2012年7月23日月曜日

「葬式ごっこ」から26年。いじめはなぜ繰り返されるのか

図書館で借りました
大津市の「自殺の練習」いじめ。この報道を見て思い出したのが「葬式ごっこ」だった。
調べてみてすでに26年も前、四半世紀もたっていたのかと、驚く。

1986年東京・中野区立富士見中学校の2年男子生徒が、父親の故郷である盛岡で首を吊って自殺した「事件」である。この生徒は学校でいじめを受けていて、その最たるものが、「葬式ごっこ」だった。このいじめ遊びにはなんと担任教師ら教員も“加担”していたことだ。「追悼の寄せ書き」に書き込んでいた。
また生徒に事件後「口止め」をしていたことも発覚した。
興味ある人は、 web site で調べてみてほしい。
また 朝日新聞の記者 豊田充氏がこの事件に関して本を出し続けている。


2007年 豊田充著(朝日新聞社)

●葬式ごっこ (1986年)
●「葬式ごっこ」8年目の証言 (1994年)
●いじめはなぜ防げないのか「葬式ごっこ」から21年 (2007年)






これも図書館で借りました
構図は26年前も今回の大津の場合も同じだろう。
何も状況は変わっていない。
▼ダメな教師(教師がみんなダメだと言っているのではない)
いじめを把握できない、なくせない力量不足。むしろいじめを助長するような言動。そしていったん発覚すると、隠蔽体質。どうしようもない硬直した教育委員会。
▼ストレスをいじめて発散する子供たち。これはまったく変わらない。

なぜこれほど「変わらない」「変えられない」のか。考えていかなければならない。
とりあえず、「葬式ごっこ」の紹介まで




(7月27日 追記)

内田樹氏は、AERA(8月2日号)の巻頭コラム「『いじめ』がもたらす本当のリスク」で、
「反論も反撃もできない人間をじりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間」や「大学に怒鳴り音できたクレーマー親たち」の「表情はみな同じ」であり、こう書いている。

8月2日付 AERAより「引用」
「『いじめ』は精神的に未熟な人の固有の現象である。だから年齢とはかかわりがない。彼らは自分とともに集団を構成している同胞(とりわけ弱い同胞)たちのパフォーマンスをどうやって向上させて「集団として生き延びるか」という問題意識がない。彼らにとって喫緊の問題は、どうやって「隣にいる人間が享受しているパイ」を奪い取るか、どうやって同じグループの他のメンバーを無力化するかなのである。そうすれば「自分のパイの取り分」が増えると彼らは信じている。 だが構成員中の「無力な人間」の比率が上がるほど、『集団ごと』」淘汰されるリスクが増えるのでは・・・と不安になることが彼らにはないのだろうか。 」と。


いじめは年齢に関係なく起きる。ただ大人の場合はいじめられた側が「逃れる術」を知っていることが多いので、そんなに問題にならない。子どもは逃れられないから自分を追い込んで自殺に向かってしまう。そしていじめる人間は「精神的に未熟」なのは間違いないだろう。


だから彼らに、指導的立場にある者(多くは先生かもしれない)が「いじめはいけないことです」と繰り返しても、精神的未熟者には通じない。やっかいだ。


精神的未熟者は、一言でいうと「弱い人間」だ。だからたいへい徒党を組む。いじめはふつう集団で行う。そして自分より弱い人間を作ることによって、自らの「レゾンデートル」を保つのだろう。



7月26日 朝日新聞より「引用」
森達也氏は、こう書く(7月26日 朝日新聞)


「イジメとは抵抗できない誰かを大勢でたたくこと。孤立する誰かをさらに追い詰めること。ならば気づかなければならない。日本社会全体がそうなりかけている。この背景には厳罰化の流れがある。善悪二分化。だから自分は正義となる。 日本ではオウム、世界では911をきっかけにして。自己防衛意識と厳罰化は大きな潮流となった。」と。

大人世界に「いじめ」が蔓延している以上、子どものいじめをなくすことなどできないだろう。悲しいけれど。

森氏はこの論考で、77人を殺害した去年7月のノルウェーのレロ事件について、当時の法相の言葉を紹介している。
(ノルウェー元法相クルート・ストールベル)は 「ほとんどの犯罪には3つの要因がある。 ①幼年期の愛情不足 ②成長期の教育不足 ③現在の貧困 ならば犯罪者に対して行うべきは苦しみを与えることではなく、その不足を補うことである」と。


ここにはいじめ防止へのヒントがあろう。いじめる側は内田氏の言う「精神的な未熟者」だろうが
それを違う言い方で表せば「何らかのトラウマを持った者」とも言える。愛情に飢え、そして成長期に「教育」に対して劣等感を持つ。そして貧困もある意味で世間への劣等感だろう。
彼らを救うのは、それこそ「その不足を補うこと」しかない。


※大津のいじめ自殺では、“主犯格”の少年は「成績優秀」と言われていた。(週刊誌などの情報です。)でもその「優秀さ」ゆえの優越感が、どこかで裏返っていたといえるのではないか。




















AERAの8月2日号の「いじめ」の特集には、ヒントになる話しが載っていた。
8月2日AERAより
同級生の持ち物を隠す児童の「いいところ」を探し、生き物と絵が好きなことを聞き、クラスの「生き物係」にし、絵画コンクールに応募させたところ、自信を持ち、持ち物隠しはなくなったという。

このエピソードは、小学生だから「通用」した手立てかもしれないが、
森氏の論考で紹介した「不足したものを補う」ことにほかならない、有効なやり方だったことはだれしも同意できるだろう。





8月2日AERAより
もうひとつのエピソードは、「子どもたちのきずなや学校への関心を再々する仕掛けを用意できるかどうかがカギ」だとし、学級崩壊状態にあった中学1年で、「クラスを班分けし、班員の問題行動に対して班で責任で予防・対処するよう促した」と言う。「帰りの会でその日の成果を出させ、学級便りも毎日出した。」すると「ちゃんと授業を受けることへの競い合う気持ち芽生え、『荒れ』が次第に収まった」という。

これを読んで、原武史さんの名著、「滝山コミューン1974」に出てくる、「ちからのある学級運動」(という名称だったと思います)を、思いだしてしまった。これは、70年代の一時期、一部地域で盛んに行われた「左翼的学級経営の運動」なのだが、学級崩壊の回復で班のチカラ、つまり連帯責任制が、はたしていいのかどうかは、私には分からない。
ともかくも、こういうエピソードだとしか言えません。



滝山コミューン1974

●滝山コミューン1974
こお5,6年で最も「面白い」と思った書籍だ。原さんと同世代なので、書いてあることを
リアリティを持って読めたこともあるが、あの70年代の「公立の小学校」のマインドが
本当によく描かれている。原さんの記憶力には驚かされる。

また、単に「ちからのある学級」のことだけでなく、原さんの受験体験や鉄道体験もよく描かれていて、興味深い。
昭和30年代生まれの方は、ぜひご一読を。文庫判も出たみたいです。












(続く)

