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2018年2月24日土曜日

立憲民主党の「原発ゼロ法案」、自民党「受動喫煙対策」どちらも「大衆迎合」政治にしか見えない。

理想は高ければ高いほどいいのだろか。それともただ、支持者へのアピールでしかないのか。
立憲民主党の「原発ゼロ法案」の内容には、がっかりだ。まあリベラル政党として、その支持者にむけて「アピールしました」というだけに見えてしまう。

印象としては、高い理想を「基本理念」として掲げる一方、法案としての体裁を整えるために、〇〇を推進、〇〇の措置を講ずる という表現で、いかにも政策推進を促す構成になっている。しかし内容としては、ひとことで言えば稚拙としかいいようがない。

基本理念で「電気の安定供給を計りつつ・・」「原子炉を効率的に全て廃止」、「電気の需要量を減少させるとともに」「再生可能エネルギーの電気割合を増加」と謳っている。

では、どうやって、「地球温暖化に配慮しつつ」電気の安定供給を計るのか。そのためのどうやって政策を推進すのか、さっぱり見えてこない。

 大きく言えば、地球上の様々な課題の中で、非原発だけを取り出して論じているとしか見えない。
政策とは、法律によって民間の動きを誘導してうくことであろう。その体裁をとっているが、とても実効性ある法律には、私には見えない。

原発を「効率的に」ゼロにするのは、ある意味では簡単だ。安い石炭、また石油や天然ガスの火力発電を自由に行えるような規制緩和を行えば、原発なんてなくても十分必要な電気は賄えるだろう。当面はね。化石燃料がダメだというなら、太陽光や風力発電を優遇する措置は補助金をたくさん出せば、それも進むかもしれない。日本じゅうの畑や水田をつぶして、また休耕田を政府が高く買い上げて、そこに太陽光パネルを敷き詰めれば電気はたくさんできるかもしれない。
同様の政策は現政府もさまざまやってきてはいる。ここでは詳細は書かなけけど、推進にはさまざまな課題も見えてきて、そうそう加速度的には進まないのも確かだ。
 
  高い理想は、それはそれでよい。しかし現状の冷静な理解や国民の“豊かさ“への渇望など様々な要素を斟酌した上での法律でなければ実現化への意味はないだろう。これでは、自分たちの支持者=リベラル派、非原発派へのアピールでしかないように思う。多くの国民への支持は広がらないだろう。だからメディアも、野党第一党の法案でもあまり多く取り上げない。なんとなくこの稚拙さを感じ取っているのだと思う。
  枝野さん、どうでうすか?

一方、自民党の部会が了承した「飲食店の受動喫煙対策」にも驚きだ。客室面積100㎡以下、資本金5,000万円以下の「中小企業」は「喫煙可」とするらしい。
100㎡の店といったら結構広い。と思いますけど。資本金5,000万円の飲食店といったら、それもまた、いち市民からみると結構おおきなカイシャに見えますけど。これでは、大資本が運営するチェーン店以外はほとんど「喫煙可」としているようにしか見えない。世界の動きへの逆行でしかないし、中小企業に配慮しすぎとしか見えない。これが「受動喫煙対策」なのだろうかね。「不満はあるが前に進めることが大事だ」という意見があり、とにかく部会が了承したという。へんなの。
 タバコの煙が大嫌いな私にとって、ほとんど無意味な法案だ。これもまたがっかりだ。
まあ、喫煙室のある飲食店にはいかないだけだけど。まして喫煙可の飲食店には絶対行かない。

喫煙者という「病気の人々」対策。もっと推進したら。それは医療費の抑制につながると思いますけど。喫煙は病気です。(かつて私も病気でしたが、この病気はなんとか40で克服しました)

「原発ゼロ法案」「受動喫煙対策」どちらも、支持者への「大衆迎合」政治にしか見えない。

(参考)
<立憲民主党 「原発ゼロ法案」>骨子(朝日新聞デジタルより“引用”)
第1 目的(略)
第2 基本理念
・電気の安定供給の確保を図りつつ、商用発電用原子炉を計画的かつ効率的に、全て廃止
・電気の需要量を減少させるとともに、電気の供給量に占める再生可能エネルギー電気の割合を増加
第3 国等の責務
・国は、これまで原子力政策を推進してきたことに伴う国の社会的な責任を踏まえ、原発に依存しない社会を実現するための改革を推進する責務を有する
・国は、改革に当たって生じ得る発電用原子炉設置者等の損失に適切に対処する責務を有する
第4 法制上の措置等
 政府は、基本方針に基づく施策を実施するため必要な法制上、財政上、税制上または金融上の措置その他の措置を講じなければならない。法制上の措置は、法律施行後2年以内を目途
第5 基本方針
(1)発電用原子炉の廃止
1.政府は、速やかに全ての商用発電用原子炉廃止を目標とする
2.政府は次に掲げる措置を講ずる
①発電用原子炉を運転することができる期間の延長を認めない
②商用発電用原子炉の運転は、原子力以外のエネルギー源を最大限に活用してもなお電気の安定供給の確保に支障が生ずる場合で、かつ有効に機能する地域防災計画が作成されている場合に限る
③商用発電用原子炉の設置の許可及び増設を伴う変更の許可を新たに与えない
④廃止するための国の関与の在り方について検討
⑤使用済み燃料の再処理は行わない
⑥再生可能エネルギー、可燃性天然ガスその他の原子力以外のエネルギーの利用への転換を図るために必要な措置
⑦商用発電用原子炉等を廃止しようとする事業者に必要な支援
⑧立地地域における雇用機会の創出及び地域経済の健全な発展
⑨廃炉等に関する研究開発その他の先端的な研究開発の推進支援
(2)電気の需要量の削減及び再生可能エネルギー電気の利用の拡大
①1年間における電気の需要量について、2030年までに10年の100分の30に相当する量以上を減少させる
②30年までに1年間における電気の供給量に占める再生エネルギー電気の割合を4割以上とする
第6 推進計画(略)
第7 本部
 内閣に首相を本部長とする「原子力発電に依存しない社会を実現するための改革推進本部(仮称)」を置く
第8 改革の推進を担う組織の在り方に関する検討(略)
第9 年次報告
 政府は毎年、改革の実施状況に関する報告書を国会に提出


2018年2月3日土曜日

地球温暖化。「原発ゼロ法案」より「火力発電ゼロ法案」の方が先だ。

 化石燃料の消費をどう抑えるか。そのことを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。 
 
火力発電所(東電広野火力)
先の総選挙で1,100万票を獲得したことを背景に、立憲民主党の鼻息が荒い。反安倍政権の“受け皿”として、一定の支持を得たことは確かだ。
 そのリベラルは姿勢から、また枝野氏自身が東日本大震災時に官房長官をやっていたこともあり、「脱原発」には熱心だ。長期的将来像として「脱原発」は賛成だ。少しでもリスクを低減させることは必要だ。しかしその前にまずやるべきことが多々あるだろうというのが率直な感想だ。
 
 野党は多かれ少なかれ「ポピュリズム」に陥らざるを得ない。人気がなければ選挙民の支持を拡大できないから。だから彼らのある種の極端な言説は大目に見る。そのことを差し置いても、でもやはり、「原発ゼロ法案」に固執することは支持できない。
電気スタンドの「その先」に想像力を働かせよ
放射能という目に見えないリスク、またどんな影響があるのかはっきり分からないことへの恐怖心。原子力というと、日本でまず思い出されるのが、当然ヒロシマ、ナガサキの悲惨な映像であり、実際、被曝者の方はまだ多くが存命で、その恐ろしさを語り継いでいる。だから大衆(=物事を深く考えずに、直感で判断する人々)が「原子力」に対して、得体のしれない恐怖心を抱くのは当然かもしれなし。
 
 交通事故で年間5,000人前後が死亡することや、自然災害で何十人も犠牲になることは、いわば目に見えることであり、直接カンケイない人々にとっては、1回見てしまえば心のどこかで、「なーんだそんなことか」と安心してしまうのは人間のいわば性(さが)だろう。

 化石燃料を燃やし続けることがどれほど怖いことなのか、特に石炭は地球環境への悪影響が大きい。それをまず止めることが、そのために自然エネルギーへの転換を促進するのは理にかなっている、と思う。

 寒波がきても暖房は着けないで我慢して。外灯はムダだから暗い道を歩くことに慣れてください。エスカレーターは動かさないので階段を歩いて。電気製品はなるべく使わないで生活して。ということを国民に呼びかけるのでしょうか。「原発ゼロ法案」を促進する人々は。まあそういうことの国民的合意(何割賛成すれば合意されるのか、その定義はないけど)があれば、それはそれで進めてください。

 しかし人間は一度手に入れた便利さをなかなか手放すことができない。それはそれ、脱原発は別問題です。と言うのは無責任な主張としか思えない。

 企業は省エネの技術革新の努力を続けてきたし、今後も続けていくだろう。そのことには敬意を表したい。しかし省エネにも限界がある。電気を使うものは使うのだ。そのことを抜きにエネルギー政策は進められない。他の項目でも書いたけど、電気自動車の普及には大量の電気が必要だ。その、当たり前のロジックを抜きにしてはエネルギー政策は語れない。

