2012年7月5日木曜日

「君子豹変す」はいいことだ。野田首相


「君子豹変す」というのは、よく否定的な意味で使われる。でもそれは間違いだ。

① 〔易経革卦〕 君子は過ちをすみやかに改め,善に移ることがはっきりしている。
② 俗に,今までの思想・態度が急に変わること。
(net版大辞林より。)

別のnetの用語解説によると
▼易経の原文をたどると、「君子豹変、小人革面」とあり、「立派な人物は、自分が誤っていると分かれば、豹の皮の斑点が、黒と黄ではっきりしているように、心を入れ変え、行動の上でも変化がみられるようになる。反対に、つまらぬ人間の場合は、表面上は変えたように見えても、内容は全然変わっていない」と述べています。 
と書いてある。


さしずめ野田首相は、君子豹変すそのもだろう。民主党のマニフェストが書かれたのは3年以上も前。リーマンショックが起きる前だ。(リーマンショックがどのくらいの「ショック」なのか私には正直ちょと分からない)
いずれにしろ、その後世界経済は悪化したのは確かだし、よく言われる日本の国債残高の異常な多さは、シロウトが見ても、どう考えてもまともじゃない。そうした状況を受けて、野田さんは消費増税に突き進んだ。君子豹変した。


それは大半の新聞大手の支持を得、また産業界からも支持されている。これはこれで「民意」だと思う。(が、東京新聞にとっては「民意」ではないらしい。)

消費税増税の時、あんなに反対した日本商工会議所や小売業団体、主婦連(もはや力もないだろうが)なんかも「反対している場合じゃない」ことがよく分かっている。

経済学者やエコノミストの中には、日本の個人金融資産がまだ1200兆円あるとか、日本国債はほとんどが国内で消化されているので「大丈夫」という人もいるが、その理屈はもはや通らなくなっている。

◆菅直人のブレーンだった阪大の小野善康は、この手の主張を昔からしていた。かなり古くなるが「景気と経済政策」(岩波新書)には、じゃぶじゃぶ国債を発行して景気を刺激しろというようなことが書いてあり、当時国会の自民党側の参考人としてそうした発言もしていた。当時この本を読んで、どうもうさん臭い感じがしてので、どういう訳かそのことをハッキリ覚えている。時の政権(小渕のころだったかな)の膨大な国債発行にお墨付きを与えた「戦犯のひとり」だと理解している。
菅はなぜ小野をブレーンにしたのか。経済がわからない(自ら学んで分かろうとしなかったと言った方が正確か)菅が、耳障りのいいことばかり言う御用学者に飛びついたのだろう。(割と最近、朝日が小野を持ち上げたインタビューをしていたのには驚いた。)




話しが逸れたが、新聞は今になって民主党のマニフェストを「財源の裏付けのない絵空事」と書き立てるが、当時はそれほどの主張は見当たらなかった。
マスメディアの「後出しじゃんけん」は、毎度のことだから驚かないけど。


ともかくも財務相も務め、また経済をよく学習している(方だと私は思っている)野田首相が、消費税増税に「命懸け」なのは、何も財務省のあやつり人形だからでも、頑固一徹だからでもないと考えるのが自然だろう。本当に日本の財政の行く末を心配しているのだ。そしてその心配はかなりの確率で「正しい」


マスコミに登場するエコノミストで信用がおける(と思われる)発言をしている人は意外に少ない。
阪大・大竹文雄さん、慶應・樋口美雄さん、一橋・小林慶一郎さん、みずほ証券・上野泰也さん、バリバ証券・河野龍太郎さん、などなど。
(ほかにもいるでしょうが、今すぐに思いついた人ですこれは)


こういう信じるに値する経済人で消費税の増税が必要ないと言っている人はいない(はずだ。)
もちろん消費税を上げれば大丈夫と言っているのではなく、「その先の日本」はまだ心配しているけど。


欧州危機の第一波がきた時、新聞各紙・NHKの(お手軽)世論調査では、消費増税もやむなしとい「意見」が割と多かったと思う。が、日を経て消費増税が政争の道具にされ、最初の危機感が薄れてくると、メディアのおバカ報道もあり、世論は次第に「増税反対」に傾いていった。


野田首相は、日和らなかった。そこはエライと思う。だって選択肢としては、先送りもできたのに、そうしなかったのだから。



◆◇◆◇◆◇◆
世論がどうして「消費税反対」に変化していったのか。メディアはあまり分析していない。だって自分たちの煽る報道で変節していったのだから分析なんかできないのだろう。
人は無意識に嫌なこと(増税)をなるべく見ないよう、考えないないようする。当初増税が必要と考えていても、なかなか政治が決められないで期間が長くなると、次第に否定的な思いが大きくなる。それで世の中が回るのかといった「(増税反対に)都合の悪い情報」は意識から排除されていってしまう。それが続いて世論は変節していった。「いまのままでもいいじゃないか」と。同様の無意識の心理変化は不勉強な国会議員にも表れていったのだろう。小沢ガールズたちなどは。



お笑い「小沢一郎」を書いた、3日の新聞各紙社説

「お笑い『小沢一郎』」というのがピッタリなのかもしれない。
小沢が離党した翌日の新聞各紙の社説を読みくらべてみた。「お笑い『東京新聞』」以外は、どれも似た論調だから、あまり面白みはない。多くの人が感じているそのまんま。
それにしても、この人はどこまで日本の足を引っ張るのだろうかね。まあそれも近いうちにようやく終わるのだろうけれど。

●日経:
「破綻した2009年のマニフェスト(政権公約)の順守を求めるだけで、具体的な財源捻出策を示さぬ元代表らの姿勢は無責任だ。」と切り捨て、「選挙基盤が弱い若手議員が多いこともあって、新党の前途は極めて多難だ。」とご親切に心配している。

●産経:
離党者が意外に少なかったのを「小沢氏の一連の行動に対し、国民が冷ややかに見ているだから」とし、「今回の小沢氏の動きを見れば・・・またかというのが率直な印象だろう」と述べ、「自らの権力を守ることを最優先させる『小沢政治』は今回の離党劇で完全に終焉を迎えたのではないか。」と切り捨てた。

●読売:
「党内の路線闘争に敗れ、追い込まれた末の離党である。」とし、民主党がむしろすっきりし「党内の一体感が高まり、政策決定が円滑に進む可能性もある」とした。

●朝日:
「実行不能の公約を振りかざし、またぞろ政治をかき回す。そんな小沢氏に対する、民意の疑念が読み取れないか。」と、小沢の裸の王様ぶりを指摘。

●毎日:
「もともとの狙いである党内の主導権奪還の展望がなくない、離党に追い込まれたというが実態ではないか」「『数は力』の手法の古さ、いびつさを吐露したと言える」と冷ややかに分析した。

●東京:
「小沢氏の『壊し屋』としての悪癖が出たとの味方が喧伝されるが、そうした切り口だけでは事の本質が見えてこない。」として小沢の離党は民主党崩壊の始まりであり、崩壊の理由は、自民と似通った政策を推し進め、「民の声が届かない政治」だと、小沢批判より民主党の政策に噛みついている。

こうしてまとめてみると、特異な東京新聞以外、小沢氏への冷ややかな目は各紙どれも大差はないようだ。ちょっと面白みに欠けるが、まあこれが本筋なんだろう。

「小沢さんさようなら。」といったところか。

※実はこの項は、「君子豹変す」から掘り起こして書き始めたけど、そこの部分が長くなってしまったので、分けました。分けると、自分でも「何が言いたかったのか」わからなくなってしまいました。


7月1日読売新聞より「引用」

7月3日毎日新聞より「引用」
7月3日朝日新聞より「引用」

7月3日日経新聞より「引用」

7月3日産経新聞より「引用」

7月3日東京新聞より「引用」

7月3日読売新聞より「引用」

7月4日朝日新聞より「引用」


2012年7月3日火曜日

申告漏れに見る中日新聞(東京新聞)という宿痾(しゅくあ)

