2013年8月2日金曜日

TPPを巡る、本当の「論争」、こういう記事が唯一の救いだ。朝日新聞は。

ちょと前(7月13日朝刊)になるが、朝日新聞のオピニオン欄で「参院選」がテーマの時に、評論家の小谷野敦氏(この人を私は知らなかった)が、「今の、日本には政治にもメディアにもまともな議論がない」「とし、かつては文芸誌や総合誌の誌面上での論争が「華」であり、著名人が批判し、された側も反論したと、まともな論争が行われる風土や土壌があったことを指摘していた。
そして、「21世紀に入り、マスメディアが論争的な紙面に及び腰になり、、政治家の片言隻句を「失言」として批判することに熱中し、本当の論点から人々の目をそらさせ続けてきた。」ことに苦言を呈した。

世間の「大衆化」の流れの中で、メディアもその鏡として衆愚的記事を書くことが「使命」になってしまったのだろう。インテリ新聞アサヒも“大部分”がこうした紙面作りになってしまった。

麻生という衆愚の代表選手のような財務相・副総理は、憲法改正にからんで、ナチスドイツを引き合いに出し、「問題発言」としてメディアやだけでなくユダヤ人団体からまでも批判にさらされている。これはその通りに、まったく信じられない人物としか言いようがない。国家の要人だから「不適切」というだけでなく、人間としてバカ丸出し。知識も教養もまるで持ち合わせていないことがよくわかる。

しかし、小谷野氏が指摘するように、マスメディアはいつもいつも「片言隻句」を取り上げているから、麻生の発言の、ことの重大性が、大衆にはよく伝わっていない気がする。
「ああ、またいつものことか」というオオカミ少年的反応を世間はしているだろう。

と、最初から大きくタイトルからはずれたことを書いてしまった。

 書きたかったのはこういうことではない。日本も本格交渉に入った「TPP」を巡る論争だ。新聞記事やテレビニュースを見ていると、ほとんど推進派の経団連(輸出産業)と反対の農業関係者という、単純な構図しか見えてこない。そういう記事ばかりが「目立つ」ように構成されている。

それを見越して農業団体は「決起集会」を開いてそれが報道されることを狙っているのだろう。
そうした中で記者が紙上討論した記事は、最近のこの新聞では一面(といっても広告があるから2/3面だが)をつかってもあまりあるものだった。

どこにメリットがあり、何が問題かを討論の中で抽出していた。私には「原 真人」記者に分があると思うけど。

小谷野氏の指摘を待つまでもなく、まともな論争をきちんと載せることこそ、メディアの大きな役割でないかい。

一時掲載していた「耕論」をあまり見なくなったが、これはヘンにまとめすぎて、議論がかみ合わない時もあり、つまらなかったけど。

ちなみに、朝日新聞の署名記事で私が信用して読んでいるのは、経済担当の編集委員(だと思う)「原 真人」氏の記事だけだ。堕落した新聞「朝日」において、唯一まともな言説を展開している。
でもきっとこの人はアサヒの社内では「異端児」扱いなんだろうな。








2013年7月25日木曜日

「全員 病人」で溜飲を下げる。里見清一氏の「衆愚の病理」



そういうトシになったということなのか、それとも質が高いと言えるのか。「新潮45」が案外面白い。
いつも図書館で1か月遅れで借りてくるので、仕入れた“情報”や“知識”や“教養”は、いささか古いが、総合誌や論壇誌と言われるジャンルの月刊誌が少なくなっていく中で、割とマトモな内容の原稿が多いようにおもう。

連載は終わってしまったが、「『日本書紀』はどのようにして書かれたか」(岡田英弘)などは、歴史の知識に疎く、教養も極端に不足している私にはちょっと難しかったが、この日本の記紀の内容が、いかに恣意的に書かれているかを論じていた。
(歴史知識が極端にないところは、私の泣き所で、いつも歴史好きのムスコに尋ねては、「オマエはそんなことも知らねーのか」という軽蔑の目で見られている。トホホ)

特集は5月:アレルギー日本 、6月:反ウェブ論、7月:橋下徹の落日
などとなっている。連作執筆陣も片山杜秀、里見清一、佐伯啓志などである。
  
詳しくは新潮社のweb site を見てね。http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/backnumber/

さて・・・・、
理想に燃えた?若いころとは違い、ヨワイを重ねていくと社会の現実を目の当たりにし、「辛酸ナメ子」も多少経験すると、どうしても「現実」重視の考えに傾いてくる。加えて、社会状況が「成長」から「停滞」に移行してきていることも関係しているかもしれない。世間ではそれを「保守化」というのかもしれないが、中島岳志氏のいう意味での「保守」ならば、その言い方を受け入れてもよい。「右翼」では断じてないから。
「新潮45」は、そうした“中年男児”の心持ちにけっこうピタっとくるラインナップなのだろう。


以下、総合誌の私的評価
●「世界」(岩波)は理想論すぎる。若いころは、読まなければならないものとして我慢して読んだが、今はその気力がうせている。(一応は、毎月借りてきてパラパラ見ているけど)

●「正論」は、時々面白い原稿もあるけど、やっぱりちょっと偏りすぎているかな。根底に強固な思想があり、それに基づいた編集だから、宗教関係の雑誌のようにちょっと「引いて」しまう。
体罰による高校生の自殺が明らかになった時、「『体罰』擁護論」を展開して、ちょっと首をかしげたくなった。この雑誌には「保守」だけでなく「右翼」思想が伏流している。

●総合雑誌の王者「文芸春秋」は、「功成り名を遂げたサラリーマン」諸氏のためのというのがプンプンで、あまり手にとらない。「同級生交歓」なんか(つい見ちゃうけど)やっぱりイヤな感じだ。

●「中央公論」は読売の軍門に下ってしまったが、「論座」も「現代」も、右で言えば「諸君」も消えた中では、わりと頑張っているかもしれない。これも図書館で1か月遅れで借りてくる。経営は読売に押さえられていても編集者の中には、反骨的に頑張っている人が何人かいるのだろう。

で、「新潮45」に連載を持っている里見清一さんの著書、「衆愚の病理」を読んだ。医者のホンネ、知識人のホンネをうまく表現する筆力がある方だ。ホンネもただ、衆愚の民を見下して批判しているのではなく、なぜそうなるのか医師として、というよりは心理学者的洞察で喝破している。

▽終末期を迎えた患者に対して、普通家族は負担も面倒もいやがる。だから治療が終わっても「入院」を続けられるように懇願する。
▽初めから(延命的)措置をしていないのなら問題ないが、延命措置を止めるのは「殺人」として告発さえされる。
▽医療費がタダの生活保護者は、医者に延命のため「できるだけのことをしてください」という。どのくらい医療費がかかるかなんてカンケイなから。
などなど、あまり正確でない要約引用なので、ホンモノを一読あれ。
この新書の宣伝用帯には、白地に大きな文字で「全員 病人」とあった。自戒も含めて、人間は完全じゃないことを認識しつつ(つまり、自分を絶対と思わず)、他者を批することの大切さがメタファーとして読み取れた。