2012年7月21日土曜日

不「可視化」されるということ。地下鉄の考現学①

勤務地が変わり、これまで山手線を使っていたのが、地下鉄通勤になった。地下鉄は場所によっては奥深くて階段や通路が長く、慣れるまで少々「疲れ」を感じてしまった。
しかし、その疲れとは単に距離は高低差の疲れだけではないことに気付いた。

それは、地下、つまり外の景色が見えないところを移動することによる、視覚的、精神的疲れなのだ。それまで私鉄(東急線)のところどころには地下化されているところがあるものの、基本的に地上を走る路線を使い、そして山手線という、だいたい一段高いところを走る(山手線には踏み切りがない)電車に乗って移動していた。その違いの大きさは予想以上のものだった。

これまで毎日、目を凝らして外の風景を見ていた訳ではない。本を開くのが億劫な時、疲れた時、そして混雑していて本を開けない時に、“何気なく”見ていた風景は、記憶のどこかに刻まれていたのだろう。その「変わらなさ」も「変化」もすべて。つまれ景色は常に「可視化」されていた。

可視化されていることが「移動」の認識を頭に刻み、移動に違和感がなかったのだ。
ところが地下鉄を使うようになって、わずか数駅、2線乗り継いでも15分足らずの時間にもかかわらず、移動したことに「違和感」を覚え、それは奇妙な「疲れ」になっていた。

ちょっと大げさに言えば、タイムマシンでワープした感覚なのかもしれない。(その昔「タイムトンネル」というアメリカのテレビ番組があり、時々見た記憶がある。歴史の学習にもなりちょっと面白かった。)

しかし、半年も通えば、地下鉄による移動に慣れ、「違和感」はなくなっていくのだろう。人間の慣れとはそういうものであり、慣れなければストレスばかり溜まってしまう。

でも、移動の景色が可視化されてないことはどういうことなのか、考えてみたい。

原武史さんの著書で、「皇居前広場」というのがある。
すぐに取り出せないので、記憶の限りで書くと、
二重橋に現れる白馬に乗った昭和天皇は皇居前広場に集まった民衆によって可視化されたことや
アジア太平洋戦争後、皇居前場では大規模な民衆の集会(デモ)が行われたこと。
いわゆる「血のメーデー事件」も、ここで起こったこと。
そして皇居前広場での集会がGHQによって禁止され、それ以後民衆の催しに使われなくなったことなどが記されていたと思う。
この著書だったかどうか忘れてしまったが、都電がまだ日比谷通りや内堀通りを通っていたころは、大衆に皇居前広場が、可視化されていて、その“奥”二重橋、そしてその“奥”の天皇の存在も、
(二重橋に立つことは滅多になかったが)ある意味で可視化されていたという。
しかし都電という路面電車が地下鉄にとって代わられ、
皇居前広場が民衆に可視化だれなくなった。それは歴史のひとつのターニングポイントだと指摘していた。
原さんは、終戦やオイルショックやバブル崩壊といった、よく言われる歴史の転換点とは違って視点で、節目をとらえていて、非常に興味を持って読んだことを覚えている。




ありていに言えば、可視化されないことは、脳に認識されないということであり、つまるところ「関心が薄れる」ということであろう。
テレビニュースや新聞で、いくら皇居前広場で「ご記帳」が行われたり、新年や誕生日の「一般参賀」の映像が映し出されても、皇居前広場を日常的に見ている人とそうでない人では、「実感度」に違いがあろう。

よくテレビを見ていて、行ったことのある場所や住んだことのある場所、つまり「視覚的に知っている」ところの映像が映り、そこの話題や事件があると、無意識に注目する経験は多くの人にあるのではないか。

「可視化」の持っている意味は、想像以上に大きいのかもしれない。(だから人間はさまざまなところを「見学」するのだ)

いま毎週金曜日の夜に首相官邸前で一般民衆による「反原発」のデモが行われているという。反原発の思想の賛否はここでは触れないが、官邸や国会議事堂の前に集まり、それを視覚に入れながらデモることには、単に為政者に直接プレッシャーをかけるという意味とともに、彼ら自身が権力の中枢を可視化することによって、認識を深めるという意味があるように思う。むしろあまり意識されていない、その意味合いの方がより重要なのかもしれない。

さて、都会では非常に多くの勤労者や学生(それが何百万人なのか知らないが)が、可視化されないまま場所(空間)を移動する。何年も通っている、ほとんどの人にとって、そんなことは特にストレスでもないだろうし、可視化されないことの意識もないかもしれない。

ただ、忘れてならないことは、見えないものは、ない訳ではない。認識されていないだけだ。しかし「何が見えていないか」は、分からない。
このブログの最初の方で湯浅誠さんが書いた「見ようとしないものは見えない」ということにつながることであろう。

何が見えていないか、常に考えることを忘れないようにしないと、イケナイ。
小田実「なんでも見てやろう」という本のタイトルを思い出した。

2012年7月16日月曜日

天声人語(朝日)の言う「民意」とは

「天声人語」は入試によく出る「名文」として有名らしい。アサヒもそれを拡販のウリにしている。
こんなに入試で使われました、と。われわれは教養ある新聞ですと言いたのだろう。

確かに名文の時もあった。かつては。
ちょっと古いが、「深代惇郎の天声人語」は単行本を買って読んだものだ。しかし7月6日の「天声人語」氏には驚いた。

7月6日朝日新聞より「引用」











こんな文章が教養高き「朝日新聞」の1面の下段を飾っているのだとしたら、これはもう、
「反原発教」という宗教団体の機関紙と思うことだろう。

宇宙で尿から水を作って飲むのは「何から作っても水は水」だけど、電気は「何から作っても電気かというと、そんな時代ではない」と言う。いったい尿から作る水と電気の作られ方とどんな関係性があるのだろうか。比喩にもなっていないし、枕詞としても首を傾げたくなる。

大飯原発の再稼働を「原発に頼らぬ日本は60日と8時間で幕を下ろした」「世の中はその間、とにもかくにも原発なしで回った」と書く。確かに世間は「回った」が、そのためのに費やされた化石燃料と排出したCO2、そして、それによる大気汚染とその被害にはまったく見向きもしない。狭い日本の中だけ、日常生活というミクロの視点からしか論じていない。なんという「偏った」た物言いだろう。

そして「官邸を囲んだ怒りを聞くまでもなく、民意は脱原発にあろう」と、事実をねじ曲げて断じる。どの新聞、テレビ局の世論調査を見ても、「脱原発」が圧倒的支持されているものは見つけられなかった。いったいこの天声人語氏は何を根拠にこう言うのだろう。
まさか官邸を囲んだ民衆(デモ隊)だけを根拠に言ったのではあるまい。

「地元経済の原発依存も変わらない」「福島の教訓が泣く」と言う。福島の教訓とは何を指すのか。事故が起きれば、すべて止めるべきというのが教訓なのだろうか。失敗を糧に前へ進むというのは「教訓」ではないのか。

こんな脱原発、反原発の言説を続けるのなら、いずれ賢い読者は朝日を離れていくだろう。

「脱原発」の考え方がオカシイと言っているのではない。主張をするなら論理的かつ現実的な思想を示してこそ「説得力」があるのではないか。
大勢の人が避難しなければならないような、そして長期間住めない地域を作りだすような事故をいいと思っている人はいないだろう。できれば原発がない世の中を望む気持ちはもちろん共鳴する。