水素自動車の普及の可能性は?
冒頭に記したように化石燃料の消費を抑えることを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。だから原子力を推進しろとは言わないし、そんなことを主張している訳ではない。冷静に見積もって、原子力をなくす道程は、それまでにするべきことが多くあり、息の長い取り組みが必要だということだ。

 

 リベラル派の「受け皿」になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。

(追伸)
「リベラル派の『受け皿』になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。」と、1週間前は結語としたけど、改めて考えた。
 政治・政党についてこう突き放しても、何の発展的発想にはならない。憂うべきは、野党が票を獲得するために、ポピュリズムにならざるを得ないこの大衆社会そのものだろう。彼らも実は分かっている。しかし票を獲得するにはこれしかないと開き直っているようにも思う。
 でも自民党に投票した人々の票を“奪う”には、もっとまっとうな議論で正面突破するしかない。原発に心底反対している人。消費税は上げない方が日本がよくなると心から思っている人。憲法は絶対変えない方がいいと考える人。それぞれのカテゴリーについて、メディアの政治報道はもう少し、整理して、その集団をあぶり出す努力をしてほしい。表面的な既存の政党や派閥の動きを伝えるだけが政治屋報道ではないでしょうに。それができるのがネットではなく、あえて言えばマスメディアができる調査報道そのものではないでしょうかね。





2018年1月27日土曜日

蔵王は“残念なスキー場”になり下がってしまった。残念!

「蔵王の樹氷」は知名度はあるのに生かせてない
(netより引用)
  正月を山形の蔵王温泉で過ごした。子どもの受験で2年のブランクをはさみ、3年ぶりだった。スキー人口が減って、どこのスキー場も大なり小なり青息吐息なのは、ご承知のとおりだけど、「Mt.6」の一角、樹氷を誇る蔵王は、他のスキー場に比して、「じり貧度」が更に増しているように感じた。
 
 八方やニセコ、志賀高原、野沢などは、豪州や東南アジア、韓国、中国からのスキー客を取り込む努力をして、なんとか持ちこたえている。八方尾根スキー場などは、レストハウスにいるとここは日本かと思うほど、中国語、オージーイングリッシュなどが聞こえてくる。
 
風情ある温泉街 私は行かないけど(netより引用)
  東北人の気質のせいなのか。(サービス精神があり、接客に向いているという人々ではない)それとも戦略不足なのか分からないけど。
 
 蔵王温泉の宿泊施設で一人勝ちしているのが「高見屋グループ」。純日本風の温泉宿から、かつて防衛省の保養施設だった豪華宿泊施設を買い取って運営している高級リゾートホテル風施設、団体向けの比較的安価な宿など数多くの宿を運営している。しかし高見屋以外は苦しいところが多いように見えた。特にスキー場の昔ながらの「ロッジ」はいつの間にか営業をやめて空き家になっているところが目立った。(上の台ゲレンで前など)。
 宿泊予約をネットで検索すると、正月3が日でも結構空きがあったのには驚いた。

スキー場は広くて自然を満喫できるのに
スキー場のレストハウスもじり貧だ。来客が減るとコスト削減でメニューを減らす。また従業員も減らすのでサービスも悪くなる。ありていに言えば、悪循環=負のスパイラルに入ってきたように見える。蔵王温泉観光のwebsiteでは、それぞれのレストハウスの“売り”のメニューを掲げているけど、実施には営業していないところもあったりした。(ダイヤモンドゲレンデ)

 実は蔵王には、かなり昔からジャンプ台がある(70m級=今の言い方だとノーマルヒルに当たるのかな)。女性のスキージャンプが近年脚光をあびて、蔵王でもワールドカップが開かれるようになった。スポーツニュースでも取り上げられ賑わっているように見えるが、ジャンプのワールドカップくらいではあまり客足に影響しない。第一、蔵王のジャンプ台には観客席なるものがなかった。(少なくとも筆者が山形に住んでいた1990年前後は)。また、ジャンプは見る人は(多少は)いても一般観光客でやる人はいない。ゲレンデスキー(アルペンスキー)が楽しめなければスキー場は賑わえない。

 バブル時代に新設された黒姫ゲレンデも黒姫第4リフトが「廃止」になっていた。かなり前から平日は駐車場は無料だ。90年代は土日に駐車場に入るのに2時間もかかったというのがウソのような変化だ。

 と、前置きが長くなったが、今回の蔵王で一番残念だったことを以下に記す。「ぷうたろう」というペンションは、かなり昔からある老舗の宿だ。宿泊したことはないが山形ではちょっとは有名な宿だ。場所も横倉ゲレンデのすぐ前にあり、立地もいい。(蔵王ではちょっと離れたところにペンション村がある)。

 スキー場のレストハウスが貧弱なので、ぷうたろうのランチでも食べようと入った。4人席に案内されたけど、実はこの時からちょっとヤナ予感がしていた。10人ほどの子ども連れの集団が2組あり、まだ食事が出されていなかったからだ。でもテキパキ働く(ように最初は見えた)女性がいたので、まあ食事も出てくるだろうと勝手に思ってしまった。ところがそうではなかった。
 
 30分待っても何も出てこない。40分すぎてようやく1品ずつ食べ物が出てきた。余りにも時間がかかりずぎる。ぷうたろうの食事は結構評判でそれなりにおいしい(らしい)。実際、スキー場のレストハウスで食べるよりははるかにいいけど、余りにも時間がかかることには怒りを覚えた。

 何がいけないか。
 店はなるべく売上を上げるべく(当然だろうけど)、お客を拒まない。しかし明らかに処理能力以上の注文を受けて、食事が供給できない事態になる。彼らには、「込み合っていますので、お時間がかかるかもしれませんが・・・」などと言う度量がない。明らかにスキーの格好をした客は、スキーをしに蔵王に来ている。それなりの食事もしたいけど、滑る時間もおしい。遠方から来る客はなおさらだ。

 何日も滞在する時間的、金銭的余裕がない人が多いだろう。我々もそうだ。限られた時間の中でいわば効率よく過ごしたい。でも「ぷうたろう」のスタッフにはそうした客への想像力がない。注文は受けるだけ受ける。残念は人々だ。こうした行為が、少なからず蔵王に足を向ける人を減らしていく。

 少なくともぷうたろうに、また蔵王に「また行きたい。また行こう!」という気にはならないだろう。他に選択肢がないならともかく、Mt.6 他にもスキー場はたくさんある。
単なるひとつのペンション食堂の振る舞い行為に過ぎないけど、それは蔵王温泉全体の印象につながっていく。蟻の一穴という言葉かあるけど、そういうことだ。ぷうたろう自体は、蔵王温泉で勝ち組なのかもしれない。しかし日本のスキー場全体の中で負け組になりつつある蔵王で、いくら勝ち組になったとしても、それはいわゆる「井の中の蛙」ということでしかないだろう。何年か先、この建物も、上の台ゲレンデ前のロッジのように空き家になってしまう姿を想像してしまった。悪いけど。
 
 かくして蔵王スキー場は、じり貧が続くだろう。このままでは。旅行業者は、常に客の反応をアンケートなどで収集し、評判のいいところに誘導する。スキー客の奪い合いの中ではそうしたマーケティングは当たりまえのことになっている。評判を落とすような行為はアンケートを通じて旅行業者に伝わり、新たな客には薦めなくなる。なぜなら旅行業者にとっても客にリピーターになってほしいから、評判のいい所から紹介していくのが当たり前の行為だ。

 「ぷうたろう」について言えば、1時間余り観察した限りでは、地元・山形の常連客が多いようだった。店の人の挨拶のしかたでわかる。またお酒の種類が豊富で昼間から飲む人向けの店だ。それでこれまでやってきたのだろう。我々のような一見さんはお呼びでなかったみたいだ。まあ今は常連で成り立つのならそうれでやっていけばいい。
 
 でもその常連客も人口減の中でやがて減っていく。店の人々は懸命に働いていた(と思う)。けど、それはその場しのぎ的でしかなかった。将来的に安定的にリピーターを増やしていく行為にはなっていなかった。「残念な店」だ。せっかくおいしい店なのに。


(追伸)
 テレビ東京の「街応援番組」で、先日、野沢温泉を取り上げていた。野沢も言わずと知れたMt.6の大スキー場だ。(30年以上も前の年末に、それも記録的雪不足の時に行っただけなので、実感としての記憶がないけど。)でも温泉街には外湯があり、蔵王と似た雰囲気だ。テレビ番組を見ていて、涙ぐましい努力がなんとなく伝わってきた。地道にしかし小さな積み重ねで、雪と温泉を楽しみにしている人々を内外から集めようとしている(ように見える)。テレビ番組の「切り取りの事実」であることを差し引いても、蔵王よりはマシだ。

