ラベル 鉄道 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 鉄道 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年1月20日土曜日

ふざけんなJR東日本 列車を動かすことに固執し、乗客をないがしろにした

JR東日本・新潟支社 指令室
▽現場の列車運行係
「閉じ込められた乗客も疲労を増しています。まず乗客を降ろしてあげることを優先させましょう」
▽列車の運行責任者
「「列車の運行はどうするんだ。信越線を利用している乗客はほかにもたくさんいる。朝の通勤・通学時までになんとかダイヤを正常化するのが第一だ」
「乗客は列車の中にいりゃ安全なんだ。トイレもあるんだろう」

 という会話が交わされたかどうかは知らないが、かくして、JRは、除雪車を動かすことに固執して、430人余りの乗客は15時間以上も満員の列車に閉じ込められた。中には立ったままの者も大勢いた。

 年明けの11日の夕方、新潟・三条市のJR信越線で、4両編成の普通電車が積雪のため動けなくなり、乗客約430人が車内にマル一昼夜閉じ込められた「事件」。余りにも官僚的なJRの対応にちて怒りが収まらない。

 昨日のニュースでJR東が三条市のバスの提供の申し出を断っていたことが報道されていたが、この事実に象徴されるように、JRが自分たちのメンツを最優先に行動していたことは、明らかだ。
 これまで報道されてきた経緯から、JR東は、乗客への配慮より列車を動かすことが最優先にされてきたことが分かっている。会見では除雪車の到着が翌日の午前10時前後になったことからも、それまで他の手段を考えることをしなかっことがうかがえる。
 100歩譲って、予想しえなかった積雪で列車が立ち往生したこと。通常の除雪でなんとかなると見通しが甘かったことが“許容”するとしても、その後の行動は、あまりにも官僚的、大組織的でしかなかった。
 
 おそらく列車の運行責任者=それがJRの現場のたたき上げなのか、キャリアなのかは知らないけれど=のアタマの中には列車の定時運行、今回の場合はとにかく立ち往生した列車を一刻も早く動かし信越線を正常ダイヤに戻すことしか考えていなかったのだろう。それが運行責任者にとって一番「正しい」職業的判断であり、そういう組織だからだ。運行責任者が想像したのは、乗客が救出されるシーンではなく、コトが終わった時に、上司に「列車の定時運行に向けて最大限努力しました」と報告する自分の姿だったのだろう。
 鉄道会社にとって定時運行は命より大切な掟だ。それはJR西日本・福知山線の大惨事でも明らかになっている。乗客の安全よりも定時運行が最優先される企業風土だからだ。
 除雪にあたった現場の鉄道員。除雪車を一刻も早く現場に向かわせようと努力した鉄道員。現場の人々は自分の業務として、おそらく懸命に努力しただろう。そこに悪意はなく、むしろ自らの努力を誇っているかもしれない。しかし今回の事件全体を俯瞰すると、その努力は「乗客のため」にはなっていなかったということだ。
 
 運行責任者には想像力がなかったのだろう。通勤・通学帰りの乗客が立ったまま列車に乗っていて、何時間も待ち続ける姿を。現場からの「暖房・トイレはあります。飲料水の適宜配給しています」という報告を受けて、乗客は安全に確保されている。ヘタに動かしてケガ人でも出れば、どんな批判をうけるかも分からない。そのままにしておいてよい、と。

 日本の(大)組織、特にお役所にはひとつの掟がある。それは「決められたことを守る」ことが正しい職業的判断だという。JRは言わずとしれは元国鉄。中央省庁と同様にキャリアとノンキャリがいる「官僚組織」だ。アタマのいい社員たちは常に上司がどう反応するかを念頭に行動する。そういうところだ。
 
 良く言えば、上意下達の規律が整った、統率された組織だということなのだろうが、柔軟な対応はいたって苦手だ。それは組織人として規律を破ることであり、職務に忠実は行動にはならないからだ。どうしてそういう組織になったのか、国鉄時代の組織を見ればわかるだろう。戦後、就職難の時代大量に採用した現場労働者。強い組合。鉄道を動かすには、「規則」を大量に作り、労働者を規則通りに動かす・働いてもらうほかなかったからであろう。
 (この話を書きだすと長くなるので、やめる)

 それにしても、今回の事件で乗客の皆さんの反応が、なんて優しかったことか。出てくる話は「席を譲りあった」などの美談が多く、あからさまに怒りをぶつける人の報道は見当たらなかった。これを新潟人の美徳と見るか、お人よしととるかは別として、もう少し「怒った」方がよかったんじゃないの。でないとJR東の人間は、きっとこう思うだろう。
「ほら。乗客は従順だ。列車内で待ってもらって安全でよかった。マスコミの批判は過剰だ。」だって「ぜんぶ雪のせいだ」だもん。と。



2016年6月5日日曜日

電車では“必ず”優先席に座ることにした。マタニティマークを巡って

 通勤電車の中(通勤に限らずだけど)というのは、おそらく最も「分断された社会」のひとつだろう。分断されたと言うことの意味は、相互につながりのない個々の集合体としての社会だ。(これを社会と言うのかどうか知らないけど)。
 それでも毎日同じ電車に乗るとなると「いつもの人」がいたりするが、お互いそう思ってもそれ以上に親しくなる訳でも、もっとお互いのことを知る訳でもない。
 
朝、通勤電車の始発駅から乗るとすでに「普通席」は埋まっていて、いわゆる「優先席」に座ることが多い。たまに途中駅から、妊婦さんが乗ってくる。 前に立ち、妊婦マークに気が付けば、当然「座りますか?」と聞いて席を譲る。自分の中ではそれはフツーのこととしてある。

 ところがきょう日はそうでないようだ。つい1週間前にもそうしたことがあった。通勤に使用する私鉄駅で、それらしき人(お腹がふくらんでいる人)が乗ってきて、優先席の一番ドア側の前に立った。自分はその優先席の奥から2番目に座っていた。(この電車は優先席は4人掛けだ。)妊婦さんかな?と思ってカバンを見たけど腕の影になって妊婦バッジがすぐには確認できなかったが、電車が動きだしてちょっと体の向きが変わったときに、それが見えた。彼女の前に座っていた若者(背広を着ていた)はスマートホンをいじっていて、まったく気が付かない。そこでちょっと離れていたけど、「座りますか?」声をかけて立ち上がり席を譲った。席を譲って前に立ち最初に妊婦さんが立った前に座っている人間とそのとなりの人間を観察した。端に座っていたのはサラリーマン風の若者。ずっとスマホをいじりつづけていた。気が付かないフリをしているのか、本当に気が付かないのかは知らない。その隣は40代くらいの女性だった。左手薬指にはリングはしていない人だった。目をつぶっていた。
 
「自分は座ったのだ。その権利は自分にあり、他人に譲る筋合いではない。」と主張するように、たいていの輩はそのままだ。(時々、気が付いてバツが悪いのか寝たフリをして目を閉じているヒトもいるけど。)

