2015年5月19日火曜日

使ってみました「キャタピラン」。意外な発見と効用

キャタピランを3足のランニングシューズと1足のビジネスシューズで使っている。以下は、その体験から感じる「長所と短所」と、意外な発見。

長所:これはキャタピラン自身が言う「ウリ」そのものだけど、とにかく走行による靴ひもの緩みは起きない。またそれぞれのパートで絞め方を調節できるのがよい。もちろんキャタピランのコブの間隔での調整になるが、その幅もよく考えられていると思う。

一度使うと手放せないスグレモノと言ってよい。開発者に敬意を表したい。発明と言ってもいいくらいだ。

短所1:セッティングに多少時間がかかる。また脱ぐ時もきちんとヒモをずらして脱ぐ必要があるので少し時間がかかる。まあこれはキャタピランを使う以上、致し方のないことなので短所と言ってはメーカーに失礼かもしれない。

短所2:寿命が短い。ゴムなので使っているうち伸びてきて調整が変わってくる。それだけコストもかかるということだけど、もちろんこの短所は、使用を止めるほどの理由にならない。

使ってみて気づいたのだが、面白いことに、フィットするシューズの方がキャタピランが長持ちする。

ASICSのシューズは、足底の形状が合わないだけでなく、足の厚みもあまりフィットしていなかった。キャタピランで調整すると、どうしても強く絞めることになる。
当然、ゴムが弛緩してきてしまう。

ところがNBのRC1100では、さほどきつく締めなくても、足がずれずにフィットする。だからキャタピランも長持ちする。つまりキャタピランの使用は、そのシューズが自分に合っているかどうかのメルクマールになっているのだ。
これは意外な発見だった。

●ビジネスシューズでの使用について。
仕事用の靴は、一度ROCKPORTを使うと、老人ランナーは、他の靴底の硬いものが履けなくなる。いまは、ほぼ
ROCKPORTの2足を交互に使っている。

一つはスリップオンだが、もう一つは紐靴だ。ヒモ靴は結構めんどうだ。いちいち締めるのは手間だし、かといって緩めて使っているとカカトが浮いて気持ち悪い。

そこでキャタピランの短い(50㎝)のブラックを使用した。
ビジネスシューズでもそうヘンには目立たないし、しかも脱着がラク。これはなかなかよい。

キャタピランの用途は広い。
今後、登山靴用のものも出てきてもいいのではないか。現在のものを使えなくはないだろうが、重登山靴となるとちょっと強度に不安もある。

トレイルラン用のシューズならまったく問題ないだろう。私が夏場、履いているスカルパの軽登山靴も悪くはないが、締める手間とどうかどう比較の問題だろう。

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ところで、ランナーの皆さん。『足』または『脚』の悩みはありませんか?。

走ることを初めておよそ5年。この間、アシの悩みは尽きない。
教科書通りということか、
最初は膝の外側のスジが痛み、その次は、足の甲の痛み。
そして足底腱膜炎は、痛みがなくなるまで8か月近くかかった。

多摩川(下流域がホームグラウンド)や皇居を快適そうに走っている老若男女を見ていると、この人たちの足指や爪は何ともないのか、ちょっと見せてもらいたくなく。

そう、一番の悩みは「爪」の破壊と、マメだ。
。
足指の形が一般的な日本人とは違い、薬指が異常に長い。
そのためなかなか合うランニングシューズがない。

①最初に買ったのは、初心者ランナー用のASICS「NEWYORK」だ。

最初に買ったシューズ。
あまり靴底は減らなかったので、
今はランニングからは「引退」させて、
車の運転や自転車の時に使っている。

通常靴は26㎝を履いているが、アートスポーツで進められたサイズは27㎝。これで半年ほど走った。しかし、しばらく走っていると27㎝でも薬指が当たりだした。

原因はいくつか考えられるが、靴ひもが緩み、足が靴の中で前に出てしまうことが一番大きいような気がしていた。しかしこのころはせいぜい5㎞か、目いっぱい走っても10㎞程度だったので、さほど苦にならず、あまりケアはしていなかった。

 このころはASICSが、自分の足に合わないとは、まだ認識していなかった。

②次に買ったのは同じASICSの「FEATHER FINE2」。少し型落ちして安くなっているのを買った。これは初めてハーフに出場するためで、NEWYORKでは少し重いと感じて買ったものだった。

しかしこれでも薬指の爪がやられてしまい、生え変わるまで8か月以上かかった。

③ 3足目。
またまたASICSの「SKYSENSOR-GRIDE」だ。結構軽く、アートスポーツではキロ5分前後の人用となていた。基本は{FEATHER FINE2」と同じコンセプトだった。しかしこれもまた、薬指が当たってしまった。

なんでこの時、またアシックスを買ってしまったか、今でも自分で不思議でたまらない。
普通に考えれば、アシックスで2度も爪をやられていたら、少なくとも違うメーカーを選ぶのが当たり前だろう。しかしアシックスを買ってしまった。

自己分析すれば、あまりにもランニングシューズの種類が多くて選べなかったということなのだろう。よく言われるように、人は選択肢が多すぎると結局、同じものをまた選んでしまうという心理。

人によってこの傾向に程度の差はあろうが、私は、結構これが強い、いわば『保守的』人間なのだろう。

コンビニで選ぶ昼食の弁当やサンドイッチ、洋服、などなど、思い返してみるとあれこれ迷った末に「いつもの」に落ち着いてしまう。このクセが、論理的はオカシイことは分かっていながらアシックスになってしまったのだ。(と、思う)



走り始めて、足の変化はいろいろ出てきた。左足の小指の付け根と親指の付け根の関節が外に膨らんできたので。これがスキー靴が当たる原因にもなってきて、いろいろ不都合なことになってきた。

半年ほど前、足底筋膜炎がなかなかよくならないのと、小指の付け根にできたふくらみ(軟骨というでしょうか?)が痛くて、普段の生活でも支障が出るほどになったので、慈恵会医科大学病院の「足の外科外来」に行った。外反母趾ではないという「診断」をもらった。

付けねのふくらみの痛みは、3か月ほどで「固まり」そう痛くはなくなった。つくずく人間のカラダって、適応能力が備わっていることに感心したものだ。


○4足目
NBの軽量。 トップランナー向きだけど、
私のようなC級ランナーでも十分使える。
ビクトリアお茶の水で、年配の小柄なランナー店員の方に進められたのが、ニューバランスの「RC1100」だ。これは片足285gと非常に軽い。上級者向け(キロ5分前半)だし、ソールもレース仕様でポチポチ(としか表現しようのない、小さなゴムの鋲になている)になっているので、とラーニングで履くのはもったいないような気もしたけど、これにした。


