2017年10月28日土曜日

北アルプス・大キレット越え 還暦を前にして

9月24日~26日、今年の「夏山登山」をようやく敢行した。今回の狙いは槍岳~北穂高岳の「大キレット越え」だ。多くの人が憧れるであろう、大キレットは、テレビでも何回も取り上げられ、まあ山を少し歩いた経験のある人なら行けそうなところだけど、毎年滑落事故が何件か起きているのも確かだ。
 それなりの体力も必要だ。日数をかけて槍に1泊、北穂に1泊とできれば余裕もあろうが、2泊3日しか日程がないなかで、どうルートをとるか。結構悩んだ。
当初の予定は、東京をたつ日は涸沢に1泊し、翌日北穂にあがり、大キレットを超えて南岳小屋に入り、翌日下山というルートだった。
 19歳の息子に誘われ、後押しされて行った。

 9月24日、低気圧の去った東京を朝4時半すぎに出発、途中どういう訳か甲府盆地の手前で雨に降られるも順調に松本まで中央高速を行き、沢渡の駐車場に8時前後には到着した。時間の節約のためタクシー(定額で4,100円)で上高地へ。登山届を出し準備を整えて8時半に出発。
25年ぶりに訪れた涸沢カール 息子と
息子と逆算して涸沢を午後1時に出られればこの日のうちに北穂高岳まで上がろうと決めていた。横尾まで約11㎞の道のり。河童橋で恒例の記念撮影をして歩き始める。かなりのスピードだ。息子についていくのがやっとだ。この日のためにランニングを続け、この半年は田園調布の急坂でのトレーニングを続けてきた。すべてはこの日のためだったと心にかみしめて歩いた。 
 徳澤で小休止を入れて横尾についたのが10時半。実質2時間。地図のコースタイムでは3時間10分のところを、ほぼ3分の2の時間で行く。諏訪湖パーキングで買った大き目のパンはすぐになくなった。あとは準備してきたカロリーメイトやジェルの行動食でエネルギーを補給して10時50分に横尾を出発、涸沢を目指す。
 3年前に槍に行ったのがおよそ30年ぶり。涸沢へも25年近く行っていない。久しぶり涸沢にちょっと胸がわくわくする。少し歩くと屏風岩が見えてきた。やはりずごい絶景だ。天気も絶好。だけど先を急ぐため、あまり景色を楽しむことなく先を急ぐ。
 細い登山路を、年配のグループ登山者に「すみません」と何度も断りながら抜いていく。われわれが抜かれたはトレイルラン風の若い男性1人だった。小屋泊まりを前提に荷物は最低限にして身軽に行ったけれど、それでも私にとっては登山は1年ぶり、5月の鳥海山・山スキーからでも4か月ぶりの登山なので、やはり少しはきつい。それでも順調に行って午後0時50分すぎ、約2時間余りで涸沢小屋まで行きついた。
東京から一気に登ってきた北穂高岳山頂。翌朝

 涸沢小屋のテラスでカレー(ものすごくおいしかった)を食べてちょっとくつろぐ。目標の1時出発は無理だけど1時半には出発できそうだ。北穂高岳を目指すことは息子との間で決定された。午後1時半、涸沢小屋を出発。この日のうちに北穂まで上がれば明日は余裕を持って大キレットを越えられるし、槍までいける。
 しかし朝四時前に起きて交代で車を運転して上高地から涸沢まで一気に上がってきたので、さすがに身体はちょっと疲れている。足も張ってきた。カレーを食べてくつろぎすぎたせいか、涸沢小屋からのいきなりの急登はへばり気味だった。身体の筋肉が登山モード入るまでは時間がかかった。地図のコースタイムで行ければ午後4時半にはつける。幸い天気もいい。次第に息子に遅れながらも、なんとかついていく。少し離れると待っててくれる。必死に歩くと地図を見るのも面倒になる。すべて息子にまかせる。こちらの都合で小休止を提案できるし、遠慮がいらない分、登山パートナーとしては最高だよね。
 途中長いクサリ場があるが、登りはその脇をクサリを使わず登れる。あとは急ではあるがほとんど危ないところはない。最後の急登を登りきるり、デコボコ稜線を少しいけばひょっこり北穂高岳の山頂に出た。午後4時前だった。2時間半足らずで到達できた。
 