 電車内空間という分断された社会では席を譲らない人ばかりなのは当然だろう。そういう世の中なんだと納得するしかない。他人に対してあれこれ言いたくはない。

 で、これからは席があれば必ず優先席に座ることにした。前に妊婦さんが立った時に譲れるようにするためだ。座りたいと思う妊婦さんはだいたい優先席の前に来るからだ。

 ちなみに、私は、少々年齢のいった(くらいの)高齢者には席は譲らない。高齢者は立って足を鍛えることの方が健康長寿にはいいからだ。頑張って立っててくださいと、心の中で念じていますけど。

追記:この電車が終点について、私を含めて乗客が一斉に下りる、チラッと席を譲った妊婦の方を見た。一瞬目が合い(というか向こうがこちらを見ていた)、軽く会釈するように目でお礼を言っていた。(ように見えただけかもしれないけど)。でもこういう時って文句なく気持ちが晴れやかになりますよね。その目線にこちらこそ「ありがとう」と言いたいくらいです。

追記2:7月14日のNHKおはおう日本で、マタニティーマークを付けることをためらう人が増えているというリポートをやっていた。「電車なんか乗らずにタクれ!」と言われたり、お腹を蹴られたという証言もあった。ごく一部なんだろうけど、あまりにもひどい話で、考えただけで具合が悪くなりそうだった。
 


2016年1月30日土曜日

東急電鉄という体質④ 「雪」であらわになった最悪組織

netより「引用」
●池上線の悲惨な状況
2016年1月18日・月曜日の朝、雪の東京。通勤で混雑する鉄道は、その対応のまずさから混乱を極めた。特に東急と京王の対応は、ひどいの一言だ。
「東急電鉄という体質④」として、その報告・分析をする。

雪のため、徐行運転するのは分かる。また特急・急行をやめてすべて各駅にするのも分かる。これだけなら、さしたる混乱もなく運行していただろう。
すでに朝6時すぎには降雪は雨に代わっていて、線路が雪でアブナイという状態ではなかった。シロウト目にはもそれは分かった。事実JRなどは遅れがあったもののまあまあフツーに動いていたのだ。


しかし現実は違った。
『間引き運転』という、利用者無視のご都合施策が、大混乱を招いた。
電車の本数を普段より大幅に減らしておいて、一方では改札規制もしなかったら、どうなるか。小学生でもわかるロジックだ。

少なくと東急・池上線、雪が谷大塚町駅では7時20分すぎの状態で、改札規制は行われず、運行に関するさしたるアナウンスもない状態だった。当然ホームに下りきれない人々の群れで、階段から改札付近のスペースまで人であふれかえる。

NETより「引用」(イメージです)
改札口からやっとの思いでホームに下り、かなり待ったところに電車がやってきた。間引き運転しているから当然、大混雑だ。降車客がいてもホームの人間の2割も乗れない。
あきれるのは、アナウンスは(録音していた訳ではないので記憶の範囲だけど)、「後続の電車もご利用ください」と繰り返していた。間引き運転していて、いつ来るかわからない次の電車を待つよりもと、多くの人間が乗り込もうとする。

 ようやく扉が閉まり動きだししても、次の石川台、洗足池、長原と、どの駅でもかなりの時間停車してやっと動き出す。そして旗の台。ここまで40分近くかかった。
ついにここで電車は動かなくなったのだが、アナウンスが、迂回をススメながらも、しばらく待てば動くような「期待を持たせる」言い方だった。だから混雑の中、我慢して待った。乗客の判断は分かれた、動かないことを見越し、大井町線に回る者と「待つ」者だ。当初後者を選択したが、結果的にそれは失敗だった。
 アナウンスは、なおも運行を打ち切ったとは言わなかった。最初、しばらく停車しますと言っておきながら、そのうち「発車にはなお相当の時間がかかる見込みです」という言い方に変わっただけだ。この時、「少なくとも〇分は発車できない」とか迂回路の大井町線や東横線の運行状況を分かりやすく伝えていれば、状況は違っていただろう。

 今にして思うと、運行打ち切りはあたり前だ。あの異常な混雑の電車を動かしても次の駅でやはり動けなくなるのは容易に想像できる。さすがに東急もこれ以上動かすとけが人が出ると判断したのだろう。実際、私の乗っていた車両では、押された重圧で悲鳴に近い声を上げる女性の声が聞かれた。だったらなぜ打ち切ると言わなかったのか。

NETより「引用」
旗の台駅に止まったままの車両の中で20分ほど待ち、結局あきらめて駅を出て五反田までぐちゃぐちゃの中原街道の歩道を歩いた。幸いゴム長靴を履いていたので、足はぬれなかったが、ゴム長で4キロ近い道のり歩くのはしんどかった。しかも横殴りの大粒の「雨」は降り続いていたのだから。五反田から山手線。遅れ・徐行はあったが、通常の朝の混雑程度で目的の駅まで着けた。

●東急の「失敗」はなんだったのか。
 
 運行のまずさだけでなく、情報を曖昧にしか伝えない姿勢、すべてに対応のまずかさがあった。
これこそが「東急電鉄という体質に他ならない」

今回の雪ではじめに携帯電話に「お知らせメール」が来たのは前日17日の午後9時20分すぎだ。表現は「雪のため遅延や運休の恐れがあります」というものだった。しかしおそらく東急幹部はこの段階で早々と「間引き運転」を決めていたのだろう。
東急幹部もただの人だ。物事の判断を決めずにおくと、モヤモヤ感が残り自分自身にもどかしさが残る。決めてしまえば、次にモノゴトが進むので、あるめんスッキリする。天気予報は繰り返し、翌日の大雪を報道している。「早めの対応」が「良いこと」と勝手な思い込みで、東急電鉄のモノゴトが進んだ。そこには月曜朝の乗客の状況や、天気が好天した場合の人の行動への想像力が皆無だった。おそらく間引き運転を決めた幹部は、自分の早めの「判断」を「迅速な決断」とでも思ったのだろう。知恵のない人間だ。
「翌朝は間引き運転」ということが現場の人間に伝わるとどういうことが起きるか。「やった仕事がラクになる」と、少なからぬ労働者は思ったことだろう。何しろ朝動かす電車が少ないんだから。気の回る現場長は、早々と間引きダイヤに合わせた人の配置を決めたのかもしれない。それが労働者への「誠意」だとも思ったのだろう。
 しかし天気は幸いにも好転した。未明の雪は夜明けごろには雨に変わり、線路が雪で運行に支障という状態ではなくなった。普段の利用者の多くは、おそらくそうした天気を見て、通常の雨の時くらいの遅れくらいにしか思わないだろう。事実、いつもの月曜朝と同様の人々が駅にあふれていた。
しかしすでに「間引き運転」を決めていた東急に、その後態勢を立て直すことはできなっかた。いやしなかったのだろう。一度決めたことを再び元に戻すのは相当なエネルギーがいる。現場で働く者のモチベーションをもう一度あげるのは容易ではない。
「なんだ、運行本数を通常に戻すなら、最初から間引きするなんて言うなよ」と“上司”への恨みが先に立つ。
そして間引きは続行された。しかも「お知らせメール」など、利用者への情報伝達手段はさまざま進化しているのに、そこでは曖昧な情報しか載せず、いわば自分たちの失敗を誤魔化している状況では混乱を招くのは必至だ。