6月30日朝日新聞より「引用」
東京新聞(中京地区ブロック紙、中日新聞の東京版)が一種の「貧困ビジネス」だという“乱暴”な考えは以前記した。(6月6日)。

朝日に小さく載った、中日新聞の申告漏れ記事は、その論考を強化してくれるものとなった。紙面では、建前ばかりの正論を主張しながら、うちうちではテキトーなことをやっていたのだ。

別に儲けたカネで飲み食いをしたってかまわない。民間企業なのだから好きにやればいい。しかし企業として、きちっと会計処理して社会的責任をはたすのが当たり前だろう。・・・と、「正論」を中日新聞には投げつけたい。

飲み食いしていた記者たちは、おそらく「われわれは“市民”の側に立った“正義の味方”だ。しかも、朝日や読売、日経の記者より安い給料で頑張っている。だから少々飲み食いに会社のカネをちょろまかせて使っても、それは「許される行為」だと思っていたのだろう。

これが中日新聞人の病理、宿痾なのだ。


かつて労働組合というのが非常に大きな力を持っていた時代があった。それは戦後の混乱期から高度成長時代のことだろう。特に、自治労や公的企業体(国鉄、電電公社)などの組合はさまざまな意味で力があった(のだと思う)。

彼らは表向きは、反戦や反権力、労働者の権利を主張しながら、ウラで、幹部たちは経営側とナシをつけて、架空の時間外手当で実質的なカネを手に入れたり、わりと最近問題になったこととして、闇専従をたくさん抱えていた。経営側にもうまくやっていく方策として容認してきた土壌はあるものの、組合側のやりたい放題であったことも確かだろう。一種のルサンチマンの虜囚と言える。

「経営者、体制側は権力を持ち、われわれうより多額のおカネを持ち、得をしている。したがってわれわれは、“少しくらい”不正を犯して利益を得てもそれは許される」という思想だ。

それは丸山真男が「超国家主義の論理と倫理」で指摘した、軍人がある意味で非常に高い「国家的使命感」を持っているが故に、「個人」と「公」の区別がつかなくなり、個人的に私腹を肥やすことが許されると「錯覚」したと指摘した(たぶんこういうことでしたよね)ことと、同類なのだろう。

同様のことを、かつてNHKの報道局職員によるインサーダー取引事件について内田樹さんが論考していたのを思い出す。

こうした「不正が許されると思う心理」は、ある意味では人間そのものの宿痾(しゅくあ)なのかもしれない。残念だけと。

人が複数いる以上、階層ができ、格差ができる。人を図る尺度が地位や得られる金銭、名声など「お決まりの」ものだけはないと言っても、やはりそこに行き着いてしまうのが悲しい現実だ。

皆が豊かになれた時代はまだよかった。しかし、人口が縮み、限られたパイを奪い合いう世の中にあって、現実に将来不安だけが先走る。パイをすでにたらふく食べて、まだ食べる権利を確保している「食い逃げ世代」に、若者が怒りを募らせるのはもっともなことだろう。この怒りを鎮めるには、若者に希望がある世の中を描いて見せなければなるまい。

たかが中日新聞の「申告漏れ」から、大きな話しに展開してしまった。でも結構大事なことかもしれない。こういうことを考えるのは。

2012年6月29日金曜日

朝日のご都合主義 ちゃっかり新聞の消費税の軽減を求める

新聞のご都合主義は今に始まったことではないが、消費税の必要性を再三説き、世論を誘導してきた朝日新聞は、6月21日に、ちゃっかり新聞の消費税を「軽減税率にしろ」と社長自らご主張していた。ちいさな記事)いわゆるベタ記事と言うのだろうか)


驚きを通り越して「お笑い朝日新聞」というのがピッタリだ。
5月20日の社説で「軽減税率は将来の課題で」と言っているのはしっかり見てますよ。


2012年6月28日木曜日

「取る(=定期購読)に足らない」新聞になった精神論の新聞、朝日

自分の考えと違う主張があっても、それに耳を傾ける度量は“多少”はあるつもりだ。少なくとも言論界や論壇を多少なりとも「見ている」立場にあっては。その基本姿勢は常に持って読んできた。
ただしそれは、主張に合理的な理路があり、説得力あるものであればの話しであり、「精神論」を振り回す輩のメディアは論外である。あたりまえだけど。

反原発報道を巡る、新聞各社の社論が真っ二つなのは、かつて書いた。
反原発の朝日、毎日、東京VS.原発容認の読売、日経、産経。この半年あまりの社説を記録して分析中(まとめる時間がなくて・・・)だが、これほどきれいに分かれた主張も最近では珍しいのではないか。なにしろこの問題に関してはファジーな主張はないからだ。原発を認めるのか認めないかの二者選択だけだ。中庸、中間はない。(もちろん認める方に比率につての温度差はある)

6月13日朝日新聞より「引用」
幼稚な主張を繰り返す東京新聞は論外にしても(それでも発行部数からすれば無視できない数だろうが)、昔からクウォリティー紙と言われた朝日の反原発は、どうみても「精神論」の域を出ない。
節電の呼びかけにしてもそうだ。100歩譲って言えば「性善説」に立っているのだろうが、性善説では世の中成り立たないのは、朝日さんに説教するまでもないでしょうに。

野田首相はの大飯原発稼働の必要性を訴える会見で、「精神論では国が成り立たない」と、それまでより突っ込んだ物言いをした。これに対して朝日は、翌日の新聞のコラム「窓」で、「再稼働こそ精神論」と反論した。よっぽどカチンときたのだろう。脱原発を「精神論」と言われたのが。だがやはりどう考えても朝日の脱原発の一連の主張は精神論でしかない。

○喫緊の問題として「地球温暖化」の国際公約はどうすのか。
公約したからというだけでなく、実際ツバルでは海面上昇で国がなくなろうとしている。このところの異常気象。海水の温度上昇で、八重山諸島では白化現象が起きてサンゴが死滅。反対に本土では紀伊半島どころか房総半島沖沿岸でもサンゴの生息が確認された。

温室効果ガスと地球温暖化、異常気象の「因果関係」は科学的にはまだ証明されたとは言えない。しかし多くの人が感じている「昔とは違う異常現象」や温暖化の影響は無視できないし、とりあえず疑われる要因(CO2)を削減するという目標は間違っていないだろう。

しかし朝日さんの主張は違う。脱原発を社論と決めてからは、温暖化問題などなかったように、記事は扱わない。無視していると言っても過言ではない。おそらく社内の暗黙の了解として「この問題はしばらく触らないでおきましょ」というところなんだろう。

朝日は「脱原発」がなぜ可能なのか、どういう道程を踏めば進めるのか。ほとんどまったくと言ってもいいほど触れていない。産業空洞化の問題、開発途上国の今後の経済発展で化石燃料が高騰するリスク。もちろん中東リスクも当然ある。そうしたものは「脱原発」の教祖の前では無視されている。こうした疑問に具体的な施策を提言し、説得力あるものであれば、「なるほどこういう論法で脱原発も可能なんだな」と読者も思えるのではないでしょうかね。それなくしてはこれでは「精神論」そのものだ。開沼博氏の言葉を借りれば、宗教的ですらある。新運動家と巷間呼ばれる人たちの叫びと何ら変わりない。説得性も説明性もない。

○「節電」の精神論
節電については、社説で2回も3回も取り上げ「奨励」しているが、このおかしさにもひと言触れておこう。電力不足によって家庭や企業が電力使用を見直し、無駄をそぎ落とすことは当然だし、多くの人がやっているだろう。しかし「節電」は、どこまでやればいいのかという指標がない。政府は「無理のない範囲で」ときれいごとを言うが、様々な報道で伝えられるように工場、特に中小企業の事業所では血のにじむような努力をして去年の夏を乗り切った。夜間、休日に働き、冷房はかけずに汗だくになって働く姿が、テレビニュースでは何度も流れた。こうした人たちに朝日は「ガンバレ」と言うだけだろう。これって精神論でしょ。「欲しがりません勝つまでは」とかつて皆で歌った(らしい)のと何が違うのか。

