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2018年2月3日土曜日

地球温暖化。「原発ゼロ法案」より「火力発電ゼロ法案」の方が先だ。

 化石燃料の消費をどう抑えるか。そのことを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。 
 
火力発電所(東電広野火力)
先の総選挙で1,100万票を獲得したことを背景に、立憲民主党の鼻息が荒い。反安倍政権の“受け皿”として、一定の支持を得たことは確かだ。
 そのリベラルは姿勢から、また枝野氏自身が東日本大震災時に官房長官をやっていたこともあり、「脱原発」には熱心だ。長期的将来像として「脱原発」は賛成だ。少しでもリスクを低減させることは必要だ。しかしその前にまずやるべきことが多々あるだろうというのが率直な感想だ。
 
 野党は多かれ少なかれ「ポピュリズム」に陥らざるを得ない。人気がなければ選挙民の支持を拡大できないから。だから彼らのある種の極端な言説は大目に見る。そのことを差し置いても、でもやはり、「原発ゼロ法案」に固執することは支持できない。
電気スタンドの「その先」に想像力を働かせよ
放射能という目に見えないリスク、またどんな影響があるのかはっきり分からないことへの恐怖心。原子力というと、日本でまず思い出されるのが、当然ヒロシマ、ナガサキの悲惨な映像であり、実際、被曝者の方はまだ多くが存命で、その恐ろしさを語り継いでいる。だから大衆(=物事を深く考えずに、直感で判断する人々)が「原子力」に対して、得体のしれない恐怖心を抱くのは当然かもしれなし。
 
 交通事故で年間5,000人前後が死亡することや、自然災害で何十人も犠牲になることは、いわば目に見えることであり、直接カンケイない人々にとっては、1回見てしまえば心のどこかで、「なーんだそんなことか」と安心してしまうのは人間のいわば性(さが)だろう。

 化石燃料を燃やし続けることがどれほど怖いことなのか、特に石炭は地球環境への悪影響が大きい。それをまず止めることが、そのために自然エネルギーへの転換を促進するのは理にかなっている、と思う。

 寒波がきても暖房は着けないで我慢して。外灯はムダだから暗い道を歩くことに慣れてください。エスカレーターは動かさないので階段を歩いて。電気製品はなるべく使わないで生活して。ということを国民に呼びかけるのでしょうか。「原発ゼロ法案」を促進する人々は。まあそういうことの国民的合意(何割賛成すれば合意されるのか、その定義はないけど)があれば、それはそれで進めてください。

 しかし人間は一度手に入れた便利さをなかなか手放すことができない。それはそれ、脱原発は別問題です。と言うのは無責任な主張としか思えない。

 企業は省エネの技術革新の努力を続けてきたし、今後も続けていくだろう。そのことには敬意を表したい。しかし省エネにも限界がある。電気を使うものは使うのだ。そのことを抜きにエネルギー政策は進められない。他の項目でも書いたけど、電気自動車の普及には大量の電気が必要だ。その、当たり前のロジックを抜きにしてはエネルギー政策は語れない。

水素自動車の普及の可能性は?
冒頭に記したように化石燃料の消費を抑えることを第一に考えるのが「安心社会」の構築の第一歩だ。だから原子力を推進しろとは言わないし、そんなことを主張している訳ではない。冷静に見積もって、原子力をなくす道程は、それまでにするべきことが多くあり、息の長い取り組みが必要だということだ。

 

 リベラル派の「受け皿」になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。

(追伸)
「リベラル派の『受け皿』になった立憲民主党だが、政権政党を目指すのなら、冷静な議論が必要ですよ。」と、1週間前は結語としたけど、改めて考えた。
 政治・政党についてこう突き放しても、何の発展的発想にはならない。憂うべきは、野党が票を獲得するために、ポピュリズムにならざるを得ないこの大衆社会そのものだろう。彼らも実は分かっている。しかし票を獲得するにはこれしかないと開き直っているようにも思う。
 でも自民党に投票した人々の票を“奪う”には、もっとまっとうな議論で正面突破するしかない。原発に心底反対している人。消費税は上げない方が日本がよくなると心から思っている人。憲法は絶対変えない方がいいと考える人。それぞれのカテゴリーについて、メディアの政治報道はもう少し、整理して、その集団をあぶり出す努力をしてほしい。表面的な既存の政党や派閥の動きを伝えるだけが政治屋報道ではないでしょうに。それができるのがネットではなく、あえて言えばマスメディアができる調査報道そのものではないでしょうかね。