駅員など現場の彼らに文句を言ってもしかなたい。何も考えずに上からの「指令」で、決められたことしかできない輩に、文句を言うのはウサばらしにしかならない。彼らに当り散らすほど落ちぶれてはいない。ただ睨みつけてこちらの「意思表示」だけはしたけどね。

東急の混乱ぶりは、この地域独占企業の体質そのものから出てきた、いわば当然の結果なのだろう。
電力の小売り自由化が始まり(それが良いことかどうかは留保するけど)、来年には都市ガスも自由化されるらしい。で、今や地域独占企業の「雄」となった鉄道会社。

これだけの混乱を招きながら、簡単なお詫びをウェブサイトに載せただけだ。おそらく間引きを「決断」した幹部は、何もお咎めもなくノウノウとしているに違いない。もしかしたら今でも早めに「決断」したことを、けが人は出なかったからよかったくらいにしか思わす、正しい判断だったと思い続けているかもしれない。

●構造化されている、地域独占電鉄会社の「体質」
私鉄の「目的」はは何か。それは乗客を増やすことと、事故なく安全に「運行」させること。突き詰めるとその2つに尽きる。東急はまさにその目的に向かって「全力東急!(投球)」している。

前にも書いたが、乗客数が減ることはそのまま運賃収入に直結する。企業としては売り上げを減らす訳にはいかないので、如何に乗客を増やすかが、ほとんどの唯一の目的だ。

人口減少社会で、黙ってても沿線の人口が増えて乗客数がそれに比して増える時代は、すでに遠く過去のものになった。では、どうすれば乗客は増えるのか。
・他路線との相互乗り入れを推し進め、「利便性」をウリに増やす。
・路線を延長して利用可能者を増やす。
・イメージを上げて不動産開発を進めて沿線人口を増やす。

 路線を延長するのはもはや望めない。フロンティアはもはなくなった。そうすると残るは沿線人口の増加と、相互乗り入れによる「利便性」の向上だ。
だが相互乗り入れは、もろ刃の剣だ。乗り入れた沿線から人を吸収できればよいが、逆に吸収されてしまうこともある。東急は日比谷線と「決別」し、副都心線や東武と結んだのは、乗客の利便性を追求したからではなく、その方が乗客が増えて得だからにすぎない。
ありていに言えば、北千住やその先の千葉住民より、埼玉県民の方が横浜中華街に来たがるだろうし、北千住の先にはビジネス街はないが埼玉新都心にはそれなりの企業群があり、東横線沿線に住んで通う人も出てくるだろうという読みだ。
乗客を増やす施策は、「より利便性を増した東横線」という、利用者へのメッセージにすり替わる。
「安全運行」は、利用者の命を守りたいからではない。事故を起こした時の損失・イメージダウンを防ぎだいというのが第一の目的だ。(ホームドアもまたそう)


●結語
『間引き運転』に戻ろう。
なぜ降雪が雨に変わり、それほど運行に支障がないと思われるのに『間引き運転』が続けられたか。おそらくこの企業には、一度決めたことは容易に変えないという体質がこびりついているのだろう。地域独占企業は、それでやってこれたということだ。
市場や利用者のニーズをいち早くくみ取る、臨機応変の対応なんて必要がないのだ。

この組織がどうなっているか知らないが、そういう体質の「指令」の任にある者が、、前の晩に天気予報を見て、早々と翌日の徐行運転と急行などの休止、間引きを決めただから、動きようがない。

利用者の立場に立つアタマがみじんもない幹部は、「安全は確保される」という自己弁護的事なかれ主義を「前意識」で貫いたにすぎないのだ。

代替の製品が他にあるものならば、以後、不買を貫くということもできる。しかしこの地域に住む以上、東急を利用せざるを得ない。くやしいけど小市民のは「東急様」のお世話になる以外、生きる道はないのだ。


2015年8月22日土曜日

通勤電車にはスマホいじり専用車両を作れ!

 東京でも「池上線」という3両しかないローカル電車を普段利用していると、同じ東急の路線に女性専用車両があることなど、意識化されない。久しぶりにラッシュアワーに東横線に乗ろうとしたら、女性ばかりで、それが「女性専用車両」だったなんてことは、1度や2度ではなかった。
 だいたい女性専用車両などいるのかと、思ってしまうが、いろいろ被害に遭う女性にとっては、必要なのだろう。しかし、ヘンなことに気が付いた。
 女性専用車両があると、それ以外の車両に乗っている女性は、それこそヘンな目で見られはしないか。また、そこまでいかなくても、相対的に男性が多いフツーの車両に乗ることが、かえって抵抗感を生まないか、疑問に思った。
 ある人々のために、(もちろんそれが良かれと思って)専用の器をつくると、それ以外にある種の差別構造を作ってしまうというのは、何も車両だけではなく、よくあるのかもしれない。

 
卑近な例かもしれないが、災害で家を失った人のために、仮設の災害復興住宅が建てられた。も住む場所の確保は喫緊の課題だから、もちろん行政は良かれと思って建てた。しかし時間が経過して、自力で出ていく人が増えると、そこに残された人々は「弱者の集団」になっていく。結果的に社会的弱者が1か所に集められ、世の中に「見える化」されたことになる。
問題を顕在化させるとうことでは、対策を立てやすいということでは、必ずしも悪いことではないが、周囲からは、今度は「お荷物集団」と意識されてしまう面も否めない。(人間とは結構「人の不幸」に対して残酷だから。)
ではどうすればいいのか、なかなか良い答えは見つからない。

前置きが長くなった。
スマホいじりの人種にアタマにきてこの文章を書き始めたのに、書きながら思考はぜんぜん違う方向に行ってしまった。

通勤電車内で、スマホのゲームを行っている輩は、やたら多い。彼ら、彼女らは、本当に「無心」で夢中になっている。だから、熱を帯びてきて「脇が甘くなり」、肘が隣の人間に当たってもおかまいなし。前に妊婦さんが立っても、「そんなのカンケイない」。疲れてくるので足を組み、投げ出して座る。どうしようもない人々だ。ネットサーフィンに夢中になっている人々も、ほとんど同じふるまいだ。

彼ら特殊な人々は「区別」されるべきた。。スマホをいじるなら、専用車両にまとめて、ホームも別にすべきだ。スマホをいじりながら歩く「迷惑な人々」は彼ら専用の通路を歩いてもらうべきだ。

首都圏私鉄の雄、東急電鉄さん。金儲けばかり考えなくて、すこしは乗客のために投資してもれませんかね。まあ、これまで何度も書いている「東急電鉄という体質」では無理だと思いますけど、一応要望します。

