2012年3月15日木曜日

放射能と食品添加物 リスクをどう考えるか



食品の放射能の問題を考えていて、ふいに以前読んだ書籍を思い出した。
「食品の裏側」はなかな興味深い本である。単に食品添加物の「怖さ」を煽る本ではない。元食品添加物のセールスマンが、様々な添加物について丁寧に説明し、どう付き合うが導いてくれている。
興味深いのは「味は科学的に作り出せる」ということだ。特定のフルーツの味を添加物だけで作り、それを主婦に食させる実験の話が面白い。全員が、添加物だけで作ったとは分からなかった。また、うどんを打つのが大変になった手打ちうどん屋に、軟化剤を売り込んだら、もうその誘惑から抜け出せなくなったという話しも出てくる。(記憶で書いているので、ちがったらすみません。)

いずれにしろ、ふつうの生活をしてる私たちは食品添加物から絶対に逃れられないということだ。おそらく農薬も化学肥料も同様だろう。それは、確かに「リスク」である。健康被害もあるやもしれぬ。しかしそのリスクをどの程度と考えるかは、人それぞれであろう。そういうことを踏まえて、少し気を遣いながら日々生活をしているのがフツーの人ではないのか。

実際この著者も、。出張に行く途中で買う弁当にはかならず添加物は入っているのだから、添加物入り食品を過剰にならないように注意しながらも食べていると書いていた。


先日テレビで「放射能の影響はゼロでなければだめだ」と、訴えていた主婦のインタビューが放送されたいた。しっかり見てはいなかったので、どういう文脈での発言かは定かでないが、子どもへの影響を心配していたように思う。
こういう方には、放射能以外のリスクの情報もきちんと教えて差し上げて、絶対安全な食品を食べるようお勧めしてあげた方がいいだろう。食品添加物、農薬、化学肥料を「ゼロリスク」にして、生活するには、すべての食品を自給自足で賄う必要があると。いやそれでも大気中のダイオキシンの心配もある。空気も作り出す必要があろう。コストだけでなく、手間暇がたいへんだ。とてもサラリーマンにはできない。

食品の放射能の基準を4月から厳しくすることが決まっている。しかしどんなに厳しくしても、「信用できない」と言う人はいる。どうにもならない。新聞テレビの報道も、「国は明確な基準を示せ」と急き立てるが、実際「基準」を示すと、それに不安を覚える人のコメントを載せ、疑問をなげかける。
たから基準などいっそなくていいのではないか。どのくらいの量の放射能を食品から摂ると、例えばガンではどのくらいのリスクがあるのか示せばよい。喫煙の20分の1とか、肥満の30分の1とか言ってくれればよい。それをリスクと考えるかどうかは、消費者が判断することだ。

だって、どんなにお上が基準を決めても、かならず不安を訴える人、マスコミはいて、この国では「ゼロリスク」以外受け入れないのだから。

最近はあまり見かけないが魚介類に含まれるPCBの量について、厚労省が1年に食べてよい許容量を示した例があったように思う。トロをたくさんたべるか、少しにするかは、その人が判断すればいいことだから。(きちっと調べてみよう。この項を書きながら思い出した)

走ることについて語る③ ストイックということについて

走ることは、ある面非常にストイックだ。スキーや登山、また水泳やテニスなどポピュラーな運動では、腹が出ている人は、まあよくいる。が、走る人ではいない。
出腹を引っ込めようと走り始める人はいても、基本的に走る(ある程度の距離)ためには、腹は出ていられないのだ。ポピュラーな市民スポーツでこれほどストイックな種目は他には思いつかない。

金哲彦さんの著書だったか、体重が1キロ落ちるとマラソンのタイムが3分縮まると書いてあった。フルマラソンで3分が正確かどうかは分からないが、走り始めて分かることは、体重が軽い(つまり余計な脂肪分がない)方がラクに走れるし、気持ちがいい。

だから走る人は、おそらく例外なく体重管理に気を使うようになる。つまり食事に気を使う。それまでと同様の食生活を送っていても、ある程度は体重が落ち、体もスリムになる。しかし運動だけではやはり限界がある。食事を改めてはじめて「理想体重」に突き進んでいけることが、身体で分かってくる。

そうなると実生活でどういう「影響」が出てくるか。(私の場合)
○外食を好まなくなる。パスタやカレー、焼き肉、中華など、手軽な外食で「おいしいものを食べたい」という欲求は減り、カロリーのわかるものを自然に食べるようになる。(もちろん外食はするが、たいてはそば屋だ。)
○肉は少量だけ食べてもおいしく、それで満足できる。(足りないタンパク質はプロテインで摂る)
 ○野菜はたくさん食べたくなる。

あまり運動をしないような方々から見れば、ストイックに見えるかもしれない(実際、そんなんで生活楽しんでるの?と真顔で聞かれたことがある)が、実は少しも苦ではなく、たくさん食べることがかえって体重が気になりストレスになる。

この道の私の先達が言っていた。「一度スリムになると、太ることが恐怖になり、それでまた走る」と。そう、太ることはランナーにとって「恐怖」なのだ。恐怖というストレスを避ける行為は、心をラクにこそすれ、苦ではないということである。

走ることはストイックと、冒頭に書いた。しかし当事者にとっては少しもストイックでないというまったく逆の言説になった。

※ランニング雑誌を見ていると、読者紹介には「月間走行距離○○キロメートル」というのが必ず載っている。こういう人たちの食生活を知りたい。

2012年3月13日火曜日

放射能問題が露わにした、オーガニックな人たちの底の浅さ

NHKの首都圏向けニュース番組で、興味深い企画リポートを放送していた。東日本大震災による原発事故の影響で、風評被害を受けた茨城県の野菜生産地の話しだ。震災後、この地域では、いわゆる「放射能の風評被害」で、出荷する野菜などの価格が下がったが、いまは、ほぼ平年並に戻っているという。
しかし、有機栽培を手掛けてきた農家は、顧客が離れたままだという。取材した有機栽培農家はお得意さんが3割しか戻ってこないということだった。

これまで有機野菜を購入していた人々は、農薬や化学肥料を嫌う、なるべく避けたいと思う、「不純物」に敏感でエコロジーな人々であろう。それはそれでよい。多少価格が高くても子どもにはなるべくオーガニックなものを与えたいと思う人々は当然いる。わたしも多少はそうだ。

しかしそうした人たちが購入していた有機野菜の生産地が原発に近いという状況になると、消費者は現金なものである。放射能の影響がとたえわずかでも、健康被害があるかもしれないと思うと、もうそこからは購入しない、ということなのだ。

有機栽培農家と、ネットなどを通じたその購入者(消費者)は、普通の生産者・消費者よりも、より強い信頼関係で結ばれた、お互い顔の見える間柄と思われていた。少なくとも私はそう思っていたし、生産者側は、割高な(通常、有機栽培は普通のものより高い)野菜を好んで購入してくれる人々に、信頼感を抱いていただろう。

しかしひとたび、生産者の責任とは無関係であっても「放射能」という、オーガニックな人々が警戒する要素が入るやいなや、購入者は逃げてゆく。こうした消費者にとっては、「産地」はどこでもいいのだ。生産者が「誰か」というのも実は副次的な要素でしかなかったということだろう。

ネットをサーフィンすれば、日本全国で有機栽培農家はいくらでも探せる。もしかしたら、これまでより、もっと条件のいい所が見つかるかもしれない。何も好き好んで「原発に近い農家」から購入する理由はないのだ。こうしたオーガニックな消費者は、敏感なだけに「逃げ足」も早い。

東京の西の端、自宅に近くの駅そばに有機食材を売り物にしたミニレストランが開店し、宣伝ちらしが自宅ポストに入っていた。そのキャッチコピーを見て驚いた。
「放射能で弱まった免疫力の回復に、ぜひどうぞ」とある。
「有機」を売り物にする店がすべてそうだとは言わないが、少なくともこのミニレストランにとっては、「有機食材」は単なる客集めのためのツールでしかないことを、このキャッチコピーは如実に表している。
生産者の思いは、消費者には言うに及ばず、消費者に“安心”を届ける存在のオーガニックショップやレストランにも届いていないということだろうか。