しかし、(日本は減っていても)世界的に増え続ける人口。そして途上国の「開発願望」、さまざまな要素の中で、「今すぐ脱原発」がどれだけ現実的なのだろうか。

ほとんど宗教化された主張を続ける「朝日」に未来はないだろうな。かわいそうだけど。

2012年7月12日木曜日

「売春のもみ消しに1億円払った原」に沈黙する、「毎日」以外の新聞・メディア

読売“巨人軍”の原辰徳監督が、1988年に「関係を持った女性」がいて、そのことで恐喝されて1億円を支払った“事件”。
週刊文春の報道から、読売の発表記事は書いたものの、なぜか多くのメディアがその後は沈黙している。

これは原が「買春」の火遊びをしてそのもみ消しに1億円も支払ったということではないのか。

1億円というお金がフツーの人々にとってどの位の金額なのか、わかります?
これだけくれるのなら、私は定年まであと数年あるけど、即刻勤務先をやめてもいい額だ。

一般常識に照らして、この異常な出来事に対して、なぜメディアは原の責任を追及しないのだろう。
原は恐喝の被害者だろうが、その前に売春の加害者だ。買春の公訴時効は3年だから、もう不問にするというのだろうか。いつも「道義的責任」などど叫んでいる、「正義の見方」シンブンも沈黙を保つ。そんなに巨人軍が怖いのか。

7月11日 毎日新聞より「引用」
毎日新聞が唯一(私が見た限りでは)、11日の社説でコミッショナーを批判する形で書いていた。ちょっとスジ違いの面もあるが、書いたこと自体は評価に値するだろう。

原という存在はきっとプロ野球にとって貴重なんだろう。

江川事件以来、プロ野球が嫌いになった私には、どうでもいい団体だけど、買春を不問にしてまで原を守るメディの体質には恐れ入る。


“遅れてきた壮年” 永江朗さん「批評の事情」を読む。

永江朗さんの著書を読むと落ち込む。ホント。

永江さんは、「批評の事情」や「新・批評の事情」で、こんなにもたくさん本を読み込み、それを自分の中で消化して、ウマイ批評文に仕立てる。これほどの、ある意味で手際のよい批評を私は知らない。

振り返って、ほぼ同じ時間だけ生きてきた自分は何も知らない、無知で無能な人間にしか思えなくなってしまう。それほどまでに「批評の事情」はいろいろなことが手際よく凝縮された本だ。

ちなみに新批評の事情は、新宿紀伊国屋で、文庫本版(ちくま文庫)がすく手に入った。しかし、先に出た「批評の事情」は、大型書店をいくつか回っても、置いてなかった。(残念)
筑摩書房のサイトを見たけど、やはり品切れのようだった。アマゾンでも、「出品者からの提供」となっていた。この本は、希少本になっている。

(私はどちらかというとアマゾンでの書籍購入はあまり好きになれない。だって「カバーお願いします」って、言えないから。)

単行本は当然ながら、文庫本が出ているので書店には置いてない。で、図書館で借りることにした。こういう「読みたい本」は購入することを原則としているが、今回は例外だ。

「批評の事情 不良のための論壇案内」は初版が2001年9月。しかし11年後のいま読んでも、各々の評論家「評」はちっとも色あせていない。(と私は感じる)。

永江さんは前書きで、
「人が何事かを語れば、すなわちそれは評論である。(中略)しかし二つの条件を満たさなければならない。ひとつは批評性。『「それは何なのか』」という問いを持続させつつ対象を体系の中に位置づけ、それを検証していこうという意志。その本質に迫ろうと言う意志。もうひとつ欠かせないのは文章の芸。・・・・読んで面白くなければお話にならない。さらにこの二つの条件を満たすためには、その分野に関する知識と経験と見識が必要。」と記している。

永江さんの著書そのものが、この条件をよく満たしていると言える。

「批評の事情」で扱った人は以下のとおりだ。

宮台真司
宮崎哲弥
上野俊哉
山形浩生
田中康夫
小林よしのり
山田昌弘
森永卓郎
日垣 隆
大塚英志
岡田斗司夫
切通理作
武田 徹
春日武彦
斎藤 環
鷲田清一
中島義道
東 浩紀
椹木 野衣
港 千尋
佐々木敦・阿部和重・中原昌也、
樋口泰人・安井豊
小沼純一
五十嵐太郎
伏見憲明
松沢呉一
リリー・フランキー
夏目房之介
近田春夫
柳下毅一郎
田中長徳


「現代日本の評論はどんなことになっているのか、というのが本書のテーマ」。
ただし評論家(やその周辺の人々)はたくさんいるので
「この本は90年代にデビューもしくはブレイクで線を引いた」という。

前半は、まあ「知っている」し、著書をよく読んだ人もいる。しかし後半になると、「こんな人もいたんだ」という感じになってきて、自分の知識のなさが情けなくなってきてしまう。

永江さんはまた、「当の作品、あるいはそのもの・ことよりもよほど面白い評論というのもたくさんある。」と言う。永江さんの著書そのものが、そういう役割を担っている。


例えば私は「小林よしのり」を読んだ(マンガだから見るというべきなのか)ことはない。一度書店で「ゴーマニズム宣言」をぺらぺらめくってみたが、気持ち悪くなってすぐやめてしまった。
だけど、永江さんの小林よしのり評は非常に面白いし、この人物が「何なのか」よく分かる。
そのへんが永江さんの著書のすごいところだ。

2012年になって、ようやく「批評の事情」「新・批評の事情」まで“たどり着いた”私は
「遅れてきた壮年」といったところか。






2012年7月10日火曜日

ヤクザのみかじめ料は把握できないが、ベンツを買ったら税は払う。消費税は一番公平な税だ。

「やくざが店からみかじめ料をとても、その所得は把握できない。だから課税できない。
でも、そのやくざが1千万のベンツを買ったら、かならず税をとれる。」

なかなかの例えだ。これを聞いたのは、もうずいぶん前のこと。
消費税が3%から5%に引き上げられる議論が国会で行われているさなかだたと思う。財務省(当時はまだ大蔵省だった)の主税局での一室である。

当時こう言われた時は、「なんだこいつ」と思った。しかし冷静に考えてみると、これはまったくもって正論だ。

会社や団体の勤労者ならば、所得は把握されるだろうが、それ以外の人は分からない。申告してもらうしかない。これは性善説に立っている。だからごまかす人は後を絶たないし、取る方も公正さを保てない。しかし「消費する時」は必ず白眉のもとにさらされる。売る相手がいる以上、必ず分かってしまうのだ。「やくざがベンツを買う」時はこれだ。ここに課税すてば、とりっぱぐれることはない。その意味では非常に公平であることは間違いない。

高価なモノを買ったら、それだけ税金も多くなる。高価なモノを買う、つまり消費が多い金持ちは多く納税することになる。社民党みたいに“庶民の味方”がなぜ消費税に反対するのか理解できない。弁護士の福島瑞穂も経済オンチとしかいいようがない。かわいそうな人だ。