 蔵王は地理的に不利だ。新幹線があるとは言え、長野県の野沢、八方、志賀高原の方が首都圏から行きやすいのは明らかだ。でもニセコのように飛行機を乗り継いで、しかも空港から更にバスで3時間かかるところでも人が集まることを考えると、努力不足が否めない。


2018年1月20日土曜日

ふざけんなJR東日本 列車を動かすことに固執し、乗客をないがしろにした

JR東日本・新潟支社 指令室
▽現場の列車運行係
「閉じ込められた乗客も疲労を増しています。まず乗客を降ろしてあげることを優先させましょう」
▽列車の運行責任者
「「列車の運行はどうするんだ。信越線を利用している乗客はほかにもたくさんいる。朝の通勤・通学時までになんとかダイヤを正常化するのが第一だ」
「乗客は列車の中にいりゃ安全なんだ。トイレもあるんだろう」

 という会話が交わされたかどうかは知らないが、かくして、JRは、除雪車を動かすことに固執して、430人余りの乗客は15時間以上も満員の列車に閉じ込められた。中には立ったままの者も大勢いた。

 年明けの11日の夕方、新潟・三条市のJR信越線で、4両編成の普通電車が積雪のため動けなくなり、乗客約430人が車内にマル一昼夜閉じ込められた「事件」。余りにも官僚的なJRの対応にちて怒りが収まらない。

 昨日のニュースでJR東が三条市のバスの提供の申し出を断っていたことが報道されていたが、この事実に象徴されるように、JRが自分たちのメンツを最優先に行動していたことは、明らかだ。
 これまで報道されてきた経緯から、JR東は、乗客への配慮より列車を動かすことが最優先にされてきたことが分かっている。会見では除雪車の到着が翌日の午前10時前後になったことからも、それまで他の手段を考えることをしなかっことがうかがえる。
 100歩譲って、予想しえなかった積雪で列車が立ち往生したこと。通常の除雪でなんとかなると見通しが甘かったことが“許容”するとしても、その後の行動は、あまりにも官僚的、大組織的でしかなかった。
 
 おそらく列車の運行責任者=それがJRの現場のたたき上げなのか、キャリアなのかは知らないけれど=のアタマの中には列車の定時運行、今回の場合はとにかく立ち往生した列車を一刻も早く動かし信越線を正常ダイヤに戻すことしか考えていなかったのだろう。それが運行責任者にとって一番「正しい」職業的判断であり、そういう組織だからだ。運行責任者が想像したのは、乗客が救出されるシーンではなく、コトが終わった時に、上司に「列車の定時運行に向けて最大限努力しました」と報告する自分の姿だったのだろう。
 鉄道会社にとって定時運行は命より大切な掟だ。それはJR西日本・福知山線の大惨事でも明らかになっている。乗客の安全よりも定時運行が最優先される企業風土だからだ。
 除雪にあたった現場の鉄道員。除雪車を一刻も早く現場に向かわせようと努力した鉄道員。現場の人々は自分の業務として、おそらく懸命に努力しただろう。そこに悪意はなく、むしろ自らの努力を誇っているかもしれない。しかし今回の事件全体を俯瞰すると、その努力は「乗客のため」にはなっていなかったということだ。
 
 運行責任者には想像力がなかったのだろう。通勤・通学帰りの乗客が立ったまま列車に乗っていて、何時間も待ち続ける姿を。現場からの「暖房・トイレはあります。飲料水の適宜配給しています」という報告を受けて、乗客は安全に確保されている。ヘタに動かしてケガ人でも出れば、どんな批判をうけるかも分からない。そのままにしておいてよい、と。

 日本の(大)組織、特にお役所にはひとつの掟がある。それは「決められたことを守る」ことが正しい職業的判断だという。JRは言わずとしれは元国鉄。中央省庁と同様にキャリアとノンキャリがいる「官僚組織」だ。アタマのいい社員たちは常に上司がどう反応するかを念頭に行動する。そういうところだ。
 
 良く言えば、上意下達の規律が整った、統率された組織だということなのだろうが、柔軟な対応はいたって苦手だ。それは組織人として規律を破ることであり、職務に忠実は行動にはならないからだ。どうしてそういう組織になったのか、国鉄時代の組織を見ればわかるだろう。戦後、就職難の時代大量に採用した現場労働者。強い組合。鉄道を動かすには、「規則」を大量に作り、労働者を規則通りに動かす・働いてもらうほかなかったからであろう。
 (この話を書きだすと長くなるので、やめる)

 それにしても、今回の事件で乗客の皆さんの反応が、なんて優しかったことか。出てくる話は「席を譲りあった」などの美談が多く、あからさまに怒りをぶつける人の報道は見当たらなかった。これを新潟人の美徳と見るか、お人よしととるかは別として、もう少し「怒った」方がよかったんじゃないの。でないとJR東の人間は、きっとこう思うだろう。
「ほら。乗客は従順だ。列車内で待ってもらって安全でよかった。マスコミの批判は過剰だ。」だって「ぜんぶ雪のせいだ」だもん。と。



2017年11月25日土曜日

小池百合子「希望」への“失望”の本質は何か。

 社会学者の小熊英二氏が10月のアサヒの論壇で書いていたけど、歴史的に新党ブームは1回しか通用しない。それはここ数十年の日本の政治、というか選挙を見ればシロウトでも分かる。古くは新自由クラブ(河野洋平)、日本新党(細川護熙)を思い出すが、その後も新党さきがけ、・・・あとはすぐには思い出せないほどいろいろあった。
 総選挙が終わり国会が始まった中で、「希望」の失速などの検証記事がアサヒにも2日に渡って掲載されていた。解散表明から選挙までのキーマン(キーウーマン)たちの証言や動きはそれないり面白いが、アサヒも検証記事の結語は「排除」だった。でも本当に「希望」の失速は排除の論理が主原因だったのだろうか。いまだに疑問だ。
 「排除」という言葉が一人歩きして国民の支持を失ったというロジックは、単純で分かりやすい。マスメディアはそうした言説で、分かりやすさを強調する。それは裏を返せば、選挙民を単細胞の幼稚な思考しか持ち合わせていない存在と言っているようなものだ。(だからますますメディア離れが起きる)
 
 東京都議選では、トミンは、石原、(猪瀬)、升添と続く、エリート的な強引とも言える都政運営にいささかうんざりしていたところにうまくはまった。石原の強引さで唯一よかったのは「ディーゼルエンジンの排気ガス規制」だけだった。(政治家としてはシロウトの猪瀬は、ここでは無視します)。升添は、アタマがいいから、形の上では合意形成をしながら政策を進めてきたように見えた。でも本人の貴族趣味(成金趣味と言ってもいい)と育ちからなのかお金にセコイところが、結局猛反発をくらった。
 だから小池の「トミンファースト」という言葉に都民は「希望」を見出したのかもしれない。ただしそれは都民に限ったことだった。
 「希望」の失速は、都政なのか国政に関与するのか、党首としてのカオはどうするのか、など政党としてまた方針ととしての分かりにくさが、投票を遠慮する人々が予想外に多かったからではないのだろうか。「排除の論理」も確かに日本的な融和精神からはちょっと違和感があり、それがマイナスに作用したかもしれない。アサヒの検証記事では、キーマンの証言からそれをあぶりだしていたかのように書かれていたが、世論調査の分析など選ぶ方の取材・分析がまったくない、セイジ記者の読み物記事にしかなっていなかった。
 トミンファーストの時も思ったけど、今回の総選挙で最もポピュリズム的だったのは、「希望」だろう。そのことはある程度のリテラシーのある選挙民は感じ取ったのではないか。その反動が「立憲民主党」に流れたといえる。

 20歳になったその日が投票日だった息子は比例は自民党に投票したという。理由は消費税の値上げに対して一番真摯だったからだという。超高齢化社会を迎えるにあたり、消費税は20%にしなければもはや国家はやっていけないのは明らかだ。それなのに8%を10%にすることすら「見直せ」と言う人々を信じられない、支持できないというのは当然の論理だろう。
常套句の「行政の無駄遣いを正す」という言説は、それはそれで部分的には何の批判も受けないまっとうな論理だけど、それで消費税を上げないですむという論理への飛躍にウソがあり、それこそがポピュリズムだということは、まあ、少々勉強している若者には見抜けることだ。
 森本あんりさんの「宗教国家アメリアのふしぎな論理」で、反<知性主義>(反知性<主義>ではない)とポピュリズムは非常に親和性があることが繰り返し指摘されているが、その意味では、希望は最も「反知性主義的」政党でしかないということだろう。
それを分かった上で、選挙に勝ちたいがために乗っかった知性派もいただろうけどね。

 11月30日のアサヒの論壇時評では、小熊英二さんが日高六郎の言葉を引用して、看板より実態が大切だという趣旨のことを書いていた。当然のことであり、「維新」だとか「〇〇ファースト」だとか、「希望」だとか、また「立憲民主党」も含めて、看板をつけかえることで、生き延びようとする政治家、でなかった政治屋の人々にはいささかウンザリだ。「さきがけ」だとか、「みんな」とか「生活が第一」なんてのもあったっけ。
 その意味にでは変わらないのは「自由民主」と「共産」くらいかね。自民党が強い理由は案外このあたりにあるのかもしれない。
 自民党と共産党の性格の“違い”については、よく指摘されているのでわざわざ記すこともないだろうけど、現実主義者が理想主義かという違いにほかならないだけでしょ。








