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2018年5月12日土曜日

「強硬派」のパラドックス。トランプ流政治術は正しいか。みもふたもないはなし。

 日本の(リベラル寄りの)論壇では、よく「保守のパラドックス」が指摘されている。対ロ、対中、対韓外交などにおいて、リベラル勢力が譲歩ととられる交渉をすると、右翼からものすごい非難が浴びせられ、保守派の人々が攻める。しかし安倍などが同じことをしても保守派は「安倍さんが決断するんだから仕方ないね」という雰囲気になり、交渉が進む。(と、いうのが「保守のパラドックス」と一応簡単に理解しているけど、こういうことでいいんですよね?)

 同様のことが一連の対北朝鮮でもアメリカ外交で行われた。軍事行動の辞さないという厳しい態度で北朝鮮に臨んだトランプ政権は、(内実はどうであれ)ともかくも北朝鮮の核放棄に方向に進んだのは確かだ。(もちろん6月12日の米朝会談を見てから本当の進展はわからないけど。)

 こうなるとオバマやクリントンが行ってきた地道で粘り強い交渉とは何だったんだということになる。ムダな方法だったのではないかと。結局世界は軍事力=力を背景にしか動かないという論法になる。「保守・強硬派という道は正しい」みもふたもない話だ。

 おそらくトランプは中東問題もこの手法でいくのだろう。イスラエル軍事力を背景にパレスチナを抑え込むことが「正しい」と。でもそう上手くはいかないのは明らかだ。
パレスチナ問題は、単なる領土問題ではない。宗教や民族をベースとした人間の尊厳の問題だ。力で屈服させようとすればするほど反発を招く。トランプはそのへんの人間のココロが分からないだろう。
 
 イランの核合意の離脱を見て、トランプはなによりアフリカ系が嫌いな差別主義者だとういくことがよく分かった。とにかくオバマが行ったことは全部否定したい。トランプにとってアメリカ政治で「黒人」が大統領として行ったことはズべて否定したいのだろう。
その線上にイラン核合意があった。

 力だけが唯一の解決策。トランプはみもふたもないことを世界に示してしまった。それを乗り越えて理性に訴えるという人間的な営みを放棄してね。

2017年8月19日土曜日

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』から考える「祈る平和」への“違和感”。その2

磯田道史氏の『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』が、アサヒの書評欄の「売れてる本」で紹介されていたので、買って読んだ。磯田氏はしばしばNHKのBS放送の歴史番組にも出演する歴史学者で、甘いマスクと平易で親しみやすい語り口で歴史を語る学者だ。
 最初はお手軽本かな?という気持ちで読み始めたが、どうしてどうして、非常に中味の濃い充実した新書だ。Eテレの番組「100分で名著」を加筆修正したものだというが、内容がいいだけにNHK出版も新書化したのだろう。これを1000円以下で購入できるのは絶対オトク。得した気分になる。
 と、まあどうでもいいことから入ったけど、この書籍は立派な「司馬遼太郎論」になっているだけでなく、日本近代史をどうとらえるかという歴史研究書ととらえることもできる。それは加藤陽子氏の『それでも日本は「戦争」を選んだ』にもあい通じる、冷静で公平な歴史認識の提示になっている。
 
 この著書の中で出てくることに、合理主義と対局にある、神頼み、日本人は最後は神が守ってくれるという、盲信が方向性を誤らせたことが指摘されている。もちろんこれは、何も磯田氏が初めて指摘することではないだろうけど、改めて彼の視点で司馬遼太郎の著書を「活用」して伝えてくれている。
 祈ればなんとかなる。神が助けてくれるという日本教(山本七平)的考えが“日本”をオカシナ方向に導いていった。
 このことと、毎年8月に繰り広げられる、祈りの日々、祈りの人々を揶揄するつもりはない。祈りの気持ちはもちろん尊重する。けれど、そうした姿に違和感を覚えるのには、祈ることが、いったんヘンな方向に行くと、「平和を祈る」心情もまったく正反対のものに行きかねない、合理的思考を停止しかねない危険性を感じるからなのだろう。と、自分自身の違和感の「原因」が、磯田氏の本を読んでなんだかわかったように思う。
 