野田総理が「消費税は最も公平な税」と言ったら批判されたらしい。(1か月くらい前の記事だったが、なくしてしまった。)。
「モノゴトをよく考えないで生半可な知識で勝手に良い悪いを判断し、感情で批判する。」それが今の日本の国民のメンタリティーだ。

食品など生活必需品には軽減税率と叫ぶ人や新聞社がいる。これについて経済学者の大竹文雄さんが分かりやすい説明をしている。(東洋経済6月16日号)

高級な食材を買ったり、高級料理を食べるのは高額所得者だ。食品に軽減税率を適用すると、得をするのは金モチだ。冷静に考えてみれば小学生でもわかる話しだ。
朝日は記者有論で「軽減税率 食品への適用欧州に学べ」(5月15日)と編集委員の小此木潔氏が主張しているが、朝日が軽減税率を言い出したのは、新聞にも適用してほしいという魂胆だったことが後にわかる。

モノへの税率が上がれば、確かに負担は増える。低所得者層は苦しくなる。消費が減れば経済も回らなくなる。それをどうしていくかは課題だろう。だからバウチャーによる給付など、財務省は知恵を絞っているのだと思う。

消費税の問題点は別のところにある。益税を生む仕組みだ。消費税導入時、反対する商工関係団体を説得するため、様々な施策がなされた。免税や限界控除制度などだ。(いまそれがどうなっているか詳細は勉強していない。)また、インボイス制度も見送られた。
今の日本の消費税は「税のがれ」しやすい制度であることは間違いないだろう。なぜだかこのことは、メディアも当の財務省もあまり触らない。ここに触れるのはタブーみたいだ。

最近の課題としてネット取引に正確に課税できるのかという問題が小さな記事になっていた。まだこの問題はよくわからない。

◇◆◇◆◇

前にも書いたが、別に私は財務省の回し者でも、ステークホルダーでもない。
増税議論ではイエロージャーナリズムからしばしば財務省陰謀説なるものが出てくるが、それはオカト違いだといいたいだけだ。今日の危機的財政状況は財務省(大蔵省)が作ったのではではなく、時の政権が予算をバラまいてきたからだろう。財務省はむしろ必至にどうすれば国家予算が健全になるか考えてきたことは明らかだ。責任が財務省の役人に転嫁されていることはフェアではないと言いたいだけだ。
もちろん財務省にもいわゆる「大蔵不祥事」があったりして、それが組織の信用を落としたことは否めない。しかしそのことと、財務省のミッションをごっちゃにして論じるのはスジ違いだろう。

冷静な議論ができない、日本という国。だんだん私はこの国と(その国民)がキライになってきた。
できれば子どもにはどこかに脱出してもらいたい。
でも、世界中のどこにもユートピアなんてないから、脱出してもそれはそれで地獄が待っていることはもちろんわかっているけど。

「消費税は最も公平な税」というテーマが最後はヘンな方向に行ってしまった。


◆◇◆◇◆
大竹さんの著書は本当にわかりやすい。3冊読んだ。










2012年7月5日木曜日

「君子豹変す」はいいことだ。野田首相


「君子豹変す」というのは、よく否定的な意味で使われる。でもそれは間違いだ。

① 〔易経革卦〕 君子は過ちをすみやかに改め,善に移ることがはっきりしている。
② 俗に,今までの思想・態度が急に変わること。
(net版大辞林より。)

別のnetの用語解説によると
▼易経の原文をたどると、「君子豹変、小人革面」とあり、「立派な人物は、自分が誤っていると分かれば、豹の皮の斑点が、黒と黄ではっきりしているように、心を入れ変え、行動の上でも変化がみられるようになる。反対に、つまらぬ人間の場合は、表面上は変えたように見えても、内容は全然変わっていない」と述べています。 
と書いてある。


さしずめ野田首相は、君子豹変すそのもだろう。民主党のマニフェストが書かれたのは3年以上も前。リーマンショックが起きる前だ。(リーマンショックがどのくらいの「ショック」なのか私には正直ちょと分からない)
いずれにしろ、その後世界経済は悪化したのは確かだし、よく言われる日本の国債残高の異常な多さは、シロウトが見ても、どう考えてもまともじゃない。そうした状況を受けて、野田さんは消費増税に突き進んだ。君子豹変した。


それは大半の新聞大手の支持を得、また産業界からも支持されている。これはこれで「民意」だと思う。(が、東京新聞にとっては「民意」ではないらしい。)

消費税増税の時、あんなに反対した日本商工会議所や小売業団体、主婦連(もはや力もないだろうが)なんかも「反対している場合じゃない」ことがよく分かっている。

経済学者やエコノミストの中には、日本の個人金融資産がまだ1200兆円あるとか、日本国債はほとんどが国内で消化されているので「大丈夫」という人もいるが、その理屈はもはや通らなくなっている。

◆菅直人のブレーンだった阪大の小野善康は、この手の主張を昔からしていた。かなり古くなるが「景気と経済政策」(岩波新書)には、じゃぶじゃぶ国債を発行して景気を刺激しろというようなことが書いてあり、当時国会の自民党側の参考人としてそうした発言もしていた。当時この本を読んで、どうもうさん臭い感じがしてので、どういう訳かそのことをハッキリ覚えている。時の政権(小渕のころだったかな)の膨大な国債発行にお墨付きを与えた「戦犯のひとり」だと理解している。
菅はなぜ小野をブレーンにしたのか。経済がわからない(自ら学んで分かろうとしなかったと言った方が正確か)菅が、耳障りのいいことばかり言う御用学者に飛びついたのだろう。(割と最近、朝日が小野を持ち上げたインタビューをしていたのには驚いた。)




話しが逸れたが、新聞は今になって民主党のマニフェストを「財源の裏付けのない絵空事」と書き立てるが、当時はそれほどの主張は見当たらなかった。
マスメディアの「後出しじゃんけん」は、毎度のことだから驚かないけど。


ともかくも財務相も務め、また経済をよく学習している(方だと私は思っている)野田首相が、消費税増税に「命懸け」なのは、何も財務省のあやつり人形だからでも、頑固一徹だからでもないと考えるのが自然だろう。本当に日本の財政の行く末を心配しているのだ。そしてその心配はかなりの確率で「正しい」


マスコミに登場するエコノミストで信用がおける(と思われる)発言をしている人は意外に少ない。
阪大・大竹文雄さん、慶應・樋口美雄さん、一橋・小林慶一郎さん、みずほ証券・上野泰也さん、バリバ証券・河野龍太郎さん、などなど。
(ほかにもいるでしょうが、今すぐに思いついた人ですこれは)


こういう信じるに値する経済人で消費税の増税が必要ないと言っている人はいない(はずだ。)
もちろん消費税を上げれば大丈夫と言っているのではなく、「その先の日本」はまだ心配しているけど。


欧州危機の第一波がきた時、新聞各紙・NHKの(お手軽)世論調査では、消費増税もやむなしとい「意見」が割と多かったと思う。が、日を経て消費増税が政争の道具にされ、最初の危機感が薄れてくると、メディアのおバカ報道もあり、世論は次第に「増税反対」に傾いていった。