香山リカ氏が中央公論2012年3月号に興味深い論考を書いている。
「覚悟のない自己愛人間たち」
要約すると、いま世間には口では「世の中の役に立ちたいんです」と言いながら、心の内側では「とはいえ、私が損をするのは困る」「私は安泰でいたい」と思っている人が増えている。
昔、精神疾患の病歴のある人をアパートに入居しようとして拒絶される時、説得に行くと、「あんたがそこまで言うなら信用しよう」と、入居を認めてくれる人がいた。いまは、顔ではニコニコ理解を示しながら、いろいろ理屈をつけて断る。
「無知ゆえに精神障害者を危険、迷惑な存在と思い込んでいる」のであれば説得のしよもあるが、「私も理解者です」と言いながら断固として断る「笑顔の拒絶」ほどやっかいなものはないのだという。
香山氏はこの現象を「自己愛過剰」で説明する。
「少しでもリスクが増えそうな施設、人などが私の近くにやってくることだけは避けたい」「私さえ安全であればそれでよい」「私のような(特別な人間が)危険にさらされるなんて」という肥大した自己愛だ。
「自己愛過剰社会」(河出書房新社)はアメリカに蔓延した自己愛過剰人間がいかにコミュニティーや社会を蝕んでいるかを克明に記していることを紹介し、それを後押ししているのは、セレブを賞賛するマスコミは「誰でも簡単に目立つこと」を可能にしたブログ、ツイッターなどのネットコミュニケーションであることを指摘する。

香山氏の論を借りれば、放射能の影響を過剰に不安視して、原発に近い有機栽培農家から逃げてゆく、オーガニックな消費者は、すべてではないにしろ、単に自己愛過剰な人々とみられるのではないかな。

がれきの受け入れ問題も同様の現象として説明できるのだろう。

2012年3月12日月曜日

東京大空襲報道に見る、日本人の宿痾(しゅくあ)

3月11日は1945年(昭和20年)の東京大空襲の日だ。10万人以上が犠牲になった大空襲として、新聞の首都圏版やテレビの首都圏向け放送では、これを特集することが結構多い。おそらく読者、視聴者の評判もいいのだろう。だから特集を組む。
日本人に限ったことではないだろうが、「被害者としての私」を取り上げてもらえることは、心地よい心情に違いない。「こんなに大変だったんですよ」と。
しかし東京大空襲について、「アメリカ軍の責任」を厳しく追及する記事を見たことがない。これまで皆無だったとは思わないが、少なくとも目立ったものはないし、「被害者としての東京の民」ほど繰り返されてはいまい。広島・長崎の原爆投下、沖縄戦の犠牲など、「戦争の悲惨さ」を伝える報道の中で、なぜアメリカ軍の責任は追及されないのか。もっと言えば、アメリカの責任は、いつも隠されている。これがもし「加害者」側が中国や朝鮮・韓国だったら同じような論調で報道されているのだろうか。メディアが保守系、リベラル系に限らずだ。
結局、日本は「アメリカの52番目の州」と揶揄されても仕方がない国なのだろう。(それでもいいという論調もあり、一定の説得力を持っている)アメリカを加害者として糾弾することは日本にはできない相談なのだ。それが日本のエートス、少なくとも1945年以降の日本においては、スタンダートな選択であり、日本人の屈折した感情という「宿痾」なのである。

別にアメリカ軍の責任をもっと厳しく追及しろとは思わない。しかし戦争という国と国との戦いの中で、常に犠牲者と加害者がいて、そのどちらも当事者だということは「東京大空襲」でも忘れてはならないことだ。
また、国民は「犠牲者」、国は「加害者」という分け方は、物事を必ずしも正しく理解することにはつながらない。わわわれ「国民」自身も「加害者としての自分」を引き受けなければならない。

それができないと、名古屋市長の河村たかしのように、「南京大虐殺はなかった」ということを公人として平気で発言する人間が出てくる。

「宿痾」は治らない。治そうとしても無理だ。だからこのこのメタリティーを持ちながら、上手に付き合っていくしかない。
※虐殺の規模についてはいろいろ論争はあろうが、「なかった」という論は異常だ。それも根拠が、そういうことはなかったと叔父から聞いたという「伝聞」でしかないのは驚いた。彼を市長に頂く名古屋市民はあわれだ。

野口みずきは、尾崎好美 女子マラソンの2人の闘い方に学ぶ

日本人1位 尾崎好美
日刊sports webより引用
名古屋ウィメンズマラソンは、尾崎好美(30)が日本人1位(2時間24分14秒)になり、五輪の金メダリスト野口みずき(33)は6位(2時間25分33秒)に沈んだ。
野口はレース前半でペースメーカよりも前に出てレースを引っ張ったが、17㎞付近で先頭集団から脱落。後半一度は先頭集団に追いつく粘りを見せたが、登り坂でついて行けなかった。尾崎は反対に常に先頭集団にいながら決して前に出ることはなく、うまくレースを運び、スパートしたロシアのマヨロワにはついて行かず、「日本人1位」にこだわった走りで、最後に中里麗美を振り切った。
野口はなぜ、シロウトにも無謀と思えるペースメーカーの前に出る走りをしたのか。おそらく最初からじわじわ差をつけて行き、その貯金で走り抜かなければ勝てないと、「一発勝負」に出たのだろう。、年齢的なことこ、股関節の故障のことなどから、後半でスパートされるとついていけないことをすでに悟っていたのだ。しかし、それは実を結ばなかった。

尾崎はしたたかに、いわゆる「勝負にこだわった」。彼女の(今回のレースの)目的が「五輪代表になる」こと、その1点だったことがよくわかる。無理もない、2度レースで失敗していて、今回が最後のチャンス。また年齢からするとロンドン五輪の次はないからだ。
このブログを書いているころには、おそらく五輪代表に内定するだろう。(午後3時40分 内定のニュース速報が流れた。)

しかし尾崎は、おそらく五輪では勝てない。どのくらいの成績を残せるか想像できないが、8位入賞が精一杯だろう。でも彼女にとっては初めて(そして最後になるであろう)五輪の大会に参加することが目的なのだから、きっとそれで彼女自身は満足するだろうし、周囲や日本の観衆もそもそもそれ以上を期待はしない。そして尾崎は五輪参加を契機に、レースからは引退する(はずだ)。

泣きながらフィニッシュ
野口みずき
日刊sports webより引用
しかし野口みずきは、たとえ選考レースに勝って五輪代表になっても、アテネのメダリストという接頭語は消すことができない。再び金を期待されてしまう。そのことを彼女は無意識に悟っていたのだ。だから「引っ張るレース」展開をした。レース後のインタビューで野口は、もう一度、多くの人たちの声援を受ける五輪の舞台で走りたい、という趣旨のことを言っていた。彼女にとっての「承認要求」は、かつて味わった「五輪で優勝して注目されること」だったことがわかる。
比較的地味な野口は、五輪後、高橋尚子のようにはマスコミにもてはやされることはなかった。彼女を奮い立たせるものは五輪への道以外見つけられなかったのだ。

スポーツ選手には2タイプがあると思う。ある程度の成果を残すと、スパッと引退し、他の展開を考え道を歩むタイプ。もうひとつは、ずっと現役にこだわるタイプ。どちらがいいとか悪いとかという問題ではなく、生き方の問題だ。なぜ現役にこだわるのか、それぞれ理由はあるのだろうが、その一つが「過去の成功体験」の呪縛なのかもしれない。(野口がそうだとうは、必ずしも言えないと思うが・・・。)

成功体験と、それに伴う注目、賞賛の目が忘れられず、同じものを追い求めてしまうことは、ヒトに限らず企業の生産活動でもよくあることだ。しかし、願いが成就しない場合、傷が深くなり、ますます「成功体験」の夢から抜け出せなく陥穽もあることは、認識しておかなければならない。

尾崎の選択は、「身の程」を知った走りだった。そして彼女は「身の程」の生き方をこれからも選択するのだろう。それも悪くはない、と思う。

PS:
まだハーフの距離しか走れない私にとって42,195㎞を走り切る時に「どう走るか」というその構成は想像もつなかない。でも2時間20分~25分という長い時間の中で、「1分」という差が、そんなにたやすいものではないことは、少しは分かる。


2012年3月8日木曜日

「穢れ」と「言霊」。 原発問題、がれき問題の根っこはこれだった。

朝日に載った環境省の全面広告 山手線の吊り広告にもあったが、
なぜか、読売、日経などでは見かけなかった。
東日本大震災によるがれき問題で、環境省が朝日新聞に協力を呼び掛ける全面のカラー広告を出した。政府も野党も自治体に対して協力を促している。
なぜ放射能とまったく関係ないがれきまで、受け入れてもらえないのか。一部のヒステリックな人々が強い拒否反応を示すのか。

一番納得のいく説明がされたのは、精神科医の斉藤環氏だった。
2月26日の毎日新聞紙上で、斉藤氏は言う。
「通常の地域エゴと様相が異なるのは、津波による被災地のがれきまで、ほとんど放射性廃棄物も同然の扱いを受けているから。これは京都の五山送り火で、岩手・陸前高田の松が拒否された時点で予想されたもの。最近でも子どもに青森の雪を見せようとした那覇市の企画が反対の声でいったん中止に。こうした反応の根底には「放射能=穢れ(ケガレ)」の発想がある。」と。