2018年1月20日土曜日

ふざけんなJR東日本 列車を動かすことに固執し、乗客をないがしろにした

JR東日本・新潟支社 指令室
▽現場の列車運行係
「閉じ込められた乗客も疲労を増しています。まず乗客を降ろしてあげることを優先させましょう」
▽列車の運行責任者
「列車の運行はどうするんだ。信越線を利用している乗客はほかにもたくさんいる。朝の通勤・通学時までになんとかダイヤを正常化するのが第一だ」
「乗客は列車の中にいりゃ安全なんだ。トイレもあるんだろう」

 という会話が交わされたかどうかは知らないが、かくして、JRは、除雪車を動かすことに固執して、430人余りの乗客は15時間以上も満員の列車に閉じ込められた。中には立ったままの者も大勢いた。

 年明けの11日の夕方、新潟・三条市のJR信越線で、4両編成の普通電車が積雪のため動けなくなり、乗客約430人が車内にマル一昼夜閉じ込められた「事件」。余りにも官僚的なJRの対応にちて怒りが収まらない。

 昨日のニュースでJR東が三条市のバスの提供の申し出を断っていたことが報道されていたが、この事実に象徴されるように、JRが自分たちのメンツを最優先に行動していたことは、明らかだ。
 これまで報道されてきた経緯から、JR東は、乗客への配慮より列車を動かすことが最優先にされてきたことが分かっている。会見では除雪車の到着が翌日の午前10時前後になったことからも、それまで他の手段を考えることをしなかっことがうかがえる。
 100歩譲って、予想しえなかった積雪で列車が立ち往生したこと。通常の除雪でなんとかなると見通しが甘かったことが“許容”するとしても、その後の行動は、あまりにも官僚的、大組織的でしかなかった。
 
 おそらく列車の運行責任者=それがJRの現場のたたき上げなのか、キャリアなのかは知らないけれど=のアタマの中には列車の定時運行、今回の場合はとにかく立ち往生した列車を一刻も早く動かし信越線を正常ダイヤに戻すことしか考えていなかったのだろう。それが運行責任者にとって一番「正しい」職業的判断であり、そういう組織だからだ。運行責任者が想像したのは、乗客が救出されるシーンではなく、コトが終わった時に、上司に「列車の定時運行に向けて最大限努力しました」と報告する自分の姿だったのだろう。
 鉄道会社にとって定時運行は命より大切な掟だ。それはJR西日本・福知山線の大惨事でも明らかになっている。乗客の安全よりも定時運行が最優先される企業風土だからだ。
 除雪にあたった現場の鉄道員。除雪車を一刻も早く現場に向かわせようと努力した鉄道員。現場の人々は自分の業務として、おそらく懸命に努力しただろう。そこに悪意はなく、むしろ自らの努力を誇っているかもしれない。しかし今回の事件全体を俯瞰すると、その努力は「乗客のため」にはなっていなかったということだ。
 
 運行責任者には想像力がなかったのだろう。通勤・通学帰りの乗客が立ったまま列車に乗っていて、何時間も待ち続ける姿を。現場からの「暖房・トイレはあります。飲料水の適宜配給しています」という報告を受けて、乗客は安全に確保されている。ヘタに動かしてケガ人でも出れば、どんな批判をうけるかも分からない。そのままにしておいてよい、と。

 日本の(大)組織、特にお役所にはひとつの掟がある。それは「決められたことを守る」ことが正しい職業的判断だという。JRは言わずとしれは元国鉄。中央省庁と同様にキャリアとノンキャリがいる「官僚組織」だ。アタマのいい社員たちは常に上司がどう反応するかを念頭に行動する。そういうところだ。
 
 良く言えば、上意下達の規律が整った、統率された組織だということなのだろうが、柔軟な対応はいたって苦手だ。それは組織人として規律を破ることであり、職務に忠実は行動にはならないからだ。どうしてそういう組織になったのか、国鉄時代の組織を見ればわかるだろう。戦後、就職難の時代大量に採用した現場労働者。強い組合。鉄道を動かすには、「規則」を大量に作り、労働者を規則通りに動かす・働いてもらうほかなかったからであろう。
 (この話を書きだすと長くなるので、やめる)

