って鉄道運行に関わっているのだが、「マナー対策」に関して言えば、事態はよくならない。「合成の誤謬」とは、まさにこういうことではないか。難しい問題ですね。

これは何も「東急電鉄の体質」でなく、多くの大組織に言えることだが、とりあえず身近な事例として考えてみた。私にとって、車内でマナーの悪い乗客を見るのが日常で一番ストレスがたまることだから。


東急「マナー&安全ブック」より“引用”

東急「マナー&安全ブック」より“引用”

東急「マナー&安全ブック」より“引用”

2015年3月2日月曜日

原因論ではなく、目的論から「川崎中1男子殺害」を考える

3月1日の現場

 ●3月1日、午前9時半ごろの「現場」テレビ局は5社来ていた。その他スチールカメラも数人。花束の輪の正面からカメラを構え、手を合わせる人の「いいショット」をとろうとして、いつまでも動かない。カメラマンにとってそれは「お仕事」なのだろうが、あまりいい気分ではなかった。








●六郷橋付近から見た多摩川の河口方向。現場は右の2つの高層マンションの向こう側だ。
真新しいマンションから数百メートル進むと現場はある。味の素の工場の間にあたる。工場とマンションのギャップが、この土地の置かれた状況を物語っているようだった。









●土手の上から見た様子。
  現場は支流?の河口のようになっていて、
多摩川の本流からは少しヘコんでいて、河 原 を歩いていても見つけられない。進んでいくとふいに、現場が現れる。前は工場の敷地で、すぐそばのマンションからも死角になっている。






川崎の中1男子殺害事件は世間に大きな衝撃を与え、連日報道が盛んだ。
民放テレビのワイドショーも、逮捕された18歳と17歳の“少年”の「心の闇」をいろいろ言い立てている。ネットには顔や家族の写真も堂々と載っている(らしい)。

 いつもこの手の事件が起きるとメディアは 「なぜ、殺人に至ったのか」という原因を探る方向に向かう。しかしアドラー心理学に従えば、原因ではなく目的を考える方が、この事件を正しく見るのに有効なのではないか。
 
 ある意味で、原因は割と単純だ。
 飲酒して理性の掛け金が外れた少年が、集団心理の中で、際限のないイジメをエスカレートさせた。ということなのだと推察される。それ以外に「原因」を見出すことは難しいように思われる。どこかの犯罪心理学か少年心理の「専門家」も発言していた、少年事件としてはわりと典型的なケースだと。「チクられたことの逆恨み」と、新聞も見出しを付けた。

 言うまでもないが、逆恨みする人のすべてが、凶行に及ぶ訳ではない。だから、「原因」をいくら探っても、またその原因が正しく言い当てられていたとしても、それは何の役にもたたない。

 では、彼の「目的」から考えると、どういうことなのか。
 主犯とされる少年は、自らの権威を集団の仲間に見せつけることだったのではないか。集団のリーダーであり続けるためには、常に力を誇示しなければならない。
 事件の1週間前に別のグループから、中1男子に万引きを強要したり、それを拒否すると暴力を振るったことを咎められた。その場にはおそらく他の仲間もいたのだろう。主犯格の少年の権威は著しく落とされたち違いない。
 
 平たく言えば、「仲間(もしくは手下)の前で恥をかかされた」と思ったのだ。この状態をそのままにしておくと、自分はグループの長でいられなくなると思っても不思議はない。それは無意識(フロイト的に言えば「前意識」)にそういう心理が働いた。
 「何とか自分のリーダーとしての権威を取り戻したい」。主犯格の少年は、皆に恐れられる存在としての地位を失いたくなかった。だから自分の「強さ」を見せつけた。お酒の力も手伝って、「決行」してしまった。


 「目的」も「原因」も、同じようなものかもしれない。しかし原因をいくら探っても、「再発防止」にはならないような気がする。だって人を恨む輩は、世の中にあまたいるだろうが、全員が、「仕返し」をする訳ではない。原因を探って、それを除去することが「解決策」になるとは限らない。

 だとすれば、どうすることが再発を防げるのか。目的が「自らの威厳(もしくは権威)を保つため」だったとすれば、そうした行為が(宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の言葉を借りれば)「つまらないからやめろ」と言うことだろう。自らに権威があろうとなかろうと、どうでもいい、虚勢を張るのはバカバカしいと。フラットな自分になってみろと。

 しかし世の中は全く逆だ。時の首相は自らの権威を保つために腐心する。自分は常に正しい、「この道しかない」と、言いつのる。国家も同様だろう。世の中では権威を保つことは、「正しいこと」なのだ。消極的姿勢を見せたら「負け」というのが世間の常識になってしまっている。

 主犯格の少年にとって、殺人に至った行為は、「権威」を保つための幼稚な行動だったに過ぎない。そうして考えると、彼の行為は世の中の「価値観」の合わせ鏡でしかない。

中1少年に合掌。