2013年7月20日土曜日

警告!ユニクロの下着は山では禁物

日本人の国民服「ユニクロ」の服は、私も愛用している。先日、旧知の友人と待ち合わせたのが、新潟県内のとある大型ショッピングモールにあるユニクロの前だった。その時、気が付いたら、靴下とベルト以外、すべてユニクロ製品を身にまとっていて、思わず苦笑してしまった。

下着は今年売り出しのAIRism(エアリズム)のパンツとシャツ。ズボンはストレッチジーンズ。上は7分袖のシャツだった。

さて本題。ユニクロのエアリズムは確かに肌触りがよく、宣伝によれば、抗菌防臭、ストレッチでドライときている。街で着るには確かにいいかもしれない。着心地はいい。

ドライもウリにしているので山行でもいいように思え、先日の剱岳山行で息子がトップス(要するにランニングのこと)を着ていた。天気は曇りで多少蒸した。
結果、雷鳥沢から別山乗越までの登りで、だいぶ汗をかいた彼の下着はびっちょりになってしまった。うまく体から出た汗の蒸気が外に逃げなかった。途中で脱がして、モンベルのウェアをじかに着せた。

同じエアリズムのボトム[ローライズ](要するにパンツ)をはいて、一昨日、自宅近くを10キロほど夜ランをしたが、このときも、パンツは汗でかなり濡れた状態になった。

ユニクロの「エアリズム」は運動時の発汗にはあまりうまく対処できないというのが実感である。
これはエアリズムが欠陥商品だと言っているのではない。ビジネス用など用途によっては下着としては優れているが、運動にはいささか向かないと言っているだけだ。誤解のないように。

ランニングやスポーツクラブでの運動で私が身につけている下着(パンツ)はBVDの少年用(身長160センチサイズ)の下着だ。これは汗に対して、すこぶるいい。

エアリズムとの違いは何か、素材に注目した。
使用しているBVDはナイロンが84%、残りがポリウレタン。
一方エアリズムはポリエステルが86%で残りがやはりポリウレタン。

ネットから探した、ナイロンとポリエステルの素材の特徴の違いが分かりやすかったサイトを紹介する。
http://www.seimo.co.jp/gousen-tokuchou.htm

これを読むと、特徴が似てはいるが微妙に表現を変えているところがある。
また、ユニクロはじめ、各社製品は、繊維素材の特徴だけでなく、肌触りや抗菌防臭、ストレッチなどを施すため、ユーザーにはわからない加工もされているだろうから、一概に素材の特徴差だけでは論じえないかもしれない。

ポリエステルの方が伸縮性がいいのか、最近のスポーツウェアではこの素材を使うのが多いようだが、汗をとにかく逃がすためにはナイロンの方が優れているのではないか。

これは経験則だけからの推論なので、確かなことはわからないけどネ。


しかしなんといっても、山には「クロロファイバー」だろう。冬の下着というだけでなく、夏でも十分いける。ネットで「クロロファイバー」を検索するとあまり詳しいものは出てこない。
最近は、流行らないのだろうか。すごくいいんだけど。

私の持っているクルrファイバーのアンダーは、NORTH CAPEのモノだ。ネットで検索してみて、いま初めてこれが「大倉スポーツ」だと分かった。クロrファイバーとはポリ塩化ビニールとなっている。
これはどんな素材なのだろうか。

2013年7月14日日曜日

残雪多し、2013年7月中旬の雷鳥沢&剱沢 あやうい山行だった

2013年7月12日(金)の雷鳥沢全景
こんなに雪が残っているとは驚きだった。海の日の連休を利用して、剱岳を目指した。休みを一日前倒しして12日(金)朝5時に東京を出発。長野県の立山黒部への玄関口、扇沢に9時過ぎに到着し、9時30分のトロリーバスに乗り11時前に室堂到着。荷物を整理し、そばをたべて歩きだ出す。

予想外の大雪に驚く。雷鳥沢はごらんの通り。そこから剱御前小屋を目指して別山乗越まで標高差500メートルを登り返すが、ここもすごい雪。乗越につくと、強風が吹き抜けていた。

風邪気味で調子のあがらない15歳の息子はキツそうだった。少し咳も出ていたので、2000m以上のところに宿泊するが、心配になった。少しでも標高を下げようと、剣沢をくだり、午後4時前に剱沢小屋に到着した。天気が下り坂で翌日が心配だった。

2013年7月12日(金) 剱御前小屋への登り返しもごらんの通りの状態だった。
幸い息子は咳き込むこともなく小屋では休めた。
しかし夜半からものすごいか風と雨で、翌朝は登頂を断念して引き返すことに。

 しかしここで危うく“遭難”しかける。
風雨だけでなく、霧もすごく視界が悪い。沢筋は上に2つに分かれていて、剱御前には、向かって右の沢を詰めなければならないのに、左の雪渓をたどってしまった。途中で気が付き、引き返して事なきを得たが、雪渓を大きな石でも滑ってきた直撃されたら、遭難したかもしれない。

地図では夏道が点線で書かれているが、この雪でとても進めるところではなかった。4本爪アイゼンなんて、ほとんど役にたたない(それでもないよりはマシだけど)ことを実感した。

われわれのように、ちょっとヤマを知っている(つもり)の中途半端なヤツが遭難騒ぎを起こすのだろうな、と自覚できることが唯一の救いだったかもしれない。

ちゃんとしたゴアテックスの雨具をつけていたが、室堂ターミナルに到着した時は、わたしも愚息もけっこうずぶ濡れ状態。靴の中はちゃっぽんちゃっぽんいっていた。雨も袖口から入り、ウェアもかなり濡れてしまった。これまで経験した中で一番すごい天気だった。

雪渓が溶けたところは氷になっていたくらい、冷え込んでいた。しかしそんな中でも我々とは逆に剱を目指す人々がいたことに驚いたが、勤め人にとっては貴重な3連休だ。無理をするパーティーもあるのだろう。

12年くらい履いているスカルパの登山靴(3シーズン)は、腫れていれば問題ないが、濡れるとヤバい段階にきたようだ。手入れは怠らずしてきたつもりだが、そうろそ限界かな。(実はスパッツを忘れてつけていなかったこともある)


●教訓1
こんな風雨の時に絶対必要なのは、ゴム手袋だろう。息子が手袋を忘れたので、私のゴアテックス、ウィンドブロック造りを貸した。予備は軍手だったので初めからはめなかった。素手で歩いたので、どんどん手から体温を奪われつめたくなってきた。靴ひもが緩んだので絞めなおしたかったが、とても指に力が入りそうもなかったので、我慢した。

こんな時あればいいのが「炊事用ゴム手袋」だ。手が濡れなくてすむし、袖口から雨水が入るの防ぐ。いつもは何となく持っていくのに、“今回に限って”持ってこなかった。トホホ

