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2018年2月24日土曜日

立憲民主党の「原発ゼロ法案」、自民党「受動喫煙対策」どちらも「大衆迎合」政治にしか見えない。

理想は高ければ高いほどいいのだろか。それともただ、支持者へのアピールでしかないのか。
立憲民主党の「原発ゼロ法案」の内容には、がっかりだ。まあリベラル政党として、その支持者にむけて「アピールしました」というだけに見えてしまう。

印象としては、高い理想を「基本理念」として掲げる一方、法案としての体裁を整えるために、〇〇を推進、〇〇の措置を講ずる という表現で、いかにも政策推進を促す構成になっている。しかし内容としては、ひとことで言えば稚拙としかいいようがない。

基本理念で「電気の安定供給を計りつつ・・」「原子炉を効率的に全て廃止」、「電気の需要量を減少させるとともに」「再生可能エネルギーの電気割合を増加」と謳っている。

では、どうやって、「地球温暖化に配慮しつつ」電気の安定供給を計るのか。そのためのどうやって政策を推進すのか、さっぱり見えてこない。

 大きく言えば、地球上の様々な課題の中で、非原発だけを取り出して論じているとしか見えない。
政策とは、法律によって民間の動きを誘導してうくことであろう。その体裁をとっているが、とても実効性ある法律には、私には見えない。

原発を「効率的に」ゼロにするのは、ある意味では簡単だ。安い石炭、また石油や天然ガスの火力発電を自由に行えるような規制緩和を行えば、原発なんてなくても十分必要な電気は賄えるだろう。当面はね。化石燃料がダメだというなら、太陽光や風力発電を優遇する措置は補助金をたくさん出せば、それも進むかもしれない。日本じゅうの畑や水田をつぶして、また休耕田を政府が高く買い上げて、そこに太陽光パネルを敷き詰めれば電気はたくさんできるかもしれない。
同様の政策は現政府もさまざまやってきてはいる。ここでは詳細は書かなけけど、推進にはさまざまな課題も見えてきて、そうそう加速度的には進まないのも確かだ。
 
  高い理想は、それはそれでよい。しかし現状の冷静な理解や国民の“豊かさ“への渇望など様々な要素を斟酌した上での法律でなければ実現化への意味はないだろう。これでは、自分たちの支持者=リベラル派、非原発派へのアピールでしかないように思う。多くの国民への支持は広がらないだろう。だからメディアも、野党第一党の法案でもあまり多く取り上げない。なんとなくこの稚拙さを感じ取っているのだと思う。
  枝野さん、どうでうすか?

一方、自民党の部会が了承した「飲食店の受動喫煙対策」にも驚きだ。客室面積100㎡以下、資本金5,000万円以下の「中小企業」は「喫煙可」とするらしい。
100㎡の店といったら結構広い。と思いますけど。資本金5,000万円の飲食店といったら、それもまた、いち市民からみると結構おおきなカイシャに見えますけど。これでは、大資本が運営するチェーン店以外はほとんど「喫煙可」としているようにしか見えない。世界の動きへの逆行でしかないし、中小企業に配慮しすぎとしか見えない。これが「受動喫煙対策」なのだろうかね。「不満はあるが前に進めることが大事だ」という意見があり、とにかく部会が了承したという。へんなの。
 タバコの煙が大嫌いな私にとって、ほとんど無意味な法案だ。これもまたがっかりだ。
まあ、喫煙室のある飲食店にはいかないだけだけど。まして喫煙可の飲食店には絶対行かない。

喫煙者という「病気の人々」対策。もっと推進したら。それは医療費の抑制につながると思いますけど。喫煙は病気です。(かつて私も病気でしたが、この病気はなんとか40で克服しました)