震災直後には、福島で製作された橋げたが西日本の自治体で拒否されたこともあった。福島県産だけでなく被災地域の農畜産物を忌避する、いわゆる風評被害も同様の構図だろう。メンタリティーも含め、それらは「不浄」なものとして日本(特に西日本)の(一部の)人々に意識化されているのだ。


斉藤氏は「戦後日本でケガレが科学的根拠を圧倒したケースは「らい予防法」くらいしか思いつかない。」と書く。一番納得のいく、「腹に落ちる」説明であった。


では「放射能は穢れた存在」という「空気」が醸成された要因はどこにあったのだろうか。政府のアナウンスの不手際。(結果責任はあるものの、初めての事態で同情の余地はあると思うが・・・)、そしてマスコミの冷静さを欠いた報道。受け取る側のリテラシーの問題。すべてが相まって、穢れの「空気」が出来上がった。これが日本人のエートスなのだろう。


一方、原発問題について、どうして安全が確保されなかったのか、いわゆる「原子力ムラ」が形成されたのか、雑誌エコノミスト(2011年6月7日)で、2人の経済学者が鋭い指摘をしている。大垣昌夫(慶応教授)・大竹文雄(阪大教授) 。

「ことばには霊の力があるから悪いことを言うと実際にそのことが起こる」という古代からの言霊(ことだま)信仰 故に 「最悪の場合」は可能性があっても言及しないよいとされる」。「現 代日本社会の考え方は、言霊信仰そのもの。この文化の最大の欠点は最悪に場合について冷静な議論をし ないこと。」だと指摘する。

「本来官僚が担ってきた役目だが、官僚は自分の任 期内に最悪のことが起こらない可能性が高いなら沈黙を保つ。 原子力の安全神話維持されてきた背景はここにある。」と。
同様の指摘は確か東洋経済誌上で北川達夫氏もしていたようい記憶する。

原発を建設・維持していく過程で、少しでも「安全性は絶対ではない」という、いわば当たり前のことが、電力会社も政府も公の席では絶対口にできなかった。つまり「絶対安全」という説明をするしかなかったのだ。

日本人の「不吉なことを言うと本当になる」という、言霊信仰がために。
そしていつしか、原発当事者たちは、「絶対安全」という自らの「主張」に縛られ、最悪の場合の備えを怠ってしまった。「原発の安全神話」は、当事者たちが進んで作り上げたのではなく、大衆の要求によって作り出されたのであろう。

「原子力ムラ」はさんざんメディアで叩かれ、今回の事故の諸悪の根源、つまり「原因」として描かれた。しかしそうではない。最初からムラが形成されていたのではなく、原子力政策が、反対運動の中で進められていくなかで次第に身を寄せ合ってできた「結果」なのである。

電力会社や政府を擁護するつもりはない。当然結果責任はある。しかし彼らの瑕疵の一端は、われわれの側にもあるということだ。いま、巷で蔓延する「ゼロリスク」信仰も、言霊信仰と同類のものだろう。

「穢れ」といい、「言霊信仰」といい、どうしてわれわれはこうした「迷信」に縛られるのか。自らは「合理的だ」と思っていても、やはりその呪縛から逃れられていない自分の自戒も込めて。


ジャックラカンは難しい、
私には。しかし読む価値はある。
毎日新聞の斎藤環氏のコラムはしばしば鋭い。
ジャック・ラカンの解説本だと思って読んだが、正直ちょっと難しかった。しかしラカンに接した初めての本でもあり、「読んでよかった」。





2012年2月27日月曜日

14位に沈んだ川内。ほくそ笑む日本陸連。東京マラソン

2月26日の東京マラソンで、川内選手は14位に沈んだ。その日のスポーツニュースも翌日の新聞もあえて見ていないので原因や彼の「その後」は知らないが、日本テレビの中継を見ている限りにおいては2つのことが分かった。

①日本陸連はほくそ笑んでいる。
前にも書いたが日本陸連は川内の存在には「戸惑って」いただろう。何しろ、お金と時間をかける日本陸連がエリートとして育てる(と、思う)実業団ではない市民ランナーの活躍は、彼らの面目をつぶすものでしかない。実際、福岡国際マラソンでの瀬古(陸連理事)での冷たいコメントはそのことを如実に表していた。今回、川内が25㌔に至る前に脱落すると、瀬古はほとんど彼にコメントしなくなった。
7分台を出した藤原(時事通信より引用)
「川内が遅れた!」と絶叫する実況のアナウンサーのコメントだけがむなしく響いていた。その中で、サブ解説の高橋尚子のコメントは的確だった。
「川内の存在は、間違いなく実業団選手のプライドをを刺激し、奮起につながった。その意味で彼の存在は大きい」と。
陸連所属の藤原の勝利(日本人2位)とタイムは陸連の面目を回復した。ただ陸連にとっては手放しで喜べないだろう。7分台を出した藤原は30歳。おそらく陸連的には過去の人だったはずだ。だから実業団の所属の斡旋もうまくいかず彼はフリーでプロ走者としてやってきたのだ。彼らの意中の選手たちが活躍したのかどうかは、分からない。藤原の頑張りは賞賛に値するし、見ていて、疲れを感じさせぬ走りには敬服した。(彼については、また別項で論考したい。)



②川内の誤算とおごり。
東京マラソンまでの数日、マスコミは川内を取り上げていた。読売、東京はスポーツ面で3回に渡る連載。朝日も囲み記事。NHKの首都圏ニュースでの企画等々、「市民ランナー」として、五輪を目標に果敢に挑戦するアスリートとして。
マスコミはどうして彼を取り上げるのか。東京マラソンが行われるまでは、五輪に一番近い選手であるというあたりまえの事実に加え、市民ランナーという称号のついた川内は読者・視聴者により近い存在として認識されているからだろう。彼が誰のコーチも受けず“独力”で勝ち取ってきたものは、それだけで市民感情を刺激する材料だ。彼の定時制高校での普段の仕事ぶりや公園を走る姿、また畳の自室でのトレーニング姿が繰り返し流されてきた。つまり彼はそうした自分を取材させてきたのだ。
川内はレースに出て、声援を受けることが一番の練習だとい言っている。メディアに露出することもまた、彼にとって発奮材料にしてきたのだろう。あえて7分台を目指すと宣言するまでに至っていた。
しかしそこに陥穽(落とし穴)があったように思う。

ひとは誰しも、「独力」で、ある程度のところまではうまくいくことがある。そうすると、その方法が一番と思い込み、冷静な分析や検討、改良がなされなくなる。いわゆる思考停止だ。うまくいっている時ほどその陥穽にはまってしまう。

事前記事を読んでいて、彼が福岡国際マラソンのあと、ハーフで自己ベストを出し、またフルも走っているというのを知って、シロウトの私もさすがに「走りすぎでは」と思っった。
人間はそれほど緊張感を保てるものではないし、身体的な疲労の蓄積もあったことだろう。
そのことに早く気づくべきだったのだ。しかし彼にとっては「レースに出続けること」が唯一の選択肢になり、他の方法論を考えることができなかった。これまで彼なりにうまくいっていたが故に、川内にもおごりがあったのだ。

彼にはもっと記録が伸びる素地があると思う。ただし、それは科学的なトレーニングを行って初めて可能なのである。市民の応援などという「精神論」では、とうてい太刀打ちできないことを知るべきだろう。もちろん陸連の「仲間」に入って彼らの言うとおりにしろとは思わないが、よき先達を得ることが必須だろう。もし彼にもっと記録を伸ばしたいという思いがあるのなら。

※五輪を目指すことがそんなに大切なのかどうか、私にはわからない。スポーツ報道を読んでり見たりしていて、五輪至上主義には違和感を覚える。このことについてはまた別の論考にしたい。ナショナリズムと国民性の問題として。

2012年2月17日金曜日

「プロ野球キャンプ」報道って何?ニュースは「ある」のではなく「作られる」のだ。

2月になるとテレビのニュースショーのスポーツコーナーやスポーツニュースでは「プロ野球キャンプ報道」というのが花盛りだ。ほとんどこれしかやっていなと言ってもいい。もともとスポーツニュースが嫌いなので気にすることがなかったが、生意気盛りになった愚息がスポーツニュースを見るので一緒に見てしまっている。(嗚呼)