2017年10月21日土曜日

福井県池田町の中学生の自殺「事件」。丸山真男の「抑圧の移譲」を思い出した。僻地校での抑圧とは

 福井県池田町の町立池田中学校の2年生だった当時14歳の男子生徒が今年3月、校舎から飛び降りて自殺した問題。町の教育委員会が設置した第三者委員会は担任や副担任から繰り返し厳しい指導を受け、追いつめられて自殺したとする調査報告書を先日(10月15日)公表した。
 自殺した中学生に心から冥福を祈りたい。すでに成人したが、同様に子どもを持つ身として親御さんの無念さ、悔しさ、そして「見殺し」にした、周囲の教師や教育委員会への怨念は察して余りある。
 「死」の代償は、きちんと支払わなければならない。担任、副担任の直接の加害者だけでなく、それを許した面々の責任は、それこそ「命」よりも重い。当然の話だ。Net上には、すでに担任、副担任、校長の名前や顔写真が載っている。それはそれで今回の事態に怒りを感じる人々の溜飲を下げることにはなるが、そうした「私刑」だけでは、問題の本質には迫れないだろう。この「事件」には構造的な問題があるからだ。教師集団というヒエラルヒーの構造的問題だ。
 
 池田町のホームページによると人口は3000人に満たない。町の中学校はひとつだけだ。問題の中学校が福井県の中で「僻地指定校」なのかどうかは分からない。しかし全校生徒40人足らずしかいないとなると、片田舎の小規模校であることには変わりない。校長はそれなりの年齢だ。他校に転勤したという男性担任は30代だという(朝日新聞)。中堅になる年齢だろう。校長はまだしも担任はなかなか同じ福井県の都市部の学校にはいけなかったのだろう。同期の教師の中には県内の“進学校”で、バリバリやっている者もいる。焦りや腐りがあっても不思議ではない。そのストレスのはけ口が自殺した生徒に向けられた。もしくは、この担任は自分がいかに都会の学校に転勤できるかどうかにしか関心がなく、副担任の異常な行動に対して無関心だった。そういうことなんじゃないでしょうか。

 (ここからはまったくの想像だけど)地方公務員として一定程度の給与の安定がある中で、教師としてのいい意味での情熱が失せていたのかもしれない。俗に言う「事なかれ主義」になるか、あるいは教師とは関係ない趣味に時間もアタマもとられていたかもしれない。悪い方から言うと、ギャンブルや女性、お酒に走るもの。趣味に夢中になるものなどさまざまだ。
 
 そして女性に新任教諭の副担任。首都圏の4流大学を出て、それでも努力して地元福井県の教師の試験に「合格」した。彼女にある種の幼稚な万能感が目覚めたとしても不思議はない。悪いけどあまりモテそうには見えない彼女は、大学では地味な存在だったのだろう、それを見返したのが県の教員採用試験に受かったことだ。そして赴任した学校。男子に対してある種の「恨み」があったのかもしれない。それが「抑圧の移譲」として表れた。中学生を相手に「幼稚」な行動に出てしまった。それを自分自身でも止められなかった。
 
 校長はどうか。教師の管理職試験に“合格”し、副校長を経てようやく校長になった。この教師は校長になったことがある種の目的の達成になっていたのかもしれない。校長にも序列がある。僻地校の校長はどうみても低い方だ。定年も間近でもう意欲もなく、教師の振る舞いにまで関心はない。若い教師にいろいろ反論されると、それを跳ね返すエネルギーも持ち合わせていなかった。あわれだね。
 
 かつて愚息が通っていた公立の小学校で、毎年1度の授業参観には必ず参加した。それも自分の子の担任だけでなく、出来る限りさまざまな教師の授業を観察した。
その中で6年生の担任をしていた年配(60間近かな)の男性教師の授業を見た。なんの授業なのか忘れてしまったが、ほとんどを黒板に向かって、いわゆる板書する授業だった。時々子どもの方を振り返るがそれは、お約束の行動という以外いいようのないものだった。しかも授業内容は稚拙、いちいち教科書に目を落としてそれをなぞるというものだった。どうみても準備不足としかいいようのない授業内容だった。
 普通の感覚だと、授業参観で保護者が見に来ると思えば、それなりの準備をして臨むだろう。普段ならしなくても。その授業参観でさえレベルの非常に低い授業しかしていないということは、この教師はもうやる気を失せていることが明らかだった。ベテランはヘンに自信もある。何千回、何万回としてきた授業は適当に行って乗り切れると思っているフシがある。それは保護者の目からみて明らかだっだ。授業参観の「感想」にこのことを書いた。この教師は翌年違う学校それも違う区の学校に転勤していった。

 やる気のない教師、ダメな教師の被害を被るのは、常に子どもたちだ。都会の学校ならばそれでも子どもたちは塾に退避することもできる。しかし僻地ではそうした退避場所すらない。都道府県教委(教師は県職員)⇒市町村教委⇒学校(進学校~僻地校までいろいろ)というヒエラルヒーの中で、僻地校にいる校長も含めた教師たちの心情、やる気、能力は想像に難くない。
 もちろん僻地校だからこそと、情熱を持って頑張る教師がいることも認める。でもそういう「いい教師」は少数派だ。(だからこそ時々そうした教師はメディアの企画記事、リポートの対象になる)

 質の低い教師の淘汰の先は僻地校だった。この構造の中で起きた、大事件だった。
ついでに言うと、教育委員会は僻地校のことなんてまるっきし関心がない。中学校担当の彼らの関心は、どこの中学から県の進学校に合格できたかということだ。私立の有力校が多い大都市の都道府県は別として、フツーの県ではどこでも1,2の進学高に県内の優秀な生徒を集中させて、一流大学への進学実績をあげようと必死になっている。それは将来県職員、または中央省庁の役人になり県のために役立って
ほしいという思惑があるからだ。先細りの人口の中で、その傾向はますます強くなっているだろう。僻地校の教師の質の問題なんか、2の次、3の次にならざるを得ない。それが現実だ。優秀な教師は進学校に集中する。次は生徒の全体レベルを上げるため大規模に配置される。それはある意味で自然な流れだ。それからこぼれた教師たちが僻地校で“頑張って”いる。中にはヘンな頑張りをする教師がいても不思議ではない。

 「抑圧の移譲」からずいぶんそれてしまったけど、書いているうちに、今回の中学生の自殺の問題は、実は僻地校問題ではないかという思いに至った。
(タイトルをちょっと変えました)  
 
「超国家主義の論理と心理」

2017年8月26日土曜日

日本で最も『無法地帯』な所とは。…死と隣り合わせの恐ろしい場所

netより「引用」
日本で死と隣り合わせの無法地帯は、歌舞伎町でも西成地区でもない。それは高速道路上だ。遵法者が小さくなり無法者が優先される、それがある意味当然のごとくなされているところだ。
 日本の高速道路はいつから制限速度が150㎞/時になったのだろう。
走行車線は100㎞以上、115㎞くらいが今や普通だ。追い越し車線は100㎞で走っている自らの車との相対速度で勘案すると140~150㎞は出している車は頻繁にくる。
 追い越し車線を110㎞くらいで走っていると、車間距離をとらず後ろにぴったりついて威圧する。たいていの車(自身も含めて)はよけることになる。無法者が最優先されることが当然のごとくに。
 なにも、すべて100㎞以下で走らなければならないと、模範警察官の答弁みたいなことは言わない。今の車の性能や安全性から言えば、体感として十分な車間距離や混雑がない状態なら120㎞くらいは、まあ正常な運転だろう。実際、オートクルーズは114㎞を限度に設定できる。他の車を見ているとだいたい同じスピードなので、運輸省の指導かなにかで、この早さが、全車共通なのだろう。それはそれで合理的スピードだと言える。
 しかしだ。150㎞前後で走る車はどう見ても異常だろう。第一に危険だ。またこういう車に限って、車間距離を取らない。一歩間違えば大惨事になる運転であることは間違いない。大谷投手の投球じゃあるまいし、いくらなんで速すぎる。
 かくして高速道路は、危険をかかえた無法者が最優先される日本一の場所と化しているのが実態だ。そう感じている人は少なからずいるのではないだろうか。違反にも限度があろう。それが常識というものだ。 
 「警察はもっと取り締まれ」なんて、バカ老人の叫びみたいなことは言わない。警察だって、高速道路の取り締まりばかりに税金を注げないだろから、限界があることは分かる。ならば効率のいい、安全対策を施すことはできないだろうか。
 たとえばドライブレコーダーを利用して、後ろから煽る車や危険な追い越しをする車の映像が、健全な車から提供されたら、それをもとに「警告」を発することを簡便に行えるなど、税金をかけずにできる方法は考えられるように思う。
 ちなみに我が家の車には後ろにもドライブレコーダーを付けてある。これは前の車につけていた後付のドライブレコーダーが余ったこと。荷台にAC電源があるからでもあるけど、後ろから煽られた時の証拠は残せるようになっている。時間があれば危険な目に遭った時の映像を使って、「告発」できることもできるけど、いまはそんな時間的余裕がないのが残念だ。
 こうしたことを書いていて思い出した本がある。 松本清張の「速力の告発」という短編だ。netで調べると、「分離の時間」というタイトルの文庫に入っている。内容は忘れてしまったが、netによると、「自動車メーカーが交通戦争の凶器を製造しても何も責任をとらないことへの告発」と書いてある。今や自動車メーカーは安全装置で競う時代になっている。松本清張が「速力の告発」を書いた時代からは、本当に隔世の感がありますね。
 それはそれとして、「新・速力の告発」として、この拙文に冠したい。
 
