2017年3月4日土曜日

指南書を読んでみる。「小さな会社で僕は育つ」と「ブックカフェを始めよう」


  いわゆる指南書というのは、実践的ですぐ役立つ、お手軽本なのかもしれない。何かを始めようとしている時や、何かを身に付けたいと思っている時に、飛びつきたくなるだろう。
 「1冊でわかる日本史」(なんてタイトルが実際にあったかどうか分からないけど)や、「中高の英語が1か月で身につく」(同)なんかも、その類だし、いろんなことでお手軽本の魔力はあろう。
 実際自分もその手の本を何冊か読んでいるけど、恥ずかしくてブログには載せられない。(笑)
しかし指南書でも、そんなお手軽本ではない良書もある。

 『小さな会社でぼくは育つ』は、関西の中堅大学で経営学を教える准教授が、おそらく教え子の学生たちの多くが就職するであろう中小企業で働くことの「応援歌」として書かれた本だ。何かの雑誌の書評にあってタイトルを覚えていたところに、先週、図書館の「新しい本」のコーナーに置かれたばかりのところを見つけ借りて読んだ。
  すでに第一次定年を迎えたわが身では、これから中小企業に勤めようとしている人向けに書かれた本が何の役にたつのだと思われるかもしれない。実際、著者には少々失礼だけど、まるでパンフレットのように平易にお手軽に読めるような構成の本だ。
   通勤の行き帰りで読み飛ばすような内容だけれど、それでも1,2か所、自分を振り返るという意味でも、役に立つことは書いてある。
(どんな書籍でも、必ず1か所は「読んでよかった」と思う箇所があると信じて読むことにしている)
 著者は内田樹さんの合気道道場の門下生でもあるらしい。内田さんの著書からも何か所か引用がある。「雪かきしごと」のことは一番のエピソードだろう。
これに関して、ラガーマンの平尾剛さんの著書に出てくる、「プレーヤーズプレーヤー」についての引用が興味深い。
「彼らの魅力や能力は数値に換算することができないのはもちろんメディアやファンの目にも評価されにくい。往々にして地味なプレー。しかし彼らが率先してひきうける泥臭いプレーの数々があるからこそ、見る者を魅了するほどスピーディーな試合展開が可能になる。いろんな意味で周囲が騒がしくてもそれがを気にせず黙々と自分の役割を担うことができる。それがプレイヤーズプレイヤーだ。」(『近くて遠いこの身体』ミンマ社)

ラグビーはよく知らないし、ほとんど見ることもないけど、雪かき仕事はスポーツでもあるんだなと、感じた。チームプレーというのはこういうことなんだろうね。


もう1冊は「ブックカフェを始めよう!」。還暦を迎えたら何をして生きようか考えている身には、非常に興味ある本だった。
これも、丁寧に、カフェを開店させ、維持するためのさまざまなノウハウが、平易に書かれている。これぞ指南書という本だ。
多少、本が好きで、カフェにも興味がある者にとって、この本を読むと、「自分にもできそう」と感じてしまう。巻末に全国のブックカフェが何軒か紹介されているが、ほとんどが東京圏以外の、地方都市のものだ。何か理由があるのか気になった。


2017年2月18日土曜日

フリーズドライ食品にハマる。ためしてみましたアマノドライフーズ

 齢50を越し、運動(ランニング・水泳&筋トレ etc.)を続けるようになって外食を余り好まなくなった。体重の増加が走ることの“致命傷“になるし、身体を健康に保つことは気持ちがいいことが、文字通り(身を持って」体感しているからだと思う。
 で、仕事中の昼飯は「中食」ということになる。毎日心掛けているのは、ヨーグルト(無脂肪)とリンゴ、ゆで卵を食べてから、「食事」をすること。これだけ食べたあとに食べるのだから、そう多くは入らないし、カロリー過多にならないようにしなければならない。
 そこで目を付けたのがフリーズドライの食品だ。お湯さえあればすぐ食べられる手軽さと、カロリー表示があることがなんといってもいいし、味も悪くない。

雑炊系、リゾットパスター系、カレーと、昼ごはん向きに種類も多い。今後、山行に持っていく食料の参考にもなる。また我が家ではあまり熱心にやっていないが、非常災害時の備蓄食料としても、いい。
(言っておくけどアマノからお金をもらって宣伝している訳ではありません。)
最近、急に種類が増えたように感じる。
実はこのフリーズドライ食品の出始めのころ、WBSか何かのテレビニュースで、丸の内にアンテナショップがあることを知り、(確かKITTEだった)、何かのついでに行ってみたことがある。(もう4年くらい前かな。)
 その頃は味噌汁などが中心で、あまり種類がなかった。最近、あまり行かないけどイオンの店にアマノフリーズドライが結構多く置いてあることに気付き、試しに買うようになった。
カレーは200キロカロリー以上あるけど、リゾットや雑炊、牛丼や親子丼はほとんど120~150キロカロリーだ。
これで午後からの仕事に体がもたない時には、夕方バナナを1本食べる。
 
 ヘンは話し、トシをとってからも、外食中心に炭水化物もモリモリ食べている人で健康そうな人が周囲にいる。それはそれですごいと思う。自身は、食事に細心の注意を払っていないと、健康が保てない…カラダになってしまっている。
 夕食はゴボウとニンジンを最低コブシ1個分、ワカメかモズクの酢の物、青菜のお浸し、ヒジキなどを食べてから、魚か肉を食べ、最後は納豆とごはんを軽く1杯で〆る。
 何年もこういう食生活を続けていると、ごくたまに、飲み会などで違う食事をすると体が調子悪くなる。それだけデリケートになってしまっている。
(育ちが貧しいのか飲み会でコースで食べると残さずすべて食べてしまう。)

 これが得なのか、外食中心でも平気な方が得なのか分からない。少なくとも生来の人付き合いの悪さがますます増幅されて、孤食化が深化しているのだけは確かだけどね。




2017年2月11日土曜日

リスクとは。あなどれない飲酒を放射線被ばくから考える。

とにかく昨今は「リスク」という言葉をよく見聞きする。
原発問題、自衛隊のPKO活動、健康問題、等々、なんでもかんでもリスクがどうのこうのというのが、「高尚な議論」らしい。
誰だって多かれ少なかれリスクと付き合って生きている。リスクなどということを特に意識しなくても、『経験値』が無意識にリスクを回避してくれ、なんとか生き延びてきた。そんなもんだ。

うろ覚えだけど、内田樹さんが、分かりやすい解説をしていた。
リスク(risk)とは回避できる危険のことで、デインジャー(danger)は回避できない危険のことだと。

週刊エコノミスト(2011年10月11日号)より「引用」
今週忙しくて1週間ぶりに開いたこのPCのフォルダを整理していたら、面白い資料が出てきた。

 2011年10月の週間エコノミストに掲載されていたがんリスク比較の表だ。2011年は言うまでもなく東日本大震災のあった年であり、福島第一原子力発電所の事故と放射線漏れがあった年だ。10月というと、震災から半年余りで、放射線に関する報道でも、まだまだ混乱が続いていた頃だったと思う。今から思うと、本当に極論ばかり(左右とも)がクローズアップされて、冷静な判断能力が“市民”もメディアもまだ持ち合わせていなかった時期かもしれない。
 表を見れば、それこそ「一目瞭然」だけれど、200㍉シーベルト程度の被曝は、喫煙や大量飲酒、肥満と比べて、リスクは高くない。運動不足とほぼ同じくらいのリスクだ。100㍉シーベルトにいたっては検出不能と出ている。
 言うまでもないが、もちろん、これをもってして、原発は安全です。福島の放射能汚染はたいしたことはない。などと短絡的に言うつもりはない。太っている人、大量飲酒をする人は放射線被ばくのリスクについて語る資格はない、などとも言うつもりはない。冷静な議論が大切だということに尽きる。

 改めてこの表を見て思ったのは、アルコールのリスクだ。
こちらは公益社団法人アルコール健康医学協会のサイトに掲載されているアルコール換算表だ。
これを見ると、飲酒のリスクはあなどれないということを改めて認識する。

例えば、ワインを毎日3杯程度飲むとすると、180ml=アルコール20gなので
20g×3杯×7日間=420gとなる。
これは放射線被ばく500~1000㍉シーベルトと同等のリスクということになる。
喫煙に比べればまだ低いけど、これをどう見るか。

がんに罹患する人が人口のどのくらいいるのか知らないけど、たとえば20人にひとり(=5%)のリスクとすると、1.4倍のリスクだからこれが7%になるという理解でいいのだろうか。
もしそうだとすると、ワインを1日平均3杯飲む人に対して、「あなたは(飲まない人にくらべて)がんにかかる確率が5%から7%に上昇しています」と言ったとして、どれほどのインパクトがあるのか。
こういうことを言うと、がんのリスクを訴えてる学会の方々に叱責されそうだけど、まあそういうことなんだろうと、一般の人の多くは受け止めるだろう。
飲酒を習慣にしている人が7%のリスクを5%に下げるために、飲酒をやめるとはとても思えない。