 それにしても、今回の事件で乗客の皆さんの反応が、なんて優しかったことか。出てくる話は「席を譲りあった」などの美談が多く、あからさまに怒りをぶつける人の報道は見当たらなかった。これを新潟人の美徳と見るか、お人よしととるかは別として、もう少し「怒った」方がよかったんじゃないの。でないとJR東の人間は、きっとこう思うだろう。
「ほら。乗客は従順だ。列車内で待ってもらって安全でよかった。マスコミの批判は過剰だ。」だって「ぜんぶ雪のせいだ」だもん。と。



2016年2月27日土曜日

東京五輪への懐疑 本当に「良いこと」なのだろうか

2020年東京五輪がいろいろつまづいているのは、さまざまな報道の通りだ。毎週末に通う、千駄ヶ谷駅に来るたびに、東京体育館の向こうに見え隠れしていた『国立競技場』のことを、いやでも思い出す。

構造物がなくなってみると、―私的な印象では―意外と狭いというものだった。野球場なども概ねそうなんだけど、普段テレビでしか見ないものは、撮影するカメラの広角効果なのか、広く見える。しかし実際はアタマで想像するほどでもない。かつて放送局に勤務していた者でもそうした錯覚に陥るのだから、テレビそのものが提供する情報の錯覚には気を付けなければなるまい。

東京五輪にはもともと「反対」だった。かつてこのブログでも今回はトルコに譲るべきだと書いた。五輪選手たちの誘致活動の人々の涙する姿を見て、ヘドが出るとはこのことだと感じた。

話はそれるが、いま中東の一連のISの騒動に乗じてトルコはクルド人への攻撃を強化している。五輪がもしトルコでの開催地になっていたら、この国もこれほど露骨なクルドjンいじめをできなかっただろうと思うと、歴史の「IF」=「畏怖」を感じてします。

2年以上前だったか。NHKの歌番組「SONGS」にサザンオールスターズの桑田さんが出演していた。国立競技場のすぐ近くのVICTORのスタジオの屋上でインタビューに答えて、当初東京でオリンピックというのはどうかなと思っていた。けれど決まったからには前向きに考えていかなければ、という趣旨のことを答えていた。しごくまっとうで、また多くの人々が共有するような思いだろう思ってみていた。それがのちに「東京VICTORY」という歌になったのだろう。

これも逸れるが、「東京VICTORY」に歌詞にはフクシマへの思いもちゃんと入っていて、桑田さんの眼差しのやさしさ、確かさを感じている。(ランニングしながらこの歌を聴くと元気が出る)。

東京五輪が決まったあと、私自身も「反対」の気持ちが薄らいできたのは確かだ。薄らいだというより、決まったことに反対してもしょうがないという諦めや、どうでもいいという気になった。ただしカネは使うなよと。

しかし、既報のとおり国立競技場を巡る建設費問題やエンブレム問題など、出るわ出るわ何だこれは、という“カオス状態”に。
そうした直接的な問題とは別に、東京五輪とは何なのか、納税者(国民)に何をもたらすのかという問題はきちっと論ぜられるべきだろう。

世界2月号の尾崎正峰氏の論文は、秀逸だ。
1月のアサヒ新聞の論壇時評でも、「注目論文」として取り上げられていた。

●五輪憲章では「国の競い合いではない」ことが謳われていること。
●日本のスポーツ関係予算は極端にエリート養成に偏っていて、市民スポーツの予算がごくわずかなこと。

要はこの2点だ。

東京で市民スポーツを行う身として、公共のスポーツ施設の少なさをかねてより感じている。それがこの論文では具体的数字として示してくれている。(詳細は読んでみてください)

東京の50mプールで市民が利用できるところは非常に少ない。千駄ヶ谷、辰巳、そして世田谷区立の施設。(これは「東京プール難民」としてブログにも書いた)

東京の人口から言ってもあと2,3箇所、千駄ヶ谷のような施設があってもいい。いやあるべきだ。国民の健康向上は、医療費の削減にも寄与し、巡り巡って自治体の利益にかなうことは自明だ。

行政として、市民スポーツを後押しするのは体育館などのハコ物を作るだけではないだろう。たとえば河川敷のランニングコースをもう少し整えるとか、サイクリング道路を整備するとか、いくらでも知恵はあると思う。

