かつてブログで「村上春樹をひっぱたきたい」と書いた(と思う。)よく覚えていないけど。
新潮文庫「村上ラヂオ3」を読んで、思わずその1、2も買ってしまった。
繰り返しになるが、どうしてこの人は、自分が考えていること、思っていることを先取りして、エッセイにしてしまうのだろう。トホホと言うしかない。まるで自分の頭(心)の中を密かに覗かれて、私だけのためのエッセイにしたと考えてしまうほどだ。これほど考え方や思いに共感する人は他にいない。
もちろん、「高い所がきらい」や「猫との生活」、「オープンカー好き」など、まったく逆のところもあるけど、逆に言うとこれ以外はすべて共感してしまう。
「村上ラヂオ」を3→2→1と、いつも仕事の帰りの電車で読んで、村上さんのゆる~い感じで頭の疲れ癒していた。
サラリーマンとしてこれまで32年間、まあ一応働き、今も生活のために給料が半分になっても働いていると、村上さんのような生き方は、憧れだ。それを目指してもかなわないし、小説も書けない。だからこそというのか、ゆる~いエッセイに垣間見える村上さんの日常を、自分の生活に重ね合せてリアリティを持って感じられるのかもしれない。
またフィールドが東京の千駄ヶ谷や青山だといのもある。毎週必ず1回は泳ぐために千駄ヶ谷に通っている。将棋会館にも、何度か行った。青山には、それほどなじみはないが、よく通るので地理的な認識は確かだし、まちの雰囲気もわかる。
旅行好き、料理好き、走ること。ゴルフ“嫌い”、鰻好き、等々、いちいち自分に「近い」感覚の持ち主が感じたこと考えたことを記す短文は、まさに「癒しのエッセイ」だ。
ぜんぜん話は飛ぶけど、小熊英二さんの「癒しのナショナリズム」という著書を思い出した。そうなんです。疲れた心には癒しが必要なんです。
村上さんは、彼の小説を読んでオウムから抜けることができた青年の話をを引き合いに、自分の書いた小説で救われる人が1人でもいれば、自分は小説を書く意義があるという趣旨のことをどこかで書いていた。社会が人々にどんな「癒し」を提供できるのか。それで社会のあり方がひどく変わってしまうのだろう。
「社会」というと何かマスでとらえがちだけど、そうではなくて村上さんの小説のような作用が、幾重にも積み重ねられるという意味で。
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