でもこの論法を放射線被ばくに当てはめて、福島の方々に、同様に5%が7%に上がっただけですと言ったら、相当な非難を浴びることだろう。
要は絶対値ではなく、相対的で体感的、感情的な問題だということだ。
だから難しい。

ちょっと中途半端になったけど、もうすぐ9時で時間切れ。取りあえずアップします。


2017年2月4日土曜日

『トランプ現象』は面白い。自らの邪悪さを見つめ、心の「つじつまを合わせる」

寅さん「それを言っちゃおしまいよ」。

誰かがどこかで書いていたが、トランプ現象を見ていてこのセリフを思い浮かべた人は多かろう。
それほど寅さんフリークではないけど、やはり、これを思い出していた。

「一番怖いのは、誹謗中傷や罵詈雑言ではない。『本当のこと』を言うことだ」と言った要旨の言説もどこかにあったな。

本音と建て前という、心のウラオモテとはまた違う。
皆分かっているけど、それは口に出して言うことではない。というのが大人の対応だろう。でも「口に出さない」ということが、人によっては溜まりすぎるとストレスになり、発信することで発散したくなるのもまた人間だ。

 いまさら指摘するまでもなく、不寛容な社会、ネット炎上、「ホンネトーク」など、日本でもトランプと通底する現象は、いくらでもある。

 トランプのフェイク発言にマスコミは当然反応し、トランプ批判を強める。しかしマスコミ自体を既得権者、「われわれを代表していない人たち」と見なす人にとっては、それはかえってトランプを強化する方向に動くのだろう。
行動経済学の入門的な新書「『こころ』の経済学~行動経済学から読み解く人間のふしぎ」(依田高典)を読んで学んでいると、改めてそうした人間の「性(さが)」を認識する。

トランプとマスメディアの闘いが、行動経済学の『認知的不協和』に当たるのかどうかは分からないが、少なくともマスコミとのバトルが続くたびに、トランプ側は、より極端に振れているように見える。

「大人」(自分も一応オトナと思っているけど)であれば、口に出す出さないという以前に、無意識のいちに、そういうことは考えてはいけないこと。“正しくない”こととして、自分のココロの中で処理していることがあるような気がする。それは日常のちょっとしたことから、社会の大きな現象まで様々だ。
 邪悪なことが一瞬脳裏をよぎると、もうひとつ別の「自分」が、そんなことを考えちゃいけない、とささやき、思考を止める。といった過程だろうか。思ったことをポンポン口に出す(少なくともそう見える)トランプ大統領を見ていると、そんな自分に気付かされる。

トランプ現象が面白いというのはそういう意味です。

では、どう振る舞って生きるのがよいのか。それはなかなか難しい。あまりに「正しく」していると、それはストレスになり、ココロが折れることもあるからだ。
多くの人は趣味に打ち込んだり、お酒を飲んだり、騒いだり、買い物したりして、他のことで発散してココロのつじつまを合わせるのだろう。

そう「心のつじつまを合わせる」ことを論じるのが、この拙文のテーマだということが、ここまで書いて気が付いた。(この時点でタイトルを書き替えた)。

職場で難儀する問題に当たっていて、人を説得するのに苦労している時、その人のココロのつじつまを合わせてあげられる方向に持っていくことが、近道なのだろう。しかし、それってどうなの、というのが一方で思うところだ。
 論理的、演繹的に説得しても絶対考えを曲げない人をどうすか。日々、トランプ発言を見ていて、悩みを深くしてしまった。かえって私自身の「心の辻褄」が合わせられない。トホホ。








2017年1月28日土曜日

歴史と向きあう『日本書紀の呪縛』・・・「将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない」

 正直に言うと、学生時代「歴史」をきちんと学んでこなかった。中学、高校を通じて日本史、世界史ともあまり好きではなかった。あのころ歴史に関する書籍もほとんど読まなかった。(読んでいたのは、もっぱらライトな小説とルポルタージュだ。)
だから歴史の基本的知識も乏しい。今から考えるとよく大学の文系に入れたと思う。(地歴の代わりに数学で受験できるところしか受けなかったけど)

 「歴史」を少しはまともに考えてみるようになったのは、恥ずかしい話、社会人になってからだ。まあそんなことはどうでもいいけど、日々生きていていつも頭によぎるのは、タイトルの言葉だ。これを知ったのは、ハーバード大学教授の入江昭さんの新書「歴史を学ぶということ」のあとがきだ。

オスカーワイルドの戯曲「ウィンダミア卿夫人の扇」から。『将来に向かって生きようとするものは過去に向かっても生きなければならない』

 メモに書きとめておいた。
時事的問題について考える時も、日常の雑事(親の介護など)について考える時も、この言葉は、生きる上で大切だ。

『日本書記の呪縛』は一気に読んだ。

 先人の研究成果を丁寧に紹介し、そこに著者の説得力ある見解を静かに記している。納得感が得られる新書だ。

 歴史に真摯に向き合おうとする研究者の誠実さを感じる。まだま解明すべき歴史の課題が日本古代史にも相当あることも分かった。

法隆寺⇒聖徳太子⇒17条の憲法 などという図式は、自分の中に刷り込まれている。中学の教科書にもそう書かれている。でもそこから“違う”ことをきちっと理解していないといけないことを改めて認識させられた。
 近代の歴史を自らに都合よく書きかえようというたくらみは、日本でも中国でも韓国でも、行われている。だから、良識的に人々によって歴史の共同研究が行われているのだろうけど、国家権力はそんなことはおかまいなしだし、偏狭な考えから抜け出せない一部の大衆の行動も同様だろう。
 APAホテルに置かれている『書籍』問題が最近話題になった。札幌・帯広で冬季アジア大会が開かれる。少なからず摩擦を生むのは明らかだ。反対に慰安婦像についても同様だろう。“良識的”な人々(リベラルな方々)にとっても、おそらく困惑している問題だろう。
 自分の考えに都合よく解釈する。これもナルシシズムの心情にほかならないけど。
 人は誰でも思いだしたくない過去もあろうだろう。しかしそれに真摯に向き合う胆力がなければ未来は開けない。






2017年1月21日土曜日

ガラガラ族にちょっと一言 音に対する懸念

 一昔前、「ガラガラ族」などという言葉が流行った?。若い女性がキャスター付きの小型のカバンを引いてあるく姿だ。(「ガラガラ族」でgoogle検索したけど、それらしいものは出てこなかった。違う呼び名だったっけ!)

 最近は外国人観光客も増えたせいか、このカート式の大型カバンを引いてあるく姿がけっこう目につく。私の通う都心の公共スポーツ施設でも、大きな荷物をボストンバックでなくガラガラで引っ張っている人が目立つ。
 
 このスポーツ施設には、目の不自由な人もけっこういる。マッサージで勤務しているいつも見かける人、施設を利用する人など立場は様々だけど。

 JRの駅から、この施設に行くには信号を渡る必要がある。目の不自由な人にとって、おそらく一番緊張するところだろう。信号が変わったかどうかは分かりにくいからだ。音だけが頼りの瞬間かもしれない。
 ガラガラ族がカートを引く時の音は、結構でかい。点字ブロックがあるようなところでは、それが一層増幅される。街中の喧騒の中にあっても、その音さえもかき消すくらいだ。

 ここまで書けば、この文章の「結論」は書かなくても分かるだろう。そういうことだ。
ガラガラ族には、悪意もなにもない。自然体だ。しかし彼らの出す音は目の不自由な人にとっては、大きな「障害」になっている。

 いつも見かける施設のマッサージの人でさえ、慣れている道だろうが、ガラガラが横を通り抜けるとき、立ち止まり、戸惑いを見せていたのを見かけた。(気のせいで、杞憂であればいいけど)

 悪意なきことほど面倒なことはない。悪意あることであれば、止めろを言えるけど、そうでないことは、どうしていうのか。難しい問題ですね。
 
 

母親にナルシシズムを感じとるのは酷な見方だろうか。電通「過労自殺」についての違和感 その2

 本日(2017年1月21日)の朝刊で、電通と“過労自殺”した女性社員の遺族が合意書を交わしたことが報じられていた。そして母親が会見したことも。
 繰り返しになるが、過重な労働は容認されるべきではなく、ましてそこにパワハラがあったとしたら、許されるべきものではないのは当たりまえだ。その意味では電通女性社員は間違いなく犠牲者であろう。
  電通(だけでなく、多くの古い体質の企業。自身の世話になっているカイシャも含めて)は、働き方の考え方を変えていく必要がる。それは多くの人の同意を得られることだとも思う。

netより「引用」
そのことを前提に、もう一度振り返る。女性社員は過重労働を続けているさなかに「自殺」したのではなかった。長時間労働が引き金になったと思われる「うつ病」を発症し、そして休んでいる時に自殺を図った。(と報道からは認識しているけど、これが事実関係かどうか教えて)