この時、店の人に勧められたのが、むしろサイズを落としてぴたりの方がいいということ。
26.5㎝にして、しかも2E幅を進められた。確かに締め付けがあり、履き心地の安定感はあるが、ちょっとキツイ気もした。しかしシロウトの悲しいところろ、言われるままに買ってしまった。

これで山形まるごとマラソンを走った。
しかしこのNEW BALANCE のシューズはなかなか良い。軽いこと。そして、少々きついがフィット感が自分の足には合っている。つま先の形状がしゃもじ形のためか、問題の薬指は当たらない。しかしレースを終えて、靴下を脱いだら左の親指が当たっていていた。トホホ。

紫色に変色した大きな爪。これが生え変わるには1年を要したように思う。しかも再生された爪はいまだに小さなもの。元の立派な爪にはなっていない。

ランニングによって手に入れた「心身の健康」の代償は、足爪の喪失という事態である。まあこれもしょうがないかな。

今、次に狙いを定めているのがアディダスのブースト系のシューズだ。夏の賞与で買うつもりだ。








2015年5月10日日曜日

山形・月山の異変。こんな5月は初めてだ。春スキーから異常気象と温暖化を考える。

2015年5月6日:姥ケ岳のピークから見た月山山頂(右奥)
日本海側(西側)にはほとんど雪がついていない
2015年5月6日。大型連休の最終日に、毎年の恒例になっている月山春スキーに出かけた。

朝6時過ぎに山形市を出て、山形自動車道をゆっくり西川町に向かい、自動車専用道路の終点から、昔のいわゆる六十里超えの道を月山に向かう。

しかし、何かいつもの年と比べてヘンだ。ふもとの弓張平のグラウンドのところにはほとんど雪がない。アレ、と思いつつ志津の集落まで進んでも雪がまばらにしか見えないのだ。

山形市から車を走らせながら遠くに月山を仰ぎ見た時は、そうした変化には気付かなかったが、近づいてみると、明らかに今年は雪が少ない。

2014年5月4日:月山山頂を臨む
この年も雪が少ないと感じたの
だけれど、更に少ないとは…。

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右の写真は、去年(2014年)の5月4日に撮影したもの。上の写真と撮影位置は異なるが、山頂への斜面の雪が明らかに違う。
感覚的には1か月アト(6月並み)の雪しか今年はなかった。
これが、たんなる、年による「違い」ならばいいけど・・・。
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さて、
志津の集落を過ぎ、つづら折の道の高度を上げていくと、いつもは両側に表れる、雪の壁もほとんどない。午前7時半前、姥沢の駐車場に着く。気温は、朝はやはり低い。けっこう凍えるほどで、しっかり防寒の準備をした。

2015年:リフトの下り場にある「月山」の看板。
周りの雪はスキーヤー用に運んできている。
山スキー(最近はバックカントリースキーというらしい)、シール、兼用靴(スキー靴と登山靴の兼用のブーツ)用の12本爪アイゼンを準備し、おにぎり2個とパンと500ccのお茶などを持ち、リフト乗り場までの300m余りに雪道をあるく。この辺は例年と変わらない雪の量に思えた。

8時から動くリフト。乗客としては2番目だった。前には中年男女の登山客のみ、スキーを持った者としては1番乗りだった。この時間のリフトおり場はまだまだ寒い。天気はいいが風が少し強い。

驚いたことにいつも一面雪に覆われているリフトおり場周辺に雪がないのだ。見慣れた看板もしっかり地面が出ている。スキー客のためにブルドーザーで運んできた雪で、雪道が作られている。
こんなことは30年近く月山に通っていて(毎年ではないが)、初めてのことだった。

2014年5月4日:山頂への斜面。
下に見えるのが姥ケ岳だ。
スキーをザックの両脇に着けて、ツボ足で、姥ケ岳まで直登した。20分ほどで到着。日本海が霞の向こうにかすかに見えた。見慣れた光景だが、何回見ても、すばらしい景色だ。好きな場所のひとつだ。

駐車場からの見えた月山の山頂方面だが、改めて目をやると、もう南斜面の上の方には雪がついていない。どう見ても1か月先の光景だ。これでは山頂を目指すスキーヤーはいないだろう。
(冒頭の写真が、その時の光景)

去年、ここに来たのは5月の4日。前日降雪があり、宿で気を付けてくださいとアドバイスをもらったくらいだった。この違いはなんなのだろう。

2015年:姥ケ岳から庄内平野と日本海を臨む。
普段はこちらの稜線は一面白なのだが・・・・。
降雪量は例年“並み”にあったように、感じていた。4月の気温が異常に高かったことが原因だろうか。全国的に高温が続く中で、山形でも大型連休前後から25度前後の気温になっていると天気予報で言っていたように思う。

山頂を目指すのはやめた。スキーをつけて、姥ケ岳をくだり、最近月山ではやりの「コブ」を練習することにする。まだスキーヤーもまばらだ。雪も比較的締まっている。浅いコブを選び、練習した。
気温はぐんぐん上がってきた。朝は寒く感じたのがウソのように、暑いほどだった。

1度少し休んで、リフト回数券7回分を滑り終えたのが11時半すぎ。持ってきたおにぎりはリフト小屋併設の食堂で豚汁を頼んで食べた。早めに帰ることにする。

駐車場から、志津集落まで滑って下りられる「清水コース」は4月30日に閉鎖されたと看板があった。
このコースは、ブナ林の中を滑って下る、非常に気持ちのいいところだ。車で上がってきてしまったので、もとより滑って降りる訳にはいかないが、連休中、このコースを楽しみにしていた人もいるだろうに。

2014年5月4日:月山の広い稜線にあがり、山頂はすぐそこ。
山小屋や社の埋まり具合からすると、まだ相当雪はあった。
以上は、今年はひとりで行った月山春スキーの記だけど、それにしてもこの異常気象は尋常ではない。あまりに高温が続くと、山形ではこれから田植えの季節、夏の高温障害などもあるのではないか。さくらんぼの生育も心配だ。


 農業についてはシロウトなので適当なことを言っているのかしれないが、例年と違うというのは、農家にとって神経つかうことだけは確かだろう。

簡単に言うと、春がなくて冬からいきなり夏になる感じ。これは東京でも感じているが、つまり温帯から亜熱帯に東日本もなりつつあるということではないか。
2015年:ふもとの弓張平。例年に比べこの時期としていは、
極端に雪が少ない。桜が咲いていた。
(奥にかすかに月山が見える)

高知に2年ほど暮らして、冬からいきなり夏の感覚は経験している。5月に引っ越して、子どもが幼稚園に行く時にはすでに夏服の季節だった。そして6月に入るとすぐ「プール遊び」が始まったように記憶している。

 こうした気象状態がじわじわ北上し、日本列島全体が亜熱帯になることも絵空事ではないだろう。現実に月山の雪から感じているのだ。いずれ月山の春スキーなんているものもなくなってしまうかもしれない。

