そばブームだ。
もうずいぶん前からだろうが。ふるさとの山形県には「そば街道」なる名称もあり、それぞれの地域で、自慢のそばを出している。
東京でもそれなりのそば店があるし、そば屋に関するグルメ本も出ているだろう。
そばを「語る」時、と言うか、そば屋のウリのひとつに、「手打ち」というのがある。
「手打ちそば」というだけで、きっと手作りだがらおいしいのだろうという気になる。反対に、「手打ち」と書いてないと、それは駅の安い立ち食いそば屋のそばとあまり変わらないのではないかという錯覚を持ってしまう。
「手打ち」は、“うまいそば”を連想させる装置になっている。
しかし「手打ち」であれば、そばはみなおいしいのかといえば、率直に言ってそうではない。
そば通の人の領域にはいかないが、それなりにそば屋を巡っている者としては、入って後悔した店も、結構ある。逆に手打ちでなくてもおいしいと感じたそば屋もある。
今回の食材偽装問題の一連の報道を眺めていて、この「手打ちそば」に考えが及んだ。高級ホテルやデパートの高級食堂で、“吟味された食材”の食事をしたことがないので、この問題は、「怒り」の対象ではなく、「笑い」の対象だったが、自分自身も「手打ち」という言葉に乗せられていたところがあったということだ。
「手打ちそば」信仰は、ブランド信仰や「血筋」「家柄」信仰にも通じる、心の弱い部分だと自覚しなければなるまい。
「言葉も食べている」(11月15日朝日新聞)というブルボン小林氏のコラムは秀逸だった。まさにわれわれ消費者一般大衆の“弱点”を指摘していた。
「ホテル空間」や「自家製」に惑わされる消費者真理の痛いところを率直に突いていた。
「偽装する店が悪い」と言っても何も変わらないことを、うまく表現していた。
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