 うつ病の人は自殺を考えるものだ。と、かつて医師に言われた。だから周囲や医師は自殺をしないように対策を立てる必要がある。それが「治療」の一貫でもあるだろう。
 
 彼女は自殺した。母親はそのことを悔いている。体調を崩して休んでいる娘に対して母親は、もしかしたら励ましの言葉をかけていたのかもしれない。だって、家族の期待を背負って一流企業「電通」に就職したのだから、なんとか頑張りなさいよ、と。それは想像に難くない。母親のこれまでの会見からも、彼女への期待がにじみ出ていた。
 
 治療中の彼女にとって、休んでいる間の家族・家庭はアジールにはならず、期待に応えられない自分を責めて、自殺したのかもしれない。それはわからない。

 報道で母親が涙ながらに訴えている姿を見ていると、ナルシシズムを感じ取ってしまうのは、冷酷な見方だろうか。母親自身、自分の振る舞いに悔いて、それが電通に向かっている面は、はたしてないだろうか。

 母親が娘の写真を掲げて会見する姿に、そんな匂いを感じてしまう。何度でもいうけど、だから企業の側(電通や同様の体質のカイシャ)が免罪されるわけではないし、まして擁護しているわけではない。
 
 こういう状況では、母親に対して「批判」を加えることはタブーだ。絶対善として扱われるのが報道の常だ。ましてマスメディアと言われるところはそうだろう。

 でも冷静に、うつの治療にあたった医師はどう対応したのか。母親はどういう言動を娘に対してしていたのか、冷静に分析することからでしか、正しい解決法は見いだせない。

 うわべの報道からだけで、「働き方改革」をはじめ、さまざまな労働施策が作られていくとしたら、それは不幸なことだ。


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  電通では10年前にも自殺した社員がいたといいうが、私が31年勤務した企業体では少なくともその間4人の自殺者を知っている。その中には一時期いっしょに仕事した人もいる。それは若手社員ではなかったけれど、(むしろベテランの人)、何らかの心の病があったのは確かだろう。

 精神科医の和田秀樹さんの本を読んでいたら、中高年になるほどうつは増えると書いてあった。体感としてはあまり感じていなかったけど、言われてみると自殺した人などから、医学的にはそうなのだろな。

働き方改革の必要性は強く感じるし、是非改善が進むように努力していきたい。
それと「うつ病」治療、自殺予防は、分けて考えるべきだろう。話をごっちゃにしている、正しい解決策が見いだせないのは、どんなことでも同じだ。

2017年1月11日水曜日

『東京都 賞味期限切れ前の備蓄クラッカー無料配布へ』から読み取る、官僚的振る舞い

8日朝のNHKニュースで伝えていた『東京都 賞味期限切れ前の備蓄クラッカー無料配布へ』は、結構いろいろなことを“教えてくれる”内容だった。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832181000.html

記事の趣旨はこうだ。東京都が災害に備えて備蓄してる非常食料のうち賞味期限が迫っている10万食を希望者に配布するというもの。これまでは廃棄処分していたものを小池知事の「もったいない」の精神で、個人やフードバンクなどの運営者など必要な人たちに無料で配布するというものだ。

 このニュースを見ていて、家族の反応は、「なんてこれまでもったいないことをしてくるんだ」というものだった。フツーの人から見れば、それはまっとうな感想だろう。
 しかしこれに対して、私は違う「考え」を示した。

 非常食の備蓄を担当する「係」の人は、賞味期限が来たときどう考えるだろう。普通の感覚の人ならば、これを有効に利用できないか。と思うに違いない。
 ・恵まれな人に配る。・市民に放出する。・イベントなどで景品にする。などいろいろ思いつくだろう。そして「係」は、上司に相談する。有効利用する道を考えましょう。上司も普通の感覚ならば、そlれはいいと思うかもしれない。しかし、官僚機構(役所だけでなく、民間会社も同様だ)に属する人間の発想はちょっと違う。
 賞味期限切れ間際のものを無償で配布したら、どういう反応があるだろうかと考える。好意的な反応がたとえ9割だったとしても、優秀な官僚は残り1割の反応を考える。
 そんな、賞味期限切れ間際の食品を配るなんてオカシイ。それを食べた人に何かあったらどうするんだ。と言った反応をする大衆は必ずいる。現代ならそうした極少意見は、ネットで増幅され、あっという間に「炎上」するのがオチだ。
 そうなったら、「係」や「上司」はどうなるか、もっと上の上司に呼ばれ、組織に面倒を起こしたと責められる自分を想像する。それは賞与査定や考課、昇進に影響する。
 
 かくして、そんなことになるならば、そっと廃棄処分すればよい。新たな予算で備蓄を買うことになっているのだから、何の問題もない。と考えるだろう。かくして非常食は利用されることもなく、これまで廃棄されていった。
 
 市民感情からはヘンかもしれないけど、これが現実だろう。
『日本という国』では、こういうことはトップが言わなければ何も動かない。「係」や「上司」がどうしてこれまでやってこなかったの?と聞かれれば、こう言うだろう。
「私ももったいないから有効利用できないか考えていたけど、そういう指示がなかったからできなかったんです」と。
 『日本という国』『都庁(役所)という伏魔殿』それ現実だ。
家族はその説明に納得した。


2017年1月7日土曜日

子どもの貧困と、どう向き合うか。「ヒトゴトではなくジブンゴト」

 「情けは人のためならず」という格言は、よく小中学校で意味を間違えやすい事例として出てくる。
 知らない人間が言葉をそのままとれば、どうしても「情けは人のためにならない」と受け取られてしまうのは、いたしかないかもしれない。
正しい意味「(他人に)情けをかけることは実は自分のためなんですよ」ということは、でもちょっと利己的な雰囲気もあり、少々いやらしい。

 『子供の貧困が日本を滅ぼす』(文春新書)は、その意味で、タイトルがちょっといやらしい。キャッチな言葉ではあるけどね。おまけに帯には大きく「あなたの生活が壊されるのだ」とある。ますますいやらしい。まあ、手にとってもらうためにしょうがないのかもしれないけど、ありていに言えば、「大衆に媚びる」タイトルだなあ。

 だけど、本書の内容はタイトルとは裏腹に論理的・実証的であり、真摯な内容だ。社会のありかた、人生の持ち方を考える上では、一読の価値ある本だ。

 「子どもの貧困」問題を他人事と切って捨てないで社会全体で考えることの大切さを、丁寧に説いている。「ヒトゴトではなくジブンゴト」として。
 
 自分だけ(一部の人)だけが豊か(金持ち)になる社会を想像してみよう。そういう人たちはお金で様々なモノを手にいれることができ、様々な体験を積むことができる。(と仮定しよう)。でもいったん外に出ると、そこは貧困社会だから、治安も悪い。身を守るために厳重に管理された家に住み、厳重に安全策が取られた車に乗り、もっと言えばボディーガードをつけなければ外を自由に歩きまわれない社会だ。そんな社会がはたして住よいのだろうか。コストもかかる。
  経済から考えても同様だ。お金持ちが使う道具、車・家、着る服は、数が少ない分割高になる。選択肢も少ない。
 
 一方、均一にそこそこ豊かな社会を概観してみる。フツーに外に出ても治安もよく自由に様々な所に安全に行ける。多くの人が同じようなサービスを享受でき、同じように暮らせる。少なくともこれまでの日本社会はこちらに近い社会だったのではないか。

 もっとも「ウサギ小屋」と揶揄される狭隘な住宅や、「通勤地獄」「受験戦争」などさまざまな弊害がまったくない訳ではないけど。それでも、安心・安全な社会は、比較対象で言えば世界の中で獲得していたのだと思う。

 巷間言われる「格差社会」。
もう聞き飽きた言葉と拒否反応を持つかもしれないけど、ここらへんでもう一度、社会のありかたを自分のこととして考えてみてもいいのではないか。
 
「情けは人のためならず」とは、そういうことを言っている格言だと善意に解釈できる余地はある。

 で、「子どもの貧困」問題。阿部彩さんの岩波新書もかつて読んだけど、これはこれで充実した本だ。ただ、新書として読むにはちょっと堅苦しく感じることがないではなかった。(それだけに著者は聡明なのかもしれないけど)

池上さんの本は立ち読みでパラパラめくっただけど、『子供の貧困が日本を滅ぼす』にも一部引用があるなど、それなりの本だろう。
 
 子どもの貧困問題、ひいては貧困家庭そのものにもと社会が目を向けて、手立てをすることが、いわばwin win になるということ。その大切さを改めて認識する好著だ。

ちなみに、子どもたちに一番なにが必要か。それは幼児期からの動機づけだ。信頼する心が育っていることだ。
幼児期からの「動機付け」で一番大きな要素は「Grit」=「やり抜く力」だという。

ブログは書評ではないので、内容に関する記述は避けるが、第5章でシカゴ大学・ヘックマン教授の大規模な実証実験が紹介されている。非常に興味深い。「恵まれない境遇にある子どもたちに対する投資は公平性や社会正義を改善すると同時に、経済的な効率性も高める非常にまれな公共政策」という言葉は印象的だ。