6月2日の「あぜん、再稼働」では京都大学の植田和弘教授という「識者」が、
「あの暑い真夏に私はちなぜ、あんなに冷房をガンガンかけてまで働くのでしょう。欧州のようにバカンスを取り、農山村の自然の中で夏を過ごせないものでしょうか。そうすれば電気消費表も減る」と説くのを載せていた。
大学教授とは優雅で知的なショーバイなんでしょうね。この人の眼中にある「欧州」とは、中産階級以上の人しか映らないのであろう。アフリカやアラブからの多くの移民が低賃金で支えている欧州社会の本質なんか映っていない。
「声」欄にも「京都の町家の工夫を生かせ」なんていうのが載っていたりした。集合住宅や一戸建てだって、ほとんど隣とくっつきそうな隙間しかなく庭なんてない家に多くの人が住んでいることなんか分からないおメデたき人々の「声」だ。ルサンチマンの虜囚として言っているのではない。自分の置かれた恵まれた事情からだけ物を言う人の「思慮のなさ」に呆れているのだ。

これは「市民運動」の人々にもよく通じることだ。「わたした市民の声を聞いてください」と叫んでいる人がいるが、この時、市民とは自分たちと同じ考えを持ち、同じ境遇にいる人“だけ”と規定されている。無意識に人を差別化していることに気がついていない。往々にしてこういう人の考えは偏狭で話し合いの余地がないほど教条的だ。あっちの人は市民ではないのだから。
(※湯浅誠さんは「市民運動の立ち位置」で、そのへんのところをやんわり批判した。湯浅さんは決して市民などという言葉を軽々には使わない。


社会人になってからずっと(もうすぐ30年になる)朝日新聞を定期購読してきた。しかし「精神論」の新聞はもういい。そろそろやめにする。家人が楽しみにしている連載小説(朝・夕とも)の現在の連載が終了すれば、その月までにするつもりだ。

朝日では土曜別刷(beeと言ったっけ)や日曜日の書評、夕刊文化面など信頼もおける結構好きな記事もあった。また署名記事では、経済の原真人氏の主張は、脱原発一色のこの新聞にあって、異彩を放つ説得力のあるもので、いつも物事を考える参考になった。だから惜しいけど、これからは勤務先や図書館でナナメ読みだけにしよう。


(でも取る新聞がない。Yさんは江川事件以来基本的に信用していない。Nさんだけだと経済に偏ってしまう。Tは論外、Sは原発や消費税では常識的な論を張るが、皇室や対中関係、対朝関係、戦争評価ではちょっと・・・・。で、Mさんもイマサンくらいだ。かといってS教新聞やしんぶんA旗を取る気にもなれないよね)。


○原真人氏の記事の確かさは、別に論じたい。
○原発はなぜ必要か、説得力ある論考としては、中央公論6月号 豊田正和氏の「日本にとっての最適なエネルギー・ミックスは何か」が参考になる。簡潔にまとめられている。同様の内容は新潮新書「反原発の不都合な真実」に詳しい。

脱法ハーブでハイになる。・・・・なんてことのないように

◆走ることについて語る 別論

大麻を吸ったことも、覚醒剤を打ったことも、シンナーをビニールに入れて吸ったこともないので、いま“流行”の脱法ハーブがどういうものなか知らない。もちろん知ろうとも思わないけど、若い人たちがこうしたものに魅了されていく状況は、おじさんとしては看過できない。

走りはじめて2年ちかく「ほぼシューイチランナー」も膝の腱や足の甲の痛み、ふくらはぎの痙攣、そしていわゆるぎっくり腰など、通過儀礼のごとく経験して、ようやく低レベルだが「安定期」に入った。

ランナーズハイというのがどういうことなのか、(もしかしたら本物は違うのかもしれないが)、少しわかるようになった。ランニングを始めて最初の2,3㎞は体も硬くちょっと億劫だ。5㎞くらが結構苦しいし走るのに飽きてくる。しかし6,7㎞になると、いつしかスーと妙な力みが消えて走りやすくなる。それでピッチがあがる訳でも蹴る力が増して歩幅が長くなる訳でもない。だだ走っていることが「ラク」になるのだ。もちろん息はそれなりに苦しいし、意識していないと腰が落ちてかかと着地になってフォームも乱れてくる。でも「なんとなく走れそう」な気分になるのだ。これがいわゆる「ランナーズハイ」なのだろうか。まだ22㎞以上を走ったことはないが、42.195㎞も夢ではなくなって、完走も現実味が出てくるような心持ちになる。ありていに言えば走ることに「前向き」になる気分だ。
これが結構、快感だ。苦しさの中にあるエクスタシーと言ってもいいかもしれない。
(村上龍氏の小説にエクスタシーという小説があったことを思い出した。これはドラッグの名前だったけど)

人間であれば、いや高等動物であればだれでも快感を求める。それは抑制できない。運動によってそれを得ることができる者は健全だ。中には放火して火を見ることが快感という人間も存在する。どういう方法で快感を得られるかそれが問題なのだ。

脱法ハーブを吸って快感を求める若者たちに、「それはダメだ」と言っても、あまり効果はないだろう。脱法ハーブを違法薬物に指定して流通しないようにしても、それはある程度は効果はあろうが根っこのところの解決にはならない。

要は、若者に薬物に代わる快感があることを教えてあげることだ。走ることだけでもやりようによってはドーパミンが分泌されて快感を得られるんだから。

2012年6月24日日曜日

大飯原発運転再開。箸の上げ下ろしまで報告させる“幼稚”な主張

再稼働の準備作業中の大飯原発3号機で、警報器が作動するトラブルがあった。その公表が13時間もたってからだったことから、新聞・テレビは、発表の遅れを批判的にとりあげ、経産省も「厳重注意」したという。そして今後は「どんな小さなことでも即座に報告」するらしい。

問題となったトラブルとは、発電機のモーターを冷却する水のタンクの水位が低下したための警報で、法令に基づく異常事象ではないため、原子力安全・保安院は、夜中に即座に発表をしなかったという。
これがどの程度の“危険”なトラブルなのかは、シロウトには正確にはわからないが、少なくとも法令で定められたトラブルでないことや、新聞報道などから伺い知れることとしては、冷却用の水位が幾分低くなったので、「水を足して」という警告がなされた程度のものらしいことは伝わってくる。

NHKニュースでは保安院の職員らしい人が会見で、今後どの程度のことまで即座に発表をしていくべきなのか考えていかなければならない、といった趣旨のことを、困惑気味に語っていたのが印象的だった。(きちんとニュースを見ていたのでないので、不正確かもしれない。ただカオが困惑していたのだけは確かだっだ。)


「羹に懲りてなますを吹く」とう諺は誰でも知っているだろう。
(※羹(あつもの)=熱物 肉や野菜を汁を多くして煮たもの・・・ことばんくから)

原子力に対する「信頼が地に落ちて」いるらしいから、地域住民が神経質になるのはある程度理解できる。しかし「地に落ちた信頼」というのはマスメディアが言い出して読者・視聴者とメディアがキャッチボールをする中で増幅されてきた一種の「幻想」である面も否めない。
確かに福島第一原子力発電所は、大きな事故を起こした。(但し、誰も直接的には死亡していないし、重篤は放射線被曝の障害も負っていない。・・・「反原発」の不都合な真実より)
が、大飯原発を始め、現在停止している原発は定期点検のため停止しているのであって、トラブルが原因で停止している訳でも何でもない。にもかかわらず「信頼が地に落ちている」というのは、どういう理路なのかさっぱり理解できない。

まさに「羹に懲りてなますを吹く」以外に適切な言葉が思い浮かばない。
あ、いまこう書いていて浮かんだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だ。