「原発ゼロ法案」「受動喫煙対策」どちらも、支持者への「大衆迎合」政治にしか見えない。

(参考)
<立憲民主党 「原発ゼロ法案」>骨子(朝日新聞デジタルより“引用”)
第1 目的(略)
第2 基本理念
・電気の安定供給の確保を図りつつ、商用発電用原子炉を計画的かつ効率的に、全て廃止
・電気の需要量を減少させるとともに、電気の供給量に占める再生可能エネルギー電気の割合を増加
第3 国等の責務
・国は、これまで原子力政策を推進してきたことに伴う国の社会的な責任を踏まえ、原発に依存しない社会を実現するための改革を推進する責務を有する
・国は、改革に当たって生じ得る発電用原子炉設置者等の損失に適切に対処する責務を有する
第4 法制上の措置等
 政府は、基本方針に基づく施策を実施するため必要な法制上、財政上、税制上または金融上の措置その他の措置を講じなければならない。法制上の措置は、法律施行後2年以内を目途
第5 基本方針
(1)発電用原子炉の廃止
1.政府は、速やかに全ての商用発電用原子炉廃止を目標とする
2.政府は次に掲げる措置を講ずる
①発電用原子炉を運転することができる期間の延長を認めない
②商用発電用原子炉の運転は、原子力以外のエネルギー源を最大限に活用してもなお電気の安定供給の確保に支障が生ずる場合で、かつ有効に機能する地域防災計画が作成されている場合に限る
③商用発電用原子炉の設置の許可及び増設を伴う変更の許可を新たに与えない
④廃止するための国の関与の在り方について検討
⑤使用済み燃料の再処理は行わない
⑥再生可能エネルギー、可燃性天然ガスその他の原子力以外のエネルギーの利用への転換を図るために必要な措置
⑦商用発電用原子炉等を廃止しようとする事業者に必要な支援
⑧立地地域における雇用機会の創出及び地域経済の健全な発展
⑨廃炉等に関する研究開発その他の先端的な研究開発の推進支援
(2)電気の需要量の削減及び再生可能エネルギー電気の利用の拡大
①1年間における電気の需要量について、2030年までに10年の100分の30に相当する量以上を減少させる
②30年までに1年間における電気の供給量に占める再生エネルギー電気の割合を4割以上とする
第6 推進計画(略)
第7 本部
 内閣に首相を本部長とする「原子力発電に依存しない社会を実現するための改革推進本部(仮称)」を置く
第8 改革の推進を担う組織の在り方に関する検討(略)
第9 年次報告
 政府は毎年、改革の実施状況に関する報告書を国会に提出


2018年2月3日土曜日

地球温暖化。「原発ゼロ法案」より「火力発電ゼロ法案」の方が先だ。

 化石燃料の消費をどう抑えるか。そのことを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。 
 
火力発電所(東電広野火力)
先の総選挙で1,100万票を獲得したことを背景に、立憲民主党の鼻息が荒い。反安倍政権の“受け皿”として、一定の支持を得たことは確かだ。
 そのリベラルは姿勢から、また枝野氏自身が東日本大震災時に官房長官をやっていたこともあり、「脱原発」には熱心だ。長期的将来像として「脱原発」は賛成だ。少しでもリスクを低減させることは必要だ。しかしその前にまずやるべきことが多々あるだろうというのが率直な感想だ。
 
 野党は多かれ少なかれ「ポピュリズム」に陥らざるを得ない。人気がなければ選挙民の支持を拡大できないから。だから彼らのある種の極端な言説は大目に見る。そのことを差し置いても、でもやはり、「原発ゼロ法案」に固執することは支持できない。
電気スタンドの「その先」に想像力を働かせよ
放射能という目に見えないリスク、またどんな影響があるのかはっきり分からないことへの恐怖心。原子力というと、日本でまず思い出されるのが、当然ヒロシマ、ナガサキの悲惨な映像であり、実際、被曝者の方はまだ多くが存命で、その恐ろしさを語り継いでいる。だから大衆(=物事を深く考えずに、直感で判断する人々)が「原子力」に対して、得体のしれない恐怖心を抱くのは当然かもしれなし。
 
 交通事故で年間5,000人前後が死亡することや、自然災害で何十人も犠牲になることは、いわば目に見えることであり、直接カンケイない人々にとっては、1回見てしまえば心のどこかで、「なーんだそんなことか」と安心してしまうのは人間のいわば性(さが)だろう。

 化石燃料を燃やし続けることがどれほど怖いことなのか、特に石炭は地球環境への悪影響が大きい。それをまず止めることが、そのために自然エネルギーへの転換を促進するのは理にかなっている、と思う。

 寒波がきても暖房は着けないで我慢して。外灯はムダだから暗い道を歩くことに慣れてください。エスカレーターは動かさないので階段を歩いて。電気製品はなるべく使わないで生活して。ということを国民に呼びかけるのでしょうか。「原発ゼロ法案」を促進する人々は。まあそういうことの国民的合意(何割賛成すれば合意されるのか、その定義はないけど)があれば、それはそれで進めてください。

 しかし人間は一度手に入れた便利さをなかなか手放すことができない。それはそれ、脱原発は別問題です。と言うのは無責任な主張としか思えない。

 企業は省エネの技術革新の努力を続けてきたし、今後も続けていくだろう。そのことには敬意を表したい。しかし省エネにも限界がある。電気を使うものは使うのだ。そのことを抜きにエネルギー政策は進められない。他の項目でも書いたけど、電気自動車の普及には大量の電気が必要だ。その、当たり前のロジックを抜きにしてはエネルギー政策は語れない。