 日本での「子どもの貧困対策」がどう行われているかも紹介されている。

ちょっと脇にそれるけど、テレビや新聞の企画記事で伝える「子どもの貧困問題」は、その多くが、〔深刻な実態ルポ〕⇒〔篤志家による援助〕⇒(問題提起としての)政策の“不足”という図式で描かれている。テレビ企画、読み物としてはそれが一番「受けがイイ」ということなのだろうが、そうした企画自体が“貧困”だ。
 
 最近、どこのテレビだったか失念したけど、子どもの貧困を扱ったテレビの番組で、貧困とされた少女がスマホを使っていたことをオカシイとして炎上した例があった。断片的、部分的にしか伝えない(作り手は全体像を伝えているつもりでも受け取る視聴者はそうではない)企画では、かえって間違った認識が広がる好例だろう。

 社会を悪くしているのは、社会の木鐸たるメディアそのものなのだ。

ちょっとそれたけど、一読に値する本を紹介。


 
 


2017年1月3日火曜日

橋本崇載八段頑張れ!。将棋界の将来はどうなるのか。結構心配している。

 将棋が少し好きな人なら、橋本崇載 八段を知っているだろう。山嵐のような髪の毛でNHK杯でも対局し、異彩を放っている棋士だ。解説も結構上手で、私は隠れファンのひとりだ。(隠れなくれもいいんだけど。表だって応援していないという意味でね。)

 その彼が暮れに出版した「棋士の一分」はたいへん興味深い。将棋に感心のない人にとってどうでもいいことかもしれないけど、それはどの分野でも同じだ。私にとって、ゴルフ界が将来どうなとうろかまわないし、プロレス界がどうなろうと全くどうでもいいことのように。

 しかし将棋という「知的」なゲームの魅力や有用性は、スポーツとはちょっと違うかもしれない。

 わずか600万人ほどしかないという将棋人口にあって、「トーナメントプロ」が今後も存続するかどうかは、棋士界にとて大きな問題だろう。それに対してなんら有効な手が打てない将棋連盟に対し、危機意識が足りないことを冷静な筆致で警告している。

 強烈な個性の米長邦雄という前の将棋連盟会長の利にさといことを率直に批判している。もちろん彼の功績も認めつつだ。(私は米長はもともと嫌いだ。)

NETより「引用」
棋士の数が多すぎること。現在のフリークラスのシステムでは実力のない棋士の延命ばかり図られていること。IA(人口知能)のソフトとの対戦の是非、新聞社に頼った棋戦の運営など、将棋界の抱える問題をずばり指摘している。橋本さんは単に批評家になっているのではなく、実際に理事選挙に出るなど行動を起こしているから、この書著にも説得力がある。

 IAソフトついては、折しも1月3日(本日)のアサヒの朝刊に将棋、囲碁ともに佐藤名人、井山6冠が対局することが、2人のインタビューとともに1面を割いて“肯定的に”報じられていた。

 一昔前、職場では昼休みのひと時や夜勤の空き時間に将棋を指す光景は結構目にした。職場のみんなで泊りがけでスキーに行った時など、必ず将棋盤を囲んだ。しかしそうした光景は今や見られない。
 まして人口減少、子ども人口が減っている中で、将棋は風前の灯のようだ。かつてくらしていた東京の私鉄沿線の駅の近くに将棋道場があったけど、今はもうない。

 橋本氏は書く、「ある新聞社が賞金を値下げすると言い出したら、他の棋戦を持つ新聞社も追随するかもしれない」と。いまや将棋面は部数増加になにも貢献していないというのが現実だろう。せいぜい新聞のオールドファンをつなぎとめているだけかもしれない。

 将棋を指すのは「苦手」だ。市販の安いソフトでもすぐに負けてします。しかし、前にも書いたけど、棋戦を見て、その解説を聞くのが大好きだ。ある一手の背景に、どれほどの思索があり、戦略があり、トッププロが能力の限りを絞り出して放った一手であるか、それを見せてくれることはこの上ない魅力だ。
 NHK衛星放送から将棋中継が消えたことを非常に嘆くとともに、憂える。ニコ動ではどうにもついていけない。

 橋本八段。頑張れ。普通、私は他人に対して「頑張れ」とは言わない。常套句の「頑張ってください」という言葉の欺瞞性が嫌いだからだ。だけど、今回は橋本氏に対して、頑張れと言いたい気分だ。もう二度と理事選挙には出ないと書いているが、ぜひ出てほしい。改革する意志のある人が将棋連盟の執行部に入るなら、いくばくかの寄付なども含めて応援したいと思う。




2016年12月30日金曜日

電通「過労自殺」に違和感。過労、即・自殺なのだろうか。

2016年の仕事納めの12月28日に、厚労省は法人としての電通と幹部社員を書類送検した。
若い女性社員の「過労自殺」などを違法な残業が問題とされた。
マスメディと言われる組織に籍を置いていた身として、一連の報道に多少の違和感を感じている。
断わっておくが、私は長時間労働を是認するものでもないし、電通の肩を持つものでもない。むしろ現在進められている政府の働き方改革は概ね支持している。
「日本的」というのだろうか。付き合い残業や、だらだら職場にいることこそ忠誠だという風潮は容易にはなくならない。このオカシサを多くの人が感じているにも関わらず、職場の雰囲気を変えられない状況は、まだいたるところで見受けられる。

  「日本人の働き方」ということとは別問題として、今回の「電通問題」の報道になぜ違和感を覚えるのか。書くことによって、少しアタマの中を整理したい。
まず「過労自殺」という言い回しが少し短絡すぎると感じる。「過労で、自殺しました」というのはそこに因果関係があるような印象だが、よく考えると直接的ではない。報道からの要素しか分からないけど、自殺した若い女性社員は、
▷長時間労働⇒▷過労による体調不良⇒▷休む(業務の停止)⇒▷医師の受診⇒▷うつ病の診断・治療⇒▷自殺に至る
という経過をたどったのではないか。
 過労と自殺の間にはいくつかの出来事がある。うつ病患者が自殺を考えるのは普通のことであり、医師はそうした行動に出ないよう予防措置をとるはずだ。かつて職場で新人の女性職員が「うつ病」になり、主治医のところに毎週話を聞きに行ったことがあった。その時、精神課の医師には、自殺予防についてこう教えられた。
「あなたは今、病気です。病気の時は正常は判断はできないものです。(退職や自殺といった)人生の重要な判断は、今はしてはいけない。そうした決断は体調が戻ってからすれば良い」
しごくまっとうな言い回しだ。
  私が経験した若い女性職員は、その後回復し、15年近くたった現在も元気に働いている。もちろん病気の症状や回復力など、それは千差万別で一概にひとつの型にはめることはできない。電通の若い女性社員がどうな症状であり、どんなことがあったのか詳しいことは分からない。しかし少なくとも言えるのは、「過労が即自殺」ということではないということだ。
 繰り返し言うが、過労になるようは長時間労働が免罪されていると言っている訳ではない。もう少し丁寧に物事を見ていかないと、歪んだ事実認識になり、それがヘンな施策となって表れかねないことを心配している。最適の判断は、正確な現状分析からしか導くことはできない。
 電通という超一流企業。東大卒の美人の若い女性社員。こうしたことがメディアもお役所もバイアスをかけてモノゴトを見てしまうことになってはいまいか。
 
   政府の働き方改革が進められる中で象徴的出来事として、電通がスケープゴートにされてはいまいか。冷静に見る必要もあろう。


 (この項は続きますが、とりあえずアップします)




2016年12月28日水曜日

マクドナルド化、アマゾン化する公共図書館。で、再度訴える「年末年始は開放せよ!」

いま、公共図書館(都内の区立のいくつかのことだけど)の窓口対応はマクドナルド化し、予約・配送・受け取りはアマゾン化している。

  大田区や目黒区の図書館で言うと、とにかく窓口が混雑しないよう、要員を配置している。バカ丁寧なトーク。きびきびした行動は、マニュアル化されているように思える。
 他の図書館にある蔵書を予約すると、貸し出しがなければ、早い時にはその日のうちに利用図書館まで届いている。ネットで検索して予約して借り出す一連の動きはほとんどアマゾンで欲しい物を買う行為に近い。

 マクドナルド並みの窓口対応とアマゾン並みのクイック配送。私の利用する図書館はすべて指定管理者による業務委託で、民間企業が運営している。だからなのだろうが、あまりに窓口対応と配送業務に経営資源を注ぎすぎていないだろうか。またそうすることが「行政サービス」の充実と考えているのだろうか。
 もしそうなら、少しお門違いだ。

 多少窓口で待ち時間が長くなっても、また、予約から本が届くまで2,3日かかったとしても、その原資をもっと広範囲に利用できる手立てとしてシフトすべきだと思うけど。

 かつて書いたことだけど、港区の図書館で、窓口の人が利用者を「お客様」と呼びとめていた。これも、どう考えてもオカシイ。「お客様」などと言うから利用者は消費者として振る舞い、借りた本を粗雑に扱っても何とも思わなくなるのだ。公共サービスを受けるのは「お客様」とは違う。税金を使った公共サービスに対して「お客様」と言うことに、管理者側も違和感がないとしたら、感覚がマヒしている。