文庫本が出ていました
  言うまでもなく「世界の平和」は強大な軍事力(核の傘)を背景にして成り立っている。それが現実だ。メディアもそのことは十二分に分かっている。ライトもレフトもだ。なのに「祈る平和」はそれとは切り離し、まったく別のものとして扱い報道する。でもそれでいいの?、と感じてしまう。じゃあどうすりゃいいのかという答えは持ち合わせないけど。
 仮に、8月の平和の祈りの一連の行事(6月の沖縄の祈りも含めて)を、祈る平和の考え方はおかしい、もっとリアリズムを子どもに教えるべきた。核の傘があるから平和なんだってことを、なんんて報道を8がつ6日や9日や15日にしたら、そのメディアはどうみられるだろう。マスメディアで最右翼と言われる社でもさすがにそこまではしないだろう。ほとんど読んでないので実際は知らないけど。まあそれが常識的というものだ。
 
 でも、リアリズム、合理的思考に目を背けるのは如何か。祈ることの無力さも認識しなければ、現実を見誤る。それは加藤陽子氏や磯田氏の書著を読むまでもなく、日本が神風を信じて失敗してきた近代と同じだからだ。

netより「引用」
  アメリカでは今でも、原爆が戦争を終わらせたという認識が広く国民に共有されているという。かつて防衛大臣がこの言説を“紹介”したら、失言として世間やメディアから袋叩きにあって、辞任に追い込まれた(と記憶している)ことがあったけど。でもそれは一面の事実なことは確かだ。そういう認識と、「原爆投下の正当化」は分けて考える必要があるだろう。だからこそオバマ大統領(当時)は広島を訪れて献花したのだ。謝罪したかどうかを問うことを被曝者団体もレフトなマスコミも直前のところで抑えた。リアリズムの中で、結果的に出てしまった多くの犠牲者に対して敬意を表したのだ。オバマさんは。そのことに対して、われわれ日本人(という大雑把なくくりはあまり好きではないけど)も敬意を表さなければならない。
 原爆の威力がいかに悲惨な結果を招くか、そのことは伝えていかなければならない。その意味でも8.6や8.9は大きな意義がある。だからこそ、その日を祈りの日にしてはいけない、結果の悲惨さのリアリズムを伝える場にしなければならない。世界の指導者がそのリアリズムを見ることにより核ミサイルのボタンを押すことを思いとどまることが、万にひとつもあるかもしれないから。

2017年6月17日土曜日

「最も危険なアメリカ映画」は米近代史の教科書だ。

 最初にアメリカに触れたのは、本多勝一氏の『アメリカ合州国』だったと思う。合衆国ではなく「州」だといちゃもんをつける本多氏の主張は確かにそうだった。そのタイトルだけでなく南部を歩くルポは、若い自分にとって新鮮だった。手元にないのでネットで調べると1981年刊となっている。すでに大学生だったのか。でも未熟な自分は、キング牧師の名と黒人解放くらいは知っていても、それ以上の具体的な出来事やアメリカの暗黒な歴史までの知識はなかった。
 
 「ドライビングMissデイジー」は、1989年の映画だ。
なぜだか印象に残る映画だ。DVDで2回観てしまった。
白人の警察官が「ユダヤ人と黒人の組み合わせか」と嘲笑するセリフが、この映画の背景のすべてを物語っていた。
『ドライビングMissデイジー』
(※追記:この印象深い映画も、見方を変えれば(町山さん的に解釈すると)、白人国家にあって、あるべき控え目で従順な、“模範的”黒人像を描いていると言えなくもない。またそういう見方はある面当たっていると思う。)

 と、前置きが長くなってしまったが、町山さんのこのアメリカ映画を分析した近著は、アメリカを知る上で、最もリアルな本だろう。この本を読んでアメリカの大衆社会のえげつなさと反知性主義の歴史が本当によく分かる。アフリカ系アメリカ人や先住民の苦難の道のりと、今も多くの白人に内在する差別意識など、一言では言い尽くせない豊富な内容だ。
 「バックトゥーザヒューチャー」や「フォレストガンプ」に隠された意図など、アメリカの現実を知ることができる。単純に感動したり、面白がって映画を見ていては、いけないことがわかる。
『さらば白人国家アメリカ』に書かれていたとおもうが、「サイレント・マジョリティー」の意味が、単に物言わぬ多数の人々という意味ではなく、アメリカでは、表立って差別意識を出せず、ホンネを言わない白人の集団を指すこと。ペイリンが言う「リアルなアメリカ人」という言い方が、白人たちを指すことなど、隠語的意味を解説してくれている。
報道では「草の根の保守」としか描かれていない(と思う。少なくともNHKニュースでは)「ティーパーティー」運動が、実はコーク兄弟に操られた運動だったことなど、それこそ「リアル」なアメリカが分かる。
 一読の価値あり。内容から言って1400円は非常にお買い得!
 