水素自動車の普及の可能性は?
冒頭に記したように化石燃料の消費を抑えることを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。だから原子力を推進しろとは言わないし、そんなことを主張している訳ではない。冷静に見積もって、原子力をなくす道程は、それまでにするべきことが多くあり、息の長い取り組みが必要だということだ。

 

 リベラル派の「受け皿」になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。

(追伸)
「リベラル派の『受け皿』になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。」と、1週間前は結語としたけど、改めて考えた。
 政治・政党についてこう突き放しても、何の発展的発想にはならない。憂うべきは、野党が票を獲得するために、ポピュリズムにならざるを得ないこの大衆社会そのものだろう。彼らも実は分かっている。しかし票を獲得するにはこれしかないと開き直っているようにも思う。
 でも自民党に投票した人々の票を“奪う”には、もっとまっとうな議論で正面突破するしかない。原発に心底反対している人。消費税は上げない方が日本がよくなると心から思っている人。憲法は絶対変えない方がいいと考える人。それぞれのカテゴリーについて、メディアの政治報道はもう少し、整理して、その集団をあぶり出す努力をしてほしい。表面的な既存の政党や派閥の動きを伝えるだけが政治屋報道ではないでしょうに。それができるのがネットではなく、あえて言えばマスメディアができる調査報道そのものではないでしょうかね。





2017年2月11日土曜日

リスクとは。あなどれない飲酒を放射線被ばくから考える。

とにかく昨今は「リスク」という言葉をよく見聞きする。
原発問題、自衛隊のPKO活動、健康問題、等々、なんでもかんでもリスクがどうのこうのというのが、「高尚な議論」らしい。
誰だって多かれ少なかれリスクと付き合って生きている。リスクなどということを特に意識しなくても、『経験値』が無意識にリスクを回避してくれ、なんとか生き延びてきた。そんなもんだ。

うろ覚えだけど、内田樹さんが、分かりやすい解説をしていた。
リスク(risk)とは回避できる危険のことで、デインジャー(danger)は回避できない危険のことだと。

週刊エコノミスト(2011年10月11日号)より「引用」
今週忙しくて1週間ぶりに開いたこのPCのフォルダを整理していたら、面白い資料が出てきた。

 2011年10月の週間エコノミストに掲載されていたがんリスク比較の表だ。2011年は言うまでもなく東日本大震災のあった年であり、福島第一原子力発電所の事故と放射線漏れがあった年だ。10月というと、震災から半年余りで、放射線に関する報道でも、まだまだ混乱が続いていた頃だったと思う。今から思うと、本当に極論ばかり(左右とも)がクローズアップされて、冷静な判断能力が“市民”もメディアもまだ持ち合わせていなかった時期かもしれない。
 表を見れば、それこそ「一目瞭然」だけれど、200㍉シーベルト程度の被曝は、喫煙や大量飲酒、肥満と比べて、リスクは高くない。運動不足とほぼ同じくらいのリスクだ。100㍉シーベルトにいたっては検出不能と出ている。
 言うまでもないが、もちろん、これをもってして、原発は安全です。福島の放射能汚染はたいしたことはない。などと短絡的に言うつもりはない。太っている人、大量飲酒をする人は放射線被ばくのリスクについて語る資格はない、などとも言うつもりはない。冷静な議論が大切だということに尽きる。

 改めてこの表を見て思ったのは、アルコールのリスクだ。
こちらは公益社団法人アルコール健康医学協会のサイトに掲載されているアルコール換算表だ。
これを見ると、飲酒のリスクはあなどれないということを改めて認識する。

例えば、ワインを毎日3杯程度飲むとすると、180ml=アルコール20gなので
20g×3杯×7日間=420gとなる。
これは放射線被ばく500~1000㍉シーベルトと同等のリスクということになる。
喫煙に比べればまだ低いけど、これをどう見るか。

がんに罹患する人が人口のどのくらいいるのか知らないけど、たとえば20人にひとり(=5%)のリスクとすると、1.4倍のリスクだからこれが7%になるという理解でいいのだろうか。
もしそうだとすると、ワインを1日平均3杯飲む人に対して、「あなたは(飲まない人にくらべて)がんにかかる確率が5%から7%に上昇しています」と言ったとして、どれほどのインパクトがあるのか。
こういうことを言うと、がんのリスクを訴えてる学会の方々に叱責されそうだけど、まあそういうことなんだろうと、一般の人の多くは受け止めるだろう。
飲酒を習慣にしている人が7%のリスクを5%に下げるために、飲酒をやめるとはとても思えない。