 内田樹さんが何度も書いているけど、教育や医療に対して、利用者が消費者的振る舞いをすることのおかしさ、害悪。同じことが公共図書館でも起きていると言えるだろう。

 本を汚して返しても弁償させない。書き込みがある本など、消費者的振る舞いで公共の財産である書籍や音源がどんどんすり減っている。紛失による損失も相当だ。(かつて大田区の情報後悔で調べたけど、資料が手元にないので割愛)

で、再び訴える。年末年始こそ図書館を開放すべきだと。

私の行動半径にある身近な図書館、大田区立、目黒区立、渋谷区立、港区立の図書館を見ると、おしなべて年末年始29日から1月3日まで(目黒区は4日まで)、「全館閉館」だ。

この時期こそ図書館をオープンすべきたと主張するには2つの意味がある。

①日本の学制では1月から入試が始まる。様々なレベルの受験生にとって、年末年始は最後の追い込みだし、ここでしっかり勉強したい。普段図書館で勉強する人は、いったいどこに行ったらいいのか。自宅に勉強部屋があって、静かな環境でじっくり取り組める人ならいい。そういう環境下にないから図書館で勉強するのではないか。(もちろん自宅に勉強できる環境があっても、気分転換で図書館に行く人はいるだろうけど)。
世間が騒がしい時、また家庭でも何かと慌ただしかったりする時期にこそ、学習する場を確保するのが、「正しい」行政の施策だ。何も貸し出しなどの業務をフルで行えと言っているのではない。せめて学習室くらい開けてあげてくれ。
 湯浅誠さんが講演で言っていた。自分が東大法学部に入った時、その時は「自分は頑張った」と思った。しかし「今にして思えば、自分には静かな勉強部屋というy恵まれた環境があった」そのことに当時は思いが至らなかった、と。貧困世帯にある子どもたちは勉強する環境というスタートからアドバンテージを負っている。せめて、せめてそれを少しでも解消していくのが行政の役目だろうに。
 調べた限りでは、都内のどこの区も「年末年始はお休み」とハナから決めてかかっているとしか思えない。教育委員会(図書館の所管)はやはり紋切型の行政機関なんだろう。

②年末年始こそ、ふだん図書館に行けない人々のために。
杓子定規に言うと、行政サービスは市民(住民)に等しく提供されるものでなくてはならないだろう。一部の人にしか利用できないサービスは基本的にオカシイ。図書館のオープン時間は通常9時~19時くらいだ。(目黒区では一部21時まで週日はやっている。)
 仕事が多様化する中、また東京のように通勤時間の長い地域で、9時ー19時のオープンでは、平日は図書館を利用することはまず不可能だ。せめて21時まで開けてほしい。
 平日に行けない人は土日に行けというだろう。確かに土日は行けるけど、週末は週末でさまざまな用事がある人も多いだろう。結局、いわゆる通勤サラリーマン(ウーマン)は図書館から足が遠のく。普段から行く機会が増えればもっと図書館の蔵書が有効利用されると思うけど。

 武雄市のTSUTAYA運営が良いとは言えない。(正確に言うと行ったことないから分からない)。でも年中無休でオープンする姿勢は評価できる。

 年末年始のオープンや時間延長は、コストがかかると行政は考えるだろう。しかしやり方次第だし考え方次第だ。
 マクドナルド並みの窓口対応をやめ、予約・配送の要員を1人減らして、その分を時間延長の要員に回すという工夫もできるのではないか。そうしたことを十分に利用者に説明して実施すべきだ。
 そうしないのは内田樹さんの言葉を借りれば、図書館を運営する側も利用者を消費者とみなしている証左なのだろう。

 何度でも言う、図書館利用者は消費者ではない。税金を使った行政サービスを受ける住人でしかない。そのことを図書館の入り口に大書しておいてほしい。

2016年12月24日土曜日

原発避難者が各地で「いじめ」に遭う理由。メディアの劣化とも強い関係がある。

 東電福島第二原発の事故で避難している家族の子どもが、学校でいじめに遭っていたことが、あいついで各地で明らかになった。なぜ彼らはいじめに遭ったのか。「いじめ」が彼らになぜ向かったのか。まったくの推論でしかないけど、ちょっと考えてみたい。
  放射能を巡っては、大手メディアを含めて事故発生からかなりの期間、玉石混合の報道があいついだ。週刊誌だけでなく新聞も「正義漢」から大袈裟な報道がなされた。また、そうした報道から派生してネット上にはトンデモ情報があふれた。(らしい、あまりそういうのは見ないけど)
 『フクシマ論』の開沼博さんも、そうした状況を書いていた。
「大衆」的な人々にこうしたトンデモ情報がもたらす影響は大きい。申し訳ないけどメディアリテラシーのない人々だ。
 一連の原発報道では、いわゆるマスメディアと言われる媒体=テレビや大手新聞も、結構あやしい情報を流していたし、被害の状況や避難者の苦悩を誇大に伝えていた。それがマスコミ界の上常識だった。
 この文を書いている間に、内田樹さんの『街場のメディア論』を読んでいて、以下のような論考があった。――メディアがとりあえす立場の弱い側にたって「推定正義」として伝えるのはいいことだ。けれどもそそれが推定正義であることを忘れて、あとから検証しないことがメディアの劣化そのものだ――という趣旨だった。  
 不正確で不確かな情報がメディアによって流布され、それを前提とした会話が家庭内で交わされる。それを鵜呑みにした子どもが学校で、ばらまく。そして弱い者に向かい、中にはいじめのスケープゴードになっていく。けっこう容易に想像がつく構図だ。

 曰く、原発避難者は放射能に“汚染”されたキタナイ存在。放射能というバイキンが感染する。と子どもの中では単純化されて増幅される。しかも避難者という言葉の中にある“逃げてきた弱い人”というイメージが、子どもがスケープゴードにしやすい要素もある。加えて原発避難者の場合は、「賠償金」などのこともあり、カネがあるひとたちと誤解されていく。

 原発事故から1年後の5月、死んだ父親がかつて世話になった、富岡町に住んでいて郡山市で避難生活をしていた一家を、父親の死亡を伝えることも兼ねて訪ねた。この一家は、確か富岡町で電気工事などを請負う仕事をしていたと思う。主が死に、70代の婦人と40代の独身の息子、そして祖母の3人暮らしだった。郡山市の住宅は、認定避難所で、自ら見つけて借り上げて避難所としていた家だった。きれいな一軒家で駐車場にはベンツが置いてあった。だから住所を頼りに家を探した時、まさかこの家とは思わず、迷ってしまったことを覚えている。
 3人家族だから毎月30万の賠償金が入る。家は「避難所」だから家賃はいらない。40代の息子は当然働いていなかった。日課は足の少し悪い母親を郡山市内の病院に送迎することくらいだ。この状況だけ見ると、他の人からはいかにも“優雅”に見えてしまう。中には、お金が入るから働かない。賠償金でベンツを乗り回している。と見えなくもない。
しかし、話をしてみるとそんな表面上のことだけでは語れないことも見えてきた。一家は原発事故による避難で、いったん新潟まで行き、何か月か避難所で生活、そのままではどうにもならないので、自力で郡山市内に家を見つけて災害復興住宅として申請し、認められ移り住む。高級外車に乗ってはいるが、それは夜ノ森の田舎で40代の独身の息子のはかない贅沢にすぎない。細々と地元で商売をしていた息子にとってその経済圏を失ったからと言って、すぐに他の仕事ができるほどタフではなかったのだろう。そんな事情も伺い知れる。

 私の知っている具体的事例はこれを含めて2件だけだけど、避難者には避難者の事情がある。都会に避難してきた人々が、表面的なことだけで誤解を受け、差別的な視線にさらされる。
確かに、まだ40代の前半なんだからもっと積極的に生きてよ、と思うところはある。いつまでも被害者として賠償金の加護の中にいるのは生き方としてどうですかとも思う。けれど、それは非難できる類のものではない。
 
話を「いじめ」に戻すと、もともと「転校生」はいじめの対象になりやすい。学校という狭い集団では「侵入者」に見立てられるからだ。それが強い人ならば問題は起きないし受け入れられるけど、そうでない人の場合は攻撃される。よく報道されるニホンザルの集団を見ても明らかだ。
 
 学校(行政)はどうすべきだったのか。原発避難者の転校生は、ふつうの転校生以上に気を付けてケアしておくべきだったのだろう。まあこれは後付の理屈だ。問題になった後に気が付いたことにすぎない。
 いま公立学校の先生の質は落ちているのは確かだ。このこともメディアの劣化と相関関係があると内田樹さんは指摘してけど、様々なことに対処しなければならない教師たちが、その処理能力を超える事態の中にあるのではないかということも想像がつく。

 世間を煽ることでしかその存在価値を自らに見出せないメディア。
 もともと人の中にある、差別意識や、他人を羨む意識
 そうした影響を受けた子どもたちのふるまい

こうした要素がいわば相乗効果をもたらして、各地で原発避難者の子どもへのいじめは蔓延した。
 


 