失敗(遭難)するのは往々にしてこういう時だろう。ちょっと反省した山行だった。でもまた行きたい。苦しくても山は楽しい。そして息子と行けるのも嬉しいから。



2013年7月6日土曜日

沖縄慰霊の日の小学生の「へいわってすてき」は切ない。ただ願っていても平和はこないから。

6月24日 
朝日新聞より「引用」
6月23日の沖縄「慰霊の日」の追悼式で、与那国町の小学1年生(6歳)が、覚えたてのひらがなで自ら作った詩、「へいわってすてきだね」を朗読した。これはほとんどすべての新聞やテレビニュースで取り上げらたので、多くの人が見ただろう。

 平和を願わない人は武器商人か「希望は戦争」と言って論壇に話題をふりまいた赤木智弘氏くらいかもしれない。(ほかにもネット上にはウヨウヨいるのかもしれないが、私は見ない。)

 6歳の“純粋”で“無垢”な子どもの率直な思いとして、「へいわってすてき」という言葉は改めて大人に突きつけられた「課題」に他ならない。
 
 しかしである。ちょと斜に構えて見てしまうと、本当にこれでいいのかと、ちょっと考えてしまう。沖縄は平和教育が盛んだと仄聞する。それはそれで結構なことだけど、ただ「平和を願う気持ち」を、教え込まれて身につくものではないだろう。この与那国の子のように自分の家族から体験として聞き、考えることによって、絞り出されてきた言葉だ。
その先、「どうしたら平和を獲得できるのか」ということまで、きちんと考えることこそが、真に平和を獲得することではないのか。

 こんなことを考えてしまったのは、西部邁の「どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由」を斜め読みしたから。
 普通なら私の志向からすると「右翼のじいさん」が「晩節に吠えている」くらいにしか思わず、書店で見ても無視する類の本だ。しかしいくつかの誌(紙)で書評に取り上げられていたこと。西部氏を、若手論客の中島岳志氏が「師」と仰いでいることを思い出して、図書館で借りてみた。
 中味はだいたいが「老人の小言」風であり、あまり面白いと思わなかったが、それでも、何か所か読むべき価値のあるパートもあった。オルデカを取り上げて現代日本の「大衆性」について述べていること。また「平和とは大国による力の均衡」と言っている部分などだ。

 中島氏は「保守」と「右翼」の違いを明確に説明してくれて、わかりやすが、その区分けに従うと西部氏は「右翼」ではなく「保守」であることがわかる。
「平和とは力の均衡」とは、よく言われることではあるが、“日本という国”ではあまりこれが共有されていない。特に革新系と言われる人々には、その現実をことさら避けているようなところがある。

 「さきの戦争」では、沖縄では地上戦で多くの一般住民が犠牲になった。日本軍の盾にされもした。そうした現実の中で、平和を願う気持ちは、他の地域にも増して代々受け継がれてきていることは想像に難くない。そういう人々の「平和なんて力の均衡でしかないのさ」、「武装していなかったら、とっくの昔に尖閣列島だけでなく先島諸島全体がすでに中国のものになっているよ。チベットをみればわかるでしょう。」なんて言うことが正しいモノの言い方なのかどうかはわからない。

 しかし教育とは、理想論だけを刷り込むのではなく、現実を知ること(それは偏狭な知識だけでなく、広く教養も含めて)こそ必要なのではないのか。と、考えてしまった。

 与那国の小学1年生に向かって「理想論だけじゃダメだ。」と教えろと言っている訳ではない。理想を思考するひとつの出発点にして現実(それはしばしば見たくないものであったりする)に向き合う学習こそが大事なのではないか。

メディアの伝え方は、しばしばそうした「本質」から半ば意識的に目を背けて、キャッチな「へいわってすてき」だけに飛びつく。これこそが一番の問題なのかもしれない。


2013年7月5日金曜日

ナルシスト泉田裕彦新潟県知事の幼稚な言説。柏崎刈羽原発の再稼働を巡って。

7月3日朝日新聞より「引用」
柏崎刈羽原発が安全なのかどうか。安全の度合いがどの程度なのかは知らない。再稼働が「正しい」選択なのかもわからない。だから良いとも悪いとも決めつけない。
それはそれとして、東京電力が、新しい安全基準に基づいて再稼働審査を原子力規制委員会に申請したことについて、新潟県の泉田知事は「信頼関係を破壊する行為」と怒ってみせた。

衆愚の民と同様の空虚な言葉が躍っている。泉田氏はまた、「安全が確認できなければ再稼働は認めない」とも言っている。
具体的にどういう状態になることが「安全が確認できた」と言えるのか、いっさい言及がない。
「安全が確認」とか「信頼関係を破壊」などと言うのは、もともと言うべき中身がないことを告白しているにすぎない。

泉田氏は単に、柏崎刈羽原発原発の再稼働がイヤなだけなのだ。それをストレートに「ボクはイヤだ」と言えないから、もっともらしい言い方をして、メディアや人々を煙に巻いているにすぎない。

住民が権力者(それは企業や政府や役場など)のやることが気に食わない時に使う常套句、「納得いく説明がない」「信頼関係がない」と言うのと同じだろう。

7月3日朝日より「引用」
論理的に反論できないから、感情に訴える。もちろん専門知について情報の非対称性があり、情報を持っている側と対等に論争できないことは分かっている。であれば、なおのこと、こういうことがわからない、こういう点についてハッキリさせてくれという、疑問を素直に投げかければいいのだが、こういう人々はそうはしないのが常だ。

泉田氏はただ、再稼働がイヤなだけだから、感情に訴えて怒ってみせるしかないのだ。憶断を承知で言えば、京大→通産省のキャリアから知事に上り詰めた、地元出身の立身出世の人物として、「原発の再稼働を認めた知事」との“汚名”を被りたくなかっただけだろう。彼にとっては東電がつぶれるとか、電力不足になるとか、地球温暖化が進むとか、まったく関係ない。ただ自分がかわいいナルシストでしかない。

冒頭にも書いたが、誤解のないよう言っておくと、原発再稼働が正しいことかどうかは分からない。
知事ともなれば、反論するならもっと理論武装して具体的に反論すべきだということを言っているのだ。泉田氏は“秀才”だったのかもしれないが、天下国家を担う器ではなかったのだろう。恥ずかしい人だ。

○追記:
朝日が記事にしていた浪江町長の「反省ない」に至っては、お笑いとしかいいようがない。どうすることが「反省があり」、どうしないと「反省ない」というのだろうか。
信頼とか、理解とか、反省とか、一見もっともらしい抽象的表現で物事を切ろうとするのは、人を騙すことにほかならない。

それを補完するがのごとく、同日の朝日の社説は「とても理解は得られぬ」という見出しで、「泉田知事を孤立させてはならない」と結んでいる。どうしても原発をやめたい、地球温暖化も経済もまったく「そんなのカンケイない!」朝日新聞の意図が露骨な紙面作りだった。7月3日の朝刊は。