野田首相は、日和らなかった。そこはエライと思う。だって選択肢としては、先送りもできたのに、そうしなかったのだから。



◆◇◆◇◆◇◆
世論がどうして「消費税反対」に変化していったのか。メディアはあまり分析していない。だって自分たちの煽る報道で変節していったのだから分析なんかできないのだろう。
人は無意識に嫌なこと(増税)をなるべく見ないよう、考えないないようする。当初増税が必要と考えていても、なかなか政治が決められないで期間が長くなると、次第に否定的な思いが大きくなる。それで世の中が回るのかといった「(増税反対に)都合の悪い情報」は意識から排除されていってしまう。それが続いて世論は変節していった。「いまのままでもいいじゃないか」と。同様の無意識の心理変化は不勉強な国会議員にも表れていったのだろう。小沢ガールズたちなどは。



お笑い「小沢一郎」を書いた、3日の新聞各紙社説

「お笑い『小沢一郎』」というのがピッタリなのかもしれない。
小沢が離党した翌日の新聞各紙の社説を読みくらべてみた。「お笑い『東京新聞』」以外は、どれも似た論調だから、あまり面白みはない。多くの人が感じているそのまんま。
それにしても、この人はどこまで日本の足を引っ張るのだろうかね。まあそれも近いうちにようやく終わるのだろうけれど。

●日経:
「破綻した2009年のマニフェスト(政権公約)の順守を求めるだけで、具体的な財源捻出策を示さぬ元代表らの姿勢は無責任だ。」と切り捨て、「選挙基盤が弱い若手議員が多いこともあって、新党の前途は極めて多難だ。」とご親切に心配している。

●産経:
離党者が意外に少なかったのを「小沢氏の一連の行動に対し、国民が冷ややかに見ているだから」とし、「今回の小沢氏の動きを見れば・・・またかというのが率直な印象だろう」と述べ、「自らの権力を守ることを最優先させる『小沢政治』は今回の離党劇で完全に終焉を迎えたのではないか。」と切り捨てた。

●読売:
「党内の路線闘争に敗れ、追い込まれた末の離党である。」とし、民主党がむしろすっきりし「党内の一体感が高まり、政策決定が円滑に進む可能性もある」とした。

●朝日:
「実行不能の公約を振りかざし、またぞろ政治をかき回す。そんな小沢氏に対する、民意の疑念が読み取れないか。」と、小沢の裸の王様ぶりを指摘。

●毎日:
「もともとの狙いである党内の主導権奪還の展望がなくない、離党に追い込まれたというが実態ではないか」「『数は力』の手法の古さ、いびつさを吐露したと言える」と冷ややかに分析した。

●東京:
「小沢氏の『壊し屋』としての悪癖が出たとの味方が喧伝されるが、そうした切り口だけでは事の本質が見えてこない。」として小沢の離党は民主党崩壊の始まりであり、崩壊の理由は、自民と似通った政策を推し進め、「民の声が届かない政治」だと、小沢批判より民主党の政策に噛みついている。

こうしてまとめてみると、特異な東京新聞以外、小沢氏への冷ややかな目は各紙どれも大差はないようだ。ちょっと面白みに欠けるが、まあこれが本筋なんだろう。

「小沢さんさようなら。」といったところか。

※実はこの項は、「君子豹変す」から掘り起こして書き始めたけど、そこの部分が長くなってしまったので、分けました。分けると、自分でも「何が言いたかったのか」わからなくなってしまいました。


7月1日読売新聞より「引用」

7月3日毎日新聞より「引用」
7月3日朝日新聞より「引用」

7月3日日経新聞より「引用」

7月3日産経新聞より「引用」

7月3日東京新聞より「引用」

7月3日読売新聞より「引用」

7月4日朝日新聞より「引用」


2012年7月3日火曜日

申告漏れに見る中日新聞(東京新聞)という宿痾(しゅくあ)

6月30日朝日新聞より「引用」
東京新聞(中京地区ブロック紙、中日新聞の東京版)が一種の「貧困ビジネス」だという“乱暴”な考えは以前記した。(6月6日)。

朝日に小さく載った、中日新聞の申告漏れ記事は、その論考を強化してくれるものとなった。紙面では、建前ばかりの正論を主張しながら、うちうちではテキトーなことをやっていたのだ。

別に儲けたカネで飲み食いをしたってかまわない。民間企業なのだから好きにやればいい。しかし企業として、きちっと会計処理して社会的責任をはたすのが当たり前だろう。・・・と、「正論」を中日新聞には投げつけたい。

飲み食いしていた記者たちは、おそらく「われわれは“市民”の側に立った“正義の味方”だ。しかも、朝日や読売、日経の記者より安い給料で頑張っている。だから少々飲み食いに会社のカネをちょろまかせて使っても、それは「許される行為」だと思っていたのだろう。

これが中日新聞人の病理、宿痾なのだ。


かつて労働組合というのが非常に大きな力を持っていた時代があった。それは戦後の混乱期から高度成長時代のことだろう。特に、自治労や公的企業体(国鉄、電電公社)などの組合はさまざまな意味で力があった(のだと思う)。

彼らは表向きは、反戦や反権力、労働者の権利を主張しながら、ウラで、幹部たちは経営側とナシをつけて、架空の時間外手当で実質的なカネを手に入れたり、わりと最近問題になったこととして、闇専従をたくさん抱えていた。経営側にもうまくやっていく方策として容認してきた土壌はあるものの、組合側のやりたい放題であったことも確かだろう。一種のルサンチマンの虜囚と言える。

「経営者、体制側は権力を持ち、われわれうより多額のおカネを持ち、得をしている。したがってわれわれは、“少しくらい”不正を犯して利益を得てもそれは許される」という思想だ。

それは丸山真男が「超国家主義の論理と倫理」で指摘した、軍人がある意味で非常に高い「国家的使命感」を持っているが故に、「個人」と「公」の区別がつかなくなり、個人的に私腹を肥やすことが許されると「錯覚」したと指摘した(たぶんこういうことでしたよね)ことと、同類なのだろう。

同様のことを、かつてNHKの報道局職員によるインサーダー取引事件について内田樹さんが論考していたのを思い出す。

こうした「不正が許されると思う心理」は、ある意味では人間そのものの宿痾(しゅくあ)なのかもしれない。残念だけと。

人が複数いる以上、階層ができ、格差ができる。人を図る尺度が地位や得られる金銭、名声など「お決まりの」ものだけはないと言っても、やはりそこに行き着いてしまうのが悲しい現実だ。

皆が豊かになれた時代はまだよかった。しかし、人口が縮み、限られたパイを奪い合いう世の中にあって、現実に将来不安だけが先走る。パイをすでにたらふく食べて、まだ食べる権利を確保している「食い逃げ世代」に、若者が怒りを募らせるのはもっともなことだろう。この怒りを鎮めるには、若者に希望がある世の中を描いて見せなければなるまい。

たかが中日新聞の「申告漏れ」から、大きな話しに展開してしまった。でも結構大事なことかもしれない。こういうことを考えるのは。

2012年6月29日金曜日

朝日のご都合主義 ちゃっかり新聞の消費税の軽減を求める

新聞のご都合主義は今に始まったことではないが、消費税の必要性を再三説き、世論を誘導してきた朝日新聞は、6月21日に、ちゃっかり新聞の消費税を「軽減税率にしろ」と社長自らご主張していた。ちいさな記事)いわゆるベタ記事と言うのだろうか)