2016年12月15日木曜日

手帳から「生き方」を考える。今年は『ナカバヤシ・ロジカルダイアリー』にした。



  毎年の手帳選びを悩む人も多いだろう。東急ハンズでも伊東屋でもこの時期になると手帳売り場は悩める老若男女が結構いる。
 
  私も悩む。だけどスタイルはこのところだいたい決まっている。業務はA5サイズ、持ち歩くのはA6サイズだ。また見開き1か月のカレンダー型を使う。

 しかしのこ範疇だけで、結構種類がある。ここ2年ばかりはコクヨの「Campus Diary」を使っていた。紙の質がいいし、何より薄い。(余計なページが少ない)ので、気に入っていた。
また「月曜始まり」なのも、性分として好きだ。
(休みは後にとっておく。まあ気分だけどね)

 コクヨの前は『手帳は高橋』のA6版を何年か使用していた。これも使いやすい、ページに切り込みが入っていて、各月をすぐめくれる。ただ、その分スペースが小さくなり、月間カレンダー型ではハコが小さくなる。少々書きにくいのと、ページが多いのが、私にとっては難だった。

  生来、手帳は予定表と基礎情報の記載にしか使っていない。備忘録としての日常のメモや情報は別のA6のメモ帳に記し、いっぱいになると整理してノートに書き写してきた。それがここ15年ほどの習慣だ。

 で、話をコクヨの「Campus Diary」に戻す。実は困ったことが起きた。勤務先で使用している卓上カレンダーや、またmicrosoft officeのメールソフト、OUTLOOKの予定表は、日曜始まりだということだ。一応使っているgoogle calendarは、始まるの曜日を設定できるが、OUTLOOKに合わせて日曜日にしていた。 これで時々ミスを犯す。
 
  どれかのカレンダーを見て、木曜日と思い込んでいた日が、実は水曜日だったとか、会社の会議に出す予定表に日付の曜日を間違えるというミスである。

高橋のA6手帳
これはひとえに自分の不注意によるものだ。ちゃんと確認していればいいだけの話かもしれない。けれども齢も重ね、注意力も低下、また時間に追われて急いで書き記す時もある。

  人間は(動物もそうなんだろうけど)、無意識に論理(文字)より絵(図形)で物事を認識していることが多い。曜日を7つのBOXの何番目という位置関係で見ていて、そのためカレンダーによって位置が違うと間違えるのだ。
  これは、あまり効率の使い方ではない。
 
  それで、コクヨの『Campus』の代わりになるものはないか探した。
(やっと本題に入った。)
 そして見つけたのが「ナカバヤシのロジカルダイアリー」だった。ネットで見つけたけれど、やはり紙の質など実際に見てみたい。しかしハンズにも伊東屋にもなかった。伊東屋はそもそもナカバヤシの手帳を扱っていなかった。ハンズはB5の大きなものが1,2種あるだけだった。
 
 仕方なくアマゾンで購入。まあ高いものでないので失敗してもいいという気持ちで手に入れた。
日曜始まりの軍門に下ることになるが、しかたない。

 
『Campus』は月曜始まり これはこれで使いやすい
『Logical Diary』は年間カレンダーとひと月が見開き1頁という構成で、『Campus』と同様だ。余計なものは一切ない。(よくある、年齢早見表とか、度量衡とか、路線図とか)。それも同じだ。
『Campus』との違いは見ての通り、スペースが右にあること。それとこの写真では少し分かりにくいが、細かな線が薄く入っていて、小さな字で書くときも整理しやすいことだ。
 私のように「悪字」の者にはいい。

とにかく来年はナカナヤシで行こう。このあと何年、手帳が必要な人生を歩むかどうかわからないけど。





ナカバヤシ『Logical Diary』 は日曜始まり

と、ここまで、手帳の道具としての機能について考えてきたが、書いてみて、手帳の抽象的機能について、少し考えが及んだ。(タイトルも書きかえた)

 手帳というと、何年か前に、「希望がかなう手帳」とか、お金が貯まる「手帳」というのがはやった。どんなものか書店でパラパラめくって見た記憶があるが、あまり印象に残っていないのか忘れてしまった。
 
 確かに日々の予定を記すという「手帳」の役割は、自分がどう生きるか、どう生きたいかを確認することでもある。でも私自身も含めて、それって予め分かっているひとは、そういないのではないかな。文章と同じで、何を書きたかったは、書いてみて初めて、事後的jに分かることだもの。

 まあ、だからこそ手帳に予定を書いて、はじめて自分がやりたいこと、やるべきことが見えてくるとも言えるのだろう。そう考えてくると、手帳も使い方次第では、人生の道しるべになるということか。だから、「希望がかなう手帳」や「お金がたまる手帳」が出現しのも、ある意味では理にかなったことだったのだろう。

 勤務先の先輩の中に、その日あったことを手帳に書きとめる人が何人いた。そして時々見返していた。そのうちの一人は「自分はメモ魔」だからど言っていたけど、これってけっこう有効な使い方なのかもしれない。(余談だけどもメモ魔で手帳にいろいろ書き留めていた人は二人とも東大経済学部出身だった。たまたまだろうけどね)。
 ○手で書き記すことの有用性。○見返すことの復習性。それは「考える」ことにつながる。アタマがいい人だからそうしているのか、そうしているからアタマがいいのか分からないけど、実践してみる価値はあるかもしれない。実際私ももっと手帳を有効活用できないか試してみたけど、習慣を変えるのはなかなか難しい。私にとって手帳は予定表にしか、いまだなっていない。人生残りすくないけど、予定もだんだん減ってきたから、もう少し手帳を使ってみるかな。2017年は。

追伸:
ナカバヤシのロジカル手帳がセブンイレブンに置いてあることが判明!
身近なところにあるもんだ。



































2016年12月1日木曜日

「宅建士」不合格の記。脳の筋トレとして臨んだ試験で。

 11月30日に宅建士の合格発表があった。
 職場に行ってから午前9時半のネット発表を見る。落ちた。だめだった。多少手ごたえがあったのでちょっと落ち込む。やはり3か月、週2,3時間の勉強では足りなかった。また年齢を考えると記憶力、意欲とも、若いころのようにはいかなかった。・・・・というのが言い訳である。
 
 実は受験は2回目だった。一度目は4年前。10月の試験に向けてまっさらの状態から勉強を始めたのが7月。8月は遊ぶ(登山など)に忙しく、ほとんどテキストを開くこともできず、9月になりなんとか毎日、週日は1時間程度やったけど、学習書を読んでノートにまとめるのが精いっぱいだった。過去問をまったく解くことなく試験に臨み、それはあえなく撃沈。

 そして4年ぶりに急に思い立ってまた“挑戦”を始めた。第一の職場を定年で終え、子会社に移って2年目のことだった。
 なぜ宅建士だったのか。別にこれから不動産屋になりたい訳ではない。宅地建物取引は民法の基礎が詰まっていると何かに書いてあった。だから民法をちょんとアタマに入れるのにもいいと思い、試験勉強に取り組んだ。
 思いかえすと、結構日常生活で『民法』のお世話になってきたし、頭に入っていることはこれからの人生でも損はない。
 
 転勤で自宅マンションを貸すことになった時、初めは日本リロケーションを通して「定期借家権契約」をしていた。しかし築30年以上のボロマンションでたいした賃料でもないのにリロケに10%以上の手数料を取られ、なんだか割に合わない気がしたので、契約更新時に店子と自ら契約した。
契約書はリロケーションに仲介を頼んでいた時のものを参考に、自ら作成した。条件が不利にならないように、しかも法律を遵守できるようにわか勉強をした。
 父親が死んだあと、わずかばかりの遺産相続をするのに、なまじ都内に土地が少しばかりあるため税理士に相談すると、自分としては結構法外な値段を言ってきた。
 世間相場そのものを知らなかったので、いくつか書類を作成するくらいで、せいぜい十数万円でやってくれるのかと思っていたら、相手の言い値はその10倍以上だった。それなら自分で相続手続きをやろうと、これもまた本を一冊買ってきて、あとはネットからの情報や各種書類のひな型を取り出して、相続申告ぎりぎりの10か月になんとか間に合わせて申告した。
 こうした体験が、自分を宅建士に向かわしたのかもしれない。

 今回は宅建士のテキストからではなく、まず民法の勉強から始めた。ネットの「体験記」を見ても、民法は別に学ぶべしと書いてあった。だからその推薦図書「民法がわかった!」から始めた。
この書籍を買ったのは5月の連休前後だったように記憶する。定番書籍らしく、いまはなくなった新宿タイムズスクエアの紀伊国屋で平積みになっていた。
 だが実際に勉強を始めたのは、勤務先の株主総会が終わり、ひと段落ついた7月になってからである。(これじゃダメだよね)

 勉強を再開して改めて気づいたのは、会社勤めをしていると、時間を確保するのはよほど意志が強くないと難しいということだ。平日、仕事を終えて家に帰ると、心は無意識でくつろぎ体制になっている。テレビ(きょうの料理などだけど)を横目で見ながら、ワインをちびちび夕食をとるとすぐ10時。風呂に入るともう睡魔には勝てない。WBS(ワールドビジネスサテライト)を見ながら、そのうち寝床に入って、いっかんの終わり。これでは勉強などできる訳がない。
 