でもこの論法を放射線被ばくに当てはめて、福島の方々に、同様に5%が7%に上がっただけですと言ったら、相当な非難を浴びることだろう。
要は絶対値ではなく、相対的で体感的、感情的な問題だということだ。
だから難しい。

ちょっと中途半端になったけど、もうすぐ9時で時間切れ。取りあえずアップします。


2013年7月5日金曜日

ナルシスト泉田裕彦新潟県知事の幼稚な言説。柏崎刈羽原発の再稼働を巡って。

7月3日朝日新聞より「引用」
柏崎刈羽原発が安全なのかどうか。安全の度合いがどの程度なのかは知らない。再稼働が「正しい」選択なのかもわからない。だから良いとも悪いとも決めつけない。
それはそれとして、東京電力が、新しい安全基準に基づいて再稼働審査を原子力規制委員会に申請したことについて、新潟県の泉田知事は「信頼関係を破壊する行為」と怒ってみせた。

衆愚の民と同様の空虚な言葉が躍っている。泉田氏はまた、「安全が確認できなければ再稼働は認めない」とも言っている。
具体的にどういう状態になることが「安全が確認できた」と言えるのか、いっさい言及がない。
「安全が確認」とか「信頼関係を破壊」などと言うのは、もともと言うべき中身がないことを告白しているにすぎない。

泉田氏は単に、柏崎刈羽原発原発の再稼働がイヤなだけなのだ。それをストレートに「ボクはイヤだ」と言えないから、もっともらしい言い方をして、メディアや人々を煙に巻いているにすぎない。

住民が権力者(それは企業や政府や役場など)のやることが気に食わない時に使う常套句、「納得いく説明がない」「信頼関係がない」と言うのと同じだろう。

7月3日朝日より「引用」
論理的に反論できないから、感情に訴える。もちろん専門知について情報の非対称性があり、情報を持っている側と対等に論争できないことは分かっている。であれば、なおのこと、こういうことがわからない、こういう点についてハッキリさせてくれという、疑問を素直に投げかければいいのだが、こういう人々はそうはしないのが常だ。

泉田氏はただ、再稼働がイヤなだけだから、感情に訴えて怒ってみせるしかないのだ。憶断を承知で言えば、京大→通産省のキャリアから知事に上り詰めた、地元出身の立身出世の人物として、「原発の再稼働を認めた知事」との“汚名”を被りたくなかっただけだろう。彼にとっては東電がつぶれるとか、電力不足になるとか、地球温暖化が進むとか、まったく関係ない。ただ自分がかわいいナルシストでしかない。

冒頭にも書いたが、誤解のないよう言っておくと、原発再稼働が正しいことかどうかは分からない。
知事ともなれば、反論するならもっと理論武装して具体的に反論すべきだということを言っているのだ。泉田氏は“秀才”だったのかもしれないが、天下国家を担う器ではなかったのだろう。恥ずかしい人だ。

○追記:
朝日が記事にしていた浪江町長の「反省ない」に至っては、お笑いとしかいいようがない。どうすることが「反省があり」、どうしないと「反省ない」というのだろうか。
信頼とか、理解とか、反省とか、一見もっともらしい抽象的表現で物事を切ろうとするのは、人を騙すことにほかならない。

それを補完するがのごとく、同日の朝日の社説は「とても理解は得られぬ」という見出しで、「泉田知事を孤立させてはならない」と結んでいる。どうしても原発をやめたい、地球温暖化も経済もまったく「そんなのカンケイない!」朝日新聞の意図が露骨な紙面作りだった。7月3日の朝刊は。

7月3日朝日より「引用」

2013年6月25日火曜日

原発災害、「村、町への帰還が復興」という言説は、封建制度の呪縛による発想

東日本大震災による東京電力福島第一原発の放射線漏れ事故で、「避難」を余儀なくされている人々の苦難と苦悩は、大きなものだろう。お年寄りだけでなく、仕事と子育ての関係から引き裂かれた家族の苦労は想像に難くない。
そのことを十分“理解”した上で、被災自治体が「帰還」を前提に復興を考えていること、多くのメディアも「もといた場所に帰ることが一番」という前提で報道していることに、違和感を覚えてしまう。

モノを壊されり、傷つけられたら、「現状回復」するのが原則だろう。「元通りにしろ」と叫ぶのは心情的にはもっともな話しだ。しかし世の中は、どうしても完全には元通りにはできないことも多い。だから次善の策を考え、場合によってはお金による解決策を作ってきた。交通事故の賠償を考えればわかる話しだ。