驚きを通り越して「お笑い朝日新聞」というのがピッタリだ。
5月20日の社説で「軽減税率は将来の課題で」と言っているのはしっかり見てますよ。


2012年6月28日木曜日

「取る(=定期購読)に足らない」新聞になった精神論の新聞、朝日

自分の考えと違う主張があっても、それに耳を傾ける度量は“多少”はあるつもりだ。少なくとも言論界や論壇を多少なりとも「見ている」立場にあっては。その基本姿勢は常に持って読んできた。
ただしそれは、主張に合理的な理路があり、説得力あるものであればの話しであり、「精神論」を振り回す輩のメディアは論外である。あたりまえだけど。

反原発報道を巡る、新聞各社の社論が真っ二つなのは、かつて書いた。
反原発の朝日、毎日、東京VS.原発容認の読売、日経、産経。この半年あまりの社説を記録して分析中(まとめる時間がなくて・・・)だが、これほどきれいに分かれた主張も最近では珍しいのではないか。なにしろこの問題に関してはファジーな主張はないからだ。原発を認めるのか認めないかの二者選択だけだ。中庸、中間はない。(もちろん認める方に比率につての温度差はある)

6月13日朝日新聞より「引用」
幼稚な主張を繰り返す東京新聞は論外にしても(それでも発行部数からすれば無視できない数だろうが)、昔からクウォリティー紙と言われた朝日の反原発は、どうみても「精神論」の域を出ない。
節電の呼びかけにしてもそうだ。100歩譲って言えば「性善説」に立っているのだろうが、性善説では世の中成り立たないのは、朝日さんに説教するまでもないでしょうに。

野田首相はの大飯原発稼働の必要性を訴える会見で、「精神論では国が成り立たない」と、それまでより突っ込んだ物言いをした。これに対して朝日は、翌日の新聞のコラム「窓」で、「再稼働こそ精神論」と反論した。よっぽどカチンときたのだろう。脱原発を「精神論」と言われたのが。だがやはりどう考えても朝日の脱原発の一連の主張は精神論でしかない。

○喫緊の問題として「地球温暖化」の国際公約はどうすのか。
公約したからというだけでなく、実際ツバルでは海面上昇で国がなくなろうとしている。このところの異常気象。海水の温度上昇で、八重山諸島では白化現象が起きてサンゴが死滅。反対に本土では紀伊半島どころか房総半島沖沿岸でもサンゴの生息が確認された。

温室効果ガスと地球温暖化、異常気象の「因果関係」は科学的にはまだ証明されたとは言えない。しかし多くの人が感じている「昔とは違う異常現象」や温暖化の影響は無視できないし、とりあえず疑われる要因(CO2)を削減するという目標は間違っていないだろう。

しかし朝日さんの主張は違う。脱原発を社論と決めてからは、温暖化問題などなかったように、記事は扱わない。無視していると言っても過言ではない。おそらく社内の暗黙の了解として「この問題はしばらく触らないでおきましょ」というところなんだろう。

朝日は「脱原発」がなぜ可能なのか、どういう道程を踏めば進めるのか。ほとんどまったくと言ってもいいほど触れていない。産業空洞化の問題、開発途上国の今後の経済発展で化石燃料が高騰するリスク。もちろん中東リスクも当然ある。そうしたものは「脱原発」の教祖の前では無視されている。こうした疑問に具体的な施策を提言し、説得力あるものであれば、「なるほどこういう論法で脱原発も可能なんだな」と読者も思えるのではないでしょうかね。それなくしてはこれでは「精神論」そのものだ。開沼博氏の言葉を借りれば、宗教的ですらある。新運動家と巷間呼ばれる人たちの叫びと何ら変わりない。説得性も説明性もない。

○「節電」の精神論
節電については、社説で2回も3回も取り上げ「奨励」しているが、このおかしさにもひと言触れておこう。電力不足によって家庭や企業が電力使用を見直し、無駄をそぎ落とすことは当然だし、多くの人がやっているだろう。しかし「節電」は、どこまでやればいいのかという指標がない。政府は「無理のない範囲で」ときれいごとを言うが、様々な報道で伝えられるように工場、特に中小企業の事業所では血のにじむような努力をして去年の夏を乗り切った。夜間、休日に働き、冷房はかけずに汗だくになって働く姿が、テレビニュースでは何度も流れた。こうした人たちに朝日は「ガンバレ」と言うだけだろう。これって精神論でしょ。「欲しがりません勝つまでは」とかつて皆で歌った(らしい)のと何が違うのか。

6月2日の「あぜん、再稼働」では京都大学の植田和弘教授という「識者」が、
「あの暑い真夏に私はちなぜ、あんなに冷房をガンガンかけてまで働くのでしょう。欧州のようにバカンスを取り、農山村の自然の中で夏を過ごせないものでしょうか。そうすれば電気消費表も減る」と説くのを載せていた。
大学教授とは優雅で知的なショーバイなんでしょうね。この人の眼中にある「欧州」とは、中産階級以上の人しか映らないのであろう。アフリカやアラブからの多くの移民が低賃金で支えている欧州社会の本質なんか映っていない。
「声」欄にも「京都の町家の工夫を生かせ」なんていうのが載っていたりした。集合住宅や一戸建てだって、ほとんど隣とくっつきそうな隙間しかなく庭なんてない家に多くの人が住んでいることなんか分からないおメデたき人々の「声」だ。ルサンチマンの虜囚として言っているのではない。自分の置かれた恵まれた事情からだけ物を言う人の「思慮のなさ」に呆れているのだ。

これは「市民運動」の人々にもよく通じることだ。「わたした市民の声を聞いてください」と叫んでいる人がいるが、この時、市民とは自分たちと同じ考えを持ち、同じ境遇にいる人“だけ”と規定されている。無意識に人を差別化していることに気がついていない。往々にしてこういう人の考えは偏狭で話し合いの余地がないほど教条的だ。あっちの人は市民ではないのだから。
(※湯浅誠さんは「市民運動の立ち位置」で、そのへんのところをやんわり批判した。湯浅さんは決して市民などという言葉を軽々には使わない。


社会人になってからずっと(もうすぐ30年になる)朝日新聞を定期購読してきた。しかし「精神論」の新聞はもういい。そろそろやめにする。家人が楽しみにしている連載小説(朝・夕とも)の現在の連載が終了すれば、その月までにするつもりだ。

朝日では土曜別刷(beeと言ったっけ)や日曜日の書評、夕刊文化面など信頼もおける結構好きな記事もあった。また署名記事では、経済の原真人氏の主張は、脱原発一色のこの新聞にあって、異彩を放つ説得力のあるもので、いつも物事を考える参考になった。だから惜しいけど、これからは勤務先や図書館でナナメ読みだけにしよう。


(でも取る新聞がない。Yさんは江川事件以来基本的に信用していない。Nさんだけだと経済に偏ってしまう。Tは論外、Sは原発や消費税では常識的な論を張るが、皇室や対中関係、対朝関係、戦争評価ではちょっと・・・・。で、Mさんもイマサンくらいだ。かといってS教新聞やしんぶんA旗を取る気にもなれないよね)。