アメリカの“ルポ”というかフィールドワークで興味深いのは、もちろん渡辺靖さんの一連の著書だ。でも渡辺さんの本では補いきれないものが町山さんの本にはある。

ちなみに「アフターアメリカ」はこれはこれで、大変いい書籍だ。




2017年2月4日土曜日

『トランプ現象』は面白い。自らの邪悪さを見つめ、心の「つじつまを合わせる」

寅さん「それを言っちゃおしまいよ」。

誰かがどこかで書いていたが、トランプ現象を見ていてこのセリフを思い浮かべた人は多かろう。
それほど寅さんフリークではないけど、やはり、これを思い出していた。

「一番怖いのは、誹謗中傷や罵詈雑言ではない。『本当のこと』を言うことだ」と言った要旨の言説もどこかにあったな。

本音と建て前という、心のウラオモテとはまた違う。
皆分かっているけど、それは口に出して言うことではない。というのが大人の対応だろう。でも「口に出さない」ということが、人によっては溜まりすぎるとストレスになり、発信することで発散したくなるのもまた人間だ。

 いまさら指摘するまでもなく、不寛容な社会、ネット炎上、「ホンネトーク」など、日本でもトランプと通底する現象は、いくらでもある。

 トランプのフェイク発言にマスコミは当然反応し、トランプ批判を強める。しかしマスコミ自体を既得権者、「われわれを代表していない人たち」と見なす人にとっては、それはかえってトランプを強化する方向に動くのだろう。
行動経済学の入門的な新書「『こころ』の経済学~行動経済学から読み解く人間のふしぎ」(依田高典)を読んで学んでいると、改めてそうした人間の「性(さが)」を認識する。

トランプとマスメディアの闘いが、行動経済学の『認知的不協和』に当たるのかどうかは分からないが、少なくともマスコミとのバトルが続くたびに、トランプ側は、より極端に振れているように見える。

「大人」(自分も一応オトナと思っているけど)であれば、口に出す出さないという以前に、無意識のいちに、そういうことは考えてはいけないこと。“正しくない”こととして、自分のココロの中で処理していることがあるような気がする。それは日常のちょっとしたことから、社会の大きな現象まで様々だ。
 邪悪なことが一瞬脳裏をよぎると、もうひとつ別の「自分」が、そんなことを考えちゃいけない、とささやき、思考を止める。といった過程だろうか。思ったことをポンポン口に出す(少なくともそう見える)トランプ大統領を見ていると、そんな自分に気付かされる。

トランプ現象が面白いというのはそういう意味です。

では、どう振る舞って生きるのがよいのか。それはなかなか難しい。あまりに「正しく」していると、それはストレスになり、ココロが折れることもあるからだ。
多くの人は趣味に打ち込んだり、お酒を飲んだり、騒いだり、買い物したりして、他のことで発散してココロのつじつまを合わせるのだろう。

そう「心のつじつまを合わせる」ことを論じるのが、この拙文のテーマだということが、ここまで書いて気が付いた。(この時点でタイトルを書き替えた)。

職場で難儀する問題に当たっていて、人を説得するのに苦労している時、その人のココロのつじつまを合わせてあげられる方向に持っていくことが、近道なのだろう。しかし、それってどうなの、というのが一方で思うところだ。
 論理的、演繹的に説得しても絶対考えを曲げない人をどうすか。日々、トランプ発言を見ていて、悩みを深くしてしまった。かえって私自身の「心の辻褄」が合わせられない。トホホ。








2017年1月28日土曜日

歴史と向きあう『日本書紀の呪縛』・・・「将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない」

 正直に言うと、学生時代「歴史」をきちんと学んでこなかった。中学、高校を通じて日本史、世界史ともあまり好きではなかった。あのころ歴史に関する書籍もほとんど読まなかった。(読んでいたのは、もっぱらライトな小説とルポルタージュだ。)
だから歴史の基本的知識も乏しい。今から考えるとよく大学の文系に入れたと思う。(地歴の代わりに数学で受験できるところしか受けなかったけど)