 しつこいようだけど、平穏に暮らし、レジャーに時々高速道路を使用する者にとって、異常なスピードを追求するバカに道をお譲りしなければならないのは何とも理不尽に思います。しかも一歩間違えばそれは死に直結することなんだから。

 こういう輩でいつも思い出すのは、教育学者の苅谷剛彦氏が指摘している、「現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自己の有能感が高まる」(「階層化日本と教育危機」)だ。リテラシーが低い人ほど、自己肯定感、万能感が強いという分析だ。これはいろいろなところで感じることでもある。
 ちょっと関係ないかもしれないけど、もうひとつ思いだしのが、死んだ登山家と生き残っている登山家だ。すでに25年も前のつたない経験だけど、ヒマラヤ登山の同行取材で出会った登山家たちの中で、自信家だった若者は小さな雪崩であっさり死んだ。10人登っていて死んだのは彼ひとりだけだった。今から考えると雪崩というほどのものでもない、限定的な表層雪のスライド程度だったのかもしれない。反対に長く登山家として地道に活躍している知人は。いつも、ある意味で山を怖がっていた。(ように思う)
 正しく怖がることの賢さを、彼は認識していたのだと思う。いろんな意味で尊敬できる人だ。
 どんどん話がそれてしまいますが、まあ高速道路は本当に怖い。正しく怖がって、運転するのが肝要だ。危険を回避するのもひとつの能力だからね。


2017年8月19日土曜日

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』から考える「祈る平和」への“違和感”。その2

磯田道史氏の『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』が、アサヒの書評欄の「売れてる本」で紹介されていたので、買って読んだ。磯田氏はしばしばNHKのBS放送の歴史番組にも出演する歴史学者で、甘いマスクと平易で親しみやすい語り口で歴史を語る学者だ。
 最初はお手軽本かな?という気持ちで読み始めたが、どうしてどうして、非常に中味の濃い充実した新書だ。Eテレの番組「100分で名著」を加筆修正したものだというが、内容がいいだけにNHK出版も新書化したのだろう。これを1000円以下で購入できるのは絶対オトク。得した気分になる。
 と、まあどうでもいいことから入ったけど、この書籍は立派な「司馬遼太郎論」になっているだけでなく、日本近代史をどうとらえるかという歴史研究書ととらえることもできる。それは加藤陽子氏の『それでも日本は「戦争」を選んだ』にもあい通じる、冷静で公平な歴史認識の提示になっている。
 
 この著書の中で出てくることに、合理主義と対局にある、神頼み、日本人は最後は神が守ってくれるという、盲信が方向性を誤らせたことが指摘されている。もちろんこれは、何も磯田氏が初めて指摘することではないだろうけど、改めて彼の視点で司馬遼太郎の著書を「活用」して伝えてくれている。
 祈ればなんとかなる。神が助けてくれるという日本教(山本七平)的考えが“日本”をオカシナ方向に導いていった。
 このことと、毎年8月に繰り広げられる、祈りの日々、祈りの人々を揶揄するつもりはない。祈りの気持ちはもちろん尊重する。けれど、そうした姿に違和感を覚えるのには、祈ることが、いったんヘンな方向に行くと、「平和を祈る」心情もまったく正反対のものに行きかねない、合理的思考を停止しかねない危険性を感じるからなのだろう。と、自分自身の違和感の「原因」が、磯田氏の本を読んでなんだかわかったように思う。
 
文庫本が出ていました
  言うまでもなく「世界の平和」は強大な軍事力(核の傘)を背景にして成り立っている。それが現実だ。メディアもそのことは十二分に分かっている。ライトもレフトもだ。なのに「祈る平和」はそれとは切り離し、まったく別のものとして扱い報道する。でもそれでいいの?、と感じてしまう。じゃあどうすりゃいいのかという答えは持ち合わせないけど。
 仮に、8月の平和の祈りの一連の行事(6月の沖縄の祈りも含めて)を、祈る平和の考え方はおかしい、もっとリアリズムを子どもに教えるべきた。核の傘があるから平和なんだってことを、なんんて報道を8がつ6日や9日や15日にしたら、そのメディアはどうみられるだろう。マスメディアで最右翼と言われる社でもさすがにそこまではしないだろう。ほとんど読んでないので実際は知らないけど。まあそれが常識的というものだ。
 
 でも、リアリズム、合理的思考に目を背けるのは如何か。祈ることの無力さも認識しなければ、現実を見誤る。それは加藤陽子氏や磯田氏の書著を読むまでもなく、日本が神風を信じて失敗してきた近代と同じだからだ。

netより「引用」
  アメリカでは今でも、原爆が戦争を終わらせたという認識が広く国民に共有されているという。かつて防衛大臣がこの言説を“紹介”したら、失言として世間やメディアから袋叩きにあって、辞任に追い込まれた(と記憶している)ことがあったけど。でもそれは一面の事実なことは確かだ。そういう認識と、「原爆投下の正当化」は分けて考える必要があるだろう。だからこそオバマ大統領(当時)は広島を訪れて献花したのだ。謝罪したかどうかを問うことを被曝者団体もレフトなマスコミも直前のところで抑えた。リアリズムの中で、結果的に出てしまった多くの犠牲者に対して敬意を表したのだ。オバマさんは。そのことに対して、われわれ日本人(という大雑把なくくりはあまり好きではないけど)も敬意を表さなければならない。
 原爆の威力がいかに悲惨な結果を招くか、そのことは伝えていかなければならない。その意味でも8.6や8.9は大きな意義がある。だからこそ、その日を祈りの日にしてはいけない、結果の悲惨さのリアリズムを伝える場にしなければならない。世界の指導者がそのリアリズムを見ることにより核ミサイルのボタンを押すことを思いとどまることが、万にひとつもあるかもしれないから。

2017年8月12日土曜日

私たちはいつまで“慰霊”を続ければいいのか。「正さ」への違和感

今年も8月6日、9日があり、15日が来る。言うまでもなく6日は広島原爆投下、9日は長崎原爆投下、そして15日は「終戦の日」とされる日である。(単に「玉音放送」が流れた日なんだけど)。また加えて、本日(12日)は、日航ジャンボ機の墜落事故の日(32年前)であり、今年も慰霊の登山が行われることが朝のニュースでやっていた。
 親しい肉親を亡くした当事者たちにとっては忘れがたい日であり、慰霊を続けることに大きな意味があるのは、もちろん理解する。先のアジア太平洋戦争を知る当事者の方々もまだ多く存命だ。6日、9日、15日に祈ることは当然であり、その気持ちを否定する気はもちろんない。また原因を作った当事者(国家)が、犠牲になった方々の慰霊を支えることも、もちろん当然のことだ。
 慰霊の気持ちを否定する人はいない(特殊な人々を除いて)だろうし、その意味では「正しいこと」が毎年行われている。だから首相を始め多くの権力者も出席して式典が行われる。そうした基本的認識を持った上でなお、この「正しい」に違和感を持つことは、“異常”なのだろうか。
NETより引用
6日の広島の式典をテレビで見ていてどうしても違和感をぬぐえなかったのは、小学生に宣言させていることだ。当事者の方々にしてみれば原爆の悲惨さを後世に伝え子孫(もうひ孫もいるだろう)世代にも同様に悲惨さを共有してもらいたいという気持ちだと思う。この時期毎年のように新聞やテレビニュースの企画で行われる「語り部」の話も同様の気持ちからだろう。しかしその小学生たちは、ホンネとしてどういう気持ちなのだろうか。
 人の気持ちはそれぞれで一概には言えない。自身を振り返ってみると自分が小学6年生12歳の時は1970年。その72年前というと1898年だ。明治31年だ。
 日清戦争が1894年、日露戦争が1904年だからその間ということになる。この時代を小学校6年生が「原体験をして共有せよ」と言われても正直難しいところがある。もっと言えば、まだ存命だった祖父母から「日清・日露の戦いは・・・」なんて原体験としては聞いたことがなかった。アジア太平洋戦争の終結から25年しかたってないその戦争の話を聞くのが精いっぱいのことだった。
 時代の、いわゆるスピードが違うということもあるだろうし、小熊英二氏が確か6月のアサヒの論壇で指摘していたとおり、いまだに戦後○年とういう表現が使われる背景は戦後は新たな国家が作られたという認識が国民に多く共有されているからかもしれない。
 そういう背景的要因はもちろん認識するけど、それでも12、3歳の小学生に原体験として72年前のことを共有するようにも求めることには違和感を持ってしまう。おそらく大人が書いたであろう「平和宣言」を読み上げる姿を見て考えた正直な気持ちだ。
 当事者の方々は小学生に原爆投下の原体験を共有しろと言っているのではないかもしれない。単に、この出来事をきっかけとして「核なき世界」「平和の尊さ」を学んでほしいから行っている演出だというかもしれない。
 古市憲寿氏が以前、書いていた「平和の記憶から始めればいい」という主張は、私は正しい主張だと思う。
 当事者の方々の「悲惨は状況を忘れないでほしい」という気持ちは、失礼を承知で言えば、ある種の「承認要求」だろう。もちろんその気持ちは大切だし、平和を構築することを考えることは重要だ。でも出来事はいつかは「歴史」になる。歴史を正しく認識するという方法で平和、核兵器、等々を学ぶことは許されないのだろうか。原体験として語られることを引き継ぐことでしか平和は考えられないのだろうか。
国連事務次長 中満泉氏