結局は、五輪は日本政府の宣伝材料と国威発揚という古典的な道具に使われているに過ぎないのではないか。

国民の側にも問題がる。五輪で金メダルを取ることをノー天気に喜んでいるし、メディアはそれを後押しさえしている。しかし女子ソフトボールの例が端的に示すように、五輪種目からはずれたら、まったくと言っていいほど見向きもしなくなった。国民は結局ソフトボールやそのプレーヤーが好きなのではなく、単に金メダルを取れる種目だから応援していたに過ぎないことが証明されてしまった。
もしレスリングや柔道が五輪種目でなかったら、現在のような関心は集めないであろう。

五輪は罪作りな「祭典」だ。冷静に考えれば、もういらない。それぞれの競技はそれぞれ世界選手権をやればよい。



2015年10月24日土曜日

消えた「竜王戦」。<多様性>か<選択と集中>か、NHKの番組編成から考える。

  NHKのBS放送から囲碁名人戦の中継が消えたことを、先日書いた。10月から始まった恒例の将棋「竜王戦」の中継もなくなった。
1日24時間×7日フルに放送している中で、囲碁名人戦(や本因坊戦)、将棋(名人戦・竜王戦)の中継放送など2日合わせてもわずか3時間~4時間程度だ。
いろいろ事情はあるのかもしれない。ニコ動で中継しているとか、主催する新聞社との関係とか。しかし、どちらもクリアできない問題でもないように思われる。

 内実は分かりようがないが、主因はなんといってもNHKのBS放送の編成方針にほかならないだろう。同じような旅番組、同じようなスポーツ中継、同じような歌番組、同じような映画ばかり並ぶ番組編成・・・・と言ってしまったら、どれも「違う」「それぞれに個性や特徴があるものばかりだ」という反論が聞こえてきそうだけど、興味のない者にとっては、そう見えてしまうプログラムだ。まあ、反対に将棋や碁に興味のない人にとっては、竜王戦や名人戦で誰がどう対局しようと、同じように見えてしまうのだろうけど。

とにかく、NHKの衛星放送は「多様性」より「選択と集中」を選んだということだ。
集中の中味は、BSプレミアムの場合、ほとんど①紀行(旅・食・サブカルチャー)、②娯楽(映画・ドラマ・演劇・歌・お笑い)に集約されると言っていいかもしれない。「多様性」は、この範疇の中だけで行われている。

 公共放送の首脳陣もバカではない。おそらく確かな統計的根拠に基づいて、これが一番、衛星放送の契約件数を伸ばすのに一番効率がいいからそうしているのだろう。

 経済活動の原則(要するに一番もうかるようにするにはどうしたらいいか)から考えれば、一番売れるものを多く作ることだ。あまり売れないものを少数作り続けることは効率がわるく、もうからない。これ当たり前のこと。放送番組の制作が大量生産と同等かどうかは分からない。ニッチな生産が支持を得ることもあるけど、大衆というマスを相手にするには、「大量生産」が効率がいいのは確かだ。

 NHKという組織は「国民の皆様から預かった受信料を無駄にすることなく一番効率的と思われる方法で使わさせて頂いています」ということなのだろう。
世の中で、将棋や碁をたしなむ人など、効率性からいったら「無視できる数」ということなのだろう。
おりしも、「週刊将棋」という週刊新聞が休刊するというニュースが出ていた。ベタ記事でほとんど問題にされないレベルだったけど。こういう
NHK衛星放送の囲碁・将棋関連の放送の減少、将棋新聞の休刊、こうした、それぞれでは小さな出来事が積み重なっていくうちに、文化(囲碁や将棋をそう呼ぶとして)が消えていってしまうのだろう。NHKはそうれに加担しているという自覚もなく。

囲碁も将棋も、凡人には想像もできない非常に高度な思考が見えないところで繰り広げられている。ビッグタイトルの中継は、その解説を通じて「見える化」し、知的刺激を与えてくれるシンプルだが非常にいい放送番組だった。
そんなものは「皆様のNHK」の運営には何のカンケイもない話なんだろう。
残念でならないけど、これが大衆社会の公共放送というこだ。



2015年9月23日水曜日

新安保法 どう運用するのか、これから問われるのは国民自身だ

 祭りは終わった。儀式と言ってもいいかもしれない。もともと数は決まっているのだから、採決すると決断した段階で、勝負はついていた。それを乱暴なやり方で阻止しようとするのは、単なる選挙民・支持者向けのものでしかない。
 良い悪いではない。決まったのだ。