そもそも「プロ野球のキャンプ情報」て、なぜあるのだろうか。おそらくまだ、サッカーやそのほかのスポーツが報道としてあまり盛んでなかったころ、2月のネタ枯れの時期の穴埋めとして始まったのではないか。それが今でも、相も変わらず続けられている。中畑清の言動を追いかけることが、何なの。一昨年、冬季五輪が行われた年は、こんなにキャンプ情報はなかったように思う。
サッカー(Jリーグ)で、キャンプ情報をこれほどまとめて分厚くするのを見たことがない。

プロ野球キャンプ情報のオンパレードは、マスコミ報道というものが、
常に「横並び意識」でなされていることが、本当に典型的に表れている。それと、「ニュースバリューとは、常に相対的なものであり、多くのニュースは“ある”のではなく“作られる”」ということを思い出させてくれる。
ぼんやりテレビを眺めてしまうと、そうした基本的なことさえ、つい忘れがちになる。
ほとんど意味のないものを見て貴重な時間を費やしてしまうことについて、
自戒を込めて「気を付けなければ。」

人はしばしば「反対」のことを言う。

かつて職場で、上司に企画を出すと、「ぼくは、こういうn好きなんだけど・・・」と言う輩がいた。ウブな私は、そうか気に入ってくれているんだけど何かが足りないんだな、と考えて、その企画を通そうとブラッシュアップして、再びその企画を出したりしたが、結局却下されていた。
「好きなんだけど・・・・」という言葉が「嫌いだ」と翻訳されることに気付くのにしばらく時間がかかってしまった。(バカだね)。

ヒトはしばしば考えと反対のことを言う。

小沢一郎という政治家は、よく「政策が一番」、「国家国民のため」と口にする(と報道されている)。小沢も「反対のことを言う」輩だろう。実はこの人にとって「政策」は一番のウィークポイントであり、だからこそ「政策が一番」とわざわざ言うことになるのだ。本人が意識しているかどうかは分からないが、新聞報道でこの人言動を見ているとそれがよく分かる。
政策を高い次元でよく考えている岡田や野田などは、「政策が一番」とは言わない。言う必要もないのだろう。それが政治家の本分だと分かっているから。

このことに関して、なぜか古いことを覚えている。
長嶋茂雄が読売“巨人軍”の監督を「解任」されてから、監督は、藤田、王、再び藤田となった。(この辺の事実う関係は覚えてなかったのでネットから確かめた事実うです。)
さて次の監督は誰かという時、マスコミは読売の総帥渡辺恒夫を追いかけていた。
この時、だれの名前が挙っていたかは覚えていない、広岡だったか、中畑だったか、誰かは知らない。でも長嶋も「候補のひとり」と目されていた。(確か。)

※若い人には想像もつかないかもしれないが、長嶋が再び読売巨人軍の監督をやるというのは、当時ではかなりビッグニュースになる話しだったのだ。

渡辺は、追いかけるマスコミに「監督は実力で選ぶ」とぶらさがりで言っていた。偶然、これを伝えるテレビのニュースを私は見ていた。渡辺の言葉を“真に受けた”多くのメディアは「長嶋の目はなくなった」というニュアンスで、次の監督選びを伝えていたように思う。
しかしフタを開けてみると、長嶋茂雄の再登板。野球ファンならずとも世間は驚いた。
この経緯と結果を見て「はは~ん」と思った。
渡辺は人気で監督を選んだと批判されることを恐れ、すでに意中に長嶋がいたからこそ、あえて「実力で選ぶ」とマスコミに流したのだ。つまり、誰もが「“実力”より“人気”の長嶋」と、思っていた中での、「実力で選ぶ」だったのだ。

渡辺の「反対を言う」ひと言は、長嶋を守ったと同時に、自分への批判も封じた。
言うまでもない。長嶋は実力があるから選んだのだから、このころ営業的にはおそらく下降気味だった中で、「人気者を選び、営業を優先した渡辺」と言われないですむ。
これは、渡辺恒夫の老獪な勝利ともいえるだろう。メディア取材は見事に彼の「反対のことを言う」戦術にはまったのだった。

「反対のことを言う」のは、他にも多々あるだろう。
中曽根の「死んだふり解散」なんかもそのひとつか。(詳細は知らいないけど)

「反対のことを言う」とは「ウソをつく」こと。ウソで検索したらこんな本が出てきた。
中身は知らない。読んでないから。

新聞・テレビの“否定的な物言い”がもたらしていること

あえて紋切型に言えば、マスコミの役割のひとつが「権力監視」であり、それにともなう「批判」であろう。勢い、新聞見出しやテレビニュースのコメントは「否定的な物言い」になる。もっと言えば、権力(と思われるもの)を批判してさえいれば、新聞やテレビニュースはカッコがつくものだった。長年マスコミはそうやってメシを食ってきた。
   読む側、視る側もそれはある種の「お約束」として、マスコミ報道を受け取る「暗黙の了解」があったと思う。だから「否定的に物言い」は少し割り引いて斟酌し、モノを見ていた。

しかし、この「否定的物言い」が最近は一段とエスカレートしているような気がする。特に3.11以後の報道において、そう思えて仕方ない。ポスト、現代、文春、新潮といった一般週刊誌は言うに及ばず、最近は週刊朝日がヒドイ。夕方から夜にかけて民放の「ニュースショー」をザッピングして見ていると、同様に「否定的な」紋切型の結語の仕方が目白押しだった。

“大衆”のリテラシーが低下し、物事を十分消化できない人々が増えると、このマスコミの「否定的物言い」は、どうもう真に受け取られてしまっているようだ。子どもがそうであるように。

子どもはマネをするところからいろいろ学んでいく。まだ十分なリテラシーが備わっていない子どもたちが「否定的な物言い」の新聞を読んだりテレビを見ていると、それが当たり前になってしまって、友人や家族との会話でも、否定的な言い回しが「ふつうのこと」になっていないか。

子どもとは一緒にニュースを視聴し、新聞の記事を共有し、話し合って「否定的物言い」の裏側を読み取れるように「解説」するようにしている。でないと、なんでもかんでも「世のかな悪いことばかり」と見えてきてします。

メディアに、権力におもねろとは言わない。(当たり前か)。しかし見出しの取り方や結語の言い回しひとつひとつが、ウブな子どもたちや、その親である専業主婦(という化石)たちに悪影響を与えているとことを、もう少し考えてもらいたい。

2012年2月3日金曜日

女子マラソン 重友梨佐は有望だ

ゴールする重友
(共同通信webより引用)
1月29日の大阪女子マラソンでは、有望と言われた福士が26㌔過ぎに脱落し、ダークホースと言ってもいい重友梨佐が優勝した。24歳の彼女に将来性を見た。

驚きだったのは、ゴールした後だ。3分もしないうちに行われたお立ち台でのインタビューで、ひとつも息が乱れていない。とても42.195㌔をいま走ってきたとは思えない表情と息遣いだった。そしてすぐ中継していたCXの仮設スタジオでの出演。ここでも平然と“普通に”話しをしていた。マラソンを見ていてこれほど驚いたことはない。

男子と同様女子マラソン選手の公式発表の身長・体重からBMIを調べてみた。大阪女子マラソンの公式サイトに掲載されていた体格と
有森、高橋はwebのプロフィールから拾った。この2人の体格は現役時代の最盛期のものなのかどうかは分からない。



選手名順位年齢身長体重BMI標準体重差
重友梨佐1241685017.7 62.1 12.1
タチアナ・ガメラシュミルコ2281705117.6 63.6 12.6
野尻あずさ3291564317.7 53.5 10.5
堀江知佳4301614517.4 57.0 12.0
嶋原清子5351544318.1 52.2 9.2
アイリーン・モガカ7271674616.5 61.4 15.4
福祉加代子9291604517.6 56.3 11.3
野口みずき 331504017.8 49.5 9.5
有森裕子  164.54717.4 59.5 12.5
高橋尚子  1634617.3 58.5 12.5


面白いことに、ほとんどの選手のBMIが17台だ。体脂肪率が分からないので、確かなことは言えないが、女子のトップ選手はBMIとしては、ほとんど変わらないと言えるのではないか。
かつて野口みずきがアテネ五輪で優勝した時、体脂肪率が4%というのを何かで読んだ。
BMIが同様の彼女たちの体脂肪率がどうなっているのか気になる。
もっと言えば、女子マラソン選手の場合、トップに入る必要条件として、少なくともBMIがこの17台でなければならないと言えなくないか。
これは先日検討した男子マラソン選手と違いがあるように思う。男子の場合は必ずしもBMIは均一ではなかった。

重友は、主な日本人選手の中では一番身長が高い。体格的にも有利であり、有望だと思う。走りのスタイルがいいのか悪いのか、マラソンビギナーの私にはわからない。が、リズムが一定なことはわかった。一定のリズムで走ることが重要だと、複数の本で読んだ。確か5キロごとのラップもあまり変わらず走ったと記憶している。