7月3日朝日より「引用」

2013年7月3日水曜日

「足首に少し痛み」・・・50代からの「裸足ラン」②


2013.6.9 南魚沼ハーフでのゴール 1時間47分台でした
誰と競争するのでもないが、ランニングをしている人にとっては、少しでも記録を伸ばしたい。つまりもう少し速く走りたいという思いを抱いているだとう。しかし50を越した者にとって速力を上げるのは容易ではない。だいたい走りの速度は自分のポテンシャルが固まっているように思える。距離を延ばすこと、つまり持続力を増すことは少しずつなら達成できるのだが・・・。

しかしベアフットランを試みて、速力を増すことにちょっとだけ希望の灯がみえたような気がする。
ベアフットで走るにはある程度速さがないと、走りに乗れない。自分の場合はトレッドミルで確かめるとだいたい11㎞/h 以上だ。12㎞/h だと結構走りに乗ることができる。これは、キロ5分ペースだ。単純計算すれば、サブ3.5だ。そんな計算どおり行く訳ないけど、サブ4も決して夢ではないというレベルのような気がする。

問題は「持続力」だ。このペースでベアフットで長い時間を走ることができれば、かなりイケるかもしれない。持続力をトレッドミルで徐々に身に付けていった。

週2回、3週間で2%の傾斜で35分~40分、なんとか持続してベアフットで走れるようになってきた。が、実際の走りではそこまでいかない。多摩川を走る時はだいたい10~15㎞だが、最初は怖くていつものペタペタ走りになっている。後半少し勇気をだしてベアフットを意識して腰を高くし走ってみる。どのくらい“耐えられる”か。今のところせいぜい20分~30分だ。それ以上やるとふくらはぎの付け根の筋肉に痛みが残りそうで、怖い。

2013年の東京マラソン 芝公園付近 見学していました
脇道に逸れるが、筋肉の超回復は48~72時間と言われているが、50代の老体では3日たっても完全には痛みが消えないことがしばしばだ。その時、トレーニングをやめるか、それとも走るかは判断に迷うところでもあるけど。私はなるべく走るようにしている。

ベアフットを始めて、トレッドミルから実際の走りにも応用するようになって、左足首に少し痛みが出始めた。しかし不思議なことに、走り始めは痛みがあるのだが、だましだましゆっくり走っていると次第に痛みを感じなくなって、いつも通り走れるようになる。だからそのまま走ってしまう。しかしそれでいいのかどうか、自分ではわからない。そこが素人には怖いところだ。

最近はふつうに歩いていても、ちょっとだけ痛みがある。触ると拇指球の少し下あたりだ。こういう時は、しばらく走らない方がいいのか、それとも少しずつ走った方がいいのか分からない。

「教えて金さん!」

2013年6月27日木曜日

世界遺産「富士山」に熱狂する人々のメンタリティーを“嘆く”

以前、桜一辺倒でいいんでしょうか、と書いた。
東日本大震災の被災地などでは、再生のシンボルとして桜を植えることがはやっていることなど、とかく日本人は、桜ばかりを植えたがる心情に対して疑問を呈した。(※日本人の定義については、ここでは触れない。しいていえば「日本先住民」とでも言うのだろうか。)
雲取山から見た富士山1(2011年撮影)

 言わずもがなだが、ソメイヨシノは接ぎ木でしか育たない。寿命も50年~60年と言われている。木でありながらその程度の寿命のものを植えることについて、何の疑問も持たないのだろうか。

富士山について書こうとして、ついソメイヨシノについて語ってしまった。

登山ブームであるらしい。だから登山経験のあまりない人々が「山に登ること」にあこがれ、どうせ行くなら日本で一番高い山へ、と思うのだろう。そうした需要に応えて旅行会社や山岳ガイドを生業とする人々が「弾丸登山」で素人を3774mに引っ張りあげる。

世界(文化)遺産に登録された富士山にはますますこうした人々が増えるだろう。弾丸登山について、警鐘を鳴らす報道もマスメディアで目立ってきた。

富士山に登ることが「目的化」した人々は、たとえそれが成功しても、いや、成功したら、もう山に登ろうという気にはならないだろう(と、思う)。なぜなら一番高い山に登ったことで、彼らはある種の目的を果たしたと感じるからだ。本当の「山愛好家」にはならない。

撮影2012年11月17日 自宅から
長続きする山愛好家になる人は、まずハイキングから始める人だ。自然の中で緑とおいしい空気、また星空に触れて、人工的につくられた都市にはない「何か」があることを悟った人が、「また来よう。」「違う山にも行ってみよう。」と思うものだ。

はっきり言って富士山は登ってもつまらない山だ。5合目から登り始めたら、ほとんどが森林限界以上であり、石のゴロゴロした、言ってみれば砂利道をひたすら九十九折(つづらおり)で高度を上げていくだけ。今はどうかしらないが、途中の小屋のし尿は、植物がほとんどないから分解されず臭いニオイが漂っている。
木々の息吹を感じることも、小動物や野鳥に出会うことも、ほとんどないだろう。

日本一の高さに到達すること。しいて加えればそこで「ご来光」を拝むことが目的化した山歩きなんか、どうなんですかね。
富士登山を「目的」として考えている方々。ちょっと立ち止まって考えて下さい。
撮影2013年2月25日 東京タワーより(200ミリ望遠)
雲取山から見た富士山2(2011年撮影)

2013年6月25日火曜日

原発災害、「村、町への帰還が復興」という言説は、封建制度の呪縛による発想

東日本大震災による東京電力福島第一原発の放射線漏れ事故で、「避難」を余儀なくされている人々の苦難と苦悩は、大きなものだろう。お年寄りだけでなく、仕事と子育ての関係から引き裂かれた家族の苦労は想像に難くない。
そのことを十分“理解”した上で、被災自治体が「帰還」を前提に復興を考えていること、多くのメディアも「もといた場所に帰ることが一番」という前提で報道していることに、違和感を覚えてしまう。

モノを壊されり、傷つけられたら、「現状回復」するのが原則だろう。「元通りにしろ」と叫ぶのは心情的にはもっともな話しだ。しかし世の中は、どうしても完全には元通りにはできないことも多い。だから次善の策を考え、場合によってはお金による解決策を作ってきた。交通事故の賠償を考えればわかる話しだ。

加害者側の責任は責任として追及されるべきだが、それと「元通りにしろ」という要求は分け考えなければならない。それが、こと原発災害ではごちゃまぜになっているように思える。
また、被災自治体も元通りのマチ、ムラになることが唯一の、そしてベストの選択肢だと振る舞っている。もといた場所になかなか帰れず何年もかかること。つまり人生の貴重な時間を「避難」という形で過ごすことより、「新たな生活」として過ごす方が、幸せな場合もあろう。