 今年の広島、長崎の式典には「核兵器禁止条約」の批准に奔走した中満泉国連事務次長も出席していた。それはそれで非常に今日的意味のあることであり、そうした動きを否定するものでは決してない。
 中満氏がかつて言っていたように思うけど「祈る平和もあるけど、積極的に動く平和もある」というような趣旨(間違っていたらすみません)と発言していた。彼女はそれを身を持って動いて実現した人なのだろう。非常に大きなことだと思う。だからと言って祈る平和を否定する訳ではない。もちろん。
 だからこそ例年、メディアが祈る平和を大きくとりあげることに、なおさら違和感を持ってしまうのだ。原体験という呪縛からそろそろ脱してもいいのではないか。歴史として戦争、原爆投下を認識し、そして積極的平和主義に動いていく。そのことの方が大切だ。小学生に「祈る平和」を宣言させることの違和感とはそういうことなのかもしれない。ここまで書いて、やっと自分の気持ちに整理がついた。

 

2017年7月29日土曜日

民主党(民進党)にもう一度チャンスを与えたい。蓮舫は頑張ったと思う。

 蓮舫さんは頑張ったと思うよ。自分が「党首」の器ではないことは重々承知の上で、民進党(民主党)をなんとか浮揚させたいと去年立候補して党首になり、人寄せパンダになることことを決意したんだから。自宅や私生活まで民放のゴールデンタイムで公開して、それはそれで涙ぐましい努力だったと思う。
 でも、力尽きた。主に新聞報道から判断すると、まあどこの世界でもあるんだろうけど、ポストへの妬みなど不満ばかりが目出ち、足を引っ張ることの方が目立った。支持率が上がらない原因はきっとその辺になるんじゃないかな。
 世論の支持があれば不満も控えられるがそれがないから、いろいろ文句言う輩が出てくる。マスコミはそういう声を「拾う」。だって記事になるから。そうするとますます支持率は下がる。いわゆる負のスパイラルということだろう。
 やれ下野した時の党首(総理大臣)が幹事長だの、党首の国籍問題だのといろいろい不平不満を言いつのる人々、風に乗りたいだけで、離党(要するに宗旨替え)してナンとかファーストに行く人など、もともと党を利用していただけの人々。はたから見ていると人間の醜さだけが見えてきてしまう。
 月刊誌『世界』7月号に、玄葉さんなど民主党(民進党)のホープと言われる人々の対談が掲載されていたけど、そういうことはある程度、こうした良識ある人たちには共有されているのはせめてもの救いだ。
 今月のアサヒの論壇でも取り上げられていたっけ。
「自民党の受け皿」という言い方はあまり好きではないけど、政治に緊張感をもたらせ、よりよい方向にこの国(「この国」という言い方も自分ファーストみたいで好きではないけど)を導いいくためにも民進党の存在価値は大きい。好き嫌いは別としてね。だから小異を捨て大同につく度量をもってやっていってもらいたい。(ゴメン、そういいながら先の都議選では民進党候補以外に投票しました。だって民進党候補は当選の可能性がなかったし、魅力のない人だったから)。
 話は少し逸れるけど、安倍首相はどうなんだろうね。この人ほど失敗を糧にして学んだ政治家はいないだろうし、菅のサポートの凄さでもあるけど。こと外交に関してはなかなかやると思った。退任間近のオバマ大統領と真珠湾に行き、和解を演出し、その記憶も新たな時にとってかわって就任前のトランプに合いにいって、飼い犬のごとく尻尾を振ってきたのにはいささか驚いだけど、それはそれでなかなかしたたかだ。トランプへの態度を聞かれて「もっとも重要なパートナーであるアメリカのリーダーに敬意を法するのは当然のことだ」と言っていた。あの安倍が、腰の低いことを言うのは、なかなか大人だと、この件に関しては思ったけどね。
 その安倍もつまらないこと(と、言ったら批判されるけど)でつまずいた。日本の政治家ってその意味では似たりよったりですね。過去には宮沢喜一や加藤紘一のリクルート事件。まあ宮沢は復活したけど。
 よく言われているけど高度成長期でお金がじゃんじゃん入ってくる時に利害調整や利益配分をやっていれば政治になった時代ではない。もう選択肢は狭まっている。その意味では自民党でも民進党でも政策は似たり寄ったりだ。それはしかたない。だから何を選択するではなく、誰にやらすかという選択肢になってきてしまう。
 あまり同じ顔ぶれ同じ政党が続くと、そこにはなれあい癒着、マンネリがはびこる。民進党ももう一度政権を担わせ、政治に緊張感を取り戻すことは必要なことだ。「お部屋の掃除」と同じだよ。
 PKOで「戦闘状態」だったかとか、憲法改正の是非など、どうでもいい。と、言ってしまうとニヒリズムとみられ、良識ある人々からバカ扱いされるけど。あまりそういう問題で先鋭化するのではなくて、党議拘束を解いて平場で議論するくらいの冷静さがほしい。だって周辺の国々はみんなしたたかでしょ。内田樹さんが「街場の中国論」などで書いていたけど、15億人の胃袋を預かっている国の元首の緊張感と島国日本の政治家ではそりゃ違うだろう。ノーテンキな国だよね。
 蓮舫の好き嫌いを別にして、民主党(あえて民主党というけど)にはもう一度頑張ってほしい。鳩山や菅など第一世代のおバカさんたちがいなくなったのだから。
 
 本日は久しぶりに、ここ最近の報道からか感じることを書き殴ってしまった。まあこれが無責任ブログの良さだけど。

2017年7月8日土曜日

「トミンハイム」と「都民ファースト」て発想は同じだね

大田区多摩川の「トミンタワー」
「トミンハイム」という名称の建物が、拙宅の周囲にもいくつかある。大田区の多摩川沿いにある少し高層の大きな建物(トミンタワーと言うらしい)、目黒区の都立大学跡地のパーシモンホール脇、最近発見したのは田園調布の玉川浄水場の脇に建物もトミンハイムだった。
 『都営住宅』という言葉が「良くない」とされ、カタカナでヘンテコな和製英語だかなんだか分からない言葉にすることで、都営住宅の持っているイメージを一新しようという「たくらみ」又は「くわだて」なんだろう。
 都営住宅(市営住宅)は低所得者のために提供される住宅、都営住宅がある学区の学校は「よくない」などと言われる。それが本当かどうかしらなけど。そうした風評をぬぐいさる手立てとして「トミンハウス」なる名称が誕生しただろうことは、想像に難くない。そのことを
 で、これって『都民ファースト』とは、発想や構造がまったく同じじゃないか。言葉をおしゃれにすることで、大衆に「夢や希望」(実は幻想なんだけど)を与えて、期待を持たせる。実態を覆い隠す。
聞きかじりのにわか知識で言うと、ソシュールの言語論で言うところの、「モノが言葉を規定するのではなく、言葉がモノを規定する」(言語論的展開)ということであれば、それなりに効果はあり、為政者が次々に新しい言葉を生み出すたくらみから逃れられないのは、それなりに理解するけど。
 でも、われわれトミンはそれに惑わされてはいけないよね。