もちろん、大地震による原発施設の損傷や津波による制御不能の事態の可能性がまったくないと言っているのではない。少しでも重篤な事故が起きる確率を低減させてほしいし、そうした努力を電力会社は続ける義務があることを否定しているのではない。(ただし事故の確率はゼロではない)

メディアはものごとを単純にすることには天才的だ。東京電力福島第一原発で、津波による重篤な事故が起きた。これは事実だ。初めての経験の中で、時の政府は混乱し、東電にも明らかに事故後の対応に瑕疵があった。それに菅直人という「類まれな」おバカ首相のために混乱に火を注いだ。これもほぼ事実だろう。
少し落ち着くとメディアによる「犯人捜し」が始まり、「原子力ムラ」という「一大犯罪組織」が存在することが報道される。このへんから怪しくなってくる。そのムラの構造や原子力政策の歴史などは十分斟酌された報道はいまだあまりなされていない。
そして「ムラ」社会だから原発すべてが「怪しい存在」として規定される。
リテラシーの低い“大衆”は、冷静な判断よりも、メディアの「見出し」に洗脳され、「思い込み」が「事実」として認識されてくる。

かくして、大飯原発は信頼のない人々が稼働させている危険なものと規定される。だから、些細(と思われる)トラブルを発表しなかったことが「大問題」となり、「今後はどんな小さなことも報告する」ことになっていく。

これって、本当にいいことなんだろうか。担当者は原発を安全に動かすことに注意を向けるより、メディアへの対応に神経を使うことになる。ヒトの行うことには限りがある。限られた要員の中で、つまらぬことに人的資源が使われ、本来業務が疎かになる懸念は大きい。現場を萎縮させるだけだ。

「フェイルセーフ」のことをかつて書いた。フェイルセーフがあるからこそ、警報が鳴るのであって、それをいちいち報告がないと咎める愚は、どうしようもない。メディアのこうした論調を眺めているとだんだん気分が悪くなってくる。

菅直人は官僚嫌い、つまり官僚や官の組織(東電もその範疇だろう)をまったく信頼しない性癖から、「自ら動き」、混乱を増幅させた。よくもわるくも、任せた以上、結果がどうであれ「信頼」するところからしか、物事は始まらないのではないか。

メディアと大衆のキャッチボールから生み出される「幼稚な法則」は、収まりそうにない。

2012年6月15日金曜日

震災は日本に分断をもたらしたのではなく、顕在化しただけだ

すでに旧聞の話しではあるが、東日本大震災によって、日本に様々な形の「分断」が生まれたことが、いろいろ指摘されている。
曰く、震災によって東北は分断された。フクシマは原発事故によって「分断」された、と。またがれきの広域処理を巡っては、被災地とそれ以外の地域での「分断」も新聞・テレビを賑わした。

開沼博氏は文芸春秋5月号の「続・フクシマ論~空白に見える未来~」で、鋭い指摘を行っている。
マックスウェーバーの近代化論になぞらえて、脱原発派、原発嫌悪派の人々の「再宗教化」現象を記し、そのことが、人々の「分断」を生んでいることを指摘している。なかなか鋭い考察だ。

一連のがれき処理を巡る「分断」については先に別項で書いたが、斉藤環氏の指摘、「けがれ」の思想が的確な指摘だ。斉藤氏は毎日新聞での寄稿(2月26日)で、「がれきを受け入れに理解を示す自治体は次第に増え処理は進む。心配なのはがれき処理そのものではなく、ケガレの思想の残る中で、受け入れ自治体の『被害者意識』と被災地の『負い目』について十分な手当がされないこと」だと心配していた。

実際その後、斉藤氏がすでに2月の段階で予想した通り、がれきを受け入れる自治体は次第に増えてきた。ちゃんと数えた訳ではないが、地理的に近い東日本が多いような気がする。反対に北九州市では、一部の人々の激烈な拒否・反対運動がニュースになった。(もっともマスコミはあまり騒ぐのは「よくない」と思ったのか、新聞の扱いは小さく、写真掲載も一部にしかなかった。良くも悪くもマスコミは情報を操作する典型だ。)

「分断」は、震災で生まれたのはない。もともとあったものが、震災をトリガーに顕在化しただけだろう。「けがれ」を感じる人々の意識が惹起されたのだ。
西日本に根強く残る「けがれ」の思想。それは何なのか、東日本で育った私には正直よく分からないし、どう受け止め考えていいのかも分からない。

それは西日本でも一部の人たちだけの「思想」かもしれない。「分断」などと煽っているのはマスコミだけなのかもしれない。何なのか。

しかし東北の人々は決して忘れないだろう。
五山の送り火に岩手の木が受け入れられなかったことを。その少し前には、福島で作られた橋げたも一時的に「受け入れ拒否」されたことを。
一部の人々の騒ぎでも、それは被災地とそうでない地域んぼ両方に、深い「トラウマ」を生んだことだけは確かだ。

一番残念だったのは京都市長が、「反対」の声に押されて右往左往したことだ。彼が毅然とした態度をとっていれば、被災地の人々の心の傷も小さかったのではなかい。
東西は昔から分断されていたのだ。
書くことによって考えを進化させようとしたが、この問題だけはどう「まとめて」いいか分からなくなった。ただ思い出しのは、在野の歴史学者、故・網野善彦さんの著作だ。
好きでよく読んだが、網野さんは、はっきりと西日本と東日本が「違う地域」であることを指摘していた。(今回、著作の内容を確かめた訳ではないので、主な著書を揚げておきます。)

○網野善彦さんの著作



元から分断されていたので、「しかたない」と言っているのではない。その事実にきちっと向き合わなければ、分断は解消されないと思うから、あえて指摘するのだ。


○網野さん余話。網野さんが亡くなって中沢新一氏が甥っ子だったことは初めて知った。
確か文芸雑誌「すばる」に短期集中連載された「僕の叔父さん・網野善彦」は、けっこう興味深く読んだ。






2012年6月6日水曜日

「東京新聞」という貧困ビジネス


中日新聞(首都圏では「東京新聞」)は、首都圏の主な新聞(読売、朝日、毎日、日経、産経、東京)の中で唯一、消費税増税反対を訴え、社説で「所得税中心の税制がよい」と主張する。原発にも大反対だ。しかし主張レベルは「市民運動」のアジテーションの域を出ない。

一時期この東京新聞を定期購読していた。小学生新聞を卒業した息子が朝、新聞を読みながら朝食をとるものだから、こちらの読む新聞がなく、2紙とっていたのだ。東京新聞のいいところは、共同通信が配信する、まあ、まもとな記事があることだ。書評など文化面は結構参考になるし、海外特派員の小話は面白い。どの記事が共同配信で、どの記事が東京(中日)オリジナルなのかわからないが、共同配信記事が、このおバカ新聞を一定のレベルに保っているのは確かだろう。

だが、あまりにも「市民運動家的」主張を社説等でするのに、嫌気がさして、半年で講読はやめた。


考えてみると、ケインズの「美人投票論」ではないが、メディアは、その読者の望むことを書く。これ当たり前のことだ。購読料が朝読毎日経より安い東京新聞の読者は、市民運動家的ご主張を好む、また消費税イヤと単純に考える層なのだろう。

特定の階層(それは無視できない規模だろうが)向けに、その読者が喜ぶように書いている新聞なのだ。だから所得税中心と言うが、どうやって所得を把握するのか、どうやって海外に逃げていくクラスを日本に留めるのか、また、電力不足でどうやって産業の活性化を図るかなど、東京新聞にとってはどうでもいい、そんなこと考えないから「ご主張」に盛り込むこともない。要するに権力者(と思われている側)の施策に反対し、批判だけしてさえいればいいのだ。


週刊現代から

ところで、週刊現代の大型連休号に興味深い記事が載っていた。
その名も「全国長者番付を実名公表」するだ。

愛知県の№1は、中日新聞の最高顧問、大島宏彦(78歳)だ。
再録すると、大島氏は東大法学部卒。資産約380億円。年収約1億3,000万円だという。中日新聞社が発行する一般紙4紙の合計発行部数(朝刊)は毎日新聞を抑え、日本第3位。戦時下に財政困難に陥った中日ドラゴンズを初代オーナーである父・一郎氏が私財で救ったとある。