 「歴史」を少しはまともに考えてみるようになったのは、恥ずかしい話、社会人になってからだ。まあそんなことはどうでもいいけど、日々生きていていつも頭によぎるのは、タイトルの言葉だ。これを知ったのは、ハーバード大学教授の入江昭さんの新書「歴史を学ぶということ」のあとがきだ。

オスカーワイルドの戯曲「ウィンダミア卿夫人の扇」から。『将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない』

 メモに書きとめておいた。
時事的問題について考える時も、日常の雑事(親の介護など)について考える時も、この言葉は、生きる上で大切だ。

『日本書記の呪縛』は一気に読んだ。

 先人の研究成果を丁寧に紹介し、そこに著者の説得力ある見解を静かに記している。納得感が得られる新書だ。

 歴史に真摯に向き合おうとする研究者の誠実さを感じる。まだま解明すべき歴史の課題が日本古代史にも相当あることも分かった。

法隆寺⇒聖徳太子⇒17条の憲法 などという図式は、自分の中に刷り込まれている。中学の教科書にもそう書かれている。でもそこから“違う”ことをきちっと理解していないといけないことを改めて認識させられた。
 近代の歴史を自らに都合よく書きかえようというたくらみは、日本でも中国でも韓国でも、行われている。だから、良識的に人々によって歴史の共同研究が行われているのだろうけど、国家権力はそんなことはおかまいなしだし、偏狭な考えから抜け出せない一部の大衆の行動も同様だろう。
 APAホテルに置かれている『書籍』問題が最近話題になった。札幌・帯広で冬季アジア大会が開かれる。少なからず摩擦を生むのは明らかだ。反対に慰安婦像についても同様だろう。“良識的”な人々(リベラルな方々)にとっても、おそらく困惑している問題だろう。
 自分の考えに都合よく解釈する。これもナルシシズムの心情にほかならないけど。
 人は誰でも思いだしたくない過去もあろうだろう。しかしそれに真摯に向き合う胆力がなければ未来は開けない。






2015年10月25日日曜日

コンプライアンスって何? 郷原信郎さんの著書から「法令遵守」を考える


郷原さんの書著は、いつも的を得ている。いろいろ勉強になる。
「法令遵守が社会をつぶす」を読んだのは、随分前だったけど、日頃から何となく思っていたことを見事に「明文化」して、はっきり、しかも論理的に解き明かしてくれた。

もう具体的内容は忘れてしまったけど、これこそ「溜飲を下げる」と言うのだろうか。
もちろん、郷原さんは法令を守らなくてよいと言っているのではない。単純な「規則さえ守ればよい」という考え方ではダメだと言っているのだ。と思う。

 中小企業に勤めて、危機管理について、改めて考えなければならなくなった。で、コーポ―レートガバナンスの本も役にたつが、それだけではなく、再び郷原さんの図書館で借りてみた。

「組織の思考が止まるとき」は、発行年月日を見ると、2011年2月となっている。東日本大震災が起こる少し前だ。
内容は法律の古典「日本人の『法意識』」にも通じるところがある。

以下、(印象に残った)内容を簡単に記す。

○多民族国家アメリカでは人種、文化、慣習が異なる多くの民族が一つの社会を形成し、社会としてのまとまりを維持するために「法令と契約による拘束」を中心にすることが不可欠だった。社会の中心に司法制度が位置づけられた。

○日本社会でも「法令遵守」という言葉は古くから社会内で定着してきた言葉だったが、それはアメリカ社会におけるComplianceという言葉とはかなり異なる意味を持っていた。

○民族の多様性がない日本では同質性から社会内における協調関係が維持され、暗黙の了解、合意が重要な機能を果たす社会。法令や契約に基づいて司法手段によって問題を解決するのは社会的逸脱者が犯罪を行った場合や感情的対立など特異な事象が発生した場合の最終的な手段であった。

○市民生活や経済活動は、社会内の不文律としての「掟」や失墜、「村八分」など社会内における制裁手段が用意されていた。

○ところが2000年以降、グローバリズムの名の下、日本社会のアメリカ化が進み、法令や契約を社会内の解決手段として最大限に使いこなすアメリカで「法を守ること」という意味で使われるComplianceが、「法令遵守」という訳語と結びつけて使われるようになった。