そして、次にかける野口。身長150㌢のあの小さな体で走る姿は、私は好きだ。頑張ってもらいたい。大柄な選手を凌駕する彼女の走りを見たい。どちらかというと小柄な選手にシンパシーがわくのは、私自身が小柄だから。





2012年1月26日木曜日

走ることについて語る② 話が合わない・・・・

東京でも寒い日が続いている。
職場などでは、「寒さ対策」が話題になる。ユニクロのヒートテックは暖かい、遠赤外線の下着がいい。やっぱりダウンに限る、等々。しかしあまりこういう会話にはついていけない。

一方、スポーツクラブのロッカーでは、まったく視点の違う話しが交わされる。
寒いけど如何にこの寒さに耐えられる体にするかが課題だ。なるべく薄着を心掛けてる。
そうそう、寒い方がエネルギーの消費が多いから、太らないですむ。等々。

これは、60代とおぼしき男性の実際の会話だった。
どちらかといいうと、私はこっちの話についていきたい。
寒い寒いと言っている人たちと会話しても何も面白くないから、しない。

食事についても同様だ。身体を動かさない人は「おいしい物を我慢してまで、運動する気になれない」などという言葉を時々聞く。

しかしこれが逆なんだな。
こういう人たちにとって、食事は「目的」なんだろうけど、「走る人」にとっては食事は「手段」でしかない。もちろんおいしい物を食べたいという欲求はあり、実際食べる。
しかしそれは少量で済む。いつも、たくさん食べたら体重が増えるという“恐怖”を感じているから好きなものは少量食べてそれで満足できるのだ。ここにも、運動する人としない人の会話の断絶がある。

実は甘いものがけっこう好きな私だが、走り始めてからケーキを口にすることはほとんどなくなった。それは我慢しているのではない。脳の、体重を落としたいという欲求が、ケーキを食べたいという欲求を上回っているに過ぎない。だから苦しくないし、本当にたまにちょっと口にすれば、それで満足できる。ケーキをまるごとひとつ食べる気にはなれない。

○余話
村上春樹さんのエッセイ(「雑文集」だったか「走ることについて・・・」だったかは忘れた)
ランニングをした後に青山のレストランでカキフライを食べる話しが出てくる。
汗を流したあとのビールとカキフライ、本当においしいだろうなと思う。
カキフライひとつで、“読ませる”エッセーが書ける村上さんの筆力は、やはりすごい。

2012年1月25日水曜日

「正しいこと」は厄介だ。脱原発は如何に伝えられたか

善意の行為はしばしば、「はた迷惑」になることがある。良かれと思って行われても、相手にはちっとも感謝されない、なんてことはしばしばある。これが他愛もない日常的なことならば笑って済ませる。
しかしコトが大きなテーマだと、少し考えてしまう。
毎日新聞web版より引用

1月18日、関西電力大飯原発3、4号機の安全評価(ストレステスト)について経済産業省で開かれた意見聴取会は、原発の再稼働に反対する市民団体のメンバー約20人が傍聴を求めて会場に入り混乱した。聴取会は、別室でテレビモニターによる傍聴を認める予定だったが、市民団体のメンバーたちは同室での傍聴を求めた上で、「再稼働ありきで議論すべきではない」などと抗議したという。
会場に入って抗議した市民団体の様子は、テレビのニュースでは各局で繰り返し放送された。この模様を見ていて、「正しさ」とは何だろうと改めて考えることになった。

聴取会の会場で傍証する方が正しいか、別室でモニターでも良いのか、私にはわからない。しかしおそらく、主催者(経済産業省)は市民団体が抗議行動を起こすことを想定して「別室」にしたのだろう。「学術的な見地から」(枝野大臣)行う聴取会で「原発反対」の人々が「再稼働は妥当」という結論に対して“騒ぐ”ことはこれまでの行動から容易に想像がつく。お役所としてはもっともな判断かもしれない。

 「脱原発」が絶対の真理と考える人たちにとって、自分たちの行動は「善意」による「正しい」行為だ。おそらくこういう人々は、どんな場でも「反対」と抗議を声に出し、落ち着いて、異なる意見に耳を傾けるといういうことを、どんなにお願いしても通じないだろう。なぜならそれが彼らにとって「正義」だからだ。
メンタリティーとしては、「放射線ゼロリスク」を求めて東日本から脱出する人、少しでも数値が高いと大騒ぎする人たちと同じだろう。
 こうした行動が「脱原発」を目指す人、なんとなく志向する人、を遠ざけてしまうことにも作用するとは、彼らは考えない。正しいことをして「スッキリ」しているに違いない。
 こういう人たちには「科学的」「論理的」という言葉が通じない。そういうことを言うとかえって油を注ぐことになる。
 悪意の行為であれば、その行為者は、それが「悪」つまり「正しくないこと」ということを認識しているので、悔い改めることができたなら、その行為をやめる。
しかし「善意」の人は、悔い改めることはない。当たり前のはなしだが、「正しい」行為だからだ。これがもっとも厄介だ。
話し合いの余地や説得が通じないのだから。
その行為がどういう影響をもたらすか、どういう結果を導くかは、彼らには関係ないのだから。

さて、マスコミはこれをどう伝えたか。
午後の出来事で、ほぼリアルタイムで伝えられるテレビ各局は、この模様を繰り返し流していた。が、この抗議する人を新聞に載せていたのは、翌日の主要各紙の東京版を見た限りでは毎日だけだった。(web版にも毎日にしかこの人の写真はなかった)

どうしてか。
脱原発を「正しいこと」とする朝日、東京は、「脱原発」のイメージダウンを懸念し、意見聴取会が傍聴なしで行われたという「事実」にウェイトを置いて記事を構成した。
「原発再稼働」が「正しいこと」と唱える読売、日経には、こうしたセンセーショナルな映像(画像)が、大衆心理を喚起して「脱原発」の声が一層高くなることを心配した。という推論を立ててみた。
 つまり、どちらの側にとっても彼らの抗議行動は「不利」になると判断したのではないか。そしてこの写真の掲載を見合わせた。
その点毎日新聞の扱いは公平だったように思う。ちなみに毎日は「脱原発」派だけども。

現場にいたカメラマンであれば、ほぼ間違いなく彼らの抗議行動は映像に収めたはずだ。だってこの映像が、18日の騒動の中では一番インパクトがあり、状況を伝えるのにふさわしい映像だからだ。(撮らなかったらカメラマン失格だろう)

新聞各社にとって「正しいこと」は、時に真実を伝えるという姿勢を遠ざけることになる。本当にやっかいだ。

2012年1月20日金曜日

走ることについて語る① 50を越して走り始めて

走ってみようかなと思ったのは、息子が中学受験で煮詰まってきた小学6年生の秋ごろだった。お百度参りではないけれど、塾の日曜特訓に1日出かける息子を見送って、ひがな日曜の午後に、何かしなければ申し訳ないような気がしていた。

あり物のスニーカーと夏山登山用の短パン、Tシャツといういでたちで、最初は2キロ程離れた図書館に行き、次は3キロ離れたホームセンターに行きと、少しづつ走ってみた。2,3キロならば苦もなく走れて、秋のさわやかな空気に触れて気持ちよかった。

そのうち1.5キロ程離れた多摩川の河川敷まで出て走るようになった。足が痛くなると歩いて最寄の駅から電車に乗って帰ったりもした。二子玉川と大井町を結ぶ大井町線や多摩川と蒲田を結ぶ多摩川線は、駅が川沿いから比較的近く、ジョギング初心者には安心材料にもなった。
走る時、お金はタクシーでも帰れる2,3千円を持ってでたが、これまで一度もタクシーには乗っていない。いわばお守りのようなものだった。

しかし走ることをそれほど面白いと思ったことはない。どうにか続けている水泳でも、いつもストイックになってしまう。楽しむという感覚を心掛けてはいるのに、ひたすら1点を見つめて目標に向かってしまう。性格なんだろうな。
(泳ぐことについて語るとき、ぼくの語ること・・・は過去ブログに書いた通りだ)

さしあたり多摩川が主な「走り場」
ただし「下流志向」
息子の受験がどうにか終わり、やがて春になって、少しずつ定期的に走ることを心掛けた。
だいたいは日曜日の午後。多摩川河川敷が主だ。河川敷は信号等で止まったり、車に気を付けたりしなくてすむので、(自転車は時々怖いが)コンスタントに走るのはよい。けっこう“仲間”もいる。

しかし「シューイチ ランナー」は、なかなか鍛えられない。3キロを超すと膝が痛くなることばかりだった。でも変わってくることもある。少しずつだが体重が減っていった。日曜夕食の1杯だけの安ワインが、おいしい。