わたしたちはこの異常気象を止められないか。
先日のニュースで地球の二酸化炭素の濃度が過去最高になったと伝えていた。↓



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150507-00000029-jij_afp-env
世界の大気中CO2濃度、月平均で最高値更新 米NOAA
AFP=時事 5月7日(木)13時52分配信

生きる世の中にさまざまなリスクがある。もちろん原発も「大きな」リスクに違いない。しかし地球温暖化は、ひとつの側面から見れば、更に大きな「リスク」なのではないか。温暖化による異常気象で起きる災害死、砂漠化による干ばつで起きる飢餓。

ひとつのことに目を向けて「危険」「やめるべき」という主張は、それ自体は正しいかもしれないが、『全体最適』として見た場合は、また違った見方が出てくる。

原発はないに越したことはない。この考えに同意するが、人類がエネルギーの欲望から逃れられない中で、リスクを除去する方法のひとつとして原発はハナから排除する考えには同意できない。もう少し深く考える必要がある。

5月の月山の、あの雪とブナ林のすがすがしさを、子どもだけでなく、その次の世代にも末永く味あわせてあげたいから。

今年は“残念ながら”単独行となった。
愚息は「受験勉強」

2013年5月5日の月山(姥沢の駐車場から)
右奥のちょっと見えているのが月山主峰
雪の量が今年とまったく違うのが分かる













2015年4月27日月曜日

ランナーの味方、EPSONの「リスタブルGPS」は、なかなかの優れものだ

『エプソン リスタブルジーピーエス』EPSON Wristable GPS 腕時計 SF-110Bを
購入した。
これまでランニングに使用していたユピテルのランナーズコンピュータを、うかつにも
ランニングに出ようと玄関で準備をしている時、踏んづけてしまい、液晶部分が壊れて表示しなくなってしまった。
メーカーに電話で相談すると、最低ても6,000円はかかると言われ、購入価格が9,000円前後だったので、修理をあきらめて、EPSONの腕時計式を買ってしまった。(エヘヘだよね)

ユピテルの「ランナーズ・・・」は、購入当時は、それはそれでなかなかのものだった。GPSの感度はあまりよくはなかったけれど、ランニング後、Google Mapに軌跡を出せるし、走教距離や時間、キロ何分、休止している時間も出せた。
役割を終えたということか。ご苦労様


腕時計型のGPSは、当時はSUNTOなど外国製の高価なものしかなかったように記憶しているので、1万円を切る価格でランニングをサポートしてくれるのはうれしかった。

外を走る時には原則これをつけて記録してきた。記録もweb上でできた。
だから愛着もあり、できれば使い続けたかった。

しかし、上記の理由でEPSONにしたら、こちらは、優れものだった。まだ1回しか使っていないけど、早くも、ユピテルは忘れさってしまうほどだ。人間ってゲンキンなものですよね。

EPSONのこのシリーズは最高機種の810(3万円台後半)から、今回購入した廉価版(消費税込みで2万円前後)まで何種類かある。

心拍数まではとれないが、走りながらラップも表示されるし、もちろん走行後、パソコンで記録を保存できる。
この「110b」は、シリーズの最後発だが、私のようなランナーには十分な機能だ。
何よりも軽いことに驚いた。

登山もやるので普段時計は「PRO-TRECK」を使っているが、この重さと比べたら、ウソみたいに軽い。もちろん時計としても使える(ただし、秒針はナシ。ストップウォッチ機能もない)から、
普段使いでもよい。活動量計もこの機種と最上位機種にはついている。

私はEPSONの回しものでも広告宣伝費をもらっている訳でもないけど、いいものはいいと記したい。

ただし一つだけ難があった。リストバンドが意外と短いのだ。これはなるべく軽くしようと腕が「太っている」人でもギリギリ着装せきるように考えられているのだろう。しかし私は汗対策に両腕にテニス用のリストバンドを着けて走る。その上からはめると腕の細い私でもギリギリの長さだった。
まあそれはそれでいいんだけと、もう少し余裕があった方が良かったかもね。

聖書でも言っている「汝自身を知れ」と。
このEPSONのマシンを着けて走ると、自分の1キロのラップが非常にわかりやすく、ペースをつかみやすい。これからフルに挑戦しようとする者にとっては強い味方だ。

ただ、印象として、ラップはいくぶん「遅め」に出るような気がする。帰ってから全走行距離からの平均ラップを見ると、走っていた時のラップから考えると速かった。

具体的には、毎キロ、5分9秒~15秒で出ていて、多摩川河川敷に行くまでの往路と河川敷から家までの登りは6分台の時間がかかっていたと思われるのに、平均では5分10秒と出た。こんなに早かったけ・・・と、ちょっと嬉しはあったが、少し疑問でもあった。





「反知性主義」のアメリカ、あれこれ



●アメリカの反知性主義 単行本 – 2003/12/19
  リチャード・ホーフスタッター (著), 
  田村 哲夫 (翻訳) 

この本を手にしたのは、もう10年近く前になる。
どこかの新聞の書評で読み、図書館で借りてきた。

しかし、分厚くかつ翻訳本のために、読むのに苦労した。そのうち返却期限が来たので、途中で投げ出した、ことを「覚えている」

 恥を忍んで正直に言うと、この時、アメリカに「反知性主義」という概念があることを初めて知った。

Amazonの紹介によると
「知識人とは何か、知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのかと問いつづけ、アメリカの知的伝統とは何かを問う、感動のノンフィクションであり、アメリカ史の古典。」

「1952年、マッカーシー旋風の吹き荒れるなかで行なわれた大統領選挙は、『知性』」と『俗物』」が対立する図式となった。そして後者、すなわちアイゼンハワー=ニクソン・コンビが圧勝し、知識人も批判派も「アメリカ社会が知識人を否認した」ことを理解した」

「――『知識人階級と大衆のあいだに巨大で不健全な断絶があることが明白になった』(『タイム』)、
「知識人は今後、所得税から真珠湾攻撃まで、あらゆることの罪を背負わされるだろう」(シュレジンジャー二世)。

「しかし著者の意図は、アメリカの精神風土をもっぱら批判断罪することではなく、知識人とは何か、知識人は民主主義の実現に貢献する力になれるのかと問いつづけて止まない。読者には、アメリカの知的伝統とは何かを逆に問う、著者の熱い思いが伝わるだろう。