加害者側の責任は責任として追及されるべきだが、それと「元通りにしろ」という要求は分け考えなければならない。それが、こと原発災害ではごちゃまぜになっているように思える。
また、被災自治体も元通りのマチ、ムラになることが唯一の、そしてベストの選択肢だと振る舞っている。もといた場所になかなか帰れず何年もかかること。つまり人生の貴重な時間を「避難」という形で過ごすことより、「新たな生活」として過ごす方が、幸せな場合もあろう。

被災自治体が住民に「現状回復」しか青写真を示さないのは、構造的な問題があるからだ。首長にとって、また自治体で働く者にとって、わが町、わが村が存在することが、唯一の自分たちの存在価値だから。彼らにとって人口が減ることは、許せないことなのだろう。あたかも企業にとって売り上げが減ることの恐怖と似ている。サラリーマンでもそうだろう。給与が減ることはある種の恐怖だし屈辱だ。
しかしもう少しおおきな枠組みで考える必要があるのではないか。
マチ、ムラ単位でモノゴトを考えて、それに沿って政策を進めているから、埒があかない。

そもそも、(日本人)は、どうして先祖伝来の土地にこだわるのか。歳いった人が、もう「終の棲家」として動きたくないというのは別にして、これから人生がある人にとって、必要に応じて住まいを動くというのは合理的な判断だ。実際そうして生きている人もいるし、いわゆる転勤族にとっては、好むと好まざるとにかかわらずそうして生きたきた。しかし原発事故の被災地では、「元の場所に住むことが最善」という前提で動いている。そこに疑問を呈する余地を許してはくれていない。

いつまでも小さな市町村単位レベルでしか発想できないから、住民たちも抜け出せないのではないか。ひとつところに留まって暮らせというのは封建時代の発想でしかない。「中国化する日本」を読んで、その思いは強くなった。

そんな中で朝日に福島総局長・渥美好司氏の「『移住』選んでもいいのでは」というコラムが載った。研究者の言葉を借りながら、遠慮がちに「移住」の選択肢を示していた。ホンネを言うは気を遣う新聞社だから、しかたないだろうけど、実際、フクシマに居て、そうした思いに至ったのだろう。

「原発被災地域は、なかなか元通りに住めるようにならないのだから、いっそ、みんなでムラを捨て、新たなコミュニティーを作るか、周辺、あるいはもっと自由に好きな土地を選び、既存のコミュニティーに加わるというのもいい。そして、場所が決まらず対応上している放射能汚染土の最終処分場や中間貯蔵施設を、被災地に作り、その見返りの金銭を資金として生きていく方が合理的だ。」

というようなことは、おそらく自治体の長やメディアは絶対に言わないだろう。いや、言えないだろう。「ムラに帰る」ことを目指すことが、かえって被災した住民を長期にわたって苦しめていることには思いが及ばない人たちだ。
「壊したものは元に戻せ」とい「主張」のみが正しいとしされる“高度”に“大衆化”されたいまの日本ではしかたないかもしれないが・・。


朝日新聞より「引用」

2012年7月29日日曜日

「本当のこと」を言うと批判される社会。原発聴取会に見る日本人のメンタリティー

7月17日 朝日新聞より引用
野田首相が、「消費税はもっとも公平な税」だと言ったら“批判”されたという記事を紹介した。
湯浅誠さんが、総理府の参与を辞任するに際して綴ったブログで、市民運動側の縦割りの問題点を指摘したら、市民運動の一部の人々が湯浅さんを“批判”したという。

 2030年のエネルギーの原発比率を決める、住民参加の公聴会で、中部電力の社員が個人として参加して、福島第一原発の事故では「放射能による一人の死者もまた、重篤な放射線障害の被害者も出ていない」と言ったら、反原発の方々から“批判”された。
どれも、言った(書いた)ことへの論理的“反論”ではなく、“批判”をしているだけだ。(少なくともそのように見える)。
これって、やっぱりおかしくないか。

「あなたの言っていることは、論理的にこれこれの矛盾がある。論旨の進め方の欠陥がある。また事実認識に間違いがある」という「反論」であれば、それはスジの通ったことであり、言った方とある意味で「対話」が成立して、発展的論争ができよう。
しかし、(単に)批判することは、感情的な反発でしかない。自分の気に食わないことは、とりあえず批判しておく。そうすることによって自分の「面目をどうにか保ち」、「立ち位置を改めて確認」するだけの、いやしい行為でしかない。
本当にイヤな世の中である。日本人のメンタリティーは底が浅い。
同様のとりあえずの“批判”は、けっこう様々なところにある。政治家の伝えられる言動は、こうしたことは日常茶飯事だし、新聞や雑誌、民間放送の(底の浅い無能な)アンカーマンもしかりだ。