あれから2年余り、先週初めて15キロの壁を超えた。18キロ程走った。1時間45分ほどかけて。
目標のハーフが、もやのむこうに少しだけ見えた気がした。

「走ることについて語るとき僕の語ること」を綴ってみたくなった。
自分の中で何かが少しずつ変わってきている気がするから。
「何か」の正体は何か?。それは書くことによって探していくほかない。



走ることについて、村上春樹さんの本が精神的な後押しをしてくれたのなら、この金 哲彦さんの本は技術的な後押しをしてくれた。愛好家の間で、「サブスリー」と言われるマラソンを3時間台で走るために書かれているが、これからジョギングを初めてみようかなと迷っている人こそ読んでためになる本だ。金 哲郎さんのランニング関係の著書は、mook本などでいろいろ出ているが、あまりそれらのビジュアル性にとらわれるより、まずこれを読む方がためになる。
痛みはどうして起こるか。どう走ったらいいのか。分かりやすくしかも論理的に教えてくれる。
腰痛のところなど、多少医学的にも荒っぽい記述もあるが、あまり気にしないで読めばいい。

「リスク社会に生きる」朝日の連載企画に表れた“迷い”。

「リスク社会に生きる」という朝日新聞の連載企画は、暮れの30日にプロローグを載せ、元旦から7回の連載だった。

プロローグで「放射能が列島を分断する」とタイトルにうち、「人の心と科学の距離」を考えるというのが(予想された)テーマだ。

被災地のがれき受け入れを表明した、フクシマから1000キロ離れた佐賀県武雄市が、、「安全な九州を守って」という1000件を超えるメール・電話にたじろぎ、受け入れ方針を撤回するというエピソードから、この企画は始まる。

2011年12月30日の朝日新聞1面から
そして、放射能を「異常に」心配して「過剰に」子どもを守ろうとする東京在住の母親と「そんなことやめろ」という夫の話し。風評被害に遭う須賀川市の農家。

科学者には、放射能について非科学的な内容の本の著者に対して、「何を言っても分からない人はいる。そういう人の納得させるのは難しい」と言わせる。

ページを変えて、「3.11以後この国で、おびえ過ぎず、楽観もせず、リスクと上手に付き合うには、どうすればいいのか」と、問いかけ、専門家と一般人(・・てどんな人を言うのだろう)による「危険度」の判断の違いを紹介する。


このシリーズ企画は、事実上このプロローグで「終わって」いたようなものだった。「リスク」をテーマにするのはいい。この社会状況にあって当然の発想だろう。しかし、朝日の迷いが、まさにこの点で吐露した企画だったと言えよう。

朝日の「見立て」は、冒頭の風評被害や過剰反応の背景が、専門家と一般人の間の意識のズレがあるからだとしている。だとしたら、普通に考えれば「一般人はもっとリテラシーをつけて冷静な判断をすべき」という主張になるのが自然だろう。しかしそうはならない。読者を断罪するのは自殺行為だから。

だから結語のところで、必ず筆が鈍る。「リスクに戸惑う国民が悪いのではなく、わかりやすく伝える工夫が、専門家や行政にこそ求められる」、「市民の不安に寄り添うべきだ」と専門家に言わせ、「怖がるさじ加減 自分の力で」と言い、「国にお任せだった安全と安心を取り戻す、民主主義の過程なのだ」と、急に大上段のモノ言いで終わる。

もし国語の試験問題で、「この文章で何が『民主主義の過程』と筆者は述べていますか」という設問があったとしたら、私にはうまく答えられない。
「安全や安心は、国任せにせず自分の力で行うこと」が「民主主義の過程」なのだろうか。教えてほしい。
どう結んでいいか分からず、否、分かっているが「読者」(購読者)を斟酌すると、ストレートに書けない。悩んだ末の「ミンシュシュギ」だったのではないか。
朝日新聞の「迷い」とは何か。
これは多くの、いわゆる「良質」なメディア、「リベラル」なメディアに共通してみられるが、大衆の行動に対してストレートには批判しにくい。だから突飛な事例を出して、それこそ「一般」の読者の良識を呼び起こして、最後は権力側に責任を持ってきて、わたしたちは「読者」の味方ですとポーズをとる。定番と言ってもいいストーリー展開だ。
多様な多くの読者を抱える新聞(公共放送もそうだろう)の一番の「悩みどころ」なのだろう。

タイトルは「リスク社会に生きる」ではなくて「大衆社会に生きる」の方がよっぽど内容にマッチしていたのではないか。皮肉を込めて言えば。


最期に「筆が滑る」事例。

2012年元日の朝日新聞から

このシリーズの元日の内容は、放射能を恐れ、東京からドイツに逃れた母子を紹介していた。移住の理由が本当に放射能ならば、これほど唐突で過剰な行動はないだろう。と、普通の感覚なら思う。
それをシリーズの第1回に持ってくる意図が、私には理解できなかった。

「突飛な事例を見て読者諸君考えてくれ」と言いたかったのだろうか。
そうではないうようだ。文面から伝わってくるニュアンスは、こうした行動が、権力に対して弱い立場の“市民”の当然の行動であり、ひとつの選択肢として、肯定的に描かれているもの。

移住した母子の写真のキャプションにこうあった。
「***ちゃん。ドイツに来てから娘の成長が著しいと、○○さんは目を細めた」、と。

これを「筆が滑った」と言うのだろう。
これでは、「放射能の高い日本(東京)を逃れてドイツに行ったら、娘の成長が著しく良くなった」と、読者にメッセージを送っていることになる。
このキャプションのひと言が、ルポ全体を陳腐なものにしてしまっている。そんなウソ臭いことを平気で書くルポをまともに読む気はしない。これは単なる読み物であり、少なくとも「ジャーナリズム」の領域ではないのだろう。
こういっては何だが、あまりリテラシーのない読者が読んだら、「やっぱり日本はアブナイ」と言う思いを抱くのではないかな。

2012年1月19日木曜日

何かを得ることは何かを失うこと スマホから何を得るのか

土曜日の朝の山手線。五反田から代々木に向かう外回りの6号車は座席がほぼ埋まる程度の人だった。ほぼ毎週この電車に乗り、車両中央付近に座る。
土曜日なのでいわゆるサラリーマン風の通勤者は少ない。意外に多いのが若者。サービス業など週末も仕事のある人々、あるいは大学、専門学校への通学なのかはわからない。年配の女性も何人かいる。

扉から扉まで7つの席がある。その両側で14人が座っていた。このうち携帯電話やスマホを操作していた人は10人。寝ていた人2人。何もしていない人ひとり。私の両脇の人はどちらもスマホだった。覗くと右側はゲーム、左側はネットらしい。
14人中10人も携帯端末をいじっている光景は、私にはちょっと異様に見えた。
電車内は本を読むところという「固定観念」がまだ私にはある。またそれはいいことだと思う。
しかし彼らは携帯端末をいじくることに時間を費やしている。

14人という母数で一般論を言うのは飛躍かもしれないが、これだけの割合で車内で携帯端末を使用している人が増えたということは、それだけ本を読む人が減ったということだ。電気機器メーカーやそのソフトを作る企業は潤うが、書籍に関係する企業は衰退する。

人口というパイが増えない(むしろ減っている)中で、本を読む人がどんどん減っていく。これを携帯機器の製造や販売に関わる人々は喜んでいるだろう。だってシェアが増すのだから。
しかし、書籍関係者にとっては危機だろう。また本を読む人にとっても業界が衰退することは、いい製品(作品)が少なくなるので残念だ。


スマホ現象。
こうした電車内の光景が、単に自由競争の中での奪い合いということで片付けられるものであればそれでよい。
しかし「本を読まないということはどういう人間になるか。」という、検証不能だが深淵な問題は、何も論じられない。

説教じみてこんなことをいまさら記すのはイヤだが、物事を深く考えない、結論を急ぐ、浅はかな議論をする、自分への万能感などなど、多くの識者が指摘することだ。
読書とリテラシーの間に、相関関係はあるかもしれないが、因果関係は証明だれなと言ってしまえばそれで終わり。でもそれでいいのか。

失なわれるものは、書籍だけではない。スマホをいじっている人々も、限られた人生の時間をスマホに奪われていることに気付いていないだろう。

自分の子どもが電車内での読書の習慣を身に着けてくれたことに、密かにホッとする。(小説ばかり読んでいるけど)

