2016年6月25日土曜日

村上春樹をひっぱたきたい。その2・・・癒しのエッセイ

かつてブログで「村上春樹をひっぱたきたい」と書いた(と思う。)よく覚えていないけど。
新潮文庫「村上ラヂオ3」を読んで、思わずその1、2も買ってしまった。
 繰り返しになるが、どうしてこの人は、自分が考えていること、思っていることを先取りして、エッセイにしてしまうのだろう。トホホと言うしかない。まるで自分の頭(心)の中を密かに覗かれて、私だけのためのエッセイにしたと考えてしまうほどだ。これほど考え方や思いに共感する人は他にいない。
 もちろん、「高い所がきらい」や「猫との生活」、「オープンカー好き」など、まったく逆のところもあるけど、逆に言うとこれ以外はすべて共感してしまう。
 「村上ラヂオ」を3→2→1と、いつも仕事の帰りの電車で読んで、村上さんのゆる~い感じで頭の疲れ癒していた。
 サラリーマンとしてこれまで32年間、まあ一応働き、今も生活のために給料が半分になっても働いていると、村上さんのような生き方は、憧れだ。それを目指してもかなわないし、小説も書けない。だからこそというのか、ゆる~いエッセイに垣間見える村上さんの日常を、自分の生活に重ね合せてリアリティを持って感じられるのかもしれない。
 またフィールドが東京の千駄ヶ谷や青山だといのもある。毎週必ず1回は泳ぐために千駄ヶ谷に通っている。将棋会館にも、何度か行った。青山には、それほどなじみはないが、よく通るので地理的な認識は確かだし、まちの雰囲気もわかる。
 旅行好き、料理好き、走ること。ゴルフ“嫌い”、鰻好き、等々、いちいち自分に「近い」感覚の持ち主が感じたこと考えたことを記す短文は、まさに「癒しのエッセイ」だ。

 ぜんぜん話は飛ぶけど、小熊英二さんの「癒しのナショナリズム」という著書を思い出した。そうなんです。疲れた心には癒しが必要なんです。
 村上さんは、彼の小説を読んでオウムから抜けることができた青年の話をを引き合いに、自分の書いた小説で救われる人が1人でもいれば、自分は小説を書く意義があるという趣旨のことをどこかで書いていた。社会が人々にどんな「癒し」を提供できるのか。それで社会のあり方がひどく変わってしまうのだろう。
 「社会」というと何かマスでとらえがちだけど、そうではなくて村上さんの小説のような作用が、幾重にも積み重ねられるという意味で。

2016年6月18日土曜日

蓮舫さんもいいけど、都知事が務まる能力があるのは『湯浅誠』さんを置いてほかにいない。

 1200万人の人口と16兆円の予算。よく言われるように、都知事という存在は1国の首脳に匹敵する存在だ。
 これまで「タレント知事」で務まってきたのは、知事を支える都庁職員のエリートたちた=いわば地方自治の優秀な官僚たちがいたからだろう。まがりなりにもGDP上位国の日本の首都の行政が(細かいところは別としても)成り立ってきたのは、彼らの働きがあったからだ。それは“日本という国”も同じかもしれないけど。

 知事は良きにつけ悪しきにつけアジテーターでいいという考え方もあろう。ディーゼル車の排ガス規制をアジテーターとして進めたのはその典型だ。旗を振ればあとは優秀な官僚たちが何とかしてくれるという構図だ。
 しかし旗振りにしても、かなり高い見識がなければヘンな方向に行ってしまう。ディーゼル車の排ガス規制はたまたま、あの知事の嗜好にはまっただけだったのかもしれない。真相は知るよしもないが、あの政策を彼に進言した優秀な都庁職員がいたから実現したと考えるが自然だ。

 いつものように前置きが長くなったが、アジテーターでいいとしても、トップを支える副知事の人事権や予算を差配する権限があることは確かだ。だから都知事という存在はそれだけに大きい。そこであまた候補に名前が挙がっているが、ふさわしいと思うのは「湯浅誠」さんが一番だと思う。鳥取県知事を務めた片山善博氏もいいが、ここは若い湯浅さんを是非推したい。