 そこで、家に帰る前に必ず喫茶店(古い表現だね。カフェか)に寄ることにした。そこで1時間は勉強することを自分に強いてきた。

 でも実際は毎日1時間の勉強時間の確保は難しかった。せいぜい週に3日か4日。それも40分くらいの日も多々あった。これには理由がある。仕事は定時に早々帰れるわけではないこと。(そてでも職場のシマでは、早い帰宅だ)。疲れて、行きたくない日もある。
 それでも自分なりに頑張った方かもしれない。ちなみに土日はまったくと言っていいほぼ勉強時間を確保できなかった。
 
 以前からだいたい土曜日午前中は水泳、日曜日はランニングという日課を続けてきた。これを犠牲にしてまではできない。午後は母親の面倒見など結局時間を取られる。だめだった。
ものの本には「100時間の勉強で合格!」などと謳っていたけど、結局100時間まで至らなかった、と思う。それも民法だけに3分の2ぐらいの時間を費やしてしまっていた。
 
 宅建業法や、建築基準法、都市計画法は以前勉強した時のノートを見返すのがやっと。
最後の4週間はなんとか練習問題に取り組んだ。1回の勉強で50問~100問をなんとかこなし、1000問の壁を突破。だけど、それは1回だけ。問題集には最低3回やるようにチェック欄がついている。内容が定着するまでには至っていなかっただろう。
 
 まあそんなこんなで11月14日に試験に臨んだ。試験会場の五反田の立正大学キャンパスはどう見ても20代30代の人ばかりだった。もちろん中には40代らしき人もいたが、私のように50代後半の人間は、周囲を見渡す限りではいなかった。気持ちは若い気でいてもそういう現場にいるとちょっと気おくれするよね。
 試験は、手ごたえはあった。7割は突破したと思っていた。けど、だめだった。トホホ。

 「勉強した時間はムダではなかった。」と思いたい。それはある種ナルシシズムだけど、実際には合格しなかったという事実に向き合っていない。逃げている思想だ。実現不可能なことをやろうとしている訳ではなかった。だから合格できなかったことを自分の努力不足、失敗と位置付けてその事実に向き合わなければならない。逃げていては結局、自分の人生からも逃げていることになる。

 で、その後。宅建士の試験が終わってから、ヘンは話、何か他のことを勉強したくなった。いま、少しづつやっているのが「旅行行」だ。これも民法を知っていると結構スラスラいく。来年はどうなっているかわからない。でも今の気持ちとしては「宅建士」への再々挑戦と「旅行業士」に臨んでみたい。アタマを衰えさせないためにも、これはランニングや筋トレと同じだ。 

2016年11月26日土曜日

考える時間を持つということ。〔還暦を前に考えること①〕

 確か斎藤孝さんの書籍(というより、ハウツウ読み物)に「15分あれば喫茶店に入りなさい」というのがあったように思う。(いまアマゾンで調べたらあった)。

 アマゾンで閲覧可能jな目次(第1章のみ)には、「喫茶店はアイデア生産の場」「垂直思考を身に付ける」「インターネットから脱出」「自分を鍛える」「15分は仕事をするのに十分」などが並ぶ。ちょっと立ち読みしただけなので内容はまったく記憶にないが、タイトルからだいたい想像はつく。どれももっともなことであるし、齢を重ねればなおさら必要なことだろう。
 週日のほぼ毎日(と言っても週に3日くらいか)、仕事の帰りに自宅駅の喫茶店に寄りるようにしている。そして毎週土曜の朝は7時半ごろから1時間半、プールが開く前喫茶店で過ごすことにしている。
 
 週日の夜はハラも減り、早く自宅に帰りたい気持ちの方が大きい。でも寄る。それは自宅に帰ると、気持ちは弛緩してしまうからだ。ありていに言えばくつろぐから。そうするともう読書も“勉強”もしない。ただテレビ(ほぼ『きょうの料理』しか見ない)を見ながら新聞に目を通し、夕食を取るという1時間を過ごすことになる。そのあとは睡魔が襲ってきて、風呂に入ってその日は事実上「終わり」だ。
そうならないための装置が「喫茶店」だ。(喫茶店という言葉自体が古臭いけど、今ならカフェというのだろう。)
土曜日に必ず行く都心のエクセルシオールカフェ

 15分という時間も理にかなっている。前に書いたけど「18分集中法」に通じる集中できる時間だ。
まあ、喫茶店で15分集中するためにはその準備と片付けで前後の時間を考えて30分は必要だとは思うけど。
 で、喫茶店で何をするか。これは無限の可能性がある。読書、文章書き、資料の読み込み、そして思考の整理。スマホは持っていないのでPCを持ち歩いている。でもネットサーフィンだけは喫茶店ではやらないことにしている。これは夕飯を食べながらでもできる。
 
 トシをとるとどうしても集中力が落ちる。図書館の学習室に行って勉強しても、せいぜい1時間しか頑張れない自分に気付き、がく然とした。そのあとちょっと休憩しても、効率は明らかに落ちていた。毎日何時間も勉強している息子がエラく見えたりする。歳をとるということはそういうことか。それなら、いっそ逆手にとって、毎日1時間集中する時間と空間を確保することにしよう。それが喫茶店だった。でもいろいろ雑事もあり、仕事も時間通り終わらなかったりと日曜日を除く毎日に1時間を確保するのは意外に難しいことがわかった。

 何より喫茶店での時間は「立ち止まって考える時間」だ。これは生活の中で絶対必要だ。人はヒマがあれば考えるというものではない。忙しく働いている人の方がアイデアが浮かび、“考えている”ことがある。しかし走りながら考えたことは、どこかでせき止めて整理することも必要だ。でないと、考えたことは、ハタから見れば単なる「思いつき」でしかないこともしばしばあるから。

 喫茶店の「効用」を説く斉藤さんの本は、その意味では参考になるだろう。でも読まなくても自分でいろいろ試すことで獲得できることでもあるけどね。


2016年11月23日水曜日

持続可能なコミュニケーションとは。「東北食べる通信」から考える。

 blogにしろ何にしろ、文章を書く時、予め頭(又はメモなど)に、「書きたいことの結論」がある訳ではない。
 実は何を「表したい」あるいは「著したい」のか、自分でもわからない。
ただ、アタマの中に何かモヤモヤしたものがあり、それを何とか吐き出したいという感情だけが、最初にある。
 書くこと、かっこ良く言えば思考を言語化する過程で、自分が何を書きたいのか、書くべきなのか、何を言いたかったのか、次第に整理されてくる。
大昔に読んだ本で、小林秀雄が「書くことは考えること」と言っていた。このフレーズは、いまでも文章を書き始める時、思い出す。
整理されていないアタマをスッキリさせるのは、とにかく書き始めることなのだと。

 と、前置きが長くなってしまったけど、(一部で)話題の『都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡』(高橋博之著)を読んで、アタマの中がモヤモヤしてきて、書き始めてしまった。

 高橋氏が「グッドデザイン賞」金賞を受賞したという、「食べる通信」の試み、(というよりは事業と言っていいかもしれない)は、これまでもよくあった、「顔の見える農業」や、「生産者と消費者を結ぶ催し」とさほど変わらないビジネスモデルだし、これ自体が斬新という訳ではないけど、この事業をポピュラーにし、限定された地域から東北全体に広がりを持たせたこと、また「食べる通信」の内容の濃さなど、いくつもの斬新さがあったことは確かだろう。元県議、知事選挙立候補→次点で落選→政治家引退という経歴も「宣伝」に一役買っている。もともと新聞記者志望だったという著者の「文章好き」が、この事業を持続させているのは確かだ。

 我が家も、お米を山形・鶴岡市の有機農家の直販で買う。中には簡単な手紙が添えられていることもある。初めのうちは読むけど、そのうち飽きもくる。おそらく書く方もネタが尽きてくるのだろう。初めは生産者と消費者を結ぶコミュニケーションだったが、次第に陳腐化して、次第に、消費者の方も単に「おいしいお米」を手に入れるという手段化していってしまう。生産者の方も、おいしい有機米というウリを伝えることが、次第にショーバイ化してしまう。
 これはコトの成り行きとして仕方のないことだ。否定しようもない。なぜこの農家からお米を買い続けるのか。この農家を応援したいからというより(そういう気持ちもちょっぴりはあるけど)、単に安心でおいしいつや姫の無洗米が比較的リーゾナブルな価格で購入でき、それも家まで届けてくれるからにほかならない。こう言ってしまうと身もふたもないけど、冷静に言うとこういうことだ。

 「東北たべる通信」(直接読んだことはないけど)は、おそらく生産者本人が「書く」のではなく、この高橋氏が、ある種ジャーナリストの目で、生産者と消費者をつなぐ役目を負っていることが、内容の陳腐化を防ぎ、持続的な読み物として続いている大きな理由なのだろう。これは評価すべき大きな要素だ。
 逆の言い方をすると、有力な後継ライターが育たない限り、高橋氏が書かなくなると、やがて陳腐化し、たんなる農家直販のショーバイ化する恐れもあるということだ。