○日本社会における法令や司法の位置づけのアメリカとの違いが考慮されることなく、企業などの組織の取り組みとして重視されるようになり、「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしていくことになる。

○コンプライアンスの本来の意味は「他からの求めに応ずること、従うこと」である。これを組織と社会の関係に置き換えれば、コンプライアンスとは「社会の要請に応えること」


○「法令遵守」という言葉、法令を守ることの自己目的化が、様々な弊害をもたらしている。

○「法令遵守」という意味のコンプライアンスが社会全体を覆い尽くしている今の世の中では、どうしても(組織のピラミッドの)下の方に注意が向いてしまう。

○何々規則、何々基準、マニュアルを守ったか守らなかったをチェックされるから、それを守ろう、守ろうという方向に注意が注がれる。その結果、一番肝心な(ピラミッド)の頂点から注意が離れる。

○社会の要請にバランスよく答えていくには、組織の中で共通認識を持つことが必要。それによって組織のコラボレーションが可能になり、社会の要請に応えるパワーを生み出す。
そのプロセスこそ組織にとってのコンプライアンスに他ならない。


○フルセットコンプライアンスのすすめ
1:組織としてどういう社会の要請にバランス良く応えていくか方針を明確にする。
2:そういう方針が実現できるような組織体制を作る
3:作った組織が実際に機能し、実際に社会の要請に対して反応して動いていかなければならない。
▷トップとボトムのセンシティビリティー。自ら敏感に反応すること。縦のコラボレーション
▷横のコラボ
4:治療的コンプライアンス 不祥事対応
5:環境整備コンプライアンス

○戦後は長らく、日本の経済省庁は法令に基づかない行政指導によって経済活動、企業活動をコントロール。ほとんどが官僚の裁量で行われてきた。その時々の国家や社会の状況に応じて社会の要請に応えるための活動として行われてきた。
○それは単に法令にそのまま従っていればよいというものではなく、むしろ法令上明確に規定されているのではなく、行政上の裁量に委ねられている事項についてどのように対応するかが官公庁の判断として重要だった。
○ところが「法令遵守」の波が押し寄せ、官公庁組織も「頬憂い遵守」さえしておけばよいという考え方が幅を利かせている。しかしそのような「法令遵守」に凝り固まったコンプライアンスを行うことによって官公庁が本当の意味で社会の要請に応えていくことができないのは明らか。


不祥事事例の“研究”
○社保庁の不祥事
「年金改ざん」問題。
「標準報酬遡及訂正事案」
標準報酬月額を遡って引き下げる手続きへの批判。

 これは、それによって支払うべき保険料が遡って安くなるので保険料の滞納が帳消しになる一方、将来受け取る年金額も減少する。事業主自身の申告に基づいて行われた。
給与から天引きされる従業員の報酬月額が本人の知らないうちに事業主によって勝手に引き下げられたとしたら、それは事業主による保険料の着服・横領だが、事業主自身のものは実質的に被害はない。
 すべての法人事業者と従業員5人以上を常時雇用する個人事業主は厚生年金への加入が義務付けられている。この制度は経営基盤が安定していて大企業向けの制度。
中小零細企業は法人であっても実態は個人事業に近いものがある。事業主と家族が取締役という例も多い。支払困難になった事案について「遡及是正」を行うことは加入者間の負担の公平を確保しながら年金財政を維持していくにはやむを得ない措置。
 なぜなら事業者が倒産して多額の滞納が確定すると、保険料を支払わなかった事業主にも将来多額の年金が支給されることになるから。その資金は他の保険加入者が負担するという不合理が生じる。
これが「法令遵守」で考えると全く違う。
これが「年金改ざん」などと社会問題化した背景は、度重なる不祥事に対して厚労省や社保庁が「法令遵守」的対応ばかりを繰り返し、問題の本質を明らかにして国民の理解を求める努力をしてこなかったから。


○事故米問題の本質
残留農薬に汚染されたいわゆる「事故米」が工業用ののりなどの非食用として政府から売り渡されたあと、不正に食用として転売された事件。
問題の本質は2つ。
①健康被害  ②転売による利益を得る悪質は経済犯罪
①は結果的に人体への影響が懸念されるようなものではなかた。農水省の対応のまずさが批判を大きくした。