 山頂手前で滝谷を登ってきたという3人組に出会った。ものすごい量の登攀用具を身につけていて、見るからに「オオッ・・・!」という感じだった。
 北穂高岳小屋には涸沢からの途中で電話した。涸沢カールからは電話は通じなかったが半分ほど登ると電波が入った。北アルプスは便利になったもんだ。
 
 一度は泊まりたかった北穂高岳小屋。山頂直下の狭隘な場所に建つだけに決して広くはないが、きちんと手入れがされていて、気持ちいいい小屋だった。混雑はしていたがそれでも1人1畳は確保されており寝床も快適。枕も不織布のカバーがあり清潔。宿泊者は水や湯がタダだ。本当にいい山小屋だ。
 
 日の沈みかけるころ、小屋の北側から槍を見る。多くの人が熱心に写真を撮っていた。
素直に美しい光景だった。こういう景色を見ることができるのが、登山の喜びでもあることを改めて感じた。かなりの年配の方が思わず「ああ~生きててよかった」と言った。周囲の人が私を含めてみな笑った。それほど和んだ雰囲気だった。
 その方の夕食が同じテーブルの島だった。失礼ですけどと言って年齢を伺ったら74歳とおっしゃっていた。40代と思われる息子さんと来ていた。こちらも19と59の40歳トシの離れた親子だと、同じテーブルの人に言ったけど、そのことによって自分は何を訴えたのか、あとで考えてしまった。
 夕飯を食べるとすぐ眠くなりまもなく眠りにつく。余裕の息子は消灯の9時まで外で星空を眺めていた。
北穂からの下り。手がかりは多くそう難しくない。
翌25日(月)。絶好の天気だ。この時期夜明けの時間が5時半ごろなので朝食をとってから、日の出を見られる。
 最近、各地で「天空の宿」とか「天空のカフェ」とか流行っているらしいけど、本当の「天空の〇〇」は3,000mを越えたここ北穂高岳山荘や槍や奥穂などだろう。

大キレットは一般的なガイドは槍~南下して南岳~大キレット~北穂高岳~涸沢岳~奥穂高岳のコースで書かれている(と思う)また、テレビの“山岳番組”でもこのコースで紹介してる(ように思う)。しかし実際歩いてて、結論から言うと、北上するコースの方が、気分的には歩きやすいように思う。ヤマケイのガイドでは、槍を目指す北上コースだと、下りの方が多くやや歩きにくいと書いてあったけど、少なくとも北穂~槍で言えば、ほとんど標高は変わらないのでどのみちアップダウンはある。
長谷川ピークを見上げて、ちょっと震える(笑)

 北上の方がいいという第一の理由は、北穂からだと、まず急な下りがあるが、その後は、わりとすぐに核心部の飛騨泣きや長谷川ピークを迎えることだ。大キレットのハイライトを疲労がたまる前に通過するのは精神的にラク(特に私のような老人には)だし、景色も天気がよければ、次第に迫ってくる槍の姿を常に見ながらなので心躍るものがある。
 また、なにより長谷川ピークのナイフリッジを登りで行けることだ。下りは梯子が続くが、慣れればそう怖くない。(最低限、片手で自分の身体を支えるくらいの筋力は備えておくことが、安全のためには必要だと私は考えるけどね。そのために筋トレも行っているし・・、一応)
 どこが一番怖かったかと言われても、今はなかなか思い出せない。結構「必死」だったということだろう。あそこを緊張感なしで行く人はまずいないだろう。だからこそほとんどの人、それも老若男女が無事通過しているのだから。(事故はしばしば緊張の糸が切れたところで起こる)