特定層を愛読者にして「反消費税、反原発、反権力」を掲げる新聞社は、こういう方をオーナーに頂いているのだ。もちろん働いている方々は、オーナー一族とは違うだろうが、読者を喜ばすことで糧を得ていることには違いない。


これを一種の「貧困ビジネス」と言ったら、いい過ぎだろうか。
中産階級(この言葉事態が死後になりつつあるのは承知している)ならば、好みの違いはあれ、朝読毎+日経などが一般的な講読形態だろう。リタイア層、年金生活者層になると、新聞も、少しでも安いもにと、東京に変えたりするのは想像に難くない。

自分の身の回りのことしか考えない(人が多い)年金生活者層が増えれば増えるほど、東京新聞の「愛読者」は増えていく構図だ。

(ちょっと乱暴な論理展開だと自分でも思うがブログだから許して)。


図説 ジョギングMAP 多摩川周回コース

Jog Note の東京都のジョギングコース ベスト4位置されているのが、「多摩川周回コース」だ。
(ちなみに 1、2位は皇居 3位は赤坂御所です。)

http://www.jognote.com/jogmaps

ほとんど「多摩川周回コースしか」走ったことのない者から、多摩川大橋~二子橋までの距離を
図説します。これは「距離測」で測ったものですが、GPSを使ったATLASランナーズコンピュータでもほぼ同じ距離が出ています。(当たり前か)

ちなみに拙宅から丸子橋たもとの交番までが、往路1.5㎞(多摩川駅そば経由)、復路(中原街道を一直線)1.2㎞なので、これと組み合わせて走っています。



川崎側から見た 二子多摩川 

丸子橋 交番前から撮影




菅直人は単なる「市民運動家」でしかなかった、2つのエピソード

イラ菅 本領発揮
原発事故調査委員会の参考人で証言した菅直人元総理大臣殿は、東電に乗り込んで「陣頭指揮」をとった時、怒鳴り散らしていたことについて、「夫婦ゲンカの時より小さい声だった」とのたまった。(テレビニュースから)
こういう場にこうした例えを出すこと自体、ほとんど民放テレビのバラエティー番組に出てくる「おバカキャラ」そのものだろう。物事をちゃかしていい時と悪い時があるという社会人としての基本的な作法そのものを知らないことを吐露しただけだ。
その菅について、最近新聞に載ったエピソードを紹介する。アサヒとサンケイという東西、でなかった“左・右”の横綱が、図らずも菅の人となりを書いているのが面白い。

12.4.30 朝日新聞より「引用」
①朝日の記者有論「諫早湾対立の15年 開門なしに『毒水』消えぬ」から
判決が確定したのに諫早湾干拓の潮受け堤防を開聞する見通しがたたない。判決を確定に導いた菅も当然開門を主張。それなのに進まないのは絡み合う利害を解きほぐすプロセスが抜け落ちているからではないのかと、昨年菅氏にインタビューした。
その時地元の反発を指摘したら、怒り出した。「ちょっと(君は)現場に居すぎるじゃないか。原理原則に立ち返らなきゃ。じゃあこじれなければ何でもいいの?」と言った。
彼からすれば開聞は官僚の巨大利権をぶちこわすという大義の実現なのだろう。だが決断しさえすればいい、というのは無責任に思えた。そういう姿勢が開聞を遠ざけたのではないかと、この記者は書いている。




12.6.3 産経新聞より「引用」
②6月3日の産経新聞「日曜日に書く・危機に最も不適格な菅元首相」から

原子炉復水器の専門家として、3.11の自己発生直後から首相官邸に助言・提案を行っていた上原春男氏。3月20日には、上原氏の事務所に民主党の原口一博元総務相や大串博志内閣府政務官らが集まり、原発事故対応を協議していた。そこで原口氏が携帯電話で菅氏に連絡し、上原氏に取り次いだところ、こんなやりとりがあったという。
▽菅「あなたのリポートには目を通したが技術的に理解できない。私が、外部冷却装置をどこに着けていいのかわからないので決定できない」。
▽上原氏は「そんなことは首相が考えるべきことではない。やるかやらないか決断はできるでしょ」と言うと、菅は突然激高して、延々とわめきちらしたという。その声に上原氏は恐怖さら感じたという。















「世界3月号」で湯浅誠さんが書いた、「社会運動の立ち位置」という論文に、市民運動家から批判が出たといういう話しがあった。そのことについて、市民運動家(と割れる人々すべてではないだろうが)は、(権力や巨大組織を)批判することには慣れているが、批判されることには耐性ができていないという「推論」を別項で考察した。
菅はまさに批判されることを「恐れ」、それにさらされると「怒り」という「弱さ」を吐露したのだった。

こんな人間があの3.11の危機の時に、日本の首相だったというのは、トホホというほかない。産経新聞の言うとおりだ。



2012年6月5日火曜日

走ることについて語る⑤「初めてブラをはずして街に出た時・・・」

ランナーに圧迫タイツは必要か。

「初めてブラをして街に出た時より、初めてブラをはずして街に出た時の方が緊張した」

昔(20年くらい前だろうか・・)、確かワコールの女性のインナーのCMのキャッチコピーに、こういうのがあった。正確な文言は忘れてしまったが、主旨はこういうものだった。なぜか気に入って記憶に残っている。

自分をガードしていてくれる物(女性ではないのでブラがそういうものなのかどうか知らないが)を取り去った時の緊張と解放感は、ブラに限らないだろう。
走り始めた時期、ひざ痛が怖くてサポーターをして走った。それでも痛みは決まって訪れるし、どれだけ効果があるかはわからないが、「付けている安心」はあった。一昨年の12月、ぎっくり腰を“患った”後、スキーをするのが怖くて、がっしりした腰のサポーターを購入し、また膝にも金属入りのサポーターを付けていた。




一度付けることに慣れてしまったサポーターは、外すのが怖い。でもこのままではダメだと思い、ぎっくり腰が概ね回復し、腹筋・背筋を鍛えられるようになって、そして膝の痛も上手く付き合えるようになると、こうした大仰なサポーターは、思い切って外した。以来、サポーターや流行の圧迫タイツには頼らないことにしている。



その気分が、冒頭に記したコピー「初めてブラを・・・」だったのだ。
圧迫タイツは、それなりの効果はあるのだろう。ましてシロウトランナーにとっては、ないよりマシなツールかもしれない。多摩川べりを走っていると、多くの人が、C3fitやnorth faceやMIZUNOなどの「黒いタイツ」姿を見かける。でも、履かないことにした。
何をするにしても道具は必要だ。しかし道具に頼りすぎるとかえって、自分の能力の芽を摘んでしまうこともあるのではないか。どれだけが「必要最小限」なのかは人によって違うだろう。だから圧迫タイツのランナーを咎めることはしない。
スキーでもランニングでも「ブラをはずす気分」を忘れないようにしたい。

2012年6月4日月曜日

フリマから学ぶ「ショーバイ」の大変さと市場経済

横浜国際プールでのフリマ 客はあまり多くはなかった気がする

一般人にとっては、フリマ=フリーマーケットは、お気楽なものである。捨てるには忍びない不用品を誰かが有効に使ってくれればと、たとえ二束三文でも売れて、片付けばいいという気分なのだから。
たまりににたまった愚息のブロック玩具(LEGOという)やミニ電車模型(Nゲージという)、また多数の衣類やカバンの類を持って、5月最後の日曜日、横浜国際プール前のフリマに参加した。初体験である。
受付は午前8時、フリマの開始時間は9時。7時前に到着して場所取りして(まだ3,4組しか来ていなかったので好位置をキープ)。しかし“商品”を並べ始めると、すぐにLEGOマニアがやってきて、なんと9時前にすべて売れてしまった。まったく予想していなかったこの事態には驚きだった。