2015年3月4日水曜日

東急電鉄という体質③ 「マナー対策」考

東急電鉄発行の冊子を「引用」
  「東急電鉄という体質」という論考は、過去ブログを見てみると、2011年7月以来だ。

 今回は「マナー対策」を考えてみたい。
 どこので鉄道会社でもそうだろうが、マナーの悪い乗客対策には頭を悩ましていることだろう。おそらく苦情が一番多いのではないか。私自身もしばしば「アタマにくる」ことがある。(まあ、かといって鉄道会社のお客様相談室に電話をかけてみても事態が変わることはないので、行動は起こさないが)。

 鉄道会社の対策で一番優先順位が高いのは、言うまでもなく「人身事故対策」だ。これで列車が遅れると、振替輸送などの経費がかかるし、ラッシュ時であれば混乱もする。だから、山手線も、私鉄も、「お客様の安全のために」ホームドアの設置を進めている。
これが整えば、経費のかかる人身事故が減るだけでなく、朝夕のラッシュ時に駅員や警備員を配置する人件費を削減できる。どの会社も費用対効果を見据えながら設置を進めている。それはそれでいい。

  では「マナー対策」はどうか。冒頭に書いたように苦情が多いので、何等かの対策を講じる必要性は感じているのだろう。
啓蒙のポスターも毎年のように更新されている。

 半年ほど前に東急線の駅に置かれるようになったのが、この「マナー&安全ブック」である。A6版のコンパクトなもので、中味もソフトな語り口ながらストレートな「マナーの呼びかけ」になっていて、よくできていると思う。マナー対策に力を入れてますよ、というアピールにはなっている。

東急「マナー&安全ブック」より“引用”


 しかし、ここに(東急電鉄に限らず)大きな組織の陥穽を見た気がした。

 ここからは推測が入るが、おそらくこの冊子を作成したのは、本社の広報などの部門だろう。苦情が多いマナーについて、「お客様」相談室などの要請を受け、ポスターだけでは周知が不十分だからと予算をつけて作りあげた。そして各駅の窓口などに配備し、乗客にマナー向上を呼び掛けたのだ。

 このことに何ら業務上の瑕疵はないし、担当者は一仕事やったと思ったことだろう。
 しかしその効果があるかというと疑問だ。もともマナーの悪い「民度の低い」人々は、こんな冊子を手にとって見るという行動にはでない。イヤホンをしてスマホを握りしめて夢中になっている輩に対して、ほとんど冊子を読んでくれという要求は、無意味だ。
実際、私の使う駅では、いまも窓口に置かれていて、あまり減ったようには見えない。


マナー対策で一番効果がありそうなのは、毎日、車内で呼びかけることだ。「足を組んだり、投げ出さないでください」「ドア付近は広く開けて下さい」「歩きスマホは他のお客様の迷惑になります」と。ひつこいくらい、繰り返すことでしか、民度の低い人々の意識は変わらない。

しかし、そうした呼びかけは、時々思い出したように、しかもマニュアル通りにしされているに過ぎない。これが現実だ。なぜか。

 車両運行の現場部門にとって、一番大事なのは、安全運行・定時運行だ。日々車両を動かしたり、車掌業務に就いている方々にとって、事故が起きないことと時間に遅れないことに心血を注いでいる。だから、車内のマナー対策のためにアナウンスすることなど、余裕がある時にしかできないし、そのことが運行の現場で「評価」の対象にもなっていないだろう。
 車内での呼びかけが時々行われるのは、おそらく、運行マニュアルにやるように書いてあるからだろうが、安全や定時運行をおろそかにしてまで行うという「業務」ではない。

 だから日常的な呼びかけは行われないし、マナーの悪い乗客は減らない。広報部門も運行の現場で一番大事なのは安全と定時だということは当然分かっているので、「もっと呼びかけろ」とは言えない。だからせめてという思いで「冊子」を作った。

それぞれの部門にとって一番大事なことは違う。大組織になればなるほど、各々の連携が難しくなる。みな使命感を持って鉄道運行に関わっているのだが、「マナー対策」に関して言えば、事態はよくならない。「合成の誤謬」とは、まさにこういうことではないか。難しい問題ですね。

これは何も「東急電鉄の体質」でなく、多くの大組織に言えることだが、とりあえず身近な事例として考えてみた。私にとって、車内でマナーの悪い乗客を見るのが日常で一番ストレスがたまることだから。


東急「マナー&安全ブック」より“引用”

東急「マナー&安全ブック」より“引用”

東急「マナー&安全ブック」より“引用”

2013年11月25日月曜日

「都営浅草線」という宿痾(しゅくあ)。

鉄道路線の相互乗り入れって、本当に「便利」なの?

“本当の”浅草線の駅はわずか15だ。
浅草線は、都営地下鉄としては最も古い路線だ。(以下この項はWikipediaからによる)
浅草線としては、大田区の西馬込から墨田区の押上まで、18㎞が「浅草線」ということになる。

しかし、この路線は西は京急線と、東は京成線や北総鉄道と相互乗り入れをしている。換言すると、三浦御崎から成田空港の先まで1本(本当は1本ではないであろうが比喩として)のレールでつながっている。先日、扉の上に路線図の駅の数を数えていたら、100以上あったように記憶している。

2013年10月16日 五反田駅の混乱

10月16日のあの台風一過の日。午前9時台いはほぼ雨も上がっていた。しかし電車の混乱は続いた。なんとか五反田までたどりついたが、浅草線は、人があふれ改札に続く階段を下るのもやっとだった。人の頭しか見えないところで、駅員の拡声器の声が、割れながら響いていた。

「電車は動いておりますが、五反田にまだ到着していません。到着してもお乗りになれるまでは30分以上お待ちいただきます」と。

地下鉄は比較的雨風には強いだろう。しかし東西に延々と続く私鉄と相互乗り入れしているこの路線は、非常に脆弱だ。

「直通運転」というとなんだか便利そう(「手打ちそば」がおいしそうといのと同じだ!)だが、これはなかなかくせ者だ。ひとたびダイヤが乱れると回復は容易ではない。この日ほど、浅草線の欠陥にまいったことはなかった。(相互乗り入れの弊害については、真の鉄っちゃん・原武史さんもどこかで書いておられた)

浅草線の入口は乗車のあきらめた人が戻っていった
しかし鉄道会社はなぜ、相互乗り入れにこだわるのだろか。シナジー効果で、その方が利用者が増えるということなのか。そうした信ぴょうが本当にあるのだろうか。

 通勤や通学で毎日のように利用する多くの乗客で、三浦海岸から成田までは行く者は、そういないだろう。鉄道会社は、マジョリティーな「固定客」利用者よりも、マイノリティな「一時的乗客」の利便を優先させているのだ。

これは、あたかも、サイレント・マジョリティーな一般“市民”の声よりも、一部の声高な“支持者”の声を優先させる政党の性質と似ている。

京急の路線
浅草線の相互乗り入れは、今に始まったことではない。おそらく古い方の部類だろう。だからこの「宿痾」とも言うべき、鉄道としての欠陥は、どうにもままならない。