被災自治体が住民に「現状回復」しか青写真を示さないのは、構造的な問題があるからだ。首長にとって、また自治体で働く者にとって、わが町、わが村が存在することが、唯一の自分たちの存在価値だから。彼らにとって人口が減ることは、許せないことなのだろう。あたかも企業にとって売り上げが減ることの恐怖と似ている。サラリーマンでもそうだろう。給与が減ることはある種の恐怖だし屈辱だ。
しかしもう少しおおきな枠組みで考える必要があるのではないか。
マチ、ムラ単位でモノゴトを考えて、それに沿って政策を進めているから、埒があかない。

そもそも、(日本人)は、どうして先祖伝来の土地にこだわるのか。歳いった人が、もう「終の棲家」として動きたくないというのは別にして、これから人生がある人にとって、必要に応じて住まいを動くというのは合理的な判断だ。実際そうして生きている人もいるし、いわゆる転勤族にとっては、好むと好まざるとにかかわらずそうして生きたきた。しかし原発事故の被災地では、「元の場所に住むことが最善」という前提で動いている。そこに疑問を呈する余地を許してはくれていない。

いつまでも小さな市町村単位レベルでしか発想できないから、住民たちも抜け出せないのではないか。ひとつところに留まって暮らせというのは封建時代の発想でしかない。「中国化する日本」を読んで、その思いは強くなった。

そんな中で朝日に福島総局長・渥美好司氏の「『移住』選んでもいいのでは」というコラムが載った。研究者の言葉を借りながら、遠慮がちに「移住」の選択肢を示していた。ホンネを言うは気を遣う新聞社だから、しかたないだろうけど、実際、フクシマに居て、そうした思いに至ったのだろう。

「原発被災地域は、なかなか元通りに住めるようにならないのだから、いっそ、みんなでムラを捨て、新たなコミュニティーを作るか、周辺、あるいはもっと自由に好きな土地を選び、既存のコミュニティーに加わるというのもいい。そして、場所が決まらず対応上している放射能汚染土の最終処分場や中間貯蔵施設を、被災地に作り、その見返りの金銭を資金として生きていく方が合理的だ。」

というようなことは、おそらく自治体の長やメディアは絶対に言わないだろう。いや、言えないだろう。「ムラに帰る」ことを目指すことが、かえって被災した住民を長期にわたって苦しめていることには思いが及ばない人たちだ。
「壊したものは元に戻せ」とい「主張」のみが正しいとしされる“高度”に“大衆化”されたいまの日本ではしかたないかもしれないが・・。


朝日新聞より「引用」

2013年6月22日土曜日

朝日新聞の建前主義と「原発事故で死者はいない」高市発言

 自民党の高市早苗政調会長が、「原発事故によって死亡者が出ている状況ではない」と発言し、「問題発言」として、朝日と東京が19日の朝刊で報じた。朝日が書くように、確かに原発事故による関連死はあった。双葉病院の高齢者のように何人もの方が犠牲になったのだし、その意味では高市発言は正確とはいえず、不適切な発言だったと言える。

6月19日朝日新聞より「引用」
しかし、高市氏をかばうわけではないが、(個人的にはこのヒトはキライだ)、彼女は、原発事故そのもので、放射能の影響等による死者が出た訳ではないという主旨で言ったのだろう。それはかつて、中部電力社員が原発稼働の是非を論ずるタウンミーティングで同様の発言をしたのと構図は同じだ。
 朝日の記事は、原発事故被害者の人々の「許せない」という声を伝える構成になっている。原発(だけが)キラいな朝日が、ここぞとばかりに高市攻撃で「反原発」の声を高めた格好だ。東京新聞も同様だったが、どういう訳は毎日も読売も日経もそして、サンケイもこの高市発言の記事は載っていなかった。(正確に言えば、18日から20日の新聞をざっと見返した限りでは見つけられなかった。)騒いだのは朝日と東京だけ。

 新聞社には編集方針があり、何をどう伝えようと「正確」な記事であれば、ご自由だが、この2紙の扱いはどう見たらいいのだろうか。発言の揚げ足をとるような構成の記事には、いつもながらウンザリだ。かえってモノノ本質、本当に議論しなければならないことを見誤る気がしてならない。
それは、朝日得意の「建前」だけで議論をしようという姿勢にも見える。
 フーテンの寅さんは、口癖のように「それを言っちゃおしまいヨ」と、何かにつけ、言葉に出して言っていいことと悪いことがあると教えてくれた。それが人間関係をスムーズにする秘訣なのかもしれない。
 
 確かに「言わぬがハナ」は、美徳だが、それでは本質は見えないという側面もある。大切な議論を行う時、大事なことを決めるときは、それではダメだろう。
繰り返しになるが、高市発言は、不適切だ。しかしそれを騒ぎ立てる朝日と東京も大人げない。
同様の構図はくだんの橋下発言でも見られた。橋下の発言は決して褒められたことではないが、本質をえぐりだしたのは確かだ。発言をとりあげて騒ぎたてた女性議員たちは、その後何かの行動を起こしたのか?。風俗産業で働かざるを得ない女性たちの地位向上、生活改善に取り組むために議員として何かできることはないのか考えたのだろうか。本質をついた橋下を批判しただけではないか。これも建前の人々だろう。
橋下発言問題が一段落したあと、朝日に興味深い記事が載っていた。「建前」はひつようだという言説である。このタイミングでこんな記事を出すののは、「われわれは建前で記事を書いています。本音はいつも隠しています。」と言っているようにしか見えない。
お笑い「朝日新聞」です。ハイ。
5月22日朝日新聞より「引用」

2013年6月20日木曜日

歩きながらのスマホ。「あぶないですよ!」は、問いかけが違う


 いわゆるスマホを見ながら、ホームやコンコースを歩く“おバカ”な人たちがあとをたたない。フツーの通勤・通学のまともな人々にとっては、(ここでは何がフツーで、なにが「まとも」かは問わないけど)、迷惑千万としか言いようがない。おそらく電鉄会社への苦情も多いに違いない。じっさいこのブログで車内マナーのことを記すと、意外なほどアクセスが多い。
東急のポスターに「あぶないですよ!」というのがある。歩きながらのスマホ操作はホームへの転落の危険があるから、おやめくださいというものだ。何よりも、乗客増を優先するこの会社でも、さすがに苦情が多いのか、こうしたポスターが作られている。(東急の体質についてはも、このブログで分析した。)
毎日通勤で、このポスターを見るたびに何か違和感を持ったのが、なぜなのかしばらく自分でも分からなかった。やっと東急も「苦情に応えて対策に乗り出した」のだが、いまひとつしっくりこない。
その答えはキャッチコピーにあった。
 「あぶないですよ!」という呼びかけは何の効果もない。なざなら、スマホを操作して歩いている人々は、「自分は大丈夫」「自分は歩きながらでもスマホができる」という、万能感を持った(愚かな人々だからだ。そうした人々に、「あなたのやっていることは、身の危険がありますよ」と呼びかけても、聞く耳をもたない。