そして衣類なども早い時間ほど売れ、午前11時ころからはほとんど売れなくなった。結局、午後1時まで粘ったが、子ども用のスキー靴やスキーウェア、ヘルメットは売れずじまいだった。(冬物が売れないのは当たり前か)
私も家人も育った家庭は公共性の強い会社、公社勤めの家でで、これまでショーバイには無縁の人生。いわば初めて体験する「市場経済」だった。
ウィンタースポーツ用品は全く売れず
どういう時間帯にどういうものが売れるのか、どう「セールストーク」をして買ってもらえるのか。結構緊張する行為である。相手が購入を迷っている時、値下げするのか、強気に出るのか、おそらく経験と勘がものを言う現場なのだろう。

結果、うまくいったかどうかはわからない。何しろ元の値段がないのだから、売れて幾ばくかの金銭が入れば御の字なのだ。フリマの出店費用など諸々の諸経費が出ればそれでよしとするのが、フリマだ。これにハマる人もいるそうで、炎天下、自ら作った小物を根気よく売っている人もけっこういた。

それにしても「商売」とは大変だと思う。日々商売を生業にしている人には当たり前の話しだろうが、お金を払って商品を仕入れ、店舗や人件費など固定費、利益を算出して売り値を決め、そして売る。日々、買ってくれる人がいて初めて金銭が回収でき、利益を得て生活する。作って売る、食品を扱う商売であれば、なおいっそうたいへんだろう。

そんな「市場経済」の一端を経験できただけでも、中学3年の愚息にはいい経験になった。LEGOに関しては、商品説明を丹念に行い、買い手の心を動かし、買ってもらうことができた。
この日の横浜国際プールのフリマの出店数は、数えなかったので正確には分からないが、30~40だったと思う。プロらしき店は1店だけだった。

ところでフリマは、今やひとつの「ビジネスモデル」になっている。
リサイクル市民の会のスタッフが3,4人、出店場所の線引きから台車の用意、受付などを行い、催しを仕切る。出店料と車の駐車料を徴収し、会場にショバ代を支払い、彼らの人件費もここから出すのだろう。
LEGOはすぐ売れた。ザックも売れた。
フリマを出して改めて感じたのは、モノが豊富ないまの日本の現状と少子化で子ども用品の使い回しがあまりされない実情だ。
数値を比較した訳ではないが、衣類の相対的な価格は昔に比べて安くなっているだろう。また、数や種類も豊富だ。(ユニクロを思い浮かべるまでもない)。

勢い、ひとり息子の小学生時代の衣類も、並べてみると、こんなにあったのかと驚くばかりであった。それもユニクロではない、ファミリアやオンワードなど「ブランド物」だ。


年いってやっと授かったひとりっ子には、無意識にカネがかけられていた。そしてそれを使いまわす兄弟も親戚もいなかった。古着屋に持っていっても50円、100円の世界。フリマで800円から900円で買ってもらえ、利用してもらえるのは、実にありがたいことだった。

聞いた話しだが、場所によって客層がぜんぜん違うそうだ。そうすると売れるものも違ってくる。商売も同様だろう。大学で学んだマーケティングの知識など何も思い出せなかった。が、市場を理解するには、現場の実践を理論化していくことが必要なのだろう。

こうして書いていて、ひとつのことを思い出した。ハーバード大のMBAの教科書に、日本で生まれた2つのことが書いてあると、以前テレビ番組でやっていた。ひとつはトヨタのカンバン方式、もうひとつはセブンイレブンのノウハウだ。もちろんどちらも理論から生まれた実践ではなく、製造や商売の実践から生まれたノウハウだ。実践から生まれたものの強さは言うまでもない。

学ぶことは実践を積むことでもある。そんな当たり前のことを改めて肝に銘じた。

○追記
モノを売るという行為は、買った人が喜んでもらえることがモチベーションだろう。買ってよかったと思ってもらえることが、次に売ることの励みになる。しかし、だ。売れないと、とにかく買ってもらえればいいという思いが頭をもたげてくる。買い手に必要なものかどうか、ふさわしいかどうか、またそれが適正な価格か、商品に瑕疵はないかなど、どうでもよくなってくる誘惑にかられる。
わすが数時間のフリマでのショウーバイでもそういう気持ちになってしまうのだから、ホンモノの商売ではなおのことだろう。その誘惑をどう克服していくか、結構大きな問題かもしれない。
上手く回っている時はいいが、売れない時にどうするか。それはショウーバイだけの話しではないのだろうが。






2012年5月25日金曜日

走ることについて語る④ 「手段」が「目的」に変質する時

「山と渓谷」4月号の「単独行」の特集記事を読んでいて、以前は年に100日近く山に入ったが、いまはランニングが主になり、山行が格段に減ったという女性が対談記事で載っていた。(記憶で書いているので、日数などは不正確です。)

これを見て、「やっぱり」と思ってしまった。
ランニングを始めたきっかけは、加齢による体力を補い、スキーや登山をより快適にできるようにするため、つまり「手段」だった。だから、格好から入るということはなく、Tシャツに山用のハーフパンツ、安売りのズック靴で始めたのだった。

しかし、回を重ねるうちに(それまで、思ってもみなかった膝の痛みやスタミナ切れなど自分にとってはタイヘンな経験をしたが、そのことは割愛)、ちゃんとした靴を揃え、ウェアーもそれなりのものを購入し、そして本屋やジムでランニング雑誌を見るようになるにつけ、大会にも出たいという意欲がふつふつと沸いてきたりしてきた。

図書館で借りてペラペラめくったが、
あまり面白いとは思わなかった。
山行の計画を立てた時、ふいにあたまの中に「山に行くとその日は走れないな」なんで思ってしまって、走ることが、いつのまにか自分の中で「目的」化しかかっていることに気付いた。いけない、いけないと、誘惑を振り払うように「山を捨ててはいけない」と言い聞かせた。

トレイルランはもともと山ヤだった人が多いのだろうか。実情は知らないが、なんだかそんな気がする。私は“まだ”その境地まではいってない。

ランニングがそうであるように、「手段」が「目的」に変質していいものはある。しかし、その変質が弊害を生むことも多い。


例えば、防衛は一国の身の処し方の問題であり、外交など他の要素との兼ね合いで決まる。防衛は国にとって「手段」でしかない。しかし防衛省の当事者にとっては、どの装備をどう充実させるかというディテールが大事になり、それは「目的」と化す。

こんな例は枚挙にいとまがない。お役所でなくても大きな組織だと、「部分最適」が採用されて、全体のリソースを眺めまわして「全体最適」を決定することができなくなる。経済で言う「合成の誤謬」というやつに似ているのではないかな。どんな組織でも、悪意をもってコトを進めている人はそういない。みな立場上よかれと思って行動している。しかし全体を見渡すと、本当にそれでいいのかということになる。

ちょっと話しが逸れた。
人は「走るために生まれてきた」のかもしれないが、「走ることだけ」が「生まれた目的」ではない。あたりまえのことだが、走ることが「目的」になっていく。そう誘因される「何か」が走ることにはあるのかもしれない。

2012年5月24日木曜日

団塊世代サラリーマン リタイア後の正しい過ごし方考え方。

まだ60代前半。体力も知力も、多少の財力もある。そして仕事がない分、時間だけがたくさんある。40代で建てた一軒家のローンも終わった。子どもは独立した。妻は地域活動や友人との交友に忙しい。家にいるとうっとおしがられる。そこで、地域のスポーツクラブに入会した。月会費は9,800円。で、毎日行く。元を取ることが、若いころから身に付いた習性だ。

若い女性のインストラクターがウェイトトレーニングの器具の使い方を教えてくれる。筋トレをすると、最初は筋肉痛に悩まされたが、慣れてくると結構気持ちいい。腕も幾分太くなった。マシンでのランも苦でなくなった。
密かに携帯音楽プレーヤーを買った。パソコンから昔のCDの音楽を流し込み聞いている。財津和夫や井上陽水、小田和正、よしだたくろうだ。ユーミンも入っている。家で聞くとバカにされそうで恥ずかしくて聞けない。運動用のイヤホンをつけ思う存分音量を上げて走りながら聞く。ヨコで走っているヒトが迷惑だと視線で訴えていることなんか気がつかない。気にしない。