▷法令に納得していなければ「遵守」できない。

○「法令遵守」をはき違える放送事業者
放送法第4条の遵守だけでは問題は解決しない。
・放送によって権利侵害を受けた人が3か月以内に請求があった時は遅滞なく真実かどうか調査。判明した日から2人いないに訂正、取り消しを行う。
これは放送事業者が自浄能力を備えているという前提があって初めて機能する。
ところが、単に「法令遵守」といい観点からこの条文に違反しなければいいという考えをとると、放送法の趣旨とは全く相反す事態になる。まず調査を行うことが大事。

○「あるある大辞典」の納豆ダイエット
週刊朝日が海外専門家のコメントに疑問をもってインターネット・電子メールで確かめたら、その専門家のコメントはまったくねつ造だった。

○TBS「朝ズバ!」の不二家関連報道
元従業員の証言。顔なし証言で不二家バッシング。信頼回復対策会議という第三者機関の関連資料からねつ造が発覚。

○日テレ「バンキシャ」の岐阜県裏金問題
偽証証言の報道は、たまたま証言者が逮捕され取り調べで偽証証言を供述したから偶発的に発覚。放送事業者の自主的調査だけでは「報道の自由」「取材源の秘匿」に守られ事実は明らかにならなかった。

「あるある・・」の関西テレビが民放連を除名処分に、番組打ち切り
日本テレビは報道局次長が岐阜県庁を訪問・謝罪。社長が引責辞任。
TBSは最後まで誠実な対応をせず、無理な弁解を押し通す。
BPOも言い分をほぼ丸のみ。

社会的影響から言ったら、あるあるは小さい。
バンキシャも岐阜県庁が直ちに調査を行ったことから比較的影響は小さい。
朝ズバは、不二家に与えた影響は多大。不二家は山崎製パンの子会社になる。フランチャイズの2割が廃業。

コンプライアンスのあり方を考えるには
「法令遵守」から「社会的要請への適応」

*********************

この書著で言及されていた放送事業者の問題は、「メディアの劣化」などと、紋切型の言説で切って捨てるには、あまりにも根深い問題だ。

「法令遵守」の背景に、日本社会の“大衆性”の台頭があるのは、間違いないだろう。この問題でも日本は「反知性主義」的社会になりつつあるのだろう。残念だけど。

2015年9月3日木曜日

古市憲寿「もう誰も戦争を知らない」(新潮45 8月号)は、非常に優れた考察だ。

古市憲寿さん(netより「引用」)
 古市寿憲さんは若手も論客の中でも、注目している。(すみません、あの髪型はあまり好きではありありませんけど)。
 
 近隣諸国、特にあのアジア太平洋戦争で日本が占領した国々では、ここのところの対日関係もあり、「戦後70年」を国内的にうまく「利用」していることは、ここでは置くとして、それにしても戦後70年とは何だったのか、冷静な考察が必要だ。古市氏が新潮8月号に寄せた文章は、すぐれて本質をついたものだった。「もう誰も戦争を知らない」


(いつものように図書館では9月号が発売にならないと8月号が借りられないので1か月遅れです)

20130806朝日新聞から「引用」
古市氏は2013年8月6日の朝日新聞に寄せた一文でも「平和の記憶から始めればいい」と、戦後という枠組みにこだわる風潮に、疑問を呈して、問題提起していた。(いい文章なので切抜きしてました)

古市氏の「新潮45」での主張は極めてまっとうだ。
 「このままでは戦争語りが「学校の怪談」や都市伝説化する。悩ましいのは、歴史の怪談、都市伝説化に抗うのは意外と困難だという点。きちんとした証拠に基づき、論理的整合性に配慮する歴史学よりも、何となくの根拠で伝えられる物語のほうが人類にはなじみ深い」と、戦争語りの陥穽を指摘し、

「戦争全否定派はとにかく恐ろしさを説く。しかしこれらの情報は決して嘘ではないが戦争 のすべてではない。あの戦争は軍部の暴走だけで起きたわけではなく、背景には国民の圧倒的支持があった。特に開戦初期には多くの国民が戦勝報道に熱狂し、メディアや軍事産 業は大きな利益を得た。」「戦争肯定派はとにかく気持ちのいい話を好む。日本はアジアの国々から感謝されている。帝国陸軍の兵士はみな起立正しく国のために命を捧げた。しかしアジアに厖大な犠牲者が生まれたのは疑いようのない事実。ほんのわずかな例から日本賛美の物語を紡ぐのは都市伝説と変わりない。」と
左右の論壇のありかたの欠陥を分析、