「万能感」については、教育学者の苅谷剛彦さんが
「階層化日本と教育危機~不暴動再生産から意欲格差社会(インセンティブ・デバイト)」で、述べている。
学力のない人ほど、自分は「アタマがいい」「自分の判断は正しい」、「だから学習することはない」という万能感を持ちやすいとう分析だ。
内田樹さんも著書で、苅谷さんの著書を引用して、こうした傾向を繰り返し指摘している。
人の言うことに耳を傾けず、自分の判断が常に正しいと思う人に、「あぶないですよ」と呼びかけても何も通じない。

だからキャッチコピーは、そうではなくて「迷惑ですよ!」とすべきなのだ。
「あなたの行為は他人に多大な迷惑をかけている。やめなさい」と呼びかけなければ、彼らには通じない。これでも通じないかもしれないが、少なくとも「あぶないですよ」と彼ら自身の内面に訴えかけるより、彼らの外部に影響が出ていることを訴えることの方がマシではないかナ。

書籍などから得る情報、先達のアドバイス、また目下の者の言うことでも謙虚に耳を傾ける姿勢がない限り、人に成長はない。そのことは50を超しても「肝に銘じて」おかないと、どんどん退化するだけだ。万能感を持った人々が増え、それが「大衆」というマスになったのが、現代の病理なのだろう。しかし、そう直截的に指摘するのははばかれるので、まともな「識者」もはっきりとは言わない。
オルデカの「大衆の反逆」の中にあった一節を自戒を込めて反芻した。
「大衆的なるものは、社会階層の低い人だけでなく、知識人の心の中にも宿っている」ことを。具体的言い回しは忘れたが意味としてはこういうことだったと思う。

スマホの「ながら歩き」をする人たちは、周囲にどんな影響を及ぼしているか、気が付かないという意味では、幼い子どもだ。
「坊ちゃん、お嬢ちゃん。歩く時はおもちゃはしまってネ」と言うのが一番だろう。




2013年6月18日火曜日

炎天下でレースで「汗をかかない」方法は・・・。南魚沼ハーフマラソンでの試み

メイン会場 好天すぎて暑かった!
6月9日の新潟県南魚沼市は梅雨入りしたにもかかわらず、快晴でしかも朝から暑い日になった。初めて参加する地方でのマラソン大会。ハーフであるが、自分にとってはまだ2回目のレースだ。
暑い中でどう体調を保って走り続けるか、比較的うまくいった対処法を「経験談」として記そう。

暑いと当然汗をかくので、予め水分を多くとっておくのは、いわば常識だろう。
しかし「常識を疑え」である。むしろ汗をなるべくかかないような対策を考えた。

給水所はおよそ2.5㌔おきに8か所に設けられていた。いずれも水とアミノバイタル水が用意されている。レース前はさほど水をとりすぎず、給水所をうまく利用しようと考えた。

<レース前>
閉鎖された“伝説の浦佐スキー場”が見えました。
○朝はペンションの日本食。味噌汁とお茶を少しとっただけだった。
○レースまで1時間半くらいある時間にコンビニで野菜ジュースとコーヒー(ミドルカップ)をとる。このくらいはいつもの水分摂取だ。
○レース前に、残っていたポカリスエットで200ccくらい水分をとった。
○レース10分前に、炎熱アメをなめて塩分をとる。

ジリジリ照りつける中でのスタートになる。すぐ汗が出てくるのは必至だ。
水分だけを摂ると、からだは塩分濃度を一定にしようと、汗を出す。
だからカラダの塩分濃度が薄くならないようにあらかじめしておくことを心掛けた。

<スタート後>
○走りはじめてすぐ汗が出てくる。まだ暑さになれていないカラダにはきつい。しかし思ったよりも汗の量は多くはなかった。
○給水所はすべて利用した。しかし水にはいっさい目もくれず、アミノバイタルだけをとるようにした。ただし飲みすぎないように気をつける。
○15キロすぎに、持っていたアミノバイタルパーフェクトエネルギーを吸う。(「後半に強い」というキャッチコピーに「負けて」持っていた。)

なんとか大汗をかかずに1時間48分代で走り切った。前回の谷川真理荒川ハーフのようには後半の馬力がいまひとつだったけど、この天候では上出来かもしれない。

医学的に「正しい」のかどうかは、にわかにはわからない。後半バテて、歩き出す人を何人も見たので、そういう方々よりは作戦的にうまくいったように思う。

有森裕子さんを取り上げた番組を見ていて、レース後半エネルギーが切れてくると足がしびれてくると言っていたのを思い出した。そういえば前回のレースで、最後の2,3キロは足の裏が感覚がなくなるくらいしびれていた。だから補給するモノを持って走ったのだった。
「パーフェクトエネルギー」がどれほど即効性があるのかわからない。もう少し早い段階で取った方がよかったのかもしれない。前回はスタート直前に摂取した。

「参加賞」は大型のお茶碗と山盛りのコシヒカリ 

模擬店・屋台は長蛇の列で、好評でした





2013年6月13日木曜日

アベベの「裸足ラン」を思い出した。ベアフットランを(少しだけ)試みて・・・

webより「引用」出典不明

 裸足ラン(ベアフット ランニング)が、少しブームになっている。(ランニング愛好家以外は興味ナイだろうけど)。my blog でもちょっと書いたが、ランナー雑誌だけでなくAERAなど一般誌や新聞でも取り上げるということは、関心の高まりがあるということだろう。
 そこで思いだしたのが、アベベの「裸足ラン」である。

アベベは1960年のローマ五輪と次の東京五輪でマラソンで優勝した。五輪のマラソンで2連覇した選手が、以後出ていない。
ローマでは裸足で走った。
ウィキペディアによると、それはレース直前に靴が壊れたが、足に合う靴が手に入らなかったためとなっているが、理由はどうであれ、やはり「当時の欧米の常識」からすると裸足で42.195㌔を走るのはすごい。

裸足で走るアベベを、当時の人々はどう受け止めたのだろうか。おそらく「未開の地の人間だからできたこと」と、奇異の目、物珍しさで見たのではないか。そこには、日本語で言えば「野蛮人」という先進国の人々のエートスがあったに違いない。私自身も東京五輪の時、テレビ中継か何かのアナウンスで「アベベはローマ五輪では、“なんと”裸足で走って優勝しました」というのを聞いた記憶がある。そのニュアンスには、まさしく「なんと」と言う、驚きのニュアンスが絶対的に含まれていた。

レビストロースの「野生の思想」は、「未開の人は遅れているのではなく、欧州とは別の価値の文化なのだ」ということを指摘して注目された。(原典を読まず、解説本しか読んでないわたしにはレビストロースを語る資格のカケラもないけど)

まさしくアベベは、当時の欧米的常識とは「違う価値観」で裸足で走ったのだった。今から思えば。だからいま、こんなに「裸足ラン」が注目される。50年以上もたって。
実際フルマラソンを裸足に近いクツで走る人がいるのは、私にとっては驚きであるが、同時に、「野生の思想」への回帰でもある。