感動のノンフィクションであり、アメリカ史の古典である。」と、ある。

●余談1
この書籍の翻訳者・田村哲夫は、確か渋谷教育学園の理事長だ。同学園の渋谷(通称:渋渋)や幕張にある、「渋幕」は、首都圏ではちょっと有名な、新鋭の進学校。英語教育にものすごく力を入れ、東大入学者増やしている。一度、渋谷公会堂で行われた渋渋の学校説明会に行ったことがあtる。田村の自信に満ちた物言いが結構ハナについた。公会堂の前には大きな黒塗りの車が待っていた。むかし単なる「渋谷女子高」だった学校法人を有数の進学校に育てた功績は大きいのだろうが、長く理事長を務め、王様の雰囲気だった。


さて、横道の逸れすぎたけど
ちょうどあのころ(あの頃とは80年代ということ)、アメリカの人気牧師の衛星中継を使った説教や布教活動が盛んだと、テレビのニュース企画でたびたびやっていた。そして、ダーウィンの進化論を否定する人たちが少なからずいることも、盛んに報道していた。

アメリカに、本格的に興味を持ったは、実はもっと以前のことだ。。


本多勝一の「アメリカ合州国」を読んだのは、随分前だ。高校時代だったように思う。
アマゾンで調べると、単行本の出版が1970年になっている。このブログに載せたのは文庫本だが、単行本で読んだ。中味は忘れてしまったが、アメリカの一断面をうまく切り出したルポだったと記憶している。









そして、ずいぶん時代は先に進むが、渡辺 靖さんの一連の著書はほとんど読んだ。

●アフター・アメリカ―ボストニアンの軌跡と<文化の政治学>  2004/5/15
●アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所 – 2007/11
●アメリカン・センター―アメリカの国際文化戦略 単行本 – 2008/5/27
●アメリカン・デモクラシーの逆説  2010/10/21
●文化と外交 - パブリック・ディプロマシーの時代  2011/10/22



















渡辺さんの著作は、別にアメリカの「反知性主義」を語ったものではない。読みやすい文体で書かれた、すぐれたルポと考察だ。清濁いろいろあるであろうボストンに憧れた。

なかなか面白い
まったく毛色は違うが、「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」も、なかなか興味深い書籍だった。

記憶の範囲で書くと、「多くのアメリカ人は一生自分の生まれた州を出たことがない」など、大衆としてのアメリカ人のローカルさがルポされていた。
数年前の「1%対99%」騒ぎでも、思ったけど、グローバルに活躍すのは、ごく限られた人だということだ。まあ「活躍」の中味はいろいろあろうが・・・。









どんどん、横道の逸れる。
で、最近の書評に出ている。
反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書) 森本 あんり  (著)
まだ手にとっていないが、興味を魅かれる書籍だ。



アメリカ人の「反知性主義」について、書いてみようとこの項を立ち上げたけど、書いても、書くべきことが湧いてこなかった。

自分の「反知性」をさらけ出しただけのブログになってしまった。
しょうがないから、内田樹さん編の最近話題の書籍も読んで
自分の中の「反知性主義」について、反省しよう。
















2015年4月17日金曜日

「考える」とはどういうことか。「0(ゼロ)ベース思考」書評をきっかけに考える。


週刊ダイヤモンドの書評欄によると、「0(ゼロ)ベース思考」(スティーブン・レヴィット・シカゴ大学経済学部教授)が売れているらしい。

創造的な考え方をするには「週に1、2度考えるようにすればいい」という。多くの人は自分はモノを考えていると思い込んでいるが、実際はじっくりモノを考える機会事態、ほとんど持っていない、という。

著者がアイデアを得るためにしていることは2つ。
毎日の生活の中で、あらゆる物事に対して、「それは筋が通っているか」を考えること。
もひとつは、「普段と違うことをする」ということだという。

あと、「死前検証」をあげている。これは、もしプロジェクトが失敗するとしたら、どういう理由で失敗すると思うか、事前に考えるということらしい。

どの程度「お役立ち情報」なのか分からないが、書評を読んで、それ以上、わざわざ時間を使って読もうという気にはならなかった。

ただ、「立ち止まって考える」ことの重要さは、常に心に留めておくことが大事なのは再認識させられた。 

●「考える」ことについて「考える」

哲学的思索をしようという訳ではない。単純に「考える」とは、身体はどういう状態か、ちょっとさわってみたい。

 かねがね思っているのは、人は(もちろん動物も)、2つのことを同時にはできないということである。この「2つのこと」とは、考える行為についてである。少なくとも“同時にはできない”という認識を常に持っていることが、実は極めて重要な「謙虚な姿」なのではないだろうか。

「考える」とは、アタマの中に、余計なインプットをしない状態が必要だ。もしくは無意識に、そのインプットを遮断している状態がなければいけない。
 
 車を運転している時、アタマと身体は「運転」という複雑な行動を一体のものとして、駆動させている。前を見ながら、時々バックミラーで後ろも確認し、ハンドルを微妙に操作しながら道なりに車の方向性を決め、アクセルを加減しながらスピードが適正になるようしている。

 当たり前のようなことだが、それこそ“考えて”みると、結構複雑なことを一度にやっている。でもそれは車を安全に移動させるというひとつの目的のための一連の思考と身体的動きだ。

 この時、実はカーステレオ(っていう言い方は古いかな)から流れる音楽は、正確に言うと「聞いて」はいない。ただ耳の中に音が入ってきているだけだ。それは、例えば混雑しな高速道路で追い越しなどのより複雑な行動を起こした時に気が付くだろう。

一瞬、あることに真剣になった時は、他のことは無意識に切り捨てられている。反射神経の範疇で行えることは別なのかもしれないが、そうでない複雑なことは、2つ同時はできないのだ。

 クラシックのコンサートで生の音楽を聴きながら本を読んでいる人はいない。(いるかもしれないけど、まあ一般的に)。それは本を読んでいる時の音楽は、まさにBGMであって、真剣に聞くための音楽ではないから。本を読んでいる時は、その馴染みの音楽の旋律の心地よさは聞こえてくるが、微妙な、繊細な部分は入ってこない。だから、
 わざわざおカネを払ってコンサートに足を運んだ人は、そこで本を読みながら音楽を聴くことはしない。いや、できないのだ。当たり前だけど。

なぜ、こんなことを長々書いたか。それは「考える」ことをしない人が増えていると感じるからだ。

 いささか古い新書だけど、京都大霊長類研究所の正高信男さんの本をあげておく。
①:『ケイタイを持ったサル~「人間らしさ」の崩壊」』(2003年)、
②:『考えないヒト~ケータイ依存で退化した日本人』(2005年)

実はケイタイを持ったサルを読んだ覚えがあるだけで、今回この論考を書くにあたってアマゾンで検索したら②も出てきた。

 当時、携帯電話が普及し始めたころ。正高さんは、女子大生などの携帯依存に対して、そうとうアタマに来ていたようで、内容についてはもう忘れてしまったけれど、文章からその怒りだけはヒシヒシと伝わってきたことだけは覚えている。