 安倍首相は去年暮れの自らが解散して行った総選挙で、新安保法案のことは公約のひとつに掲げていた。だから今回のやり方を「有権者への裏切り」とか「だまし討ち」とは言えない。
 
 メディアはことここに至って騒ぎ立てるが、なぜ総選挙の時、もっと問題視しなかったのか。その『罪と罰』を覆い隠すために、“リベラル派”のメディアは今回の国会の内外の動きを大袈裟に報道しているように思える。「私たちはちゃんと“みんな”の思いを伝えています」と。醜いとしかいいようがない。総選挙の時、問題視しなかった理由は一切言わない。
 
 「説明不足」という言い方をメディアも“みんな”も言い立てる。はたしてそうか。政府は少なくとも、説明不足と言われないよう、結構丁寧に説明しようと努力していた。これは公平な見方だ。だから矛盾点も浮かび上がってきたし、議論もそれなりに活発だった。学者の方々の「憲法違反」の発言も率直だったと思う。
 
 だから、「説明不足」だから「この法案はいけない」というロジックはいささか身勝手だ。これもひとつの「レッテル貼り」に他ならない。「戦争法案」とか「徴兵制復活」などと言うの同様に。
安倍首相を好きか嫌いかで言えば。きらいだ。反知性的で、国会で自らヤジを飛ばす品のなさ。というよりバカぶりは醜い。しかし彼を攻める側も同じ反知性と下品で立ち向かうから、そちらの方が醜く見えてしまう。
 まあ、いずれにしても、この法案をどう使うか、または使わないのか、はわれわれ有権者に問われている。気分やその時の空気で物事を進めたらわれわれ自身がオシマイだ。

※「みんな」とは:国会前のデモの方々へのインタビューを聞いていると、よく「みんな不安です」とか、「みんなこんなに反対しているのに」などと、「みんな」という言葉がよく出てくる。この「みんな」とはいったい誰なのか。辞書的意味では「みんな」とは全員だと思うのだけれど・・・。
安易に「みんな」という言葉を使うのは賢明ではない。無意識に主体を誤魔化しているように思う。「私は・・・」と、どうして言えないのだろう、みんな


2015年9月5日土曜日

東京五輪、新競技場・エンブレム問題、官僚体質が丸見えだった。

netより「引用」
責任の取り方とは難しいものだ。だれでもオレのせいじゃないと思いたいし、実際ヌレ衣もあろう。責任を取るということは、失敗を認めるということであり、それは日本では「ダメな人間」として分類されることである。サラリーマン社会では、一度そう見られると致命傷になる。官庁でも大企業でも多くの組織で、そういう人にはレッテルが張られて、昇進や処遇に響く。

五輪組織委員会や周辺組織は、まさにそうした組織の「模範」だ。
元財務次官の武藤氏が事務局長ということは、彼を支える人に官僚出身者たちが多く送り込まれていることは、想像に難くない。

彼らはおそらく優秀な人々だ、ある面で。記憶力が図抜けてよく、事務処理能力にすぐれ、前例(法律)を熟知し、政治的に動く人(まさに政治家)の操縦術を心得ている。

多くの事柄・課題をそつなくこなし、少しのミスもなく成し遂げていることだろう。それが彼らの評価につながり、次のステップになる。財務官僚であれば地方の税務署長を20代で務めるのと同じように、組織委員会などで「国の仕事」をこなし、その評価をもって本庁に凱旋するのが目標だ。

だからどんな小さなミスでも責任をとりたくない。私が間違っておりました、などとは口が裂けても言えない。言ってはいけないのだ。彼らにとっては。

新国立競技場問題が世論の批判を浴びてどうにもならなくなっても、エンブレムの“疑惑”が沸点に達しても、積み上げてきたことを撤回することは、自分の非を認めることになり、彼らにとっては「あってはならないこと」なのだ。だから結局対応が後手後手に回り、政治決断という「天の声」があるまで事態は止まらない。

武藤氏の先日の会見での責任の取り方に関する答え方にそのことがよく表れていた。無責任、どこか他人事という批判がメディアでなされたが、そうした「背景」を考えると驚くに値しない、予想されたことだった。

だって日本はずっとよれでやってきたじゃないですか・・。戦争責任にしても、何にしても。

アメリカのことはよく知らないが、自分の少ない読書の中から思うのは、かの国には「失敗してもやりなおせる」仕組みや、風土があるらしいということだ。だからチャレンジもできる。