 1200万人の生活に関わる厖大な政策すべてに知事が関わる訳ではないだろう。しかし都知事に求められるのは、施策に対する深い理解と、良識、見識、そして規模が大きいだけに調整能力が求められる。
 
 あの「年越し派遣村」がなぜスムーズに進んだか。それは湯浅さんの能力と人柄があってこそだった。もちろん彼の東大法学部時代の同級生の多くが官庁にいてその人脈を生かしたということもあるだろうが、それだけではない。年越し派遣村だけではない、湯浅さんの地道な社会活動は、非常に忍耐強いものだ。
 
 よく「強い指導力」などがリーダーの条件などと単純に書き立てるメディアもあり、政治家としてリーダーを目指す輩は、それを鵜呑みにして、強いイメージを打ち立てる。しかし実際に必要なのは、深い見識に裏打ちされた洞察力と調整能力だ。リーダーに必要なのは。決断力ももちろん必要だがそれは最後に使う政策手段のひとつにすぎない。

 都知事は「人気投票が宿命」と新聞でどなたか“有識者”が言っていたが、それでいいの?
反知性主義の大衆社会に対するあきらめもあり、こうした刹那的な言説が当たり前のように流れること自体に、「刹那的になる」。

 蓮舫さんでもいいけど、その時は湯浅さんを副知事なりブレーンにすることをお勧めします。でないと孤立し浮き上がって、結局は足元をすくわれる。それでなくても、早くも「差別的デマ」を流す国会議員までいるんだから。賢い蓮舫さんのことだから、その辺のことも十分分かった上で考えるだろうけど。

 湯浅さんの「決断」を期待した。



2016年6月11日土曜日

AKB48の「桜の花びらたち」を2016年の3月まで知らなかった。

朝日新聞より「引用」
 恥ずかしい話し、この2016年3月まで、『桜の花びらたち』というAKB48の歌を知らなかった。いい歌だと思う、素直に。特に卒業ソングとしては、知っている限り私の中では1番いい曲だ。

 これまで「AKB48」という存在に関してほとんど関心を持っていなかった。すでに10年になるんですね。
 どうせ・・・(という言い方はわれながら傲慢ですけど)、オチャラケのアイドルグループでしょ、というくらいにしか思っていなかった。あえて無視するまでもなく、自分の生活圏の視野にはなかった。
 かつで職場の同僚が(5,6年前くらいだった)、「AKBの(戦略はすごい)。だって秋葉原に行けば必ず会えるようになっているんだから」と言っていたのを思い出すくらいだ。

 それはともかく、まったく視界になかったAKB48を多少、気に掛けるようになったのは、「恋するフォーチュンクッキー」で、多くの老若男女が踊っているというニュース(というか話題)を見てからかもしれない。
 その後、高橋みなみさんがNHKの教育テレビのいじめを考える番組に出演しているのを見て、なかなか賢い子だと感じた。
 そしてNHKの朝のドラマで「人生は紙飛行機・・・」と歌っているのが、毎日のように耳に入ってくるよになった。
 
 と、いろいろ“個人的な経緯”を書いたけど、別にそれで?何というレベルでしょう。まあそんなこんなで、今年の3月にその高橋みなみさんが卒業するというので、金スマをという番組を見ていたら最後に歌っていたのが「桜の花びらたち」だった。
  ちょっとだけ旋律を聞いただけで、一瞬で、これはいい曲だと感じた。ネットで調べると結構古いもう10年近くなる曲なんですね。歌詞も振るってる。
 
 AKB48は現代の「少女合唱団」なんですね。だから総選挙や卒業でメンバーが入れ替わっても存在感は持続しつづける。なかなか考えられたシステムだ。「桜の花びらたち」も2008年バージョン、2015年バージョンなど受け継がれている。

 食わず嫌いだったAKB48の歌を日々通勤電車で聞いて少し研究(大袈裟か)している。まあトシなのでガチャガチャした曲にはちょっとついていけないけど、そうでない曲は結構何度聞いてもいい。
 秋元康さん(同世代なんですよ)の作詞についても少し考えるようになった。
 批評家の宇野さんは朝日紙上で、美空ひばりの「川の流れのように」とAKB48の「RIVER」を取り上げて論じていたけど、もちろんそれだけではない秋元康さんの戦略や思いや考えがもっともっとあるのだろう。これかも、もう少し見守っていきたい。