②はまさに、今回の論考のテーマそのものだ。今度、立ち読みしてみよう。まだ絶版でなければ。

で、携帯電話がスマホにとって代わっただけで、「考えないヒト」は相変わらず多い。いや多いだけではなく日々増殖している、と感じてしまうのは、私(と、正高さん)だけだろうか。

 車内や駅構内で常にスマホをいじっている輩は、それがネットサーフィンであれ、ゲームであれ、アタマには、さまざまな情報がインプットされている状態だ。
インプット時には、「考える」ことはされていない。
かくして、スマホが便利になればなるほど、それが手放せなくなり、「考えるヒト」は減っていく。

「0ベース・・・・」が指摘するように、「考える」ことをしていると思っているビジネスマンなどの中産階級でも、実は「考える機会を持っていない」というのだから、そうでない人々はなおさらだ。


 いまさら書くほどのことではないが、考えない人はどう行動するのか。印象やイメージ、単純は発想で、モノゴトは判断し、それが「正しい」と思ってしまう。

選挙の投票行動にはそれが顕著に表れる。だから候補者もイメージ選挙を展開する。もっと言えば、人気取り。ポピュリズムだ。そういえば「政治はすべてポピュリズム」とかいう新書もあったな。

世の中に「考えない」人が増えると、テレビも新聞も、政治も、すべてのモノが「考えない人」を前提に作られる。書籍も、考えないで済む、カンタンなものが増えている。

「親切な作り」「丁寧な説明」「納得いくように」などの言葉が世の中にあふれている。考えないヒトのために。

考えるにはそれなりの時間が必要だ。いうわゆるアタマのイイ人、アタマの回転がいい人は、瞬時にものを考え判断しているようだけど、決してそれだけではないだろう。普段からさまざまなことについて考えをまとめているから、ある時に、即座に判断できるのだ。

このことを、考えないヒトは勘違いして、考えていないのに、自分は考えているという錯覚を持って、モノゴトを判断する。それはあまりにも安易で危険だということに気づいていない。

古市憲寿さんだったか、だれだか忘れたけど、沖縄基地移転問題にしろ、集団的自衛権にしろ、これがいいか悪いか、考えれば考えるほど、本当は「わからない」という答えが多くなって当然なのに、(単純に)イイ、ワルイということが世論調査で出てくるのが、不思議だという。
考えることなしに単純な思考で価値判断することを、世の中は奨励しているようだ。


では「考える」にはどうしたらいいのか。

「書くことは考えることである」というのは、確か、小林の「考えるヒント」だったけ。
内田樹さんも同様のことを繰り返し述べている。まず「書きたいこと」が事前にあって、書くのではなく、書いているうちに、考えがまとまり、書くべきことが「発見」されると。

書くことでアウトプットし、考える。
もうひとつが、「ぼんやりすること」なのかもしれない。
4月15日のNHK「あさイチ」で、やっていた。

http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2015/04/15/01.html

これは「考える」こととちょっと違うのかもしれないけど。
「考える」ことを考えると、いろいろ「考え」が出てきて、短い文章ではまとめきれなくなってしまった。
支離滅裂な文章だけど。
これが自分の「ヘタの考え休むに似たり」なんだろう。自戒自省を込めて。






2015年3月30日月曜日

ランニング「向かい風」考。iPS細胞山中教授から学ぶ。

ネットより「引用」
今年の京都マラソンをサブ4で完走した、iPS細胞の山中伸哉教授が、BS1の「ランスマ」という番組でインタビューで興味深いいことを言っていた。(もう1か月も前の放送だけど)

いつも鴨川を走ってトレーニングしている山中教授は、
・河川敷を往復すると行きか帰りのどちらかが必ず向かい風になる。
・追い風の時は、それが追い風とは分からない。自分の調子がいい、快適に走れると思ってしまう
・向かい風はすぐ身体に感じる。(それは皆そうだけと)。風に抗って走るのはたいへん。だけど帰りは追い風になる。

というような主旨で言っていた。

追い風の時は、それが追い風とは気が付かない。または気が付きにくいということを「自覚」するのは、簡単なようでなかなか難しい。
山中教授は、自らの研究生活を重ね合せて言っていたのだろう。

 ちょっとは走る者として、大事なことに示唆を与えてくれたと思う。わが練習場・多摩川でも、もちろん追い風もあれば向かい風もある。
 山中さんが言うとおり、向かい風にぶち当たった時に、その風を恨みながらハアハア言いながら走るが、追い風は「ああ、追い風を受けて快適だ」などとは思わない。調子よく進むな、くらいにしか思わないのだ。そういうものなのだ。ランニングは。


 高度成長期、多くの企業が成長・発展しカイシャを大きくした。まだ、この時期やバブル期には、カネが余った公的機関がハコ物を多く建てた。しかしそれが「追い風」の中だから出来たとは、当時の当事者たちは気が付かなかった。

 ダイエーは、拡大路線を取り続けて結局破綻した。堤義明の西武・国土計画Gも、リゾート開発にまい進し、結局立ち行かなくなった。堤清二のセゾングループもそうだろう。

 彼らはみな、当時、日本を代表する「経営者」としてメディアに持ち上げられた。しかし終わってみれば、それは単に「追い風」に「押されて」スピードを上げていたにすぎなかったのだ。

逆風になった時、持ちこたえる体力はなかったし、追い風に支えられた「過去の成功体験」が忘れられず、逆風に対応する術を持っていなかったのだ。

大塚家具の「お家騒動」の報道で、創業者・父親のおバカぶりを見ていても同様だ。

人生はいつも「逆風」だと思って前に進まないと、STAP細胞のようなことになるし、自ら築いたものを失うことになる。
結構、大きな教訓だ。ランニングでも研究でも経営でも、フツーの仕事でも同じことだ。つい忘れてしまうから、あえて書くことで記憶にとどめておいた。それだけです。

やっぱり山中さんは、すごい人なのだ。己を知っているし、己が置かれている状況を常に正確に、そして誠実に受け止めて前に進めることができる人なのだ。

サブ4を目指そう。己をの限界を知るために。



2015年3月26日木曜日

「図書館はタダ」で、いいのだろうか


新潮45の2015年2月号の特集は
「『出版文化』こそ国の根幹である」だ。

この特集の中に、「図書館」批判の論文がいくつか出てくる。

●図書館の“錦の御旗”が出版社を潰す/石井昻

を興味深く読んだ。

図書館のありかたについて、再度、少し考えてみたい。
これまで「大田区区立図書館とのバトル」で少し触れてきたが、
石井氏の主張には、出版社の言い分として傾聴に値するものがる。

言っていることは、きわめて明瞭だ。
「本を1冊作るのには大変な労力が必要であり、それ自体は赤字。出版社はヒットした書籍の重版で、かろうじて持っている。
だから新刊本を貸し出すのはやめてほしい。せめて半年猶予がほしい」というものだ。