この際、もう一度確認しておこう。
消費税は、所得が完全には把握できない状況では「もっとも公平な税」であることは論を待たない。
消費税が高いと低所得者に負担が大きいというのは、だれでもわかるし、そのことを否定しようとは思わない。ものごとは「正しいし事実把握」からでしか「最適解」は導きだせない。消費税は公平な税だという認識をまず市民が持つことが、「税と社会保障改革」の第一歩であろう。
先日、新橋のそば屋で昼飯を食べていたら、ビジネス客が「領収証」をもらっていっていた。店の方もヒルメシ時の領収書の発行も手慣れたもののようだった。つまりここから「連想」できるのは、経費で落とせる法人企業(主に中小だろう)では自分たちのメシ代も経費にしていく。ちりもつもれば結構な額になろう。そして法人は「経費がかかり赤字」となり、法人税を払わなくて済む。という構図だ。実際法人の3分の2は「赤字」で「法人税」を払っていない。それでカイシャがつぶれないのはなぜか。ちょっと考えれば小学生でもわかる「社会の仕組み」だ。所得に課税するのはどんな制度をつくろうとも絶対に公平にはならない。

「原発による放射能で死亡した人はいないし、重篤な放射線障害を起こした人もいない。」これは「反原発の不都合な真実」(新潮新書)でもはっきり書かれている「周知の事実」だ。それを言うことがなぜ批判されるのか。感情的反発以外のなにものでもない。もちろん原発の放射能汚染で、土地を奪われ、避難を余儀なくされる方々への「配慮」をする必要がないと言っているのではない。気持に寄り添うことは「日常の言動」では自然なことだ。そんな気遣いは、これも小学生でも分かる。
しかし「原発の比率を考える」ための「真面目な議論」をする「データ」として出すことに、なぜ反発するのか。まともな議論をしようという姿勢とはとても思えない。やはり「反原発派」は宗教化されていると思えてしまうのは、こういうところだ。

事実に基づいた、論理的で真摯な議論をさまたげることに何のためらいも持たない人々や一部のメディア。やはり日本はダメな国なんだな。

2012年6月28日木曜日

「取る(=定期購読)に足らない」新聞になった精神論の新聞、朝日

自分の考えと違う主張があっても、それに耳を傾ける度量は“多少”はあるつもりだ。少なくとも言論界や論壇を多少なりとも「見ている」立場にあっては。その基本姿勢は常に持って読んできた。
ただしそれは、主張に合理的な理路があり、説得力あるものであればの話しであり、「精神論」を振り回す輩のメディアは論外である。あたりまえだけど。

反原発報道を巡る、新聞各社の社論が真っ二つなのは、かつて書いた。
反原発の朝日、毎日、東京VS.原発容認の読売、日経、産経。この半年あまりの社説を記録して分析中(まとめる時間がなくて・・・)だが、これほどきれいに分かれた主張も最近では珍しいのではないか。なにしろこの問題に関してはファジーな主張はないからだ。原発を認めるのか認めないかの二者選択だけだ。中庸、中間はない。(もちろん認める方に比率につての温度差はある)

6月13日朝日新聞より「引用」
幼稚な主張を繰り返す東京新聞は論外にしても(それでも発行部数からすれば無視できない数だろうが)、昔からクウォリティー紙と言われた朝日の反原発は、どうみても「精神論」の域を出ない。
節電の呼びかけにしてもそうだ。100歩譲って言えば「性善説」に立っているのだろうが、性善説では世の中成り立たないのは、朝日さんに説教するまでもないでしょうに。

野田首相はの大飯原発稼働の必要性を訴える会見で、「精神論では国が成り立たない」と、それまでより突っ込んだ物言いをした。これに対して朝日は、翌日の新聞のコラム「窓」で、「再稼働こそ精神論」と反論した。よっぽどカチンときたのだろう。脱原発を「精神論」と言われたのが。だがやはりどう考えても朝日の脱原発の一連の主張は精神論でしかない。

○喫緊の問題として「地球温暖化」の国際公約はどうすのか。
公約したからというだけでなく、実際ツバルでは海面上昇で国がなくなろうとしている。このところの異常気象。海水の温度上昇で、八重山諸島では白化現象が起きてサンゴが死滅。反対に本土では紀伊半島どころか房総半島沖沿岸でもサンゴの生息が確認された。

温室効果ガスと地球温暖化、異常気象の「因果関係」は科学的にはまだ証明されたとは言えない。しかし多くの人が感じている「昔とは違う異常現象」や温暖化の影響は無視できないし、とりあえず疑われる要因(CO2)を削減するという目標は間違っていないだろう。

しかし朝日さんの主張は違う。脱原発を社論と決めてからは、温暖化問題などなかったように、記事は扱わない。無視していると言っても過言ではない。おそらく社内の暗黙の了解として「この問題はしばらく触らないでおきましょ」というところなんだろう。