そして
「仮に戦争体験ができるだけ正確な形で伝わったとしても、それがどれほど意味のあることかはわからない。それこそ「戦後70年」特集でよく見るのは、あの悲惨な戦争を繰り返さないで平和な世界を作りましょうというメッセージ。しかしあの戦争と平和構築を安易に結びつける議論が非常に危険だと思う。なぜなら現代世界で起こっている戦争は70年前に終わった戦争とはまるで別物だから。」と、現実を見据えている。

「戦争の記憶が風化してからのほうが、僕たちはより『戦争』をフラットに見ることができるかもしれない。同時に都市伝説化、怪談化も進むけど。だがそれほど心配していない。(時間がたては)冷静な議論ができる時代は絶対に来る。日中韓の関係もまた押してしるべし。」と結んでいる。

 言うまでもないが、古市氏は、「加害者としての日本という主体を忘れてもよい」と言っているので
はない。また、語り部を使命と思って、原爆体験や空襲体験の語り部たちの活動を否定しているの
ではない。平成生まれれの人々に、「語り継ぐ」ことがどれほどの意味があるのかと疑問を呈して
いるのだ。
これって、とかく何でも情緒に流される日本人(という再帰的な存在)には、けっこう大事な指摘だと思います。




2015年8月30日日曜日

「戦争法案」「徴兵制」など安保法案への幼稚なレッテル貼りは恐れ入る

 参議院で「審議中」の安保法案が「良いこと」なのか「悪いこと」なのか、私にはよく分からない。考えれば考えるほど判断がつかなくなる。それほど微妙なことなのだろう。だからこそ国会での議論では思慮深い奥行のある議論を聞きたいと思っていた。

8月30日国会前のデモ(ネットより「引用」)
しかし、現実はそうなっていないような気がする。賛成も反対も何か雰囲気で判断されているように気がする。

 野党(特に社民なんか)は、国会の審議で、「戦争法案」とか、「徴兵制復活!」などど勇ましい言い方をする。これほど幼稚な議論があるだろうか。これはいわゆるレッテル貼りでしかない。幼稚という言葉以外に、適切な言葉が浮かばない。

 それは支持者をもバカにしている、ということに他ならない。
オルデカ的な大衆論に立てば、大衆は論理を理解できない、その場の空気で判断する。だから理詰めで説得するより「空気」を作れば、流れが変わる。と、思っているからこういう言い方になるのだろう。その点に関して言えば、政府の方が真摯な対応だと認めざるを得ない。

 ワンフレーズで「キャッチな言い方」で、支持を集めようとしている涙ぐましいご努力は分かるけど、レッテル貼りは、右側の人々が「売国奴」だとか「アカ」(ちょっと古いか)だとか、醜い言葉で切り捨てる手法とそっくりだ。なんら変わるところがない。そのことに彼らは気づいているのだろうか。それとも大衆操作としてこの方が有効だからやっているだけのことなのだろうか。

この国の議論は、いささか知性に欠ける。

2015年8月15日土曜日

村山首相の戦後50年談話で十分だ。戦後70年談話など必要ない、と思う。

70年という歳月がどのくらいの意味を持つのか。もちろんそれは人によって様々だろう。長寿の時代、いわゆる「物心」がついた年齢から70年後では、記憶として鮮明だろうし、まして「戦争体験」という特異な状況下であればなおさらだ。
しかし、そうした人はもはや少数になりつつある。多くの人々にとって、もはや70年前のことは歴史でしかないし、それは別に悪いことではない。
断わっておくが記憶として留めている少数の人々の思いを無視してよいとか切り捨てるべきと言っている訳ではない。語り継ぐことの大切さにはもちろん同意する。

私はこの人を尊敬する。稀有の政治家だと思う。
戦後50年の村山談話は、歴史に残る価値のあるものだったと思う。村山首相は、50年という節目で、よい意味で戦後に決着をつけようとした。それは戦後世代の人々に過去を背負っていきてほしくないということだったと思う。いわゆる「慰安婦」問題についても、政府も出資し基金を作って償いを行い、決着を図った。それは正しい判断だった。
 「謝ります。。そして償います。だからもうおしまいにしてください。私どもは、過去に十分向き合うことで未来に向かって生きていきます。ご理解ください。」
ということだったのだろう。

