2013年6月25日火曜日

原発災害、「村、町への帰還が復興」という言説は、封建制度の呪縛による発想

東日本大震災による東京電力福島第一原発の放射線漏れ事故で、「避難」を余儀なくされている人々の苦難と苦悩は、大きなものだろう。お年寄りだけでなく、仕事と子育ての関係から引き裂かれた家族の苦労は想像に難くない。
そのことを十分“理解”した上で、被災自治体が「帰還」を前提に復興を考えていること、多くのメディアも「もといた場所に帰ることが一番」という前提で報道していることに、違和感を覚えてしまう。

モノを壊されり、傷つけられたら、「現状回復」するのが原則だろう。「元通りにしろ」と叫ぶのは心情的にはもっともな話しだ。しかし世の中は、どうしても完全には元通りにはできないことも多い。だから次善の策を考え、場合によってはお金による解決策を作ってきた。交通事故の賠償を考えればわかる話しだ。

加害者側の責任は責任として追及されるべきだが、それと「元通りにしろ」という要求は分け考えなければならない。それが、こと原発災害ではごちゃまぜになっているように思える。
また、被災自治体も元通りのマチ、ムラになることが唯一の、そしてベストの選択肢だと振る舞っている。もといた場所になかなか帰れず何年もかかること。つまり人生の貴重な時間を「避難」という形で過ごすことより、「新たな生活」として過ごす方が、幸せな場合もあろう。

被災自治体が住民に「現状回復」しか青写真を示さないのは、構造的な問題があるからだ。首長にとって、また自治体で働く者にとって、わが町、わが村が存在することが、唯一の自分たちの存在価値だから。彼らにとって人口が減ることは、許せないことなのだろう。あたかも企業にとって売り上げが減ることの恐怖と似ている。サラリーマンでもそうだろう。給与が減ることはある種の恐怖だし屈辱だ。
しかしもう少しおおきな枠組みで考える必要があるのではないか。
マチ、ムラ単位でモノゴトを考えて、それに沿って政策を進めているから、埒があかない。

そもそも、(日本人)は、どうして先祖伝来の土地にこだわるのか。歳いった人が、もう「終の棲家」として動きたくないというのは別にして、これから人生がある人にとって、必要に応じて住まいを動くというのは合理的な判断だ。実際そうして生きている人もいるし、いわゆる転勤族にとっては、好むと好まざるとにかかわらずそうして生きたきた。しかし原発事故の被災地では、「元の場所に住むことが最善」という前提で動いている。そこに疑問を呈する余地を許してはくれていない。

いつまでも小さな市町村単位レベルでしか発想できないから、住民たちも抜け出せないのではないか。ひとつところに留まって暮らせというのは封建時代の発想でしかない。「中国化する日本」を読んで、その思いは強くなった。

そんな中で朝日に福島総局長・渥美好司氏の「『移住』選んでもいいのでは」というコラムが載った。研究者の言葉を借りながら、遠慮がちに「移住」の選択肢を示していた。ホンネを言うは気を遣う新聞社だから、しかたないだろうけど、実際、フクシマに居て、そうした思いに至ったのだろう。

「原発被災地域は、なかなか元通りに住めるようにならないのだから、いっそ、みんなでムラを捨て、新たなコミュニティーを作るか、周辺、あるいはもっと自由に好きな土地を選び、既存のコミュニティーに加わるというのもいい。そして、場所が決まらず対応上している放射能汚染土の最終処分場や中間貯蔵施設を、被災地に作り、その見返りの金銭を資金として生きていく方が合理的だ。」

というようなことは、おそらく自治体の長やメディアは絶対に言わないだろう。いや、言えないだろう。「ムラに帰る」ことを目指すことが、かえって被災した住民を長期にわたって苦しめていることには思いが及ばない人たちだ。
「壊したものは元に戻せ」とい「主張」のみが正しいとしされる“高度”に“大衆化”されたいまの日本ではしかたないかもしれないが・・。


朝日新聞より「引用」

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