朝日は「脱原発」がなぜ可能なのか、どういう道程を踏めば進めるのか。ほとんどまったくと言ってもいいほど触れていない。産業空洞化の問題、開発途上国の今後の経済発展で化石燃料が高騰するリスク。もちろん中東リスクも当然ある。そうしたものは「脱原発」の教祖の前では無視されている。こうした疑問に具体的な施策を提言し、説得力あるものであれば、「なるほどこういう論法で脱原発も可能なんだな」と読者も思えるのではないでしょうかね。それなくしてはこれでは「精神論」そのものだ。開沼博氏の言葉を借りれば、宗教的ですらある。新運動家と巷間呼ばれる人たちの叫びと何ら変わりない。説得性も説明性もない。

○「節電」の精神論
節電については、社説で2回も3回も取り上げ「奨励」しているが、このおかしさにもひと言触れておこう。電力不足によって家庭や企業が電力使用を見直し、無駄をそぎ落とすことは当然だし、多くの人がやっているだろう。しかし「節電」は、どこまでやればいいのかという指標がない。政府は「無理のない範囲で」ときれいごとを言うが、様々な報道で伝えられるように工場、特に中小企業の事業所では血のにじむような努力をして去年の夏を乗り切った。夜間、休日に働き、冷房はかけずに汗だくになって働く姿が、テレビニュースでは何度も流れた。こうした人たちに朝日は「ガンバレ」と言うだけだろう。これって精神論でしょ。「欲しがりません勝つまでは」とかつて皆で歌った(らしい)のと何が違うのか。

6月2日の「あぜん、再稼働」では京都大学の植田和弘教授という「識者」が、
「あの暑い真夏に私はちなぜ、あんなに冷房をガンガンかけてまで働くのでしょう。欧州のようにバカンスを取り、農山村の自然の中で夏を過ごせないものでしょうか。そうすれば電気消費表も減る」と説くのを載せていた。
大学教授とは優雅で知的なショーバイなんでしょうね。この人の眼中にある「欧州」とは、中産階級以上の人しか映らないのであろう。アフリカやアラブからの多くの移民が低賃金で支えている欧州社会の本質なんか映っていない。
「声」欄にも「京都の町家の工夫を生かせ」なんていうのが載っていたりした。集合住宅や一戸建てだって、ほとんど隣とくっつきそうな隙間しかなく庭なんてない家に多くの人が住んでいることなんか分からないおメデたき人々の「声」だ。ルサンチマンの虜囚として言っているのではない。自分の置かれた恵まれた事情からだけ物を言う人の「思慮のなさ」に呆れているのだ。

これは「市民運動」の人々にもよく通じることだ。「わたした市民の声を聞いてください」と叫んでいる人がいるが、この時、市民とは自分たちと同じ考えを持ち、同じ境遇にいる人“だけ”と規定されている。無意識に人を差別化していることに気がついていない。往々にしてこういう人の考えは偏狭で話し合いの余地がないほど教条的だ。あっちの人は市民ではないのだから。
(※湯浅誠さんは「市民運動の立ち位置」で、そのへんのところをやんわり批判した。湯浅さんは決して市民などという言葉を軽々には使わない。


社会人になってからずっと(もうすぐ30年になる)朝日新聞を定期購読してきた。しかし「精神論」の新聞はもういい。そろそろやめにする。家人が楽しみにしている連載小説(朝・夕とも)の現在の連載が終了すれば、その月までにするつもりだ。

朝日では土曜別刷(beeと言ったっけ)や日曜日の書評、夕刊文化面など信頼もおける結構好きな記事もあった。また署名記事では、経済の原真人氏の主張は、脱原発一色のこの新聞にあって、異彩を放つ説得力のあるもので、いつも物事を考える参考になった。だから惜しいけど、これからは勤務先や図書館でナナメ読みだけにしよう。


(でも取る新聞がない。Yさんは江川事件以来基本的に信用していない。Nさんだけだと経済に偏ってしまう。Tは論外、Sは原発や消費税では常識的な論を張るが、皇室や対中関係、対朝関係、戦争評価ではちょっと・・・・。で、Mさんもイマサンくらいだ。かといってS教新聞やしんぶんA旗を取る気にもなれないよね)。


○原真人氏の記事の確かさは、別に論じたい。
○原発はなぜ必要か、説得力ある論考としては、中央公論6月号 豊田正和氏の「日本にとっての最適なエネルギー・ミックスは何か」が参考になる。簡潔にまとめられている。同様の内容は新潮新書「反原発の不都合な真実」に詳しい。