しかも「●●ファースト」という言説にはエゴイズムが内在されている。かの国の「アメリカファースト」は、それを言っている人がモロにエゴイズムをむき出してしているから、多くの他の国の人が眉をひそめている。それなのに『都民ファースト』の発想を批判する大手メディアはない。(ように思う)
でもそれは、せんじ詰めれば自分第一主義、エゴイズムということではないの?小池さん。だからと言ってこれまでの既成の自民党中心の政治がいいと言っている訳ではないけど。
 これまでの小池知事の行動は一定程度評価はする。(個人的には好かない人だけど、その思いは排除して)。でも、彼女のやっていること、やろうとしていることは、実はフツーの首長がやっていこうとしている人とそう変わりはないんじゃないかな。豊洲の問題は別として。どんな首長でも、まともな人であれば選挙民である自分の自治体の人々を優先して考える。例えば、自分の自治体にごみ焼却場がないのに他の自治体のためにそれを作る人はないでしょ。トミンハウスじゃなかった、トミンファーストとは、それを、ある意味でうまい表現で言ったに過ぎないし、繰り返しになるけど突き詰めるとそれはエゴイズムに近づいていくということだ。
 しかもこうした言葉に内在されている危険性は、言葉を適用範囲が広がれば広がるほど、曖昧になり、狭めれば狭まるほど、エゴイズムに近づくということだ。小池さんは最近「国民ファースト」と言い始めている。彼女の指す、都民、国民とはどういう人を言うのか。様々な利害関係、それぞれの思いは一様ではない。それらをひとくくりにして、言う時、その人たちの利益はぶつかるでしょ。「世界ファースト」「地球ファースト」と言ってみれば、小学生でもわかるでしょ。言葉として。
 言葉遊びに惑わされてはいけません。トミンのひとりとして、どう受け止めたらいいんだろうかね。まあどうでもいいけど。

(追記)
 ところで、ついでに都営住宅についていろいろ考えてしまった。余りに“豪華”な公営住宅ってどうなのかな。別に、貧乏人に税金で贅沢させるななんて言っている訳ではない。公営住宅を必要としている人は確かに存在するし、行政の施策として公営住宅の供給は確かに必要だろう。しかし希望する人(条件に適って)全員が入れる訳ではない。そこには入りたくても入れない人も出てくる。そうした人は仕方なく民間の住宅に入る。そこには格差が生まれる。一方トミンハイムなどの住宅に入った人はそこがあまりに立派で住み心地がいいと、収入が上がっても出たくなくなる。または頑張って稼ごうというインセンティブが沸かない。つまり勤労意欲をかえって削ぐ結果となる。公営住宅を供給する方は、(税金の許す限り)できるだけ「快適」な住宅を作ってあげようとするだろう。それが碁行政マンの人情だとも言える。けど、それが度を過ぎると公平性の観点から問題が生じる。そのさじ加減が難しい。
 豪華なトミンハイム(内は知らないけど)の存在は、平等とは、とか、公平性とはとかいろいろ考えさせられるものになるね。
 最初に戻るけど、「都民ファースト」も同じでしょ。何をfirestにするのか、よく分からない。いまのところ言葉だけが踊っている。
 豊洲に移転するけど、築地も残すという「計画」は耳には心地よく聞こえるけど、八方美人で移転推進派、反対派どちらにもいい顔しようという発想でしかないのは、フツーの人ならすぐ分かる話だ。
 少なからず都民税をお支払している立場で言うと、なんとも言い難いよね。私も都民なんですけど。

 

2017年6月17日土曜日

「最も危険なアメリカ映画」は米近代史の教科書だ。

 最初にアメリカに触れたのは、本多勝一氏の『アメリカ合州国』だったと思う。合衆国ではなく「州」だといちゃもんをつける本多氏の主張は確かにそうだった。そのタイトルだけでなく南部を歩くルポは、若い自分にとって新鮮だった。手元にないのでネットで調べると1981年刊となっている。すでに大学生だったのか。でも未熟な自分は、キング牧師の名と黒人解放くらいは知っていても、それ以上の具体的な出来事やアメリカの暗黒な歴史までの知識はなかった。
 
 「ドライビングMissデイジー」は、1989年の映画だ。
なぜだか印象に残る映画だ。DVDで2回観てしまった。
白人の警察官が「ユダヤ人と黒人の組み合わせか」と嘲笑するセリフが、この映画の背景のすべてを物語っていた。
『ドライビングMissデイジー』
(※追記:この印象深い映画も、見方を変えれば(町山さん的に解釈すると)、白人国家にあって、あるべき控え目で従順な、“模範的”黒人像を描いていると言えなくもない。またそういう見方はある面当たっていると思う。)

 と、前置きが長くなってしまったが、町山さんのこのアメリカ映画を分析した近著は、アメリカを知る上で、最もリアルな本だろう。この本を読んでアメリカの大衆社会のえげつなさと反知性主義の歴史が本当によく分かる。アフリカ系アメリカ人や先住民の苦難の道のりと、今も多くの白人に内在する差別意識など、一言では言い尽くせない豊富な内容だ。
 「バックトゥーザヒューチャー」や「フォレストガンプ」に隠された意図など、アメリカの現実を知ることができる。単純に感動したり、面白がって映画を見ていては、いけないことがわかる。
『さらば白人国家アメリカ』に書かれていたとおもうが、「サイレント・マジョリティー」の意味が、単に物言わぬ多数の人々という意味ではなく、アメリカでは、表立って差別意識を出せず、ホンネを言わない白人の集団を指すこと。ペイリンが言う「リアルなアメリカ人」という言い方が、白人たちを指すことなど、隠語的意味を解説してくれている。
報道では「草の根の保守」としか描かれていない(と思う。少なくともNHKニュースでは)「ティーパーティー」運動が、実はコーク兄弟に操られた運動だったことなど、それこそ「リアル」なアメリカが分かる。
 一読の価値あり。内容から言って1400円は非常にお買い得!
 

アメリカの“ルポ”というかフィールドワークで興味深いのは、もちろん渡辺靖さんの一連の著書だ。でも渡辺さんの本では補いきれないものが町山さんの本にはある。

ちなみに「アフターアメリカ」はこれはこれで、大変いい書籍だ。




2017年5月21日日曜日

「慰安婦像問題」を解決できるのは対日強硬派の文在寅新大統領しかいないというパラドックス

慰安婦像(netより「引用」)
 ●慰安婦像問題の泥沼 韓国の新大統領に文在寅(ムン・ジェイン)氏がなった。親北朝鮮、竹島にも上陸している対日強硬派だ。日本政府は表向きは平静を装っているが、内心はこれから大変だと思っていることだろう。日本大使館や総領事館前の慰安婦像問題には心を痛めている日本人も多いのではないか。右ウィングの方々の反発は相当だろうは。むしろ村山首相時代から慰安婦問題の解決に尽力してきたリベラルな人々の方が苦慮していることが伝わってくる。和田春樹氏など(この人はかつて拉致問題を否定してちょっとミソをつけたと記憶するが、そのことは置いておく)も、総合誌に寄稿したものなどを見るとそうした苦悩がにじみ出ている。 村山首相時代の「アジア女性基金」が日本側の努力にもかかわらず韓国で否定された。安倍首相が(この方にとっては最大限の譲歩だったと思う)パククネと同意した解決策も韓国では受け入れられたとは言い難く、それどころか慰安婦像問題は収束に向かうどころかむしろ各地でエスカレートしている。
文在寅大統領(netより「引用」)

●対日強硬派だからこその“期待”
 なかなか解決の糸口が見えないこの問題を、別の視点から考えてみたい。
結論から言うと、慰安婦像問題を解決できるのは、対日強硬派のムン大統領以外にいないということだ。
 方領土問題で、対ロシア交渉を行う時、“リベラルな”民主党政権が何か言うと、保守派からは、弱腰、譲歩しすぎ、と批判され、それが世論を形成してコトが進められなかった。しかし同じことを「右翼・保守」(右翼と保守は本当は別物だからあえてこう書くけど)の安倍首相が行えば、右ウィングの人々は、安倍さんが行うのなら仕方ないとなり、世論(とそれを誘導しているマスメディア)も認める。いわゆる「保守のパラドックス」だ。
 同様のことが韓国でも言えるだろう。親日派?のパク・クネが慰安婦問題で日本と交渉したことは、韓国内では「譲歩」「弱腰」と受けとられてしまった。しかい同じことを今度が対日強硬派のムン氏が行えば、「仕方ない」となる。これもまたパラドックスだ。

●理屈や論理では納得できない人々
 だれでも多かれ少なかれ、そういう面はあろう。
オルデカが「大衆の反逆」の中で、大衆性はインテリの中にもあることを書いていた。一人の人間の中に理性と大衆性のアンビバレントな心情は混在する。
 だから、ある人において、自分に関わる多くのことには論理的に対応できても、ある事象に対して(だけ)は、理性的に考えられないことがある。慰安婦像を設置することが(長期的にみても)正しいことと思う人たちも、そうした考え一色に染まっている訳ではない。この件に関して、いわば「気が済む」ことが、大事なんだと思う。

●「気が済む」ということ
ナルシシズム、承認要求などど、心理学的に切ってすてるのはたやすい。が、そうしてカテゴライズしても問題の解決の糸口は見えない。ちょっと譲歩して、「気が済む」まで、好きなようにやってもらい、その上で、対日強硬派大統領が解決策を示すということでしか、決してこの問題は前には進まないだろう。

どう思います。




 