路線図を見ればわかるだろう。これほどの複雑で長い、路線と東西でつながっている、いわばジョイント部のような浅草線は、「かわいそうな存在」としか言いようがない。なお京成のほか、こ北総鉄道ともつながっている。

京成の路線








2013年11月20日水曜日

スマホの「とりこ」になった “かわいそう”な人々。山手線でのある出来事から。

何があっても子どもだげは
守りたい。
先日、山手線でのある出来事である。
午前9時台に大崎から外回りに乗った。幸いドアのすぐ脇、車両の端の3人掛けの座席の一番扉側の席に座れた。次の五反田で、人が乗り降りするとき、無意識に開いていた新書本から目を上げると、若い女性が乗ってきた。この女性はそのまま反対側の座席の前に進んでいったが、私の脇を通る際、カバンに付けられた、例のアレ、ピンクの丸い「お腹にあかちゃんがいます」バッジがチラっと目に入った。

 彼女が立った前のシートには、若い男1人と女性が2人座っていた。3人とも、いわゆる「スマホ」をいじっていた。前に妊婦が立ったこと自体に気付かないのか、それとも気づいて無視したのかどうかは分からない。しかしその3人の誰も席を譲ろうという行動に出ることはなかった。

 電車は次の目黒で非常ボタンが押されたとかで、しばらく五反田駅に止まっていた。妊婦の前の席の輩たちはどうすか、しばらく見ていたが、一向に行動を起こそうという気配がない。そのうち停まっている電車には人がどんどん乗り込んできた。

わたしは、カバンで座席を確保してから、この女性の肩を軽くたたき、後ろから席を勧めた。ただそれだけの出来事だった。

 でも気分は非常に落ち込んだ。“若者”への怒りというより、悲しくなった。この国はそういう国なんだと思うと。

 この小さな出来事は、たまたま偶然、何千人に一人の性悪な若者が3人に遭遇しただけかもしれない。フツーならこんなことは起きないのかもしれない。それは分からない。でも実際に、そういう場面に遭遇すると、少子化なんて止めようがない。子どもを産むことがイヤになる国だと思ってしまう。この国は。

 スマホは人をとりこにする魔力を持っているのだろうか。席を譲るという行為だけでなく、電車内で、他人の行動をまったく気にとめない輩は、かなり見かける。扉の脇に立ち続け、乗降の妨げになろとおかまいなし。足を組んで投げ出しても平気。そんなんのはザラだ。毎日、通勤で電車に乗るたびに、“民度”の低さを実感する。

 スマホの魔力とはいったい何なのか。ここ数日、そのことをずっと考えていた。そして思いに至ったのは、スマホをいじる行為は「モノを考えない」ということだった。

 テレビジョンもそうかもしれないが、ネット情報やゲームを行う行為は、実は「考える」という行為ではない。単に情報をアタマに流し込んでいたり、画面に動物的に反応しているだけではないか。そこには「深く考える」という行為はない。だから、とりこになってしまった人々は、常識では考えられない行動を平気で行うのだ。それは、選挙でも一時のブームで投票する、中味よりも見た目や印象で選択する行為ともつながっているような気がする。

大衆は、スマホによって、ますます「大衆」に堕落していく。これが今の状況だ。
たかが(だと多くの人が思うだろう)、妊婦に席を譲るの譲らないのというたわいもない話かもしれない。譲らなくても、妊婦のカラダには何も影響がないかもしれない。それでも、それではいけないと「考える」ことが、重要なのではないか。

「自分はとりこになんかなっていない」と言い張る、スマホのとりこになったかわいそうな人たち。それを毎日眺めながら通勤している。


(追想)
 以前には、通勤に利用する池上線でこんなことがあった。私は車両の端の一番奥の席に座っていた。旗の台から妊婦が乗ってきてドアのすぐ脇、私の位置からは2人隣りの座席の前に立った。
この時、座っていたのは30前後の女性だった。明らかに妊婦と気が付いたようだったが、そのまま目をつぶり「寝たフリ」をしていた。結構、混雑した車内で、私の位置から声をかけるのがちょっと難しい感じだった。しかしこちらとしては気になる。2駅目で電車が止まった時に、声をかけて席譲った。そのあとは、「寝たフリ」の女性の前に立っていた。終点で降りる時、その女性が立ち上がったので、耳元で言ってやった。「鬼」と、ひとこと。

2013年10月17日木曜日

横浜の『踏み切り救出死』。はたして「勇気ある行動」と言えるのか?

(先に書いた内容に事実誤認があったので書きなおしました)

10月1日、横浜市緑区のJR横浜線の踏切で起きた、線路に倒れていた老齢の男性を助けようとして、40歳の女性が亡くなった事故。各社は美談として伝える報道が繰り返された。


NHKテレビより「引用」
4日の報道によると、安部首相は、「勇気ある行為とたたえ」「弔意を表す感謝状を出す」とのことだった。官房長官(菅は横浜が地元だ)も会見で、「他人に無関心な昨今の風潮の中で、自らの生命の危険を顧みす救助にあたった行為を称えたい」という趣旨の発言し、紅綬褒賞を贈ることを決めたという。

古屋国家公安委員長も「崇高な行為」という言葉を使った。




NHKテレビより「引用」
政府の対応や措置は、この女性の遺族にとっては、いくばくかの慰みになることは確かだろう。女性に対しては冥福を祈りたい。
人を助けようとする行動は確かに尊い。「誰かの役に立ちた」「誰かのために生きている」というのは、正に生きている意味そのもである。しかし、その意味で彼女の「気持ち」は、賞賛に値するものであり、素晴らしいと思う。
でも、と、考えてしまう。こうした「気持ち」は「生きていてこそ」のものだ。批判を恐れずにいれば、彼女のとった行動は、自らの命を顧みない、冷静さを欠いた軽率なものだったという面も否定できないだろう。とっさのことで、己の身の安全まで判断できなかったことは、十分わかるが、結果として、「正しい行動」だったかどうかは、評価の分かれるところだと考える。




NHKテレビより「引用」
NHKでは、「もし あなたら・・・・」と、街の人に問いかけるインタビューを行っていた。これは見ようによっては、「勇気をあおる」ようにも聞こえ、違和感を覚えた。(2日の午後9時のニュース番組)
司会の男性は「勇気」という言葉は使用せず、慎重に言葉を選んではいたが・・・・・。


「勇気」という言葉を“軽々しく”使用した安倍首相は、子どもたちに、こういう状況に遭遇したら、まず助けることを一番に考え、自らの身の安全はその次に考えればよいと教えろということなのか。

人はいつでも冷静でいられるものではない。特に緊急事態に遭遇した場合は、判断力が鈍ることも多い。だからこそ、とっさの場合は、一呼吸置いて、冷静に判断する力こそが求められるのではないか。