ベアフットを試みるとなかなか厳しいこともある。ふくらはぎの下の筋肉の疲れがすぐにはとれない。すこしづつ、アベベに近づこうと思う。

トルコのデモは、かえってイスタンブール開催を強めた。メデタシメデタシ

トルコでのデモ(朝日新聞デジタルからの「引用」)

 トルコの反政府デモが収まらない。きょう(13日)の朝のニュースでもエルドアン首相が対話の姿勢を示し、都市の再開発の計画を、住民投票等で見直す姿勢を示したが、デモは続いていると報じていた。
日本、特に東京の「五輪誘致」に熱心な人々は、もちろん何も語らないが、これで日本が有利になったと内心ほくそ笑んでいることだろう。特にイノセ都知事などは、自身の「失言」(=ホンネ)の失点を挽回するのに格好のできごとだと思っているのではないか。
しかし、事態はまったく違う。(と、思う)
一連のトルコのデモ騒動は、かえってイスタンブール開催を有利にした。IOC委員が一番多い欧州の人々は一層、トルコでの開催を強く望んだことだろう。
トルコと地続きであり、イスラム圏の国々とも地理的に近く、またイスラム圏の人々を多く内包する欧州諸国にとって、一番の課題は「イスラムとの融和」であることは論を待たない。
もちろん一部の人々により「排斥」の運動はあるものの、排斥したからといってイスラムを無視してこれからの欧州社会を語ることなどできないのは自明のことだ。資源的な野心だけでなく、人の往来や文化、宗教にいたるまで融和なくして生きてはいけまい。
だからこそ、「トルコには頑張ってもらわなくては困る」と考えるだろう。世俗のイスラム国家として、一番欧州が受け入れやすい体制の国を、「あっち側」に追いやり追い詰めてしまう愚を犯してはならないという心理が働く。あたりまえである。
だからこそ、今の事態をぐっとこらえて成り行きを見守っている。そして首相と市民がなんとか融和してくれることを期待している。
彼ら(欧州諸国)にとって、「イスラム社会はケンカばかりしている」(言わずもがなイノセ発言)的な否定的言説で、トルコを国際的に追い詰めても何の特にもならない。
欧州はこぞってトルコを応援するだろう。それが「わが身のため」だから。

webより「引用」出典不明
東京五輪を思い出してほしい。(と言っても覚えている人は50代半ばより上の世代だろうが。)
歴史として見てもらってもいい。開催は1964年。終戦は45年だから、それからわずか19年後に東京五輪は行われている。いつ開催が決まったかは調べていないが、少なくとも4年以上前ではあったろう。1960年はどういう年だったか。言うまでもない日本は政治の季節だった。
アンポの年だ。そんな日本で世界はなぜ五輪開催を「承諾」したのか。西側の一員として、民主的な国家として、そして経済的にも自立した国になってほしいと、当時の西側の国々が望んだからにほかならない。よく言えば、五輪を契機にはやく立ち直ってほしいと思ったからであり、日本の戦後の混乱が自分たちにとばっちりとして来ないようにしたかったからだろう。
当たり前の話しだ。

※もちろん五輪開催が決まったが60年安保の前だったかもしれないが、戦後の混乱期であったことには違いない。




2013年6月4日火曜日

50代からの「裸足ラン」への道①

AERA 130506号より「引用」
















裸足ランがブームだ。本当に裸足で走らなくても、「かかと着地でない走り」をしたいとう欲求は、少しランニングをしている者ならもっているのではないか。しかし普段ひとりで走っている自己流、孤高のランナーとしては、指導を仰ぐ人もいない。そこで自分なりに研究して少し試みてみた。
以下は、その3週間の「成果」である。

①まずトレッドミルから始めてミル。
▼いきなりベアフット風走りをやっても、かえって故障をするだけだ。特に50代のカラダには要注意だ。そこでまず、トレッドミルで少しづつ試してみた。
▼2%の傾斜をつけ、時速8㌔くらいから徐々にスピードをあげる。とにかくカカトを着かないことに集中して走る。その際、ひざの曲げ方や、上半身の傾け方をいろいろ試してみる。
傾斜をつけた方がつま先から着地しやすいと思う。
▼ある程度スピードに乗らないとベアフット走りにはならない。
自分にとっていちばん「続く」スピードを見極めながら、最初は30分ほど走った。

②無理をせず少しづつ筋肉を鍛える。
▼案の定、翌日は筋肉痛になった。これは普段の走りとは違う筋肉を使っていることの証左だろう。場所はふくらはぎの下の方、アキレスけんの上あたりだった。
▼翌日は水泳をしたら、足をつってしまった。(もともとつりやすいのでこれも少し予想できた)
2日おいて再びトレッドミルで同じように走った。少し痛みはあったが、30分以上もった。

③週末ランはふつうの走りで。とりあえず。
週末15キロほど走ったが、あまりベアフットを意識せずこれまでどおり走った。使う筋肉が違うため普段どおりに走ることができた。

④翌週、もう一度トレッドミルで、ベアフットで走り、持続性を確かめた。40分ほど走った。

岩波書店
⑤そして週末、走りはじめて体が慣れてきた6㌔過ぎから、かなり意識してつま先から着地するように走った。トレッドミルで走るよりキツイ。ふくらはぎの下の部分に筋肉痛を感じた。しかしこれで5~6㌔走った。帰ってからかなりの筋肉痛。氷で冷やして次に備えている。(続く)

筋肉の「超回復は48時間~72時間」とモノノ本には書いてある。これを信じて最低48時間はあけてベアフットで使う筋肉を少しづつ鍛えた。しかし50代のカラダはそう簡単には筋肉が鍛えられない。地道につけていくしかない。

ちなみち、「筋トレ」の大切さはレースに出て実感したことだ。(前のまえのブログを参照)
いまは意識的に週2回、行っている。初速のクイックは動きを重視して行っている。(そのうち、体験記を書くつもり)

週刊ダイアモンド 130518号より「引用」

2013年5月22日水曜日

水木しげるさんが描いた「戦場」を、橋下発言が改めてあぶりだした。そしてメディアは批判の「質」が問われた。

講談社文庫
片腕の漫画家、水木しげるさんの戦争体験漫画「総員 玉砕せよ!」の冒頭に、兵士たちが長い列をなして慰安所に並ぶシーンが描かれている。あまり漫画を読むのが好きではないし、このシーンに正直ちょっと嫌悪感を覚えたので、結局最初の数ページしか読まなかったが、明日死ぬかもしれなという一兵卒たちの心情は、何となく伝わってきた。

 水木しげるさんの一連の戦争体験の作品は世間一般でそれなりの評価を得ているのではないかと思う。実際、NHKスペシャル「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~」が放送された程だ。(見てないけど)
http://www.nhk.or.jp/nagoya/kitaro/staff.html