2017年4月22日土曜日

那須の雪崩事故でなぜ責任者が逮捕されない。引率登山の重大な責任。

NETより「引用」
8人の高校生と教師が亡くなった、栃木県の那須温泉ファミリースキー場での雪崩事故から、1か月近くなる。その間の報道への疑問、警察の対応への疑問、そしてなによりも学校や教育関係者への疑問ますます強くなるばかりだ。
 昨日(4月21日)の夕刊で、同じ場所で7年前にも、同じ高校生の講習で雪崩事故があったこと、同じ教諭が引率していたことが報じられていた。

 路線バスや観光バスなどグリーンナンバー(営業車)が運転者の過失で何人もの人が死ぬ事故が起きたら、ほぼ間違いなくその運転者は逮捕されるだろう。新聞報道風に言えば(専門的に正確かどうかは分からないけど)、「業務上過失致死の“疑い”で、バスを運転していた●●(容疑者)を逮捕しました」となる。

 バスに乗るということは、そこに身を預けることだ。従って、運転者やその管理者は、当然に乗客の安全に気を配ることが求められる。事故を起こせば、自損事故だったとしても過失が推認されて、逮捕されることだろう。その後、釈放されたり、不起訴になるとしても、交通事故の場合は、「とりあえず逮捕」というの一般的だと思う。(間違っていたら誰か指摘して)

左上の斜面が現場?(NETより「引用」)
引率登山も同じだということが、山を知らない人々(警察関係者も含め)には理解できないらしい。自らの意志で山に登り、雪崩や滑落、落石など事故に遭ったら、それはまさしく「自己責任」だ。しかし引率登山は違う。高校生に限らず、集められた人は引率者にある意味で生命の安全を預けている期間だ。いわゆるガイド登山でも同じだ。本人が引率者の言うことを無視して勝手に行動するなど、よほどのことがない限りありえない。
 
 引率者は、集団の安全を確保する必要がある。当たり前のことだ。そこで事故が起きれば当然、責任が問われなければならない。
 
 登山のことを知らない人々は、雪崩事故は自然現象で予測不可能だと思うかもしれない。また、好きで登山しているのだから本人にも責任があると感じるかもしれない。そういう、ヤマをしらない人々の“雰囲気”が、警察の判断を鈍らせている。しかしそれはれは違う。無免許の運転手が事故を起こして乗客が死ねば、当然罪に問われる。当たり前のことだ。登山に免許はいらない、従って法的に責任はないという考えは間違っている。繰り返しになるが、引率されている人は、責任者に命を委ねているのだ。
 
 今回の事故では雪崩に巻き込まれたグループを引率していた教師も犠牲になった。ご遺族には申し訳ないけど一義的には彼に重大な責任がある。引率するということはそれだけ重い役割なのだから。しかし昨日(4月28日)のNHKの報道によると、この教師自体が、あまり登山の経験がなかったことが報じられていた。父親はインタビューに答えて、彼に引率させていた今回の登山研修の責任を問うていた。当然だと思う。
 
 この経験の浅い(剣道部顧問も兼ねていたという)教師に先頭のグループを率いらせていた、教師グループの責任は重大だ。麓の旅館に待機していたという、猪瀬修一教諭(山岳部顧問)はまず一番責任を問われるべき人物だ。それが道理というものだ。
右:猪瀬修一教諭(NETより「引用」)

 猪瀬教諭の会見の模様に謝罪の言葉がなかったとネットで批判があるようだけど、言葉で責任や謝罪を口にするかどうかという矮小化された問題ではない。重大事故そのものも当然の責任者であり、まず逮捕して取り調べられるべき存在だ。
 
 警察はなぜそうしない。同じ栃木県の「公務員」同士という甘えは存在しないだろうか。勘繰りたくもなる。

 引率登山に重大な責任があるという「知見」は、何も私のオリジナルではない。ジャーナリストであった本多勝一氏は、引率登山事故について繰り返しこのことを書いている。(本多氏のスタンスなどの好き嫌いはあるだろうが、少なくとも山に関する著述は優れている方だ)。

 繰り返す。
 栃木県高校体育連盟登山専門部会が主催した『引率登山』は、高校生たちがバスに乗っていたのと同じだ。引率していた教師らは、バスの運転手と同じ安全を確保する義務と責任がある。そのことを警察も一般市民も理解する必要がある。警察はなおも業務上過失致死容疑の疑いで捜査しているというが、少なくともすぐに家宅捜査で書類等を押収しておかなければならなかった。軽井沢のバス事故では運転手は死亡したが、旅行会社や運行会社の家宅捜査を行っただろうに、なぜ高校生が犠牲になる事故ではそうならない。

 報道も大いに疑問だ。軽井沢のバス事故では犠牲になった大学生らのことがさまざまなメディアで盛んに報道された。それだけメディアも重大なこととして、その犠牲者を同情的に報じた。それに比べれば今回の雪崩事故での報道、とりわけ山岳部顧問への報道は、少し及び腰だ。それは報道の担当者が登山そのものを知らないからだろう。勝手な「予断」をもって、自然現象、好きで山行に参加した高校生。その世話をしている顧問の先生。という構図を勝手にアタマの中で作り上げているだけだ。無知もはなはだしい。
 
 学校の会見でも、そうした「山好きの高校生を世話してあげているんだ」という雰囲気が、にじみ出ていた。猪瀬教諭という人物に「山や」としての、そして「教師」としての責任のかけらも感じなかった。

 ご遺族の方々はさぞかし悔しいだろう。告発すべきことだ。だれか力になってあげてください。

 

2017年2月11日土曜日

リスクとは。あなどれない飲酒を放射線被ばくから考える。

とにかく昨今は「リスク」という言葉をよく見聞きする。
原発問題、自衛隊のPKO活動、健康問題、等々、なんでもかんでもリスクがどうのこうのというのが、「高尚な議論」らしい。
誰だって多かれ少なかれリスクと付き合って生きている。リスクなどということを特に意識しなくても、『経験値』が無意識にリスクを回避してくれ、なんとか生き延びてきた。そんなもんだ。

うろ覚えだけど、内田樹さんが、分かりやすい解説をしていた。
リスク(risk)とは回避できる危険のことで、デインジャー(danger)は回避できない危険のことだと。

週刊エコノミスト(2011年10月11日号)より「引用」
今週忙しくて1週間ぶりに開いたこのPCのフォルダを整理していたら、面白い資料が出てきた。

 2011年10月の週間エコノミストに掲載されていたがんリスク比較の表だ。2011年は言うまでもなく東日本大震災のあった年であり、福島第一原子力発電所の事故と放射線漏れがあった年だ。10月というと、震災から半年余りで、放射線に関する報道でも、まだまだ混乱が続いていた頃だったと思う。今から思うと、本当に極論ばかり(左右とも)がクローズアップされて、冷静な判断能力が“市民”もメディアもまだ持ち合わせていなかった時期かもしれない。
 表を見れば、それこそ「一目瞭然」だけれど、200㍉シーベルト程度の被曝は、喫煙や大量飲酒、肥満と比べて、リスクは高くない。運動不足とほぼ同じくらいのリスクだ。100㍉シーベルトにいたっては検出不能と出ている。
 言うまでもないが、もちろん、これをもってして、原発は安全です。福島の放射能汚染はたいしたことはない。などと短絡的に言うつもりはない。太っている人、大量飲酒をする人は放射線被ばくのリスクについて語る資格はない、などとも言うつもりはない。冷静な議論が大切だということに尽きる。

 改めてこの表を見て思ったのは、アルコールのリスクだ。
こちらは公益社団法人アルコール健康医学協会のサイトに掲載されているアルコール換算表だ。
これを見ると、飲酒のリスクはあなどれないということを改めて認識する。

例えば、ワインを毎日3杯程度飲むとすると、180ml=アルコール20gなので
20g×3杯×7日間=420gとなる。
これは放射線被ばく500~1000㍉シーベルトと同等のリスクということになる。
喫煙に比べればまだ低いけど、これをどう見るか。

がんに罹患する人が人口のどのくらいいるのか知らないけど、たとえば20人にひとり(=5%)のリスクとすると、1.4倍のリスクだからこれが7%になるという理解でいいのだろうか。
もしそうだとすると、ワインを1日平均3杯飲む人に対して、「あなたは(飲まない人にくらべて)がんにかかる確率が5%から7%に上昇しています」と言ったとして、どれほどのインパクトがあるのか。
こういうことを言うと、がんのリスクを訴えてる学会の方々に叱責されそうだけど、まあそういうことなんだろうと、一般の人の多くは受け止めるだろう。
飲酒を習慣にしている人が7%のリスクを5%に下げるために、飲酒をやめるとはとても思えない。

でもこの論法を放射線被ばくに当てはめて、福島の方々に、同様に5%が7%に上がっただけですと言ったら、相当な非難を浴びることだろう。
要は絶対値ではなく、相対的で体感的、感情的な問題だということだ。
だから難しい。

ちょっと中途半端になったけど、もうすぐ9時で時間切れ。取りあえずアップします。