山に行って、自らの体を確保せずに、他の人をロープで支える人はいない。まず自分の安全を確かめて行動するのが鉄則だ。そんなことは山に登る人なら誰でも知っている。

踏み切りに限らず、線路内の事故の「救出死」は、しばしば起きている。

○2012年11月:埼玉・本庄市で落し物を拾おうと踏切に戻った70歳の男性を救おうとした主婦が、はねられ2人とも亡くなる。
○2007年2月:板橋区ときわ台駅近くでは、踏切に入った女性を助けようとした53歳の警察官が電車にはねられる。 
○2001年1月:山手線新大久保駅で、ホームから転落した男性と救助しようとした47歳のカメラマンと26歳の韓国人男性、3人全員が亡くなる。

それぞれ事情は違い、一概にみな「軽率な行動」と切って捨てることはできない。特に新大久保駅での事故は、ホームの構造から線路脇に退避帯がなかったことが災いしたと伝えられた。もしふつうの構造のホームであれば、助かった可能性も示唆されていた。

 だが、それでもこれらの痛ましい事故は、「美談」として語ることは慎重でなければなるまい。

飛躍するようだが、さきの戦争で、情勢の冷静な分析なく精神論だけで戦争に突き進み、敗戦後は勇敢な戦士たちを称えることばかりに心血を注ぐ、(主に保守と言われる人々)の心性に似ている。これはもしかしたら、日本人(という主体があるとするなら)のメンタリティーそのものなのかもしれないけど。そう考えると安倍首相が「勇気」という言葉を使った意味もわかってくるけど。


NHKテレビより「引用」




2012年7月31日火曜日

地下鉄の考現学② 浅草線にみる「民度」

浅草線の乗客はマナーが悪い。通勤に都営地下鉄を使うようになって感じた、率直な印象だ。東急線(池上線)と都営浅草線、都営三田線の3線を利用するようになって、浅草線利用者の「民度」の低さを感じている。同じ都営地下鉄でも、三田線より浅草線の方が「悪い」とも感じる。
「それはなぜか」を毎日通勤時に少し考えた。単なる「偏見による思い過ごし」なのか、「根拠ある傾向」なのか」

○よく言われる(それが正しい認識なのかどうかの判断は各々に任せるけど)、モラルの意識が比較的高い山の手を走る電車と雑多な方々が多い下町を走る電車の違い。これは、科学的に証明は難しいだろう。乗客一人ひとりの「民度」を測ることはできないので、実際そうだとしても「印象論」を超えることはできない。

そこで、具体的な事実に即して考えてみた。

これはホームでのマナーポスターですけど

○電鉄会社に「モラル向上」の意識があるかどうか

▼東急線は、まがりなりにも乗車マナーについて、たびたびアナウンスしている。(それが実効性があるかどうか、またどれだけ本気度があるかどうかは以前、「東急電鉄という体質」として批判文書を書いたけど)。おそらく乗客からのクレームが多いからだと思う。東急独自のマナー向上ポスターも駅構内には張ってある。(掲載写真は、スマホに夢中のバカと泥酔者向けのものですけど)

▼都営地下鉄ではモラル向上のアナウンスは聞いたことがないしポスターも見たことがない。唯一見たのは、「駆け込み乗車はおやめください」というもの。電車の定時運行しかアタマにないことが伺える。
都営地下鉄の職員は「公務員」。乗客へのサービスのインセンティブが機能する組織ではない。乗客を乗せてやっていると意識なのだろう。
都交通局のweb site を見ると、「サービス向上を目指して」という項目があり、過去4年間の「改善事例」が写真入りで掲載されている。しかしマナーに関する「改善」や啓蒙(この言葉はキライだけとあえて使います)の事例はまったくない。
○相互乗り入れ線の違い

▼浅草線は、西は京急、北は京成電鉄や北総線などと直通運転をしている。電車内の広告を見ると、東急単独線とは明らかに違う傾向が見てとれる。なぜだか、東京下町、千葉方面の広告が多い。

▼三田線は東急目黒線と相互乗り入れている。(目黒線は、南北線経由で埼玉高速鉄道とも接続している。)三田線の乗客は、“マナー向上”にセンシティブな東急の影響を受けている。だから浅草線より三田線の方がマシに感じるのではないか。ただし、京急や京成がどういう対応をとっているのかは調べていないので論拠は弱いかもしれない。

○電車の車両の構造的な問題。
浅草線の車内 netより引用
混雑した電車で一番アタマに来るのは、扉の脇に突っ立っていて、乗降の邪魔になる輩だ。
「ここは私の場所ヨ」と言わんばかりに占領して、乗降客の妨げになっていることに頭が回らないバカは意外に多い。

これは、東急でも山手線でも営団でも、もちろん都営地下鉄でも一様に見られる。ではなぜ都営地下鉄はマナーが悪い乗客が多いという印象があると考えた時、扉と座席の配置の構造上の問題に行き当たった。

浅草線の車両、特に古いものは、扉と脇の座席の間に余裕がない。座席の横の仕切りからすぐ扉だ。ここにバカが立ったままだと、乗降時にひとひとり分のスペースが失われ、乗り降りが非常に非効率になる。いわゆるボトルネック状態だ。

京急、京成と相互乗り入れし、どの車両がどの会社のものか、また新旧さまざまな車両があるので一概には言えないが、浅草線を走る車両はドアと座席の間に余裕がない構造が多いようだ。だからヒトがひとり扉の所に立つだけで大変な妨げになる。

一方、以前乗っていたた山手線や東急池上線の新車両は、座席と扉の間に2,30センチの余裕があるものがある。そういう構造だと、ここにヒトが立ってても、乗降時、扉が開いた時、それほど妨げにならない。乗り降りが比較的スムーズに行われる。

この違いが、「浅草線の乗客はマナーが悪い」という印象をもたらしているのだろう。車両の構造は日々工夫されて新しいものだ次々出てきている。乗客側から見ると、座席の構造が一番「改良」されているように思う。ロングシートの間にポールを立てたり、座席の色を変えたりして、ひとりで2人分の座席を占拠しないような工夫や、最近ではJR東日本が開発した「足を組ませない」座席もある。まだ実際に見たことはないけど。

それに比して、扉と座席位置の構造に、工夫がある車両はあまりない。比較的新しい車両でも扉のすぐ脇まで座席を配置しているものもある。一定の座席数の確保や扉位置を変えるのがホームドアとの関係で難しいなど、いろいろ事情もあろう。

しかし、乗降をスムーズにすることは、乗客のイライラを解消するだけでなく、乗降時間の短縮にも貢献し、「定時運行」にも利することだろう。

利用者のことなど考える“余裕”も“気持ち”もない都営地下鉄の職員さん。マナー向上への取り組みは定時運行にもなることを、ちょっとは考えたらどうかね。

2012年7月21日土曜日

不「可視化」されるということ。地下鉄の考現学①

勤務地が変わり、これまで山手線を使っていたのが、地下鉄通勤になった。地下鉄は場所によっては奥深くて階段や通路が長く、慣れるまで少々「疲れ」を感じてしまった。
しかし、その疲れとは単に距離は高低差の疲れだけではないことに気付いた。