○原真人氏の記事の確かさは、別に論じたい。
○原発はなぜ必要か、説得力ある論考としては、中央公論6月号 豊田正和氏の「日本にとっての最適なエネルギー・ミックスは何か」が参考になる。簡潔にまとめられている。同様の内容は新潮新書「反原発の不都合な真実」に詳しい。

脱法ハーブでハイになる。・・・・なんてことのないように

◆走ることについて語る 別論

大麻を吸ったことも、覚醒剤を打ったことも、シンナーをビニールに入れて吸ったこともないので、いま“流行”の脱法ハーブがどういうものなか知らない。もちろん知ろうとも思わないけど、若い人たちがこうしたものに魅了されていく状況は、おじさんとしては看過できない。

走りはじめて2年ちかく「ほぼシューイチランナー」も膝の腱や足の甲の痛み、ふくらはぎの痙攣、そしていわゆるぎっくり腰など、通過儀礼のごとく経験して、ようやく低レベルだが「安定期」に入った。

ランナーズハイというのがどういうことなのか、(もしかしたら本物は違うのかもしれないが)、少しわかるようになった。ランニングを始めて最初の2,3㎞は体も硬くちょっと億劫だ。5㎞くらが結構苦しいし走るのに飽きてくる。しかし6,7㎞になると、いつしかスーと妙な力みが消えて走りやすくなる。それでピッチがあがる訳でも蹴る力が増して歩幅が長くなる訳でもない。だだ走っていることが「ラク」になるのだ。もちろん息はそれなりに苦しいし、意識していないと腰が落ちてかかと着地になってフォームも乱れてくる。でも「なんとなく走れそう」な気分になるのだ。これがいわゆる「ランナーズハイ」なのだろうか。まだ22㎞以上を走ったことはないが、42.195㎞も夢ではなくなって、完走も現実味が出てくるような心持ちになる。ありていに言えば走ることに「前向き」になる気分だ。
これが結構、快感だ。苦しさの中にあるエクスタシーと言ってもいいかもしれない。
(村上龍氏の小説にエクスタシーという小説があったことを思い出した。これはドラッグの名前だったけど)

人間であれば、いや高等動物であればだれでも快感を求める。それは抑制できない。運動によってそれを得ることができる者は健全だ。中には放火して火を見ることが快感という人間も存在する。どういう方法で快感を得られるかそれが問題なのだ。

脱法ハーブを吸って快感を求める若者たちに、「それはダメだ」と言っても、あまり効果はないだろう。脱法ハーブを違法薬物に指定して流通しないようにしても、それはある程度は効果はあろうが根っこのところの解決にはならない。

要は、若者に薬物に代わる快感があることを教えてあげることだ。走ることだけでもやりようによってはドーパミンが分泌されて快感を得られるんだから。

2012年6月24日日曜日

大飯原発運転再開。箸の上げ下ろしまで報告させる“幼稚”な主張

再稼働の準備作業中の大飯原発3号機で、警報器が作動するトラブルがあった。その公表が13時間もたってからだったことから、新聞・テレビは、発表の遅れを批判的にとりあげ、経産省も「厳重注意」したという。そして今後は「どんな小さなことでも即座に報告」するらしい。

問題となったトラブルとは、発電機のモーターを冷却する水のタンクの水位が低下したための警報で、法令に基づく異常事象ではないため、原子力安全・保安院は、夜中に即座に発表をしなかったという。
これがどの程度の“危険”なトラブルなのかは、シロウトには正確にはわからないが、少なくとも法令で定められたトラブルでないことや、新聞報道などから伺い知れることとしては、冷却用の水位が幾分低くなったので、「水を足して」という警告がなされた程度のものらしいことは伝わってくる。

NHKニュースでは保安院の職員らしい人が会見で、今後どの程度のことまで即座に発表をしていくべきなのか考えていかなければならない、といった趣旨のことを、困惑気味に語っていたのが印象的だった。(きちんとニュースを見ていたのでないので、不正確かもしれない。ただカオが困惑していたのだけは確かだっだ。)


「羹に懲りてなますを吹く」とう諺は誰でも知っているだろう。
(※羹(あつもの)=熱物 肉や野菜を汁を多くして煮たもの・・・ことばんくから)

原子力に対する「信頼が地に落ちて」いるらしいから、地域住民が神経質になるのはある程度理解できる。しかし「地に落ちた信頼」というのはマスメディアが言い出して読者・視聴者とメディアがキャッチボールをする中で増幅されてきた一種の「幻想」である面も否めない。
確かに福島第一原子力発電所は、大きな事故を起こした。(但し、誰も直接的には死亡していないし、重篤は放射線被曝の障害も負っていない。・・・「反原発」の不都合な真実より)
が、大飯原発を始め、現在停止している原発は定期点検のため停止しているのであって、トラブルが原因で停止している訳でも何でもない。にもかかわらず「信頼が地に落ちている」というのは、どういう理路なのかさっぱり理解できない。

まさに「羹に懲りてなますを吹く」以外に適切な言葉が思い浮かばない。
あ、いまこう書いていて浮かんだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だ。

もちろん、大地震による原発施設の損傷や津波による制御不能の事態の可能性がまったくないと言っているのではない。少しでも重篤な事故が起きる確率を低減させてほしいし、そうした努力を電力会社は続ける義務があることを否定しているのではない。(ただし事故の確率はゼロではない)

メディアはものごとを単純にすることには天才的だ。東京電力福島第一原発で、津波による重篤な事故が起きた。これは事実だ。初めての経験の中で、時の政府は混乱し、東電にも明らかに事故後の対応に瑕疵があった。それに菅直人という「類まれな」おバカ首相のために混乱に火を注いだ。これもほぼ事実だろう。
少し落ち着くとメディアによる「犯人捜し」が始まり、「原子力ムラ」という「一大犯罪組織」が存在することが報道される。このへんから怪しくなってくる。そのムラの構造や原子力政策の歴史などは十分斟酌された報道はいまだあまりなされていない。
そして「ムラ」社会だから原発すべてが「怪しい存在」として規定される。
リテラシーの低い“大衆”は、冷静な判断よりも、メディアの「見出し」に洗脳され、「思い込み」が「事実」として認識されてくる。

かくして、大飯原発は信頼のない人々が稼働させている危険なものと規定される。だから、些細(と思われる)トラブルを発表しなかったことが「大問題」となり、「今後はどんな小さなことも報告する」ことになっていく。

これって、本当にいいことなんだろうか。担当者は原発を安全に動かすことに注意を向けるより、メディアへの対応に神経を使うことになる。ヒトの行うことには限りがある。限られた要員の中で、つまらぬことに人的資源が使われ、本来業務が疎かになる懸念は大きい。現場を萎縮させるだけだ。

「フェイルセーフ」のことをかつて書いた。フェイルセーフがあるからこそ、警報が鳴るのであって、それをいちいち報告がないと咎める愚は、どうしようもない。メディアのこうした論調を眺めているとだんだん気分が悪くなってくる。