人々はスマホという魔法の箱から何を得ようとしているのか、「読書」の時間を失うことによって。
週末の山手線の中で考えた。

リスクはゼロではない~“放射能だけ”を忌み嫌う人へ~

リスクはゼロではない。
電車で通勤していれば、いつホームで突き落とされるかもしれない。車を運転していれば、いつ後ろから追突されるかもしれない。日常生活の危険は実に様々で、決して確率的に低いとは言えないものも多い。
だから、ホームでは周囲の人間に気を配りながら注意して歩くし、運転も常にバックミラーで後ろを見ながら、車が暴走してこないか注意を払っている。
どんなことでもリスクはゼロではない。そして、ゼロではないリスクの確率を、自分でも、わずかでも低くしながら生きている。
問題は、そのリスクの許容限度が人によって違うということに尽きる。

下の表は、雑誌エコノミスト(毎日新聞)に載った、がんリスクの比較表だ。

松永和紀さん(科学ライター)の論文からの引用。

松永さんは、リスクのとらえ方について、実に分かりやすく、しかも論理的に説明している。
マスコミの在り方も含めて鋭い指摘を行っている。

「もうダマされないための『科学』講義」(光文社新書・共著)でも詳しく論じておられるが、あまりにも無知・無見識に報道されるリスク論議を批判している。

ヒトは得体のしれないものを恐れる、という。放射能はその最たるものかもしれない。だからこそ放射能についてできるだけ正しく理解し、付き合うことが必要ではないか。
(続きを書く予定だが、とりあえずup)

放射能より地球温暖化が心配だ

2011年、年末の新聞に気になる記事がいくつかあった。どちらも小さな扱いでしかなかった。

●CO2の排出量が過去最高
米エネルギー省が発表した2010年の世界のCO2の排出量は、前年比6%増の355億㌧で、過去最高の伸びを記録した。これは日本の排出量の約1.7倍が1年で増えた計算になる。地球環境産業技術研究機構の予測では、このまま対策をとらないまま新興国の成長が続くと、90年に屋久200億㌧だったCO2が、2050年までには500億㌧を突破するという。このままなら気象変動に関する政府間パネル(IPCC)が07年に報告したシナリオのうち、今世紀末には平均気温が4度上昇する最悪のしなりを超える勢いで温暖化が進むという。海面上昇な異常気象で毎年数百万人が洪水の被害に遭い、生物種の4割以上が絶滅する。(20111129朝日新聞)

 ●世界の平均気温も事実上最高
世界気象機構(WMO)は2011年の世界平均気温が14.30℃~14.52℃となる見通しで、過去最高値だった2010年に並ぶと発表(2011年11月29日)。2011年は海面温度を下げるラニーニャ現象が強く見られ、本来ならば寒くなるが、地球温暖化のペースがそれを上回ったという。ラニーニュ現象があった年としては過去最高で事実上最も暖かい年になったという。(20111130朝日新聞)

●日本の夏も、一昨年は「異常気象」 
日本では2010年の夏(6月~8月)が記録のある過去113年の中で一番の暑さだった。これは気象庁が「異常気象」と認定。国連機関の「気象変動に関する政府間パネル」は報告書の中で、地球温暖化が進むと異常気象が起きやすくなると予測している。(2011122朝日新聞)


私は温暖化が一番心配だ。何よりも。
いまある自然の摂理が失われてしまうのではないかと。



震災以後の原発問題の議論を眺めていると、温暖化を斟酌した議論が少ないように思う。CO2削減の2年前の鳩山首相の「約束」(国際公約)などなかったもののように、一部のジャーナリズムは「放射能リスク」をとにかくゼロに限りなく近づけることが第一だという報道を繰り返しているし、世論をそう誘導しているように見えてならない。

彼らに対して「温暖化はどうするんですか?」と聞くと、おそらくこういう答えが返ってくるだろう。「まずは放射能汚染、脱原発。化石燃料によるエネルギー消費は国民の努力と節約で抑えればいい。」と。
どんな議論もそうだが、一方を主張する者は、その実現可能性について都合の悪い部分は「精神論」で逃げ、議論を避ける。


いわゆる革新勢力が好きな「理想論」。
しかし「理想論のまやかし」が、原発・放射能の議論をダメな議論にしている。


なぜか、「理想論」は人間の「欲望」を斟酌していないからだ。


*「欲望」についての論考はまた後日


2012年1月14日土曜日

毎日新聞「歯車にはならない」とはどういうことなのだろうか

毎日新聞が新年の企画記事で争点を当てたのが30代。「リアル30’s」だ。
この世代も、いわば将来の担い手。彼らの身の処し方、活躍次第で、社会が変革するかどうかにかかわっているというのは、その通りだろう。ねらいは日経が取り上げた20代と同様、悪くないかもしれない。新年のシリーズ企画としては。
しかし内容はあまり伴わなかった。元旦の第1回を読んでやめてしまった。

どの新聞も「次につなげるため」、つまり次回からも読んでもらうため、第一回にはとりわけ力が入るし、一番いいネタを持ってくる。しかし、そうそういいネタなんて転がっていない。第一回で取り上げた人物は、転職を繰りかえし、「歯車にはならない」という人だったが、そこに30代の「みなぎる力」も「可能性」もあまり感じられなかった。
そもそも転職をしてキャリアアップしていくことが、「良いこと」なのか「悪い」ことなのか。またいまや、転職自体に良し悪しの評価を着けることに意味がないのかもしれないが、少なくとも読者の共感を呼ぶ素材とは言い難かった。

「歯車にはならない」という言葉を企画のキャッチコピーにすること自体、この新聞社のセンスに首をかしげたくなる。社会一般では皆「歯車」として地道に働くからこそ社会が回っているのではないか。多くの人は歯車として社会を支えているし、また支えられている。
確かに「歯車では満足しない」人が事業を興したり、新しい何かを試みて社会は変わる。でも毎日の企画は、「歯車にはならない」と“言う”人を取り上げて何をメッセージとして伝えたかったのだろうか。私にはわからない。

こうした企画記事を読んで思うのは、構成の難しさだ。取材者ががん首そろえて議論し、練りに練った企画ほど「いいもの」ができるとは限らない。案外シンプルな企画の方が読み応えがあったりする。熟慮することは必要だが、こねくり回しすぎると、それは読者に見透かされる。

おそらくテーマ設定から取材して集めてきたネタ(人物)がイマイチだったので、そこを筆力でカバーしようとしたのだろう。苦し紛れに、出てきたコピーが「歯車にならない」に凝縮されたようだ。

文章を書く時の「反面教師」になる企画だった。

新機軸を打ち出すのは、なかなか難しい。新聞各紙 新年企画 読み比べ

社説と並んで、新聞各紙が力を入れるのが、新年企画記事だろう。
それこそプロジェクトチームを組んで、構想を練り、テーマを絞り込み、そして“そのテーマに合う”素材を探して取材をする。全体を見渡す統括(論説委員クラスだろうか)がいて、おそらく彼が巻頭言を書き、兵隊(取材記者たち)が素材を見つけてきては「読み物」に仕立てる。こんな方法はあまり次代が移っても、また新聞社が違ってもあまり変わらないのではないだろうか。



○日経「C世代 駈ける」

20代の若者を「C」をコンピュータ(Computer)を傍らで育ち、ネットで知人とつながり(Connected)、コミュニティー(Community)を重視する。変化(Change)をいとわず、自分流を編み出す(Create)、「ジェネレーションC」と定義づけて、この世代への期待を込めて30代、40代も含めた「活躍しているヒト」を取り上げた企画。「20年後、20代の若者は社会のけん引役になっている。次の世代が描く未来図はどんな形だろう」と問いかける。しかし内容にあまり新味も面白さも感じられなかった。日経は「C」のように何かでくくった「こじつけ」げ結構好きなようだ。「大人」から「20代への期待」は、一見寛容な大人の態度で若者に理解を示しているポーズに見える。しかし、ちょっとうがった見方をすると、日経の読者が減っていく中で若者をもっと取り込もうというねらいが透けて見える。
日経の主な読者は中堅のビジネスマンだろう。少子化と就業の変化の中で、次世代の日経読者をどう獲得するかは、結構大きな課題なのだろう。日経を読むことが「ステータス」だと若者にもっと刷り込む必要がある。その結果生まれた「ジェネレーションC」だったのかもしれない。
内容にいちいちケチをつける程のものもなかった。


他社の企画も同様の傾向があるが、「活躍するヒト」「珍しい活動をしているヒト」「ほか様々珍しいヒト」を取り上げて物語として仕立てあげるのが定番だ。読者をひきつける記事に、他にいい方法がないのも確かだが、この手法自体、だいぶ手垢が付いている気がする。だから(後述する朝日もその典型だが)、取り上げるヒトがどんどんエスカレートしてくる。
ふつうの人には誰も振り向かないから。それはまるで民放テレビ番組のバラエティーと言われるジャンルが、同じような企画しか打ち出せない中で、より過激な表現・手法になっていくのに似ている。