2012年6月24日日曜日

大飯原発運転再開。箸の上げ下ろしまで報告させる“幼稚”な主張

再稼働の準備作業中の大飯原発3号機で、警報器が作動するトラブルがあった。その公表が13時間もたってからだったことから、新聞・テレビは、発表の遅れを批判的にとりあげ、経産省も「厳重注意」したという。そして今後は「どんな小さなことでも即座に報告」するらしい。

問題となったトラブルとは、発電機のモーターを冷却する水のタンクの水位が低下したための警報で、法令に基づく異常事象ではないため、原子力安全・保安院は、夜中に即座に発表をしなかったという。
これがどの程度の“危険”なトラブルなのかは、シロウトには正確にはわからないが、少なくとも法令で定められたトラブルでないことや、新聞報道などから伺い知れることとしては、冷却用の水位が幾分低くなったので、「水を足して」という警告がなされた程度のものらしいことは伝わってくる。

NHKニュースでは保安院の職員らしい人が会見で、今後どの程度のことまで即座に発表をしていくべきなのか考えていかなければならない、といった趣旨のことを、困惑気味に語っていたのが印象的だった。(きちんとニュースを見ていたのでないので、不正確かもしれない。ただカオが困惑していたのだけは確かだっだ。)


「羹に懲りてなますを吹く」とう諺は誰でも知っているだろう。
(※羹(あつもの)=熱物 肉や野菜を汁を多くして煮たもの・・・ことばんくから)

原子力に対する「信頼が地に落ちて」いるらしいから、地域住民が神経質になるのはある程度理解できる。しかし「地に落ちた信頼」というのはマスメディアが言い出して読者・視聴者とメディアがキャッチボールをする中で増幅されてきた一種の「幻想」である面も否めない。
確かに福島第一原子力発電所は、大きな事故を起こした。(但し、誰も直接的には死亡していないし、重篤は放射線被曝の障害も負っていない。・・・「反原発」の不都合な真実より)
が、大飯原発を始め、現在停止している原発は定期点検のため停止しているのであって、トラブルが原因で停止している訳でも何でもない。にもかかわらず「信頼が地に落ちている」というのは、どういう理路なのかさっぱり理解できない。

まさに「羹に懲りてなますを吹く」以外に適切な言葉が思い浮かばない。
あ、いまこう書いていて浮かんだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だ。

もちろん、大地震による原発施設の損傷や津波による制御不能の事態の可能性がまったくないと言っているのではない。少しでも重篤な事故が起きる確率を低減させてほしいし、そうした努力を電力会社は続ける義務があることを否定しているのではない。(ただし事故の確率はゼロではない)

メディアはものごとを単純にすることには天才的だ。東京電力福島第一原発で、津波による重篤な事故が起きた。これは事実だ。初めての経験の中で、時の政府は混乱し、東電にも明らかに事故後の対応に瑕疵があった。それに菅直人という「類まれな」おバカ首相のために混乱に火を注いだ。これもほぼ事実だろう。
少し落ち着くとメディアによる「犯人捜し」が始まり、「原子力ムラ」という「一大犯罪組織」が存在することが報道される。このへんから怪しくなってくる。そのムラの構造や原子力政策の歴史などは十分斟酌された報道はいまだあまりなされていない。
そして「ムラ」社会だから原発すべてが「怪しい存在」として規定される。
リテラシーの低い“大衆”は、冷静な判断よりも、メディアの「見出し」に洗脳され、「思い込み」が「事実」として認識されてくる。

かくして、大飯原発は信頼のない人々が稼働させている危険なものと規定される。だから、些細(と思われる)トラブルを発表しなかったことが「大問題」となり、「今後はどんな小さなことも報告する」ことになっていく。

これって、本当にいいことなんだろうか。担当者は原発を安全に動かすことに注意を向けるより、メディアへの対応に神経を使うことになる。ヒトの行うことには限りがある。限られた要員の中で、つまらぬことに人的資源が使われ、本来業務が疎かになる懸念は大きい。現場を萎縮させるだけだ。

「フェイルセーフ」のことをかつて書いた。フェイルセーフがあるからこそ、警報が鳴るのであって、それをいちいち報告がないと咎める愚は、どうしようもない。メディアのこうした論調を眺めているとだんだん気分が悪くなってくる。

菅直人は官僚嫌い、つまり官僚や官の組織(東電もその範疇だろう)をまったく信頼しない性癖から、「自ら動き」、混乱を増幅させた。よくもわるくも、任せた以上、結果がどうであれ「信頼」するところからしか、物事は始まらないのではないか。

メディアと大衆のキャッチボールから生み出される「幼稚な法則」は、収まりそうにない。