 形ある物を作り出すのは、どんなものでも、それなりの労力がいる。創作料理でも、テレビ番組でも、また家ひとつでもそうだろう。しかし私たちは、出来た結果しか普段は目にしないから、そこまでの道程でどんな人々の創意工夫と努力があったなどとはあまり想像できない。いや、「しない」のだ。

 それは、『消費社会』のメンタリティーそのものであろう。イイ物が安価にお金を出せば買える時代。それはそれで「良いこと」だが、そのためにわれわれはすべてのものが、安価、もしくは安易に買えるものだと錯覚してしまう。結婚相手だって、アプローチしたり、振られたり、さまざま努力して得なくても、お金を出して結婚斡旋会社に「ベストマッチ」を探してもらえば手に入れられる時代だ。
だから、多くの人が錯覚を持ってしまうのも止むを得ないかもしれない。

 ユニクロのヒートテックが開発されるまで、関係者のさまざまな探究心と苦労があったかもしれない。しかし大量に作って売ることで、そのコストは回収できるので、この会社は、作るのが大変だったんだヨなんて、あまり主張しない。着る方も1,000円以下で快適に着ている。

だから「良書」もそんなもんと思ってしまうのか。
でも、それでいいの?と石井氏は問いかけているのである。読みやすい新書ならば、2時間もあれば読み終わってしまう。皮肉なことに「良書」ほど、スラスラ読めるから読書時間が少なくて済む。
(反対にウッカリ「悪書」を読み始めると、なかなかページが進まないので時間がかかったりする。(まあそれも楽しみであるけれど)

石井氏の主張は、ひとつの書籍を生み出す苦労話ではない。モノを生み出す手間ヒマを素直に記してくれたと思う。読む方も、こうした制作者に創造力を働かせる必要があるだろう。

貧乏人は本を読むなと言っている訳ではない。ベストセラー本を大量に図書館が購入するのは、如何なものかと、疑問を呈しているのである。その主張に私は同意する。

でないと、出版社はどんどん「単に売れる本」ばかりに傾斜していってしまうだろう。それでなくても、新書はいささか粗製乱造気味なんだから。



一方図書館はいまどういう状況か。
 これは何度も記してきたが、住民への「サービス向上」である。多くの自治体で図書館業務が委託や指摘管理者に「下請け」されている中で、入館者数や貸し出し冊数は、「サービス」のひとつの指標となっているだろう。だから、多くの人に貸し出されるようベストセラーをいち早く多く取りそろえる。それが「指定管理者の生きる道」だ。

自治体経営者(首長)は、「お役所批判」を極力避けるように行動することが構造化されている。
「お役所は非効率」「税金の無駄遣い」との批判されるのを一番恐れる。次の選挙を考えると、「お役所仕事を一掃しました」と言いたい。
だから「民間並みのサービス」をすることが一番とされているのだろう。

私の知る限り、いま平日、日中の図書館は、リタイア人、ヒマを持て余す人の憩いの場だ。

よく利用する都心・港区のある図書館に、開館時間の9時を少し過ぎたろに行くと、新聞・雑誌コーナーに陣取っている大半の人は、いわゆる「お年寄り」。そして時々、近くに「棲む」ホームレスらしき人もいる。

住まいの近くの都内住宅地の某図書館も、似たようなものだ。
新聞コーナーはいつ同じ顔ぶれの人に占領されている。

行き場所のない人に夏は冷房、冬は暖房のよく効いた場所と読み物をダタで提供してくれる、こんないいところはない。

何もこれが悪いという言っているのではない。平日働いている者にも、もう少し使い勝手のいい図書館になってほしいということだ。せめて閉館時間をせめてもう少し遅くする。年末年始も、閲覧のみでいいから開館する。それが納税者へのサービスなんじゃないかな。

売れる本を買い漁って、出版社を苦しめるのが公立図書館の役割ではないだろうに。

図書館の役割を考えることは、出版社の社会的役割を考えることであり、それは大きくいえば、われわれの生きている社会の『文化』を考えることでもある。出版社を「向こう」(すなわち、“売れる”大衆的読み物ばかり出す組織)に追いやらないためにも、読者の側も、守っていく「心遣い」が必要だろう。
 もちろん出版社も私企業であり、石井氏も書いていたように「高給批判」もある中で、程度問題ということもあるが、ルールは確立されてもいい。

 再販制度の問題は古くて新しい課題だろうが、いまのところ、この制度が「自由な経済活動を著しく妨げている」問題とは思えない。性急な制度改革をする緊急度がテーマではないだろう。

ただ、「消費税の軽減税率の適用」には反対である。(新聞社が主張しているが、出版社が主張しているかどうかは知らないけど)。
これは税制全体の問題であり、税の軽減という形で「保護」するのは、まったくオカと違いだ。税はあくまで「公平」であるべきだ。(別項「消費税は最も公平な税制」で記したことを、再度考えてみたい)

※「出版文化」こそ国の根幹である、という通しタイトルにはちょっと違和感。別に国を守るために、出版文化があるわけではないだろう。国などという「再帰的」なものはどうでもいい。共通した言語で文化活動をしている「わたしの生きている“社会”」が大切なのだから。まあ、どうでもいいけど。




2015年3月9日月曜日

「LEKI」のストックの“危険性”

LEKI トリガーシステム(netより「引用」
スキーをしない人にはまったく関係ない話。

ストックメーカーにLEKIがある。ここのストックの一部は、利便性を高める構造的工夫がなされている。すなわち、ストックの手持ちのところにはフックの留め金のようなものがある。一方、このストック専用のスキーグローブには、親指と人差し指の間に、フックがあり、ストックと連結できるようになっている。
従来のストックのように、手首にストックのバンドをまいて、それと一緒にグリップを握る方式にくれべ、煩わしさがなく、かつ、ストックと手が連結できるものだ。
http://snow.gnavi.co.jp/tokushu/leki/

LEKIのホームページによると、これは「トリガーシステム」と言って、「安全・快適・操作性」を売りにしている。確かに、従来の伝統的なストックのストラップに比べて、快適で操作性もいいかもしれない。安全性については「一定の力が加わると外れる」となっている。

息子がこのストックと専用グローブを昨シーズンから使っている。しかしここに、落とし穴があった。
普通に滑っている時には何の問題もなく、快適だ。ただ、転倒した際にリスクが潜んでいた。

ストックと手が密着しすぎているため、転倒して手を雪面につく際、ストックが離れず、思わず開いた手の平で、親指が圧迫されてしまったのだ。去年3月、八方尾根スキー場のリーゼンコースで転倒し、右手の親指を骨折した。
 この時は、ストックにリスクがあると考えもしなかったが、今シーズン、まったく同じ箇所を同じように転倒して、再び骨折したのだった。本人から、ストックが密着しているので、親指がストックの下になって圧迫されたと言っていた。