経営学や組織論などでは言い古されたことだが、「失敗してもやり直せる仕組み」「チャレンジ精神が発揮できる仕組み」が求められている。しかし日本ではそんな理想論は通用しないだろう。これからも。そういう国なんだから。
それで良いとか悪いとかでなくて、そういう国なんです。変えようとしても変わらないダメな国、日本は。


ついでに、デザインの変更過程が選考委員に知らされていなかった問題にもひとこと。
これも極めて官僚的手法でコトが進んだということだ。

通常、法律が国会で成立すると、官僚は政令を作る。また権力をバックにした指針、行政指導を行う。国会の決議で決まる法令には、あまり細かいことは書いていない。いわば精神だ。詳細を取決めるのが政令だ。政令は国会審議を経ないから官僚の意のままに作られる。そしてコトは彼らの思うように進む。(もちろんそれが全て悪いコトだと言っているのではない。透明性の問題だ)


政令を決めたら、おそらく国会の有力議員さんのところは持っていって、これでいいですねと「確認」を取るのだろう。その時議員は、もともと大元の法令に賛成しているから基本的に反対する真理にはならない。そこで官僚から分厚い資料で細かい説明をされてもにわかには理解できない。それで、「わかった、わかったそれでよい」となり、かくして官僚の思うとおりの政令が出来上がる。

エンブレムのデザイン専攻もまさにこんな構図で進められた。
誰の作品を選ぶかは選考委員さんがお決めになり、佐野研二郎の作品が選ばれた。しかし細かい修正はいちいち選考委員にお伺いを立てることなく、官僚たちが勝手に進めた。そしてもう反対する雰囲気のないところで、選考委員の示して、「これでいいでございますね」と言って決まるのだ。

優秀な官僚の方々にひとつ欠けていることがあるとすれば、「大衆の空気が読めない」ということに尽きるだろう。彼らにとって「大衆」は、自分のアタマで考えない人々としか見ていないから、彼らの気持ちを読む気にならない。だからしばしば「大衆の反逆」に遭遇する。

もっとも大衆的発想に抗って国のかじ取りをすることも必要なので、それがすべて悪いことではないけど。時には大衆の発想の方が「正しい」こともあることを忘れないことだ。


書いているうちにまた思いだしことがある。かつて細川政権の崩壊につながった「国民福祉税」構想は、そんな大衆の空気が読めなかった官僚によって作られた原案だったな。多くの国民は非常な唐突感を持った。しかしずっと、国の財政危機についてそうすれば良いか考え続けてきた官僚たちにとってはまったく唐突でも何でもないことだったのだろう。お気の毒に。



2015年9月3日木曜日

古市憲寿「もう誰も戦争を知らない」(新潮45 8月号)は、非常に優れた考察だ。

古市憲寿さん(netより「引用」)
 古市寿憲さんは若手も論客の中でも、注目している。(すみません、あの髪型はあまり好きではありありませんけど)。
 
 近隣諸国、特にあのアジア太平洋戦争で日本が占領した国々では、ここのところの対日関係もあり、「戦後70年」を国内的にうまく「利用」していることは、ここでは置くとして、それにしても戦後70年とは何だったのか、冷静な考察が必要だ。古市氏が新潮8月号に寄せた文章は、すぐれて本質をついたものだった。「もう誰も戦争を知らない」


(いつものように図書館では9月号が発売にならないと8月号が借りられないので1か月遅れです)

20130806朝日新聞から「引用」
古市氏は2013年8月6日の朝日新聞に寄せた一文でも「平和の記憶から始めればいい」と、戦後という枠組みにこだわる風潮に、疑問を呈して、問題提起していた。(いい文章なので切抜きしてました)

古市氏の「新潮45」での主張は極めてまっとうだ。
 「このままでは戦争語りが「学校の怪談」や都市伝説化する。悩ましいのは、歴史の怪談、都市伝説化に抗うのは意外と困難だという点。きちんとした証拠に基づき、論理的整合性に配慮する歴史学よりも、何となくの根拠で伝えられる物語のほうが人類にはなじみ深い」と、戦争語りの陥穽を指摘し、