しかし、その後の政治の動きは、こうした努力を無にするものであり、中韓の「お家の事情」ともあいまって、こうした努力は水泡に帰してしまった。それに追い打ちをかけたのが安倍首相の「戦後70年談話」だろう。日本という国はいつまで幼稚な振る舞いを続けるのだろうか。もう本当にこの国が嫌いだ。
 
 安倍の本音は、今回談話で「戦後レジーム」を見直したかった。しかし国内外の世論に押されそれができないと悟った。しかし談話を出すことで、少なくとも「村山談話」を継承するという言説を持って消し去りたかったのだろう。(少なくとも表面上)「継承する」ということは、自身が首相の時に出した談話の方が「新しい」もになり、それが「歴史」になるからだ。この人はどこまで、ナルシズムの性癖の持ち主なのだろうか。まあそれを選ぶ国民が、それに同意しているということなんだから、この思想に抗う筆者は少数者なんだろうけど。 もうたくさんだ。

※村山政権(94年~96年)には阪神淡路大震災(1995年)があり、不運も重なった。少数の社会党が自民党という巨大政党と組み、「妥協に妥協を重ね」て政権を維持したと批判する人もいるが、逆の見方をすれば、モノゴトを進めるためには自己主張を押し通すだけではうまくいかず、譲ることは譲って、なんとかモノゴトを進めていったということではないか。その意味では村山さんは、偉大な政治家だと思う。


2015年8月12日水曜日

安藤忠雄は責任をとれ・・・「言い訳」をする人間の精神構造。

かつてこのブログで、猪瀬元都知事ことについて「平気でウソをつく人」だと人間性を問うたことがあった。
何かマズいことに直面するとまず「言い訳」をする性癖の人間は少なからず存在する。その性癖はその人の能力や地位や業績に関係なく、そういう人間はいるのだ。

2015年7月17日 netより引用
新国立(こくりつ)競技場の建設を巡って、コンクリート建築家・安藤忠雄は、そうした人間なのだろう。
7月17日の記者会見で、図式まで用いて、われわれが「選考」したのはデザインであって、コストは「そんなんおカンケイない!」と言いつのっていた。
“世界的”な建築家として、恥も外聞もない「言い訳」だけの会見だった。

しかしどう考えても一流の建築家がコストを無視してデザインのみの「選考」だったなんて信じられるだろうか。デザインを見るだけなら、建築家である必要はない。建築の知識がなくてもセンスのいい人(っていう定義は難しいけど)にお願いすればいいだけだ。

安藤忠雄氏が選考委員長に選ばれたということは建築家として、その実現可能性も含めて考えてもらうというのが、いわば当たり前のことではないのか。

そんな、今回の問題の主犯格に対し多くのメディアは、弱腰の質問しかできなかった。
そりゃそうだろう、彼には多大なお世話になっているテレビ、新聞は多いから。

公共放送では、「プロフェッショナル」何かでも持ち上げいる。それだけではなくニュース企画にもよく登場する。ボクサーかは這い上がった東大教授という物語は、大衆受けするネタなのだろう。

下村文部大臣に指導力がないなど批判も多いが、もともと安倍の顔色伺いしかでない能力の人間だから「批判」しても始まらない。

この項を書いていて思い出したことがある。
サッカーの中田浩二が現役のころ、細かな背景は承知していないが、彼を追いかけまわすマスメディアに対して、「虫けら」と言って、それを記者会見で詰問されたことがあった。

記者は「虫けらとうはどういうことですか」とバカにされたことを不穏当な発言だと言わんばかりに質問した。。中田は「虫けらは虫けら。そういう意味です」というような内容を言って、じっと質問者から視線を話さなかった。この席では以上、「虫けら」について“追及”はなかった(ように記憶している)。

「虫けら」という言葉が良いか悪いは別問題として、中田は自分の発言にある種の責任を持ち、逃げなかった。それは本当の大人の対応だ。自分の行ったこと発言したことについて、自分でその責任を引き受けるのは。

質問した記者はここで論争しても負けると、直感したのだろう。
自分たちのマナーの悪い取材を逆に問題視されることを懸念したのかもしれない。
とにかく、中田は「勝った」。これはこれで立派だ。中田を支持する。