 「安全に外れる」ためには、力の加わる方向などに制約もあるようで、必ずしもメーカーの説明通りにはならないということだ。

 雪がふわふわの新雪ならば、クッションになってそほど問題にならないだろうが、前回も今回も、雪が硬くアイスバーン状だったことが、けがにつながった。(アイスバーンだから転びやすいという問題もあった)
基本的に本人の注意不足ではあるが、ストックの構造にも、ケガの一因があったことは記しておき、スキーヤーに注意を促したい。

 何事も便利なものにはリスクもあるということを忘れてはなるまい。伝統的なストックの形状はそれなりに「意味」があったということだ。ちなみに私は昔ながらのグリップを使用している。

2015年3月4日水曜日

東急電鉄という体質③ 「マナー対策」考

東急電鉄発行の冊子を「引用」
  「東急電鉄という体質」という論考は、過去ブログを見てみると、2011年7月以来だ。

 今回は「マナー対策」を考えてみたい。
 どこので鉄道会社でもそうだろうが、マナーの悪い乗客対策には頭を悩ましていることだろう。おそらく苦情が一番多いのではないか。私自身もしばしば「アタマにくる」ことがある。(まあ、かといって鉄道会社のお客様相談室に電話をかけてみても事態が変わることはないので、行動は起こさないが)。

 鉄道会社の対策で一番優先順位が高いのは、言うまでもなく「人身事故対策」だ。これで列車が遅れると、振替輸送などの経費がかかるし、ラッシュ時であれば混乱もする。だから、山手線も、私鉄も、「お客様の安全のために」ホームドアの設置を進めている。
これが整えば、経費のかかる人身事故が減るだけでなく、朝夕のラッシュ時に駅員や警備員を配置する人件費を削減できる。どの会社も費用対効果を見据えながら設置を進めている。それはそれでいい。

  では「マナー対策」はどうか。冒頭に書いたように苦情が多いので、何等かの対策を講じる必要性は感じているのだろう。
啓蒙のポスターも毎年のように更新されている。

 半年ほど前に東急線の駅に置かれるようになったのが、この「マナー&安全ブック」である。A6版のコンパクトなもので、中味もソフトな語り口ながらストレートな「マナーの呼びかけ」になっていて、よくできていると思う。マナー対策に力を入れてますよ、というアピールにはなっている。

東急「マナー&安全ブック」より“引用”


 しかし、ここに(東急電鉄に限らず)大きな組織の陥穽を見た気がした。

 ここからは推測が入るが、おそらくこの冊子を作成したのは、本社の広報などの部門だろう。苦情が多いマナーについて、「お客様」相談室などの要請を受け、ポスターだけでは周知が不十分だからと予算をつけて作りあげた。そして各駅の窓口などに配備し、乗客にマナー向上を呼び掛けたのだ。

 このことに何ら業務上の瑕疵はないし、担当者は一仕事やったと思ったことだろう。
 しかしその効果があるかというと疑問だ。もともマナーの悪い「民度の低い」人々は、こんな冊子を手にとって見るという行動にはでない。イヤホンをしてスマホを握りしめて夢中になっている輩に対して、ほとんど冊子を読んでくれという要求は、無意味だ。
実際、私の使う駅では、いまも窓口に置かれていて、あまり減ったようには見えない。


マナー対策で一番効果がありそうなのは、毎日、車内で呼びかけることだ。「足を組んだり、投げ出さないでください」「ドア付近は広く開けて下さい」「歩きスマホは他のお客様の迷惑になります」と。ひつこいくらい、繰り返すことでしか、民度の低い人々の意識は変わらない。

しかし、そうした呼びかけは、時々思い出したように、しかもマニュアル通りにしされているに過ぎない。これが現実だ。なぜか。

 車両運行の現場部門にとって、一番大事なのは、安全運行・定時運行だ。日々車両を動かしたり、車掌業務に就いている方々にとって、事故が起きないことと時間に遅れないことに心血を注いでいる。だから、車内のマナー対策のためにアナウンスすることなど、余裕がある時にしかできないし、そのことが運行の現場で「評価」の対象にもなっていないだろう。
 車内での呼びかけが時々行われるのは、おそらく、運行マニュアルにやるように書いてあるからだろうが、安全や定時運行をおろそかにしてまで行うという「業務」ではない。

 だから日常的な呼びかけは行われないし、マナーの悪い乗客は減らない。広報部門も運行の現場で一番大事なのは安全と定時だということは当然分かっているので、「もっと呼びかけろ」とは言えない。だからせめてという思いで「冊子」を作った。

それぞれの部門にとって一番大事なことは違う。大組織になればなるほど、各々の連携が難しくなる。みな使命感を持って鉄道運行に関わっているのだが、「マナー対策」に関して言えば、事態はよくならない。「合成の誤謬」とは、まさにこういうことではないか。難しい問題ですね。

これは何も「東急電鉄の体質」でなく、多くの大組織に言えることだが、とりあえず身近な事例として考えてみた。私にとって、車内でマナーの悪い乗客を見るのが日常で一番ストレスがたまることだから。


東急「マナー&安全ブック」より“引用”

東急「マナー&安全ブック」より“引用”

東急「マナー&安全ブック」より“引用”

2015年3月2日月曜日

原因論ではなく、目的論から「川崎中1男子殺害」を考える

3月1日の現場

 ●3月1日、午前9時半ごろの「現場」テレビ局は5社来ていた。その他スチールカメラも数人。花束の輪の正面からカメラを構え、手を合わせる人の「いいショット」をとろうとして、いつまでも動かない。カメラマンにとってそれは「お仕事」なのだろうが、あまりいい気分ではなかった。








●六郷橋付近から見た多摩川の河口方向。現場は右の2つの高層マンションの向こう側だ。
真新しいマンションから数百メートル進むと現場はある。味の素の工場の間にあたる。工場とマンションのギャップが、この土地の置かれた状況を物語っているようだった。









●土手の上から見た様子。
  現場は支流?の河口のようになっていて、
多摩川の本流からは少しヘコんでいて、河 原 を歩いていても見つけられない。進んでいくとふいに、現場が現れる。前は工場の敷地で、すぐそばのマンションからも死角になっている。






川崎の中1男子殺害事件は世間に大きな衝撃を与え、連日報道が盛んだ。
民放テレビのワイドショーも、逮捕された18歳と17歳の“少年”の「心の闇」をいろいろ言い立てている。ネットには顔や家族の写真も堂々と載っている(らしい)。

 いつもこの手の事件が起きるとメディアは 「なぜ、殺人に至ったのか」という原因を探る方向に向かう。しかしアドラー心理学に従えば、原因ではなく目的を考える方が、この事件を正しく見るのに有効なのではないか。
 