※自分が何を書きたかったのか、ここまで書きながして、初めて少し分かった。ここまで書いて、タイトルが浮かんだ。

著者は、かなりの読書家だということが伝わる。そのためこの本の前半は、著名人の引用が随所にあるけど、ちょっと説教臭く、読んでいる方は心の中で苦笑してしまう。第3章のチャプター2になって、やっと『食べる通信』の誕生のいきさつ、エピソードが出てくる。
リクツから入るところは、私自身のクセにも似ていて、だから妙に共感してしまうところもあるけどね。

 人口減少社会、都市への一極集中社会、都市の地方(農村)の結びつきをいかに取り戻すか、など所与の課題に正面から取り組んでいるし姿勢は支持するし、多くの人はそのこを否定しないだろう。この本を読んで、逆に課題が分かったのは、どんな試みも陳腐化、形骸化させずに、持続させるためにはどうすればいいかということだ。
 
 事業の多くが、属人的な能力で支えられているものは、ちょっと見渡すと結構ある。ソフトバンクの孫正義、『たいまつ』の“むのたけじ”、後継者がうまく育たないと、やがては消えていく。
トヨタや松下は、後継者が育ったから更に大きくなったとの言える。(ちょっと乱暴な論理かもしれないけど)。

 魅力的な文章で、食物とその生産者を支え、消費者との線を太くする。その活動には敬意を表したいし、参考になる事業だ。繰り返しなるが、それをいかに陳腐化せずに続けるか、自分なりに考えてみよう。漠然と農業を応援したい気持ちは心のどこかにあるのだから。

2016年11月12日土曜日

60歳フルマラソンを目指して。

52歳くらいから走りはじめて7年目。そう熱心なランナーではないが、
週に2、3日外走り、2日はトレッドミルで汗を流し、10㎞なら「朝メシ前」になり、日曜はハーフ(21㎞前後)走っても、午後からはフツーに他の用事ができるくらいまでにはなった。

 初めて「走り」はじめた時はわずか1㎞くらいで腸脛靱帯が痛み、3㎞の道のりをやっとの思いで帰ってきたことを思えば、大変な進歩だ。この間、足の指の爪は何度となく失われ、親指や薬指はずっと紫色のままだったけど、そんなことは、獲得した「健康」と比べればたした問題ではない。

 現在月間約120㎞、トレッドミルを加えて150㎞前後が平均だ。こんなんでフルマラソンを走れるのかどうか分からないけど、ひとつの目標としたいとは思う。時間はサブ4でね。

 走ることでこれだけは言えるのは、「健康」になったということだ。もちろん走らなくてもそれなりに健康な人はいくらでもいる。けど、余計な脂肪がとれ身のこなしが軽くなったこと、それを維持しようと“無意識”に行動するから、食い物に気を遣うようになったこと。(昼飯も含めて外食がすごく減った。)いろいろ生活が変わったことはある。

 これから少しづつまとめていこうと思う。春樹さんの「走ることについて語るとき、僕の語ること」のようにはいかないけど、私家版の「走ることについて・・・」語りたい。


小池百合子はあまり好きじゃないけど、今彼女が闘っていることは支持する。

戸田ボート場
悪いけど、ボート競技はどれほど日本の皆さんに親しまれているんだろうか。応援に行く人が周囲に大勢いた、スポーツニュースで大々的に取り上げられたという話は聞かない。もちろん、だからって、昔から五輪種目のこの競技を軽んじていいと言っているのではない。
 レガシー(遺産)だと言って、数百億円の施設を台場に作ることに、その費用を負担する納税者は納得できるのだろうか。なぜ波が多少立つところではダメなのかという程度問題の話だ。

 小池百合子さんは、そんな人々のホンネをすくい上げようとしているように見える。

 ボート競技の当事者たちにとっては、それは立派な施設で快適な環境で競技することは望みだろうけど、全体最適から行って、それ相応の費用対効果があるのかどうか当然斟酌されるべきことだ。

 人にはアンビバレントな考えはつきものだ。東京五輪で日本人が活躍してメダルをとる姿を見たい。(それがある種のナルシシズムであることは置いておいてね)。一方でそのための費用を、オマエが出せと言われたら、「ちょっと・・・」と躊躇するだろう。そういうものだ。身勝手なのが人間の「本性」なのだから。
 
 ボート連盟?の人たちに、税金から支出する費用を多くの納税者はどう思うと思いますか?今後その施設どうやって維持するんですが?と聞いてみたらいいと思うけど。メディアは決してそうした不躾な質問はしないよね。


横浜国際水泳場
水泳競技場も、レガシーと言うならば、五輪後に一般の人々が水泳を楽しめる施設でなくては、なるまい。東京湾の埋立地の先端に作られても、交通の便を考えると、あまりいい場所とは言えない。作るならば、より多くの人が利用できるような場所に作るべきでしょう。

スポーツは市民に広く親しまれてこそ価値がある。メダルを取るという一時的なナルシシズムのために施設が作られることにはちょっと疑問を感じる。

 横浜国際プールは何度も通っているけど、立派な施設だ。ここが現状のままで『国際大会標準』に合致しているかどうか知らないけど、改修で対応できるんじゃないの。
 辰巳の水泳競技場はいささか古いけど、こちらでも十分でしょ。

 辰巳に関して言うと、ここは一般市民に、十分開放されているとは言い難い。競技大会が優先されるのはいいとしても、もう少し一般の利便に応えた設備にならないだろうか。

辰巳プール
水泳は日本では多くの小中学校に施設があり、健康的なポピュラーなスポーツだ。それは非常にいいことだと思う。そのすそ野をいっそう広げる一助になる施設であってほしいよ。

 五輪誘致の際のお金の不透明さ、(これは長野の時もあったけどついにうやむやで終わった)から始まり、競技場の建設問題、エンブレム問題。余りにもオカシなことが多すぎる。小池氏はそうしたことへの素朴な疑問を問いかけているだけだ。

 この人のことはそれほど好きではない。けど、いま彼女がやろうとしていることは、支持しますよ。森喜朗と闘ってください。






2016年11月9日水曜日

トランプさん、大統領当選おめでとう。

 トランプさんアメリカ大統領当選おめでとう。あなたはアメリカという国の大統領になるべくしてなった。あなたはアメリカそのものだからだ。(もちろん半分皮肉です)
 
 あなたの当選の報を聞いて思い出したものがいくつかある。

その1:「アメリカの反知性主義」
分厚い本で、ナナメにしか読んでいないので、内容の記憶はあまりない。きっとたくさんの解説がブログ上にはあると思うのでそちらに譲るけど、アメリカという国の一端を見せてもらったと思う。
 知性、というか理性だけでは人は動かないし、ホンネは違うところにあるのが人間だから。トランプさんはそれを白眉にさらし、ホンネを言うことをタブー視しない社会を作ったんでしょう。

石川好さんが日経にコメントしていたけど、アメリカ人はもともと、マッチョなならず者が好きな面があり、トランプ氏の言説の中にも「真実」はあるので、そこが支持されたと言っていた。また、その意味ではアメリカ人は変節したのではなく、そのものだとも。

なかなか説得力あるコメントだった。人間に理性が働くのは、心に余裕がある時だけだもの。




その2:「超国家主義の真理と論理」(丸山真男)

 これも、数々の解説がネット上でもあるので、そちらを見れもらえばいいけど、確か「抑圧の移譲」について書いてあったっけ。
 
 生半可な知識で丸山真男の言説を言うと、「丸山ファン」や「丸山研究家」にしかられそうだけど、人間は本質的に差別をするし、それがホンネなんだ。自分より弱いものをいじめることで自分の存在を確認するんだな。それは暴力という形のこともあれば、高額の所得を得て、他を見下すという形もあろう。
 とにかく優越したいというのが本性。
 こう言ってしまうと身もふたもないけど、今や、そのことに目を背けられない事態が世界で起こっているということなんだろう。
 「超国家主義・・」で丸山が描いた日本人気質は、実は日本人だけでなく人類共通の本性なんだと思う。




その3:「日本的ナルシシズムの罪」
つい最近読んだ本だけど、「抑圧の委譲」は、ナルシシズムだという(乱暴な)論理展開だ。
みな自分がかわいいから、だから差別をするし、自分より弱いものをいじめて溜飲を下げる。

人間の理性なんてものは、どこかに飛んで行ってしまったのが、アメリカ大統領選挙だったのだろう。

ナルシシズムという視点で、自分の周囲(カイシャの人など)を観察すると、妙に納得する。あれこれ自分の「立場」をしゃべって、人に認めさせようと、無意識に行動する人は結構多い。
はやりの「雑談」も、もちろん職場で必要だけど、ちょっと気を付けた方がいいだろう。

いずれにしても、自分は最低限の理性は持って、この先、生きていきたい。自分の中にある差別や抑圧を望む本性とちょっとだけ闘いながら。