それは、地下、つまり外の景色が見えないところを移動することによる、視覚的、精神的疲れなのだ。それまで私鉄(東急線)のところどころには地下化されているところがあるものの、基本的に地上を走る路線を使い、そして山手線という、だいたい一段高いところを走る(山手線には踏み切りがない)電車に乗って移動していた。その違いの大きさは予想以上のものだった。

これまで毎日、目を凝らして外の風景を見ていた訳ではない。本を開くのが億劫な時、疲れた時、そして混雑していて本を開けない時に、“何気なく”見ていた風景は、記憶のどこかに刻まれていたのだろう。その「変わらなさ」も「変化」もすべて。つまれ景色は常に「可視化」されていた。

可視化されていることが「移動」の認識を頭に刻み、移動に違和感がなかったのだ。
ところが地下鉄を使うようになって、わずか数駅、2線乗り継いでも15分足らずの時間にもかかわらず、移動したことに「違和感」を覚え、それは奇妙な「疲れ」になっていた。

ちょっと大げさに言えば、タイムマシンでワープした感覚なのかもしれない。(その昔「タイムトンネル」というアメリカのテレビ番組があり、時々見た記憶がある。歴史の学習にもなりちょっと面白かった。)

しかし、半年も通えば、地下鉄による移動に慣れ、「違和感」はなくなっていくのだろう。人間の慣れとはそういうものであり、慣れなければストレスばかり溜まってしまう。

でも、移動の景色が可視化されてないことはどういうことなのか、考えてみたい。

原武史さんの著書で、「皇居前広場」というのがある。
すぐに取り出せないので、記憶の限りで書くと、
二重橋に現れる白馬に乗った昭和天皇は皇居前広場に集まった民衆によって可視化されたことや
アジア太平洋戦争後、皇居前場では大規模な民衆の集会(デモ)が行われたこと。
いわゆる「血のメーデー事件」も、ここで起こったこと。
そして皇居前広場での集会がGHQによって禁止され、それ以後民衆の催しに使われなくなったことなどが記されていたと思う。
この著書だったかどうか忘れてしまったが、都電がまだ日比谷通りや内堀通りを通っていたころは、大衆に皇居前広場が、可視化されていて、その“奥”二重橋、そしてその“奥”の天皇の存在も、
(二重橋に立つことは滅多になかったが)ある意味で可視化されていたという。
しかし都電という路面電車が地下鉄にとって代わられ、
皇居前広場が民衆に可視化だれなくなった。それは歴史のひとつのターニングポイントだと指摘していた。
原さんは、終戦やオイルショックやバブル崩壊といった、よく言われる歴史の転換点とは違って視点で、節目をとらえていて、非常に興味を持って読んだことを覚えている。




ありていに言えば、可視化されないことは、脳に認識されないということであり、つまるところ「関心が薄れる」ということであろう。
テレビニュースや新聞で、いくら皇居前広場で「ご記帳」が行われたり、新年や誕生日の「一般参賀」の映像が映し出されても、皇居前広場を日常的に見ている人とそうでない人では、「実感度」に違いがあろう。

よくテレビを見ていて、行ったことのある場所や住んだことのある場所、つまり「視覚的に知っている」ところの映像が映り、そこの話題や事件があると、無意識に注目する経験は多くの人にあるのではないか。

「可視化」の持っている意味は、想像以上に大きいのかもしれない。(だから人間はさまざまなところを「見学」するのだ)

いま毎週金曜日の夜に首相官邸前で一般民衆による「反原発」のデモが行われているという。反原発の思想の賛否はここでは触れないが、官邸や国会議事堂の前に集まり、それを視覚に入れながらデモることには、単に為政者に直接プレッシャーをかけるという意味とともに、彼ら自身が権力の中枢を可視化することによって、認識を深めるという意味があるように思う。むしろあまり意識されていない、その意味合いの方がより重要なのかもしれない。

さて、都会では非常に多くの勤労者や学生(それが何百万人なのか知らないが)が、可視化されないまま場所(空間)を移動する。何年も通っている、ほとんどの人にとって、そんなことは特にストレスでもないだろうし、可視化されないことの意識もないかもしれない。

ただ、忘れてならないことは、見えないものは、ない訳ではない。認識されていないだけだ。しかし「何が見えていないか」は、分からない。
このブログの最初の方で湯浅誠さんが書いた「見ようとしないものは見えない」ということにつながることであろう。

何が見えていないか、常に考えることを忘れないようにしないと、イケナイ。
小田実「なんでも見てやろう」という本のタイトルを思い出した。

2011年7月8日金曜日

東急電鉄という体質②

日本民営鉄道協会による車内の迷惑行為の2010年のアンケートでは、
1位:騒々しい会話・はしゃぎまわり等
2位:携帯電話の着信音や通話
3位:座席の座り方
4位:ヘッドホンからの音もれ
5位:乗降時のマナー
と続く。
 民鉄は、アンケートはとっても対策には乗り出さないんだろうが、ひとまずそれは置く。

 以前こんなことがあった。朝の通勤で混雑した池上線上りの車中で、あまりにもひどい音漏れを起こしている若者がいた。この時はさすがに背広を着た多くの通勤途上の人がしかめっ面をしていた。終点ひとつ前の駅・大崎広小路駅では大勢降りる。その流れに乗ってひとりの男性が”ひじ鉄を、このノイジーな若者の背中に一発ぶちかまして降りていった。やっぱりといいった光景だった。心の中で喝采を送ったのは言うまでもない。朝から不快な気持ちとスカッとした気持ちの両方を味わった日だった。
 
 東急電鉄は、それがマニュアルになっているのか、池上線では毎朝ほぼ決まった時間帯(7時台前半)にマナーについてのアナウンスが行われているようだ。お決まりのお言葉は「一人でも多くのお客様が座れるように座席は詰めてお座りください」、「また、足を投げ出したり組んだりすると他のお客様のご迷惑になります。マナー乗車にご協力ください。」と、まったくもって魂の入っていない、棒読みのヘタはアナウンスが流れる。
 しかし朝の通勤ラッシュ時(もちろん終電を抜かせば一番混雑している時間帯)は、意外にも秩序が保もたれている。毎日利用する通勤通学の人々は、ラッシュではどう振る舞うべきか、多くが認識しているからだろう。

 多数が秩序だっていると、時々参入する新参者も多くは周囲の「空気」を感じてそれに従うから“秩序”が保たれる。最初に書いたエピソードは、朝のラッシュではむしろ例外的だ。(だからこそ鉄槌が下された訳だ) これが、いわゆる日本人のメンタリティー、集団主義・同調主義がいい方向で機能したケースかもしれない。
                                                    
東急目黒線と相互乗り入れする
東京メトロ南北線の高校生

 この項目を途中まで書いて、2か月以上放置していたら、池上線に新しいマナー広告が出現した。
「はみ出していませんか?」というコピーとともに、リュックの背負い、音漏れ、足の投げ出し、座席の占領をイラスト化している。わりとよく出来たマナー広告だが、残念なのはこれが、ロングシートの中央付近の網棚の上の広告スペースに置かれていることだ。
 最近の電車は、こうした広告スペースがすべて埋まらないことが多い。埋め草として置かれているに過ぎないこのポスターは、東急が本気でマナー向上を考えてはいないことを、皮肉にも吐露している。