戦争全否定派はとにかく恐ろしさを説く。しかしこれらの情報は決して嘘ではないが戦争 のすべてではない。あの戦争は軍部の暴走だけで起きたわけではなく、背景には国民の圧倒的支持があった。特に開戦初期には多くの国民が戦勝報道に熱狂し、メディアや軍事産 業は大きな利益を得た。」「戦争肯定派はとにかく気持ちのいい話を好む。日本はアジアの国々から感謝されている。帝国陸軍の兵士はみな起立正しく国のために命を捧げた。しかしアジアに厖大な犠牲者が生まれたのは疑いようのない事実。ほんのわずかな例から日本賛美の物語を紡ぐのは都市伝説と変わりない。」と
左右の論壇のありかたの欠陥を分析、

そして
仮に戦争体験ができるだけ正確な形で伝わったとしても、それがどれほど意味のあることかはわからない。それこそ「戦後70年」特集でよく見るのは、あの悲惨な戦争を繰り返さないで平和な世界を作りましょうというメッセージ。しかしあの戦争と平和構築を安易に結びつける議論が非常に危険だと思う。なぜなら現代世界で起こっている戦争は70年前に終わった戦争とはまるで別物だから。」と、現実を見据えている。

戦争の記憶が風化してからのほうが、僕たちはより『戦争』をフラットに見ることができるかもしれない。同時に都市伝説化、怪談化も進むけど。だがそれほど心配していない。(時間がたては)冷静な議論ができる時代は絶対に来る。日中韓の関係もまた押してしるべし。」と結んでいる。

 言うまでもないが、古市氏は、「加害者としての日本という主体を忘れてもよい」と言っているので
はない。また、語り部を使命と思って、原爆体験や空襲体験の語り部たちの活動を否定しているの
ではない。平成生まれれの人々に、「語り継ぐ」ことがどれほどの意味があるのかと疑問を呈して
いるのだ。
これって、とかく何でも情緒に流される日本人(という再帰的な存在)には、けっこう大事な指摘だと思います。




2015年8月7日金曜日

『祈る平和』に感じる違和感 8月6日 「原爆の日」に思う

いわゆる(あえて「いわゆる」と言う)戦後70年。そして「被爆70年」は、その「節目の年」として、今年の「8月6日」は、語られた。明日は8月9日が語られるだろう。

「もう原爆の恐ろしさを伝える人々が少なくなってきた」「忘れてはならない」などなど、当然の言説がメディアで語られる。そのことに異議はない。正しいことだ。と、思う。
しかし、しかしである。
何か自分の中で「違和感」を感じてしまうのが、正直な思いだ。なぜなのか、考えてみたい。

「被爆70年の国民の思い」を否定するなど、それこそ非国民だと非難されそうだ。否定するのではない、それぞれの被曝者の方々の思いには寄り添いたい。
しかし、である。
かつてNHK教育テレビの討論番組で平和活動を行うNGOの女性が言っていたことを思い出す。「祈る平和主義」もあるが、「積極的に(動く)平和主義もある」と。

 ヒロシマ報道に違和感を感じているのは、まさにそのことかもしれない。
「祈る平和」は誰も否定できないよいことだけれど、そこには無力感も漂う。現実の政治はきれいごとでは動かないことを、歴史は語っているからだ。
「祈る」ことが悪いと言っているのではない。ただ、あまりにそのことばかりがクローズアップされすぎてしまうと、「なぜなのか」と感える思考が埋没してはしまわないか。

儀式化している8月6日、9日の催しは、祈るための祭祀になっている。若い世代がどれだけ「自分のこと」として原爆投下を考えるだろう。儀式で終わってしまうことの方が、よほど危ういと思う。

他人の葬式に出たことのある人は、経験があるだろう。儀式が執り行われている時は、厳かな気分になって、故人を忍ぶ。しかし儀式が終わってしまえば、そんな気分はどこかに行ってしまう。まして日にちが経ってもその故人を思い出して生活することなど、ありえない。儀式とはそういうものだ。
しかし「平和」は、常に考え、行動することが必要だ。8月6日に「祈れ」ば、ハイそれで終わりというのでは意味がない。そこに儀式への違和感がある。

「平和を祈り、平和を願う」ことは、あの原爆投下は、どういう意味があったのか深く考えることの妨げになってはいまいか。祈ることが思考停止になってはいけない。

渡辺靖さんの最新刊「アメリカのジレンマ」(NHK新書)によると、原爆投下を正当化できると考えるアメリカ人は54%、65歳以上では70%にのぼるという。(55頁 2015年の世論調査)
※もっとも18歳~27歳では47%で、歴史認識の世代間ギャップがあることも同時に述べている。