おそらく長谷川ピークを過ぎた下りだ。
ともかくも、大キレット越えは写真を参考に。もっともヤマケイやガイド本の写真の方が分かりやすいけど。
 北穂高岳小屋から大キレットを越え南岳山荘までは2時間弱の道のりだっだ。渋滞もなかったこともあり、コースタイムよりいくぶん短時間で通過した。南岳山荘まで来ると一息、あとはそう難しいところもないし、槍まで歩くだけだ。もちろん途中梯子はあるけど、ほとんどが登りだったのでそう怖くない。地図のコースタイムで2時間45分。2時間ちょっとで槍ケ岳山荘に到着。ここでもカレーとうどんを食べる。
 かくして19歳の息子に引っ張ってもらって、なんとか59歳にして大キレットを越えた。それも「弾丸登山」で。

 シュリンゲで簡易のハーネスを作り一応身につけていたけど、結局使わなかった。いちいち着けていては、かえって危ない。飛騨泣きのクサリなんかものすごく太くてカラビナを通すこともできないくらいだった。

 槍ケ岳山荘でしばし休んだあと、空身で槍の山頂へ。3年ぶりだけど今回は晴天。30年近く前、妻と槍を目指した時、彼女の高山病の症状と雨模様の天気で頂上に行かずに下山しした時のことを思い出す。(この時は横尾から涸沢~奥穂にはいったけど)

 この日の宿をどこにとるか。槍ケ岳山荘はもういいかなと息子も私も思っていた。メシは悪くないけど布団は結構古くて重い。それほど心地よい部屋ではない。(以前にも書いたけど、剱の剱御前小屋と剱山荘は至近にあるためか競争原理が働き、ふとんはミズノのプレサーモ、畳も高機能のものだった。)

 それで、持っていたスマホ(妻のお古)で殺生ヒュッテとヒュッテ大槍を比較。で、後者に泊まることに。東鎌尾根を小一時間あるいて3時ごろには小屋につく。
 ヒュッテ大槍は非常に心地よい小屋だった。支配人の方も非常に感じのいい人だった。生ビールを飲む。うまい。
 翌日は6時半前に出発、東鎌尾根を水俣乗越の分岐まで行き、そこから槍沢に下り、上高地を目指す。帰りは、「お約束」の徳澤園でソフトクリームを食べ、明神から橋を渡って嘉門次小屋でイワナと蕎麦を食した。ここまで来ると、軽装の観光客も大勢いて、シャバに戻った感じだ。
 帰りもタクシーで沢渡まで行く。(定額の4100円)。沢渡で温泉に入り、そこの休憩所でちょっと昼寝してから東京へ。
 かくして2泊3日で、北穂~大キレット~槍の「弾丸登山」を無事終了した。
ああ、いつまでこうした山登りを続けられるのだろうか。人生もだいぶ残りすくなくなってきたけど。
(写真はまだ随時 足します)
このブログを見た人は、また覗いてみてください。

 
 





滝谷かな?

 
 

2017年10月21日土曜日

福井県池田町の中学生の自殺「事件」。丸山真男の「抑圧の移譲」を思い出した。僻地校での抑圧とは

 福井県池田町の町立池田中学校の2年生だった当時14歳の男子生徒が今年3月、校舎から飛び降りて自殺した問題。町の教育委員会が設置した第三者委員会は担任や副担任から繰り返し厳しい指導を受け、追いつめられて自殺したとする調査報告書を先日(10月15日)公表した。
 自殺した中学生に心から冥福を祈りたい。すでに成人したが、同様に子どもを持つ身として親御さんの無念さ、悔しさ、そして「見殺し」にした、周囲の教師や教育委員会への怨念は察して余りある。
 「死」の代償は、きちんと支払わなければならない。担任、副担任の直接の加害者だけでなく、それを許した面々の責任は、それこそ「命」よりも重い。当然の話だ。Net上には、すでに担任、副担任、校長の名前や顔写真が載っている。それはそれで今回の事態に怒りを感じる人々の溜飲を下げることにはなるが、そうした「私刑」だけでは、問題の本質には迫れないだろう。この「事件」には構造的な問題があるからだ。教師集団というヒエラルヒーの構造的問題だ。
 