 「東急電鉄という体質①」にも書いたように、鉄道会社にとって、乗客の不快軽減など、優先順位の低い課題でしかない。「一昔前の乗車率200%を超える大混雑の“痛勤”を思えば、たいしたことないだろう」と考えているに違いない。
 それでも都心の職場に勤め、否が応でも東急電鉄を利用しなければならない多くの人々は、毎日黙々と電車に乗る。乗らざるを得ないから、そこに「個」の空間を求め始める人々が少なからず出現する。ヘッドホンをつけ好みの音楽を聴き、ゲームに夢中になり、また居間でくつろぐように足を投げ出して「くつろぐ」人々だ。負の連鎖と言ったら言い過ぎだろうか。(この項続く)

2011年5月24日火曜日

電車内空間について考える

都会で電車に乗ることは非常にストレスを感じる行為だ。通勤で毎日感じるストレスの重圧で、よく自分の精神が壊れないものだと、我ながら感心する。
ひとによって我慢の許容範囲は違だろうが、私にとって我慢ならないのは、(1)足を組んで投げ出している輩、(2)イヤホンから音漏れ、(3)扉の所に立ち続け乗降の妨げになる人、だろうか。

それぞれの行為の「心の源泉」について考えてみたい。
足を組む行為は、普通くつろいだ時に時々無意識にする行為だ。しかしそれはあくまで、他の人の邪魔にならないことが前提の行為であるはずである。しかしなぜ電車内で、まるで自分の家の居間のように「くつろいで」しまうのか。あるいはそんな認識もなく、無意識にそうしてしまうのか。足を組む人を見ていると、座席に座ると反射的にそうする輩が意外に多い。無意識に、ということだろうか。
しかし、その多くは、誰かが前を通過したりする時には、ちょっと足を引込めたり、また混雑してくると、文字通り「姿勢を正す」。彼ら、彼女らにとって、車内でくつろぐことは、意識化するまでもいかない、たいした問題ではないのだろう。

でも、と考えてしまう。何と言ったらいいのか、「転ばぬ先の杖」なのか、「李下に冠を正さず」なのか、うまく表現できないが・・・。例えば、適度に人のいる公園のベンチで、自慢のサバイバルナイフを磨いている人がいるとしよう。その人は、もし子どもがそれと気づかず近づけば、危ないと思って、すぐに引っ込めるだろう。誰かが不用意に近づいても、「自分はその事態に対処できる」という自信があり、大丈夫だと思っている。その心情と似ていないだろうか。

「常識」で言えば、公園のベンチでサバイバルナイフは磨かないというのがスジだろう。(「常識とは何か」については別項で考察したい。) 万が一ということがある。危険とは分からず、追いかけごっこをしていた子どもが不意にぶつかってくる可能性だってある。

「転ばぬ先の杖」を考えない人は、オルデカの言う「大衆」そのものではないか。万能感をもった浅知恵の人々と言えないだろうか。彼らは「想像力」を持たない。その行為が他の人にどう映るかは関心外の「オレ様」なのだろう。

朝の通勤時間帯には、暗黙のルールがある。ほとんどの人はそれに従い、“従順”に“秩序よく”乗っている。だからかなり混雑しても意外とスムーズだ。混雑の中、少しでもお互い気持ちよく、しかも乗り降りで手間取って電車が遅れたりしないようにしている。当たり前と言えば当たり前だ。電車が遅れて遅刻するのは自分だから、みな協力する。

ところが帰途の電車は様相が一変する。迷惑野郎は後を絶たない。まるで自宅の居間にいるように足を投げ出し、足を大きく組んでくつろいでいる。ドアの脇に立ち、乗降の邪魔になっても平気。大音量のイヤホンから耐えられないノイズを発信する。なぜか。帰り道という「気楽さ」がある。一杯飲んでほろ酔い気分であったりする。しかしそれだけではないのではないか。何かが人の意識のスイッチを逆に入れているように思う。往路の通勤・通学の反動なのか。それが何かは、今のところ考えつかないが・・。





2010年10月23日土曜日

東急電鉄という体質①


東急電鉄という会社は輸送力の増強や他線との接続、駅周辺開発などの設備投資にはとても熱心な鉄道会社だ。会社のサイトによると、バリアフリー化(エレベータ、エスカレータ、点字時刻表、点字ブロック等)を順次すすめ、除細動器(AED)の全駅設置は完了したそうだ。

大規模改良工事は着々と進められ、“輸送力増強”と“利便性の向上”に努めているそうだ。田園都市線の複々線化、大井町線の溝口までの延伸は完了し、東横線の特急、急行の10両編成化による輸送力アップとそれに伴うホームの延伸工事も進めている。渋谷-代官山間の地下化と副都心線との乗り入れも進め、また相鉄線との相互直通運転も2019年開業予定という。

通勤に使用したことがないので確かなことは言えないが、田園都市線の通勤ラッシュの混雑は尋常ではないらしい。“鉄道博士”、原武史さん(明治学院大学教授・政治思想史)の著書によると、混雑によって遅れが生じても東急はやがて駅でのアナウンスをやめてしまうらしい。(著書がどれだったか思い出せず記憶で書いている)。

東急電鉄にとって輸送力の増強は喫緊の課題なのであろう。合わせて直通運転による「利便性の向上」も欠かせない課題なように見える。しかし輸送力を上げるのと直通運転、また沿線の開発は一体となった企業の「成長戦略」そのもののように見える。

輸送力を増強する設備投資をしても、今より乗客数が伸びなければ設備投資資金を回収できない。そのため、他路線との直通運転によって乗客数の増加を図ることが必要になる。
かつて私鉄は沿線に遊園地や商業施設を作り都心から乗客を運び、その後は郊外に住宅地を作って都心に通う乗客を増やすことで成長してきた(原武史)。しかし人口そのものがさほど伸びない中で、こうした旧来型の「成長戦略」の期待値は低い。そこで他の線から乗客を奪う直通運転が必要となる。

ということは輸送力を増強しても同時に乗客数の増加を図っているのだから、混雑は解消されないということになるのではないか。「混雑解消のため」に「輸送力増強」を図り「お客様の利便性向上」に努めているというロジックは実は「会社のため」だったのである。

いち私企業が成長を目指すのは当然のことであり、東急の戦略に別に異を唱えるわけではない。が、それが鉄道輸送という地域独占で公的性格を帯びた企業としてもう少し正直な「物言い」はできないのだろうか。あまりにもあざとい感じがする。

冒頭のバリアフリー化や除細動器の設置は、ある面法律で義務付けられた施策だろう。それをいかいにも「お客様のため」と言うところがいやらしい。(一段と意地悪く解釈すると、バリアフリー化も、高齢化の中でお年寄りにももっと鉄道を利用させようという戦略と見ることができる。バスには老人パスがあるが電車にはないから。) …以下②へ