 なぜ原爆は落とされたのか。それを誘発したのは日本だったのではないか。そして、もっと突き詰めれば、アメリカに宣戦布告して戦争を始めたのは日本だったのではないか。それを主導したのはだれか、なぜ戦争をすることになったのか。考えることが必要だろう。

「それでも日本人は『戦争』を選んだ」を、いまごろだけど読んでみようと思う。そのことの方が祈ることより、価値があると思うから。






2012年7月29日日曜日

「本当のこと」を言うと批判される社会。原発聴取会に見る日本人のメンタリティー

7月17日 朝日新聞より引用
野田首相が、「消費税はもっとも公平な税」だと言ったら“批判”されたという記事を紹介した。
湯浅誠さんが、総理府の参与を辞任するに際して綴ったブログで、市民運動側の縦割りの問題点を指摘したら、市民運動の一部の人々が湯浅さんを“批判”したという。

 2030年のエネルギーの原発比率を決める、住民参加の公聴会で、中部電力の社員が個人として参加して、福島第一原発の事故では「放射能による一人の死者もまた、重篤な放射線障害の被害者も出ていない」と言ったら、反原発の方々から“批判”された。
どれも、言った(書いた)ことへの論理的“反論”ではなく、“批判”をしているだけだ。(少なくともそのように見える)。
これって、やっぱりおかしくないか。

「あなたの言っていることは、論理的にこれこれの矛盾がある。論旨の進め方の欠陥がある。また事実認識に間違いがある」という「反論」であれば、それはスジの通ったことであり、言った方とある意味で「対話」が成立して、発展的論争ができよう。
しかし、(単に)批判することは、感情的な反発でしかない。自分の気に食わないことは、とりあえず批判しておく。そうすることによって自分の「面目をどうにか保ち」、「立ち位置を改めて確認」するだけの、いやしい行為でしかない。
本当にイヤな世の中である。日本人のメンタリティーは底が浅い。
同様のとりあえずの“批判”は、けっこう様々なところにある。政治家の伝えられる言動は、こうしたことは日常茶飯事だし、新聞や雑誌、民間放送の(底の浅い無能な)アンカーマンもしかりだ。

この際、もう一度確認しておこう。
消費税は、所得が完全には把握できない状況では「もっとも公平な税」であることは論を待たない。
消費税が高いと低所得者に負担が大きいというのは、だれでもわかるし、そのことを否定しようとは思わない。ものごとは「正しいし事実把握」からでしか「最適解」は導きだせない。消費税は公平な税だという認識をまず市民が持つことが、「税と社会保障改革」の第一歩であろう。
先日、新橋のそば屋で昼飯を食べていたら、ビジネス客が「領収証」をもらっていっていた。店の方もヒルメシ時の領収書の発行も手慣れたもののようだった。つまりここから「連想」できるのは、経費で落とせる法人企業(主に中小だろう)では自分たちのメシ代も経費にしていく。ちりもつもれば結構な額になろう。そして法人は「経費がかかり赤字」となり、法人税を払わなくて済む。という構図だ。実際法人の3分の2は「赤字」で「法人税」を払っていない。それでカイシャがつぶれないのはなぜか。ちょっと考えれば小学生でもわかる「社会の仕組み」だ。所得に課税するのはどんな制度をつくろうとも絶対に公平にはならない。

「原発による放射能で死亡した人はいないし、重篤な放射線障害を起こした人もいない。」これは「反原発の不都合な真実」(新潮新書)でもはっきり書かれている「周知の事実」だ。それを言うことがなぜ批判されるのか。感情的反発以外のなにものでもない。もちろん原発の放射能汚染で、土地を奪われ、避難を余儀なくされる方々への「配慮」をする必要がないと言っているのではない。気持に寄り添うことは「日常の言動」では自然なことだ。そんな気遣いは、これも小学生でも分かる。
しかし「原発の比率を考える」ための「真面目な議論」をする「データ」として出すことに、なぜ反発するのか。まともな議論をしようという姿勢とはとても思えない。やはり「反原発派」は宗教化されていると思えてしまうのは、こういうところだ。

事実に基づいた、論理的で真摯な議論をさまたげることに何のためらいも持たない人々や一部のメディア。やはり日本はダメな国なんだな。