終わったあとはジムの風呂でくつろぐ。サウナもある。洗い場にはシャンプーもボディソープも完備されている。たっぷりつけて泡立てる。なにしろタダだからいくら使っても気にならない。タダのものは使いたいだけ使う。シャワーの湯も勢いよく流しっぱなしで使う。家では「もったいない」ので、チョロチョロしか使わないので、ジムでは遠慮しない。石鹸の泡が周囲に流れ出しても気にしない。

ジムでひと汗かいてゆっくり風呂につかって、出てきたころは丁度昼だ。ジムのあるターミナルには昼食場所は事欠かない。安い蕎麦屋やうどん屋がいくつかあるし、カレー屋やラーメンもある。サラリーマン時代から外で昼処を見つけるのは手慣れたものだ。

現役サラリーマンで混雑するが、お構いなしだ。たっぷり時間をかけて席に居座る。
午後から行くところは地域の図書館に決まっている。各種週刊誌が何曜日に発売で図書館の閲覧室に並ぶかアタマに入っている。たっぷり時間をかけて読む。これもタダだ。
時には気晴らしにチェーン店のコーヒーショップに行く。ここでも粘る。4人掛けをひとりで占領して何時間いても平気だ。

夕方帰宅すると、5時頃から民放ではニュースショーというバラエティ番組をやっている。どこもグルメ企画が目白押し。チャンネルをザッピングしながらあれこれ見ていると、じきに夕飯だ。一杯飲んで気持ちよくなってあとは寝るだけ。

これが「正しい時間の過ごし方」だ。ジムで鍛えているから、すこぶる健康だ。

世の中では消費税の増税が議論されている。冗談じゃない。消費税増税はごめんだ。われわれは、ベビーブームの申し子として生まれ、義務教育は1クラス50人以上もの過密状態で過ごし、高校、大学と受験戦争を勝ち抜いてきた。そして高度成長の先兵として、これまで働いてきたんだ。年金はもらえるだけもらうが、払うものはできるだけ少なくしたい。

将来世代のことなんか関係ない。ユーロ危機なんて対岸の火事だ。子ども手当なんかやめてしまえ。われわれはそんなんのなくてやってきたんだ。若い世代にはわれわれのために働いてもらえばいいんだ。自分の子どもだけは、いくばくか財産を残してあげて守ってあげるけど。他の若い盛大の人々は関係ない。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

明け番業務のあと、平日の午前中 ジムへ行くと、60代とおぼしき男性は多い。振る舞いを見、ロッカーでの会話に耳を傾けると、こんな姿が浮かんでくる。
体力も知力のありそうな方々。そのエネルギーをもう少し社会に役立てる手立てはないものだろうか。

2012年5月23日水曜日

世田谷プールの「構造問題」 東京プール難民、番外編

世田谷総合運動場 温水プール 外観


 東京体育館の50mプールが休止になって、首都圏近郊の50mプールを探訪するシリーズ。
辰巳の国際水泳場、横浜国際プールと見てきたが、最後は世田谷温水プール。
ここにはかつて、小学生の子どもを連れてよく通った。何しろ元旦から開いている(年末は休止)ので、3年続けて1月1日に一家3人で泳ぎに行ったものだ。今回訪れたのは5年ぶりくらいか。5月19日(土)の午前中、そんなに混雑はしてはいなかった。

東京の区の設置で50mプールを持っているところを他に知らない。おそらくないだろう。

世田谷区の人口837,185人(市町村便覧 平成24年度版)。千葉市・936,809人(同)よりも少ないが、堺市・837,977人とほぼ同等、新潟市・803,072人より多い。
県でも、山梨県 857,690人(41位)、佐賀県 846,922人(42位)、福井県 803,216人(43位)〔いずれも2012年〕に匹敵する、世田谷区は、大規模自治体だ。もちろん東京の区で一番人口が多い。

(この機会に予算規模も調べてみたが、世田谷は2,800億円余りに対して、今年度、山梨県は約4,600億円、新潟市は3,573億円と、いずれもはるかに大きい。教職員や警察は都道府県職員だし、地理的なさまざまな条件などもあるだろうから単純には比較できないが、地方に手厚い予算が透けて見える。)

さて、まずプールの一般的な状況を報告。(後段で、この施設の構造問題を論ずる)
「世田谷総合運動場温水プール」は、運営母体が“指定管理者”の「世田谷区スポーツ振興財団(公益団体法人)」だ。財団としてのHPもちゃんと持っていて
http://www.se-sports.or.jp/index.php
区の外郭団体としてはなかなかのものだ。
役員・評議員名簿(http://www.se-sports.or.jp/pdf/about/index_meibo.pdf)や
職員、理事長の給与まで載っている。

「世田谷区スポーツ振興財団」では、運動場とプール6か所、体育館3か所、トレーニングルーム1か所の運営を行っている。(HPより)。

●コース設定
プールは50mと25mの2種類。
25mは水深が90㌢程で主に子ども用だ。自由遊泳が4、往復コース1、ウォーキング1。
50mプールは片道コースが2、往復コースも2、ウォーキング1、自由遊泳3の構成だ。(土日の場合)。平日は貸し切りが入り設定が異なるようだ。
驚いたことに(忘れていたのだろう)、ここも横浜国際プールと同様、「追い越し可」なのだ。スピードによるコース分けをしていないので、往復コースでも、真ん中をどんどん追い越していく。これはこれで、結構合理的なのかもしれない。「追い越し可」については、あとで考察する。

●休憩時間
休憩時間は2時間ごとに設けられている。
最初は9時50分から10時。オープンが9時なので、オープンと同時に入って着替えてなんやかなと
やって泳ぎだすのが10分すぎだど、わずか40分で1回目の休憩時間がきて、中断させられる。

プール入口は階段を下りた地下1階
●シャワー室
公立のプールはたいていそうだが、ここもシャワー室でのシャンプー、石鹸の使用禁止だ。「サラリーマンが勤務前にひと泳ぎ」なんていうのは想定していないのだろう。

●ロッカー
比較的大きめのボックスも相当数あるが、更衣室は狭い。シャワーはブースが4つあるだけ。ドライヤーも固定式の簡易なものが4,5台あるだけだ。洗面台にコンセントはあるので、髪を整えたい人はドライアー持参であyるしかない。

●客層、運営状況
HPによると結構厳格に「集団指導」を規制しているので、いわゆるもぐりの水泳スクールはないようだ。(東京体育館はひどかったヨ) 場所柄子どもの数は多いがほとんどは25mプールか50mでも自由遊泳エリアにいるので、あまに気にならない。

●コース設定について
片道コースは、2人が並んで泳げるが、どちらが“追い越し車線”なのか指定はないので、ゆっくり派はどちらを泳いでよいのか分からない。で、往復エリアで泳ぐことに。一番端のコースを泳ぐ。
追い越されててもいいように、なるべくコースロープ、又はプール側壁ギリギリで泳ぐ。
速い泳ぎ手が時々左側を抜いていく。追い越し組みはほぼクロールなので、狭くても手足がぶつかるような心配はない。スムーズな流れだ。「追い越し可」も、この意味では合理的設定だろう。
問題はこちらが追い越したい時だ。私が追い越すのは、あまりにスローなご老人やビート版を使ってバタ足でコースを泳ぐ子だ。コース半分(往路)の幅いっぱいを使って、時には蛇行しながら泳いでいるので、追い越すのも、ちょっと怖いくらい。こういう人に気を遣えと言っても無駄なので閉口する。監視員の「指導」が入ることはない。少なくともそうした状況には遭遇しなかった。