 ある意味で、原因は割と単純だ。
 飲酒して理性の掛け金が外れた少年が、集団心理の中で、際限のないイジメをエスカレートさせた。ということなのだと推察される。それ以外に「原因」を見出すことは難しいように思われる。どこかの犯罪心理学か少年心理の「専門家」も発言していた、少年事件としてはわりと典型的なケースだと。「チクられたことの逆恨み」と、新聞も見出しを付けた。

 言うまでもないが、逆恨みする人のすべてが、凶行に及ぶ訳ではない。だから、「原因」をいくら探っても、またその原因が正しく言い当てられていたとしても、それは何の役にもたたない。

 では、彼の「目的」から考えると、どういうことなのか。
 主犯とされる少年は、自らの権威を集団の仲間に見せつけることだったのではないか。集団のリーダーであり続けるためには、常に力を誇示しなければならない。
 事件の1週間前に別のグループから、中1男子に万引きを強要したり、それを拒否すると暴力を振るったことを咎められた。その場にはおそらく他の仲間もいたのだろう。主犯格の少年の権威は著しく落とされたち違いない。
 
 平たく言えば、「仲間(もしくは手下)の前で恥をかかされた」と思ったのだ。この状態をそのままにしておくと、自分はグループの長でいられなくなると思っても不思議はない。それは無意識(フロイト的に言えば「前意識」)にそういう心理が働いた。
 「何とか自分のリーダーとしての権威を取り戻したい」。主犯格の少年は、皆に恐れられる存在としての地位を失いたくなかった。だから自分の「強さ」を見せつけた。お酒の力も手伝って、「決行」してしまった。


 「目的」も「原因」も、同じようなものかもしれない。しかし原因をいくら探っても、「再発防止」にはならないような気がする。だって人を恨む輩は、世の中にあまたいるだろうが、全員が、「仕返し」をする訳ではない。原因を探って、それを除去することが「解決策」になるとは限らない。

 だとすれば、どうすることが再発を防げるのか。目的が「自らの威厳(もしくは権威)を保つため」だったとすれば、そうした行為が(宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の言葉を借りれば)「つまらないからやめろ」と言うことだろう。自らに権威があろうとなかろうと、どうでもいい、虚勢を張るのはバカバカしいと。フラットな自分になってみろと。

 しかし世の中は全く逆だ。時の首相は自らの権威を保つために腐心する。自分は常に正しい、「この道しかない」と、言いつのる。国家も同様だろう。世の中では権威を保つことは、「正しいこと」なのだ。消極的姿勢を見せたら「負け」というのが世間の常識になってしまっている。

 主犯格の少年にとって、殺人に至った行為は、「権威」を保つための幼稚な行動だったに過ぎない。そうして考えると、彼の行為は世の中の「価値観」の合わせ鏡でしかない。

中1少年に合掌。



2015年2月28日土曜日

年老いてから「18分集中法」を実践する。




「18分集中法」を実践してみる。トシをとるということは、良くも悪くも、さまざまなことに「慣れ」「習慣化」し「熟練」するということだ。だから、これまでやってきた「オレ流」の考えや行動を変えることを無意識で避け、変えようとしない。(これは一部の若者にもいるようだけど)。
その老人の性癖を理解し、モノゴトのやり方を変えてみようと挑戦したのが、この「18分集中法」だ。タイマーも購入し、頑張ってみた。

結果はどうか。集中力が増したような気になった。慣れるとタイマーがいらなくなった。だいたい20分前後の時間の間隔が身に着いて、自然とこの時間を集中できるようになる。もちろんその時々の身体の調子もある。朝と夜では違う。しかし何かに向き合う時、心掛けだけは忘れないようになった。
一方、職場での昼飯あとの「午睡」でも、18分集中法を取り入れた。こちらはすぐ結構うまくいった。
タイマーは寝すぎを防いでくれる。こちらも慣れるとタイマーなしでも午睡時間を20分弱に体が覚えてくれる。なかなか効率的だ。
午睡は午後の仕事の効率あげてくれる。


図書館とのバトル② 構造化されている「モラルハザード」

 公立の図書館は「無料」だ。原則だれでも無料で出入りでき、その地域に住んでいて登録さえすれば無料で借り出しもできる。それは使用する者の「善意」に支えられている。使用者は蔵書を丁寧に扱い、盗むこともなく期限までにきちっと返す。少なくともその建前で成り立っていて、税金で運営されている。

 しかし“大衆社会”の現実は違う。図書館の蔵書を利用する者は、無料貸本屋感覚だ。そして利用者は“神様”である「お客様」だ。だから本をぞんざいに扱おうと、破損させようとまったく関係ない。それは「図書館側がなんとかするでしょ」ということなのだろう。

結果、どういうことが起こるか。巷間よく言われているのが図書館側の「無料貸本屋状態」と、慇懃無礼で不遜な利用者の増大だ。税金で賄われている公共財という、当たり前のことを小指の先ほどにも思わない多くの利用者が「地域の皆様」になっている。

 いま多くの図書館で、運営が「指定管理者」に委ねられている。受託した業者は、利用者拡大と「お客様へのサービス向上」で必死である。サービスが悪くてクレームが来ると、委託元の地方公共団体から「ちゃんとやれ」と言われる。利用者が減ると、「運営が悪いいんじゃないか」と言われる。

彼ら(受託業者)にとっては、「マナーの悪い利用者」は、「そういう人が居て困るんです」と言えば、委託元の自治体も、業者の努力不足とは「認定」できないから大目にみる。業者は、書籍がどうなろうとそれは受託費に関わらないからカンケイない。それは自治体予算でなんとかしてくれる。と、思っているのだろう。決して「悪意」ではないだろう。利益第一の業者にとって「カンケイないこと」に分類されるのは構造化されているということだ。

公共の図書館で起こっていることは、そうした「無責任の態勢」によるモラルハザードだ。
図書館の受け付けでは、利用者を「お客様」と呼び、利用者は「タダの商品」をぞんざいに扱う。

 普段利用する大田区の図書館では、借りた蔵書をムキ出しのまま自転車の買い物カゴに入れて返しに来る輩を何度も見た。中には小雨の中を平気でそうして返しにくる者も見かけた。「お客様」にとって、読んでしまった書籍はもはや「廃棄物」でしかない。だから平気でぞんざいに扱う。返さないと次に借りれないから仕方なしに返しにくるだけだ。

指定管理者「制度」は、こういう人を増やし続けている。指定管理者制度そのものが、業者をそう仕向けるようにしているのだ。少なくとも大田区のある図書館では、そうだった。
だからこそ、委託元となる自治体は、管理について細心の創意工夫が求められる。しかし、そうした意識はほとんど感じられなかった。

 (以下 次号)