 池田町のホームページによると人口は3000人に満たない。町の中学校はひとつだけだ。問題の中学校が福井県の中で「僻地指定校」なのかどうかは分からない。しかし全校生徒40人足らずしかいないとなると、片田舎の小規模校であることには変わりない。校長はそれなりの年齢だ。他校に転勤したという男性担任は30代だという(朝日新聞)。中堅になる年齢だろう。校長はまだしも担任はなかなか同じ福井県の都市部の学校にはいけなかったのだろう。同期の教師の中には県内の“進学校”で、バリバリやっている者もいる。焦りや腐りがあっても不思議ではない。そのストレスのはけ口が自殺した生徒に向けられた。もしくは、この担任は自分がいかに都会の学校に転勤できるかどうかにしか関心がなく、副担任の異常な行動に対して無関心だった。そういうことなんじゃないでしょうか。

 (ここからはまったくの想像だけど)地方公務員として一定程度の給与の安定がある中で、教師としてのいい意味での情熱が失せていたのかもしれない。俗に言う「事なかれ主義」になるか、あるいは教師とは関係ない趣味に時間もアタマもとられていたかもしれない。悪い方から言うと、ギャンブルや女性、お酒に走るもの。趣味に夢中になるものなどさまざまだ。
 
 そして女性に新任教諭の副担任。首都圏の4流大学を出て、それでも努力して地元福井県の教師の試験に「合格」した。彼女にある種の幼稚な万能感が目覚めたとしても不思議はない。悪いけどあまりモテそうには見えない彼女は、大学では地味な存在だったのだろう、それを見返したのが県の教員採用試験に受かったことだ。そして赴任した学校。男子に対してある種の「恨み」があったのかもしれない。それが「抑圧の移譲」として表れた。中学生を相手に「幼稚」な行動に出てしまった。それを自分自身でも止められなかった。
 
 校長はどうか。教師の管理職試験に“合格”し、副校長を経てようやく校長になった。この教師は校長になったことがある種の目的の達成になっていたのかもしれない。校長にも序列がある。僻地校の校長はどうみても低い方だ。定年も間近でもう意欲もなく、教師の振る舞いにまで関心はない。若い教師にいろいろ反論されると、それを跳ね返すエネルギーも持ち合わせていなかった。あわれだね。
 
 かつて愚息が通っていた公立の小学校で、毎年1度の授業参観には必ず参加した。それも自分の子の担任だけでなく、出来る限りさまざまな教師の授業を観察した。
その中で6年生の担任をしていた年配(60間近かな)の男性教師の授業を見た。なんの授業なのか忘れてしまったが、ほとんどを黒板に向かって、いわゆる板書する授業だった。時々子どもの方を振り返るがそれは、お約束の行動という以外いいようのないものだった。しかも授業内容は稚拙、いちいち教科書に目を落としてそれをなぞるというものだった。どうみても準備不足としかいいようのない授業内容だった。
 普通の感覚だと、授業参観で保護者が見に来ると思えば、それなりの準備をして臨むだろう。普段ならしなくても。その授業参観でさえレベルの非常に低い授業しかしていないということは、この教師はもうやる気を失せていることが明らかだった。ベテランはヘンに自信もある。何千回、何万回としてきた授業は適当に行って乗り切れると思っているフシがある。それは保護者の目からみて明らかだっだ。授業参観の「感想」にこのことを書いた。この教師は翌年違う学校それも違う区の学校に転勤していった。

 やる気のない教師、ダメな教師の被害を被るのは、常に子どもたちだ。都会の学校ならばそれでも子どもたちは塾に退避することもできる。しかし僻地ではそうした退避場所すらない。都道府県教委(教師は県職員)⇒市町村教委⇒学校(進学校~僻地校までいろいろ)というヒエラルヒーの中で、僻地校にいる校長も含めた教師たちの心情、やる気、能力は想像に難くない。
 もちろん僻地校だからこそと、情熱を持って頑張る教師がいることも認める。でもそういう「いい教師」は少数派だ。(だからこそ時々そうした教師はメディアの企画記事、リポートの対象になる)