どこまで細かく規則を作るか、は実は悩ましい問題だ。あまりに規定しすぎては運営する方がタイヘンだし、泳ぎ手にも多少の自由度はほしい。しかし「常識はずれ」の輩が無神経にコースを独占していると、何とかしてほしいと思うことも多い。

●アクセスは悪セスだ。
世田谷温水プールの最大の難点は、交通の便が悪いこと。公共交通機関はバスで行くしかない。利用したことないので詳細は知らないが、成城学園(小田急線)や二子玉川(東急線)がバスの最寄駅だろう。しかしいずれも時間がかかる。
また自家用車で行くにしても、駐車場が施設全体の規模に比して狭く、すぐ満車になる。また何か大会があると貸し切りになり、一般車は駐車できなくなる。これでは近隣の住人以外来るなと言っているようだ。以前行った時は駐車場に何十分も並んだ覚えがある。

●総括 「撮影禁止」から考える、規制とサービス向上
プールの建屋の構造は洒落ている。1階の入り口から吹き抜けになっている地階に下りたことろが入口。1階からも、また入口近くからもプールがよく見える明るいガラス張りになっている。
当然のことながら、「撮影禁止」。ヘンな輩が多いので、禁止にするのは、変質者への対応の未然防止然という観点からはやむを得ない措置なのかもしれない。しかし子どもと行った時に感じたのは、親心としてはわが子の泳ぎがうまくなる姿を撮影したいと思うし、記録に残したい。そうした機会をすべて奪ってしまうのは寂しい。なんとか、折り合いの付く方法はないものか、他の公的な施設でも感じたことだ。

一般に管理者は事故や特異な目的の撮影者などの行為を防ぎたい。当然だ。だから、運営者の責任に帰するおそれのある事については、規制は厳しくするしそれを厳格に守ることが使命になる。しかし利用者は、納税している区民(が主)なのだから要望にも耳を傾ける必要があろう。しかしたいていの場合そうはならない。公的機関の管理者には「サービス」という感覚が皆無だからだ。利用者の思いなど二の次だ。とにかく事故・不祥事なく平穏に運営されて責任が来ないようにするだけだ。

サービス感覚がないのは、なにも「撮影禁止」だけではない。使い勝手の悪い更衣室や休憩時間の設定など、このプールだけでも様々な改善点はある。しかし、少なくともこの7、8年だけでもそれは変わっていない。

休憩時間についても最初9時50分にあることは、なんとも理解し難い。HPには「お客様の健康管理と安全管理のため」と記してある。最初は50分弱しか泳げないのにそのあとは2時間間隔。合理的理由があるとは思えない。単に規則をそう決めて、なんの思慮もなく、それを守っているだけだろう。そもそも「健康管理のため」という休憩時間が必要なのか。休憩時間を設けていたらそれが守られて、設けていないと健康が損なわれる事態になるのか、根拠は何もないと思う。

それなりに利用者がいるから、駐車場の整備や快適な更衣室を整備などという発想は出てこない。公営施設の弊害が随所に出ている。

お客様の「苦情・要望」への回答書 ファイルにもなっている。
入口近くには、ご意見箱が置かれて、「利用者様のさまざまなご意見・ご要望にお答えします」という姿勢を見せている。これがまたクセものだ。公的団体として、行政サービスの一貫だからこうした目安箱を設置しているのだろう。しかし用紙には、ご丁寧に「名前やメールアドレスは書かないでください」となっている。匿名が条件だ。この姿勢は、施設側の逃げでしかないだろう。匿名性を強要しておいて、公表する回答方式にしている。あくまでも個人(のクレーマーと言いたいのだろう)には個別にお答えしませんという、装置と化している。中身をいくつか読むと、ハンで押したような紋切形の回答ばかりだ。
要するに、「お客様のご要望はよく分かりました。」とまずクレームに理解を示しておいて、「しかしながら、○○××の理由により、現状のようになっているのでございます」と言った具合だ。さすがお役人主体の組織だ。あっぱれ。最初から、クガス抜き装置になっているだけだ。



そしてここからが、本項の本題。サービス精神がないのは、運営主体の構造問題だからだ。

◇◆◇プール運営の構造問題◆◇◆
「世田谷スポーツ振興財団」のHPを見ると、いろいろ興味深いことが分かる。
「沿革」を見ると平成11年に財団設立、平成23年4月から「公益団体法人」に以降している。そして
平成24年4月、「総合運動場で3度目の指定管理者開始」としれっと書いてある。
つまりこの財団が言いたいのは、公平な競争によって「指定管理者に選ばれました」ということだ。
この2階に「財団」の事務所が入る

公正な競争原理が働いたかどうかを検証するのは非常に難しい。発注する側が様々な条件をつけて、事実上「参入障壁」を作るのはたやすいからだ。これからもこの財団が世田谷区の「指定管理者」であり続けるだろう。なにしろ理事長は元世田谷区の教育委員長。会計監事には現役の世田谷市役所職員がなっているのだから。ちなみに教育委員長は通常、教育行政側のトップのポストだ。ということで、ほとんど事実上、独占請け負いの事業だ。競争原理が働かない分、サービス向上など考えるインセンティブは働かない。


※東京体育館はセントラルフィットネスが指定管理者になって、更衣室やふろ場の改装など(どちらが先かは知らないが)が行われ、確かに“民営”のメリットが実感できている。

そしてもうひとつ、財団のHPにか記されていない事実をつかんだ。プールで実際に運営にあたっている人たちは「トーリツ」という会社の人々だ。おそらく財団の正職員はプールサイドにはひとりもいない。
トーリツとはどういう会社か。HPがちゃんとある。http://www.toriz.co.jp/
元々、ビル清掃の個人事業を大きくしてきた会社だ。清掃から始まって、ビルの空調管理や運営管理に手を広げ、いまでは公共施設の管理運営を手広く行っている。HPで、最近横浜国際プールの「指定管理者」(のひとつ)になったことを宣伝している。しかし「主な取引先」に他の区は載っているが世田谷区の名はない。これは財団から業務を請け負っているからなのだろうが、意識的にそれを隠していると受けとれる。だって、普通、企業にとって公官庁との取り引きは信用の指標になるし積極的に公表したいことだ。実際、他の区の名前は列挙されている。

この会社の概要を見ていて驚いた。常勤職員は、事務職5、技術職8、一般職(営業・業務)40、非常勤(パート・アルバイト他)が682人となっている。トーリツには支店・営業所が9か所ある。ということは、現場で運営している人間のほとんどは、パートやアルバイトということだろう。

世田谷温水プールで監視業務にあたっている者のシロウトっぽさが気になって「あなたはは世田谷スポーツ振興財団の職員ですか」と聞いたら、「運営会社のトーリツの者です。」という答えが返ってきて、カラクリがわかったのだった。

財団は、プール(だけじゃなくて、おそらく施設管理全般を)の管理をほとんどトーリツに業務委託という形で丸投げしている。そのトーリツも実際に働いているのは、非常勤。これでは、関越道で事故を起こした、どこかの旅行会社とバス会社と同じではないか。だから彼らには顧客へのサービス
向上という考えは発生しない。

断っておくが、私は「下請けがいけない。パートやアルバイトは能力が低い」と言っているのではない。非常勤でも優秀な人はたくさんいる。区の職員ならばよいということでは決してない。言いたいのは、サービス向上へのインセンティブが働かないことが、構造化されていることだ。
おそらく財団の人間はこう言うだろう。「これまで運営してきて、だいたい利用者に満足頂いている。特に運営に問題になっている所はない」と。民間のように、よりサービス向上を目指そうという気は、発想からして存在しないのだ。競争原理が働かない限り。

明らかになったこのプールの下請け構造で一番悪質なのは、こうした請け負い構造事態を財団が隠していることだ。財団のHPにはトーリツのことはいっさい書かれていない。

世田谷区長さん。脱原発、脱東電に熱心ですが、もう少し足元の構造と、その状況に目を向けることに限られたエネルギーを使ったらどうでしょうかね。