水木さんの作品について、「アレはウソだ」と言い張る人はそう多くはないだろう。戦争で実際に片腕を失った水木さんが、現実にあったことをもとに描いていると、新聞やNHKなどのメディアも含めて多くの人が「同意」しているのではないか。

NHK DVD
一方、いわゆる「従軍慰安婦」を巡る橋下大阪市長の発言が、メディアで「問題」になっている。このタイミングで、しかも公党の代表で行政の長とという立場の人が、あえて言うことではないかもしれないが、彼の発言の中には「現実」が含まれている。女性議員が言うように「女性の人権を踏みにじった」発言と一刀両断にして「全否定」すれば済むことなのだろうか、という疑問が湧いてくる。

 別に彼を擁護する気も、肩を持つ気もない。しかし、である。余りにもステロタイプな批判をする政治家諸氏とメディアの扱いには、うんざりしてしまうし、違和感を覚える。

批判されている橋下氏の発言要旨は、
①先の戦争(アジア太平洋戦争時)では、慰安所が必要だった
②アメリカ軍に(合法的な)風俗施設を利用することを進めた
という2点に絞られるのではないか。

①について、メディアの批判のしかたはちょっとオカシイ。彼は、必要だったからそれでよかったと言っているのではないだろう。「当時の軍や世間一般は、必要だと思っていた」という、時代認識を述べているのではないか。そこには、良いとか悪いとか「評価」は入っていないと見るのが普通だろう。
 後述するが、藤原帰一さんが指摘するように、外国から奴隷制度と見られる慰安所と、いわゆる売春宿は違うということもある。「慰安所」がどういうものだったか、私にはどの言説を信じていいか、正直わからない。

そのことはいったん置くとして、水木さんの漫画を見ても、当時の時代認識として橋下氏の言うような「必要だった」という認識があったことは疑いないことだろう。

彼は触れてはいけない、日本の恥部に触れた。パンドラの箱を開けたのだ。
左側からは、人権感覚のなさが批判され、右側からは「日本人の恥部に触れた」ことを批判されているように思われる。

②について。
厳然として、今もそうしう場所が存在するのは確かだろう。「沖縄ダークサイド」にはそうした厳然たる事実がルポされている。それで良いと言っているのではない。もちろん沖縄だけの“特殊事情”ではない。
橋下氏が言うように、世界各国にあることは、だれも否定できない事実であろう。彼の「アメリカはずるい」という発言は、ある意味で当たっている。

橋下氏の発言に抗議の声をあげた女性議員たちが「ズルイ」のは、こうした今でも存続する女性の場所について、普段は見えない、知らないフリをしておきながら、男性側から何かしらアクションがあると、“抗議”する姿勢だ。

湯浅誠さんの名言を思い出した。「見たくないもの、見ようとしないものは見えない」という。
まさにフェミニストの方々は、普段はコレだったんではないでしょうかネ。

さて、各誌は社説で橋下をどう伝えたのか。以下に「引用」する。(順不同)
どの新聞も、橋下氏の発言を「支持」するものはない。(当然だけど)
しかし、読み比べてみると、微妙に批判の仕方、矛先が違うのがわかる。

5月16日 朝日
5月15日 毎日

○朝日は(珍しく)一番正直だし、一番公平な主張をしている。「戦場での『性』には、きれいごとで割り切れない部分があることは確かだ」と指摘した上で、橋下の発言を批判している。

○毎日は書き方がズルイ。まず「必要だった」発言を都合よく取り上げ、稲田氏の言葉を引用して批判し、さらに橋下の今回の発言より過去の発言を「問題視」している。最期は「国益を損なう」と、紋切型の言い回しで終わっている。





5月16日 東京(中日)

○東京もある意味で朝日に似ている。「太平洋戦争末期、沖縄には日本兵のための慰安所が置かれ、日本人や朝鮮人女性が集められた・・・」と事実関係として述べた上で、橋下発言を「過去の戦争を反省して平和を構築する、被害者の苦しみを受け止め語り継ぐという普遍的な価値観に完全に逆行するものだ。沖縄の置かれた現実に無神経・・・」と言う。センシティブな問題は触れないでおいた方がいいと暗に言っているようだ。









5月16日 読売
○読売とサンケイは、「河野談話の見直しが必要」との立場だから、朝・毎・東と微妙にトーンが違う。読売も稲田行革相の発言を引用して橋下を批判するが、一方で「戦時中の慰安婦の存在を『必要だった』と認めることは、逆に国際的にも誤解を広げることになる・・・」と橋下にひっかけて、河野談話見直しに主眼が置かれているかのような主張だ。サンケイは読売とまったく同じ構成で、稲田発言を引用して橋下批判をした上で、河野談話の見直しに重点を置いている。

○日経は、1981年の女性差別撤廃条約の「女性の人身売買と売春の防止」を持ち出した上で、国際関係の悪化を懸念した。いつものように「経済への影響」が何よりも心配な主張である。


5月15


5月16日 日経
















 橋下発言は確かに立場といい、タイミングといい、誤解を招く言い方といい褒められたことではないし、「国益」を損ね(と書いて、そもそも「国益」って何と突っ込むたくなるけど)、国際関係を悪化させ、女性の神経を逆なでしたことは確かだ。
しかし良識も教養もある新聞は、もうすこし冷静で落ち着いた言説があってもいいのではないか。非常にうがって見ると、新聞は橋下騒動を利用して、朝・毎・東は、怒る女性の代弁者となって、より読者を獲得しようという魂胆にも見えるし、読・サは、同様に女性の見方を標榜しながら、「河野談話の見直し」という日ごろの主張を繰り返したようにも思える。


ここ1週間ばかり新聞を見ていて、一番冷静で的確な指摘をしていたのは、先に書いた藤原帰一さんの一文だろう。(5月20日 時事小言「慰安婦問題 戦争の何を記憶するのか」朝日)
ちょっと長いが引用したい。
「長期にわたって広い地域で展開しただけに慰安婦制度について判断を下すのは難しい。だが、数多くの証言を虚偽だとしない限り、慰安婦を集める過程に全く強制がなかったという議論には無理があおるだろう。いわゆる河野談話が、根拠なしに韓国の主張を受け入れたものだという指摘にも賛成できない。さらに、慰安婦の経験は戦争にはつきものの性暴力の一つに過ぎないと考えるならば、慰安婦の人々が経験した暴力の実情に目をつぶることになってしまうと私は考える。
 無謀な戦争が海外で多くの人命を奪い、兵士を含む日本国民に甚大な犠牲を強いたことは事実である。それを語ることは自虐ではない。既に日本国民は戦争とそれに走る政治体制を過去のものとしたはずだ。過去の正当化によって現在の信用を失ってはならない。」

こうした冷静で正しい議論がなされない日本の「メディアって何?」
橋下もオカシイが、私には河野談話を見直しを目論む安倍晋三や、アジア太平洋戦争そのものを正当化しようとする石原慎太郎の方が罪深いし、危険だと思う。