 質の低い教師の淘汰の先は僻地校だった。この構造の中で起きた、大事件だった。
ついでに言うと、教育委員会は僻地校のことなんてまるっきし関心がない。中学校担当の彼らの関心は、どこの中学から県の進学校に合格できたかということだ。私立の有力校が多い大都市の都道府県は別として、フツーの県ではどこでも1,2の進学高に県内の優秀な生徒を集中させて、一流大学への進学実績をあげようと必死になっている。それは将来県職員、または中央省庁の役人になり県のために役立って
ほしいという思惑があるからだ。先細りの人口の中で、その傾向はますます強くなっているだろう。僻地校の教師の質の問題なんか、2の次、3の次にならざるを得ない。それが現実だ。優秀な教師は進学校に集中する。次は生徒の全体レベルを上げるため大規模に配置される。それはある意味で自然な流れだ。それからこぼれた教師たちが僻地校で“頑張って”いる。中にはヘンな頑張りをする教師がいても不思議ではない。

 「抑圧の移譲」からずいぶんそれてしまったけど、書いているうちに、今回の中学生の自殺の問題は、実は僻地校問題ではないかという思いに至った。
(タイトルをちょっと変えました)  
 
「超国家主義の論理と心理」

2017年10月16日月曜日

那須雪崩事故、高校生8人死亡。「事故の責任」を「再発防止」にすりかえるな。最終報告から

右・猪瀬修一教諭(NETより「引用」)
今年3月、那須連山の茶臼岳で、急斜面をラッセル訓練させられていた高校生らが雪崩に巻き込まれて8人が死亡した事故。検証委員会は本日(10月16日)、最終報告を出した。事故の最大の要因は組織の「危機管理意識の欠如」だとしたうえで、「引率した教員は斜面を登るにしたがって雪崩が起きる危険性を認識できたはずだ」と指摘した。
 当然すぎるくらいの報告だ。しかし検証委員会の人間は、会見で「再発防止につなげたい」と締めくくっていた。
 事故の責任を「再発防止」にすりかえてはいけない。改めて言う。まず業務上過失致死で、ふもとの旅館でぬくぬくと温まっていた栃木県の高校体育連盟の教諭を逮捕すべきだ。バスを運転していて重大な過失で乗客が8人死亡したら、まず逮捕されるだろう。なぜ危険な訓練を行って高校生を死なせた教師が逮捕されない。どうみても法の下の平等とはいえない。登山、それも雪山の山行が、登山をしない者には分からないという事情もあるだろうが、それは勉強不足、認識不足と言わざるを得ない。
 子どもたちの命を預かっているという意識の低い教師たちは、正しく罰せられるべきだ。ニュース報道だと、検証委員会の最終報告を受けて、「警察は、こうした報告も踏まえ、引率した教員の安全管理に問題がなかったか、業務上過失致死傷の疑いで早ければ年内での立件を目指すことにしている」と、言うが、書類送検、在宅起訴などと生ぬるいことは許されない。きちん今後の成り行きを見ていきた。

 誤解のないよう言うが、高校生が冬山に登ることを禁止したり、高校が制限したりすることは絶対反対だ。往々にしてこういう事故が起きると行動を制限する方向に物事が動く。しかし、それは絶対違う。
 危険の可能性があるからこそ、そのリスクをきちっと認識して適切に行動することが求められているのだ。そのために責任ある者は、正しく罰せられることが必要なのだ。処分を曖昧な形で決着させ、高校生登山の冬山を禁止する(すでに禁止されているとも言われている)ようなバカな対応だけは許されない。

 追記:言うまでもなく、高校生の登山活動は、小学生の運動会のピラミッドとはまったく違う性質のものだ。事故があいついだピラミッドは、子どもたちが危険を自ら回避できない状態だ。混同してはいけない。
 ピラミッドに関して言うと、一部のバカな教師が「皆で協力する心が生まれる」「一体感ができる」など安直な考えを持っている結果だ。もっと言うとああいうことをやらせると、子どもたちをコントロールしやすいのだろう。容易に想像がつく。