 「桜の花びらたち」を知ったのが、丁度、愚息が高校を卒業する頃だったので、まあそういうこともあり、妙に印象に残り気に入ってしまった。その息子に図書館で借りてきたAKB48のCDをついでに返してくるよう頼んだら、「こんなもの恥ずかしくてオレが返せるか」と言われてしまった。けど返してきてくれたけど。



2016年6月5日日曜日

電車では“必ず”優先席に座ることにした。マタニティマークを巡って

 通勤電車の中(通勤に限らずだけど)というのは、おそらく最も「分断された社会」のひとつだろう。分断されたと言うことの意味は、相互につながりのない個々の集合体としての社会だ。(これを社会と言うのかどうか知らないけど)。
 それでも毎日同じ電車に乗るとなると「いつもの人」がいたりするが、お互いそう思ってもそれ以上に親しくなる訳でも、もっとお互いのことを知る訳でもない。
 
朝、通勤電車の始発駅から乗るとすでに「普通席」は埋まっていて、いわゆる「優先席」に座ることが多い。たまに途中駅から、妊婦さんが乗ってくる。 前に立ち、妊婦マークに気が付けば、当然「座りますか?」と聞いて席を譲る。自分の中ではそれはフツーのこととしてある。

 ところがきょう日はそうでないようだ。つい1週間前にもそうしたことがあった。通勤に使用する私鉄駅で、それらしき人(お腹がふくらんでいる人)が乗ってきて、優先席の一番ドア側の前に立った。自分はその優先席の奥から2番目に座っていた。(この電車は優先席は4人掛けだ。)妊婦さんかな?と思ってカバンを見たけど腕の影になって妊婦バッジがすぐには確認できなかったが、電車が動きだしてちょっと体の向きが変わったときに、それが見えた。彼女の前に座っていた若者(背広を着ていた)はスマートホンをいじっていて、まったく気が付かない。そこでちょっと離れていたけど、「座りますか?」声をかけて立ち上がり席を譲った。席を譲って前に立ち最初に妊婦さんが立った前に座っている人間とそのとなりの人間を観察した。端に座っていたのはサラリーマン風の若者。ずっとスマホをいじりつづけていた。気が付かないフリをしているのか、本当に気が付かないのかは知らない。その隣は40代くらいの女性だった。左手薬指にはリングはしていない人だった。目をつぶっていた。
 
「自分は座ったのだ。その権利は自分にあり、他人に譲る筋合いではない。」と主張するように、たいていの輩はそのままだ。(時々、気が付いてバツが悪いのか寝たフリをして目を閉じているヒトもいるけど。)

 電車内空間という分断された社会では席を譲らない人ばかりなのは当然だろう。そういう世の中なんだと納得するしかない。他人に対してあれこれ言いたくはない。

 で、これからは席があれば必ず優先席に座ることにした。前に妊婦さんが立った時に譲れるようにするためだ。座りたいと思う妊婦さんはだいたい優先席の前に来るからだ。

 ちなみに、私は、少々年齢のいった(くらいの)高齢者には席は譲らない。高齢者は立って足を鍛えることの方が健康長寿にはいいからだ。頑張って立っててくださいと、心の中で念じていますけど。

追記:この電車が終点について、私を含めて乗客が一斉に下りる、チラッと席を譲った妊婦の方を見た。一瞬目が合い(というか向こうがこちらを見ていた)、軽く会釈するように目でお礼を言っていた。(ように見えただけかもしれないけど)。でもこういう時って文句なく気持ちが晴れやかになりますよね。その目線にこちらこそ「ありがとう」と言いたいくらいです。

追記2:7月14日のNHKおはおう日本で、マタニティーマークを付けることをためらう人が増えているというリポートをやっていた。「電車なんか乗らずにタクれ!」と言われたり、お腹を蹴られたという証言もあった。ごく一部なんだろうけど、あまりにもひどい話で、考えただけで具合が悪くなりそうだった。