菅直人は官僚嫌い、つまり官僚や官の組織(東電もその範疇だろう)をまったく信頼しない性癖から、「自ら動き」、混乱を増幅させた。よくもわるくも、任せた以上、結果がどうであれ「信頼」するところからしか、物事は始まらないのではないか。

メディアと大衆のキャッチボールから生み出される「幼稚な法則」は、収まりそうにない。

2012年6月15日金曜日

震災は日本に分断をもたらしたのではなく、顕在化しただけだ

すでに旧聞の話しではあるが、東日本大震災によって、日本に様々な形の「分断」が生まれたことが、いろいろ指摘されている。
曰く、震災によって東北は分断された。フクシマは原発事故によって「分断」された、と。またがれきの広域処理を巡っては、被災地とそれ以外の地域での「分断」も新聞・テレビを賑わした。

開沼博氏は文芸春秋5月号の「続・フクシマ論~空白に見える未来~」で、鋭い指摘を行っている。
マックスウェーバーの近代化論になぞらえて、脱原発派、原発嫌悪派の人々の「再宗教化」現象を記し、そのことが、人々の「分断」を生んでいることを指摘している。なかなか鋭い考察だ。

一連のがれき処理を巡る「分断」については先に別項で書いたが、斉藤環氏の指摘、「けがれ」の思想が的確な指摘だ。斉藤氏は毎日新聞での寄稿(2月26日)で、「がれきを受け入れに理解を示す自治体は次第に増え処理は進む。心配なのはがれき処理そのものではなく、ケガレの思想の残る中で、受け入れ自治体の『被害者意識』と被災地の『負い目』について十分な手当がされないこと」だと心配していた。

実際その後、斉藤氏がすでに2月の段階で予想した通り、がれきを受け入れる自治体は次第に増えてきた。ちゃんと数えた訳ではないが、地理的に近い東日本が多いような気がする。反対に北九州市では、一部の人々の激烈な拒否・反対運動がニュースになった。(もっともマスコミはあまり騒ぐのは「よくない」と思ったのか、新聞の扱いは小さく、写真掲載も一部にしかなかった。良くも悪くもマスコミは情報を操作する典型だ。)

「分断」は、震災で生まれたのはない。もともとあったものが、震災をトリガーに顕在化しただけだろう。「けがれ」を感じる人々の意識が惹起されたのだ。
西日本に根強く残る「けがれ」の思想。それは何なのか、東日本で育った私には正直よく分からないし、どう受け止め考えていいのかも分からない。

それは西日本でも一部の人たちだけの「思想」かもしれない。「分断」などと煽っているのはマスコミだけなのかもしれない。何なのか。

しかし東北の人々は決して忘れないだろう。
五山の送り火に岩手の木が受け入れられなかったことを。その少し前には、福島で作られた橋げたも一時的に「受け入れ拒否」されたことを。
一部の人々の騒ぎでも、それは被災地とそうでない地域んぼ両方に、深い「トラウマ」を生んだことだけは確かだ。

一番残念だったのは京都市長が、「反対」の声に押されて右往左往したことだ。彼が毅然とした態度をとっていれば、被災地の人々の心の傷も小さかったのではなかい。
東西は昔から分断されていたのだ。
書くことによって考えを進化させようとしたが、この問題だけはどう「まとめて」いいか分からなくなった。ただ思い出しのは、在野の歴史学者、故・網野善彦さんの著作だ。
好きでよく読んだが、網野さんは、はっきりと西日本と東日本が「違う地域」であることを指摘していた。(今回、著作の内容を確かめた訳ではないので、主な著書を揚げておきます。)

○網野善彦さんの著作



元から分断されていたので、「しかたない」と言っているのではない。その事実にきちっと向き合わなければ、分断は解消されないと思うから、あえて指摘するのだ。


○網野さん余話。網野さんが亡くなって中沢新一氏が甥っ子だったことは初めて知った。
確か文芸雑誌「すばる」に短期集中連載された「僕の叔父さん・網野善彦」は、けっこう興味深く読んだ。






2012年6月6日水曜日

「東京新聞」という貧困ビジネス


中日新聞(首都圏では「東京新聞」)は、首都圏の主な新聞(読売、朝日、毎日、日経、産経、東京)の中で唯一、消費税増税反対を訴え、社説で「所得税中心の税制がよい」と主張する。原発にも大反対だ。しかし主張レベルは「市民運動」のアジテーションの域を出ない。

一時期この東京新聞を定期購読していた。小学生新聞を卒業した息子が朝、新聞を読みながら朝食をとるものだから、こちらの読む新聞がなく、2紙とっていたのだ。東京新聞のいいところは、共同通信が配信する、まあ、まもとな記事があることだ。書評など文化面は結構参考になるし、海外特派員の小話は面白い。どの記事が共同配信で、どの記事が東京(中日)オリジナルなのかわからないが、共同配信記事が、このおバカ新聞を一定のレベルに保っているのは確かだろう。

だが、あまりにも「市民運動家的」主張を社説等でするのに、嫌気がさして、半年で講読はやめた。


考えてみると、ケインズの「美人投票論」ではないが、メディアは、その読者の望むことを書く。これ当たり前のことだ。購読料が朝読毎日経より安い東京新聞の読者は、市民運動家的ご主張を好む、また消費税イヤと単純に考える層なのだろう。

特定の階層(それは無視できない規模だろうが)向けに、その読者が喜ぶように書いている新聞なのだ。だから所得税中心と言うが、どうやって所得を把握するのか、どうやって海外に逃げていくクラスを日本に留めるのか、また、電力不足でどうやって産業の活性化を図るかなど、東京新聞にとってはどうでもいい、そんなこと考えないから「ご主張」に盛り込むこともない。要するに権力者(と思われている側)の施策に反対し、批判だけしてさえいればいいのだ。


週刊現代から

ところで、週刊現代の大型連休号に興味深い記事が載っていた。
その名も「全国長者番付を実名公表」するだ。

愛知県の№1は、中日新聞の最高顧問、大島宏彦(78歳)だ。
再録すると、大島氏は東大法学部卒。資産約380億円。年収約1億3,000万円だという。中日新聞社が発行する一般紙4紙の合計発行部数(朝刊)は毎日新聞を抑え、日本第3位。戦時下に財政困難に陥った中日ドラゴンズを初代オーナーである父・一郎氏が私財で救ったとある。

特定層を愛読者にして「反消費税、反原発、反権力」を掲げる新聞社は、こういう方をオーナーに頂いているのだ。もちろん働いている方々は、オーナー一族とは違うだろうが、読者を喜ばすことで糧を得ていることには違いない。


これを一種の「貧困ビジネス」と言ったら、いい過ぎだろうか。
中産階級(この言葉事態が死後になりつつあるのは承知している)ならば、好みの違いはあれ、朝読毎+日経などが一般的な講読形態だろう。リタイア層、年金生活者層になると、新聞も、少しでも安いもにと、東京に変えたりするのは想像に難くない。

自分の身の回りのことしか考えない(人が多い)年金生活者層が増えれば増えるほど、東京新聞の「愛読者」は増えていく構図だ。

(ちょっと乱暴な論理展開だと自分でも思うがブログだから許して)。