○毎日「リアル30's」

毎日が争点を当てたのが30代。
「『失われた20年』に思春期を過ごした世代が今、30代を迎えている。仕事、結婚と岐路に立たされる年齢」と規定し、「社会は閉塞感に覆われ、どんどん生きづらくなっている。」「件名に考え、悩み、迷う30'Sを追う」のだと。
その背景に、彼らの世代が、就職氷河期とされる1993年~2005年に就職期を迎え、多くが正規雇用に就けず、低賃金で不安定であることだという。

日経の「20代」同様、この世代も、いわば将来の担い手。彼らの身の処し方、活躍次第で、社会が変革するかどうかにかかわっているというのは、その通りだろう。ねらいは悪くない。
しかし内容は、企画倒れになってしまっている。2回目以降を読む気にはなれなかった。。
なぜか。それは別項で。


○朝日「カオスの深淵」

「民主主義」に正面から取り組んだ、つもりらしい。かつて朝日も民主的でないと批判した(と自ら書いている)無投票で多選の首長が決まっていた大分県姫島村の話と、総選挙(ファン投票)で第一に選ばれた「AKB48」の前田敦子を並行して第一回で取り上げている。これで読者を「おや?」と思わせて引き付けようとしているのだろうが、どう読んでも、奇をてらったとしか思えなかった。論考は別項で述べる。


○ サンケイ 「The リーダー」。

「リーダー論」はこのところ様々なメディアで盛んな印象がある。これだけ政治が混迷すると、どの言論機関も「リーダー」を求めるのは、もっともな話だ。しかし、リーダー論の限界も同時に感じる。サンケイの企画は「平成の龍馬はどこに」と銘打ち、自社で行ったネット調査の結果を一面で載せている。
結果、現役政治家で1位になったのは、あの橋下だった。おそらくサンケイもこの結果を知った時点で、企画の「失敗」を悟っただろう。
なにしろ①坂本龍馬、②織田信長、③徳川家康、④小泉純一郎、⑤橋下徹、⑥松下幸之助なのだから。いくらサンケイさんでも、橋下を現代のリーダーと持ち上げる訳にはいかないだろう。どう企画記事の筆を進めるか迷ったにちがいない。5面で「東京編集局長」氏が、一昨年橋下と石原慎太郎の対談をセットしてそれに立ち会った時のことを書いている。「閉塞感を打ち破りたいと考える2人」そして「リーダーはどうあるべきか・・・真のリーダー像を見つけたい」と意気込む。

「リーダー論」は「プレジデント」や歴史雑誌の十八番企画だが、今年のサンケイ企画もこの路線の紋切型の「リーダー論」を抜け出せない印象は否めない。

○東京(中日)
「雨ニモマケズ 3・11から-連載企画10の数字」というのが、どうやら新年企画らしい。
切り口は「2012年問題が飛び交う今年、…日本を象徴する十の数字に着目」したという。そして「十の数字の背景にあるものを取り上げ、どう乗り越えていくのか考えていく」という。
その十とは
①OECD調査で「家族以外と交流のない人の割合、15%
②OECDの学習到達度調査で日本の数学的応用力が日本は2000年の1位から9位に転落
③国内の再生エネルギー割合3%
④去年4月から年末までに脱原発を訴えるデモが300件
→「政治家に頼らず直接世の中を変える新しい民主主義の動きと注目する見方もある。」と。
⑤1次産業に従事する人口4.8%.
⑥新卒で入った会社にとどまっている若年層の割合44%.
⑦科学技術費は民間企業の投資も含めて17兆円。
⑧カロリーベースの食糧自給率39%。
⑨社会保障費の伸び毎年1兆円。
⑩生活保護受給者206万人。
ん~~。それぞれに重要な課題であることは分かるが、改めて数字を見せられて「問題の所在を思い出す」以外、どれも重いテーマすぎて考えが深まらなかった。
ちょっと大上段に構えすぎではないだろうか。だいいちなぜこの10項目なのか、それが分からなかった。


2012年1月12日木曜日

元旦の各紙の社説を読み比べる

毎年1月1日の新聞は定期購読紙以外も購入し、よく読むようにしている。元旦の1面はどの新聞も企画に力を入れている。また社説も、その新聞の“姿勢”を知る上で参考になる。
さて、2012年1月1日の各紙(朝・毎・読・日経・サンケイ・東京)はどうだったか。
まず社説から
朝日…「ポスト成長の年明け・すべて将来世代のために」
毎日…「問題解決できる政治を」
読売…「『危機』乗り越える統治能力を~ポピュリズムと決別せよ」
日経…「資本主義を進化させるために」
サンケイ…「日本復活の合言葉『負けるな』」(年のはじめに 論説委員長署名記事)
東京…「民の力を今、活かそう」

印象で言うと、一番力が入っていたのは読売だ。
経済活性化は復興からと、成長促進を促しつつ、財政破綻もあり得ると、政治に党利党略を超えて財政再建に取り組み必要性を訴える。一方対中緊張への対応やTPP問題にも言及し、エネルギー政策については従来の主張である原発の再稼働を訴える。副題に「ポピュリズムとの決別を」となっているが、そのことには直接は触れていない。もちろんこれは政治を進めるために世論の反対があっても財政再建やTPP,原発再稼働等を進めてほしいというメッセージだろう。網羅的・具体的な社説で分かりやすいという点では光っていた。

読売新聞 2012年1月1日


対する朝日はどうか。
やはり財政赤字を心配するが、経済成長ばかりを追い求めることに異を唱える。去年ブームになったブータンの国民総幸福を引き合いに出し、草食系の若者の登場を「ポスト成長の環境変化に適応して進化」したからと言う新説を紹介。と、言いながら「新興国が激しく追い上げてくる大競争の時代」という認識を示しながら、「世界に伍していける若い人材」の育成を訴える。最期は、成長から成熟社会への転換を訴える。
論旨に一貫性を感じない、はっきり言って「分からない」社説だった。言いたかったことは成熟社会なのだろうが、それを実現させるのが、大競争時代に世界と伍していける人材というのは、どういう意味なのだろうか。理想主義を掲げるがその方法論や実現可能性に弱さがある、朝日の悪いクセとも言うべき内容だった。

朝日新聞 2012年1月1日
毎日。
マックス・ウェーバーやチャーチルの言説を引き合いに出しながら、「なぜ妥協しないのか」と、政治が進まない状況をもっぱら憂いているだけだった。
毎日新聞 2012年1月1日

日経。
グローバル化を経済再生のテコに資本主義の進化を訴える。

サンケイ。
「日本が強い国に生まれ変わるためには胆力と構想力を持った指導者が欠かせない」と、新年企画「The リーダー」と呼応した内容で、「がんばれ」と剛毅(ごうき)さ、克己、礼節を唱える精神論でまとめる。

東京。
民主党の消費税増税は公約違反だとして、また予算案を批判し、まず「無駄を徹底的に削る」ことが先決と、社民党の主張そのままみたいな論旨。最期は橋下の独裁を憂いて、デマに惑わされるなと締めくくる。新味のない東京(中日)の従来の主張だった。

こうしてみると、どれもアッと言うような斬新な主張はどれも感じられなかった。がっかりな社説ばかだ。朝日が2011年12月29日の「社説余滴」で「誰にも読まれる新聞社説を」と、読まれない社説に自戒を込めた一文を載せているが、ほとんど何も変わっていなかったと言わざるを得ない。
やはりこれでは読まれなくて当然だろう。
朝日の読者には富裕層でやや保守的な層からインテリ、組織労働者などおそらく幅広い層が想定されているのだろう。だからそれらの層すべてに「配慮」した言い回しになる。もっと言えば筆が甘くなっている。

それを克服しない限り、やはり社説は読まれない。当たり障りのない文章なんて読むだけ時間の無駄だから。

企画についての「感想」は次回に。

2012年1月9日月曜日

石原千秋さんの著書との出会い



子を持つ親として、教育は大きな関心ごとだろう。私自身も例外ではなかった。東京神田神保町の三省堂や新宿紀伊国屋の「受験コーナー」には、子どもが小学校2年くらいの時から足げく通い、親としての予習を行ってきた。


新潮選書「秘伝 中学入試 国語読解法」は、実は子どもを授かるかなり前、初版が出たころに購入して、“積ん読”しておいた書籍だった。


この時、なぜ購入したのかは、よく覚えていない。子どもを授かる見込みもない中で、将来を見据えてという訳ではなかった。ただ出たばかりで平積みになっていたこの本がなんとなく魅力的だったのだと思う。

おそらく一般書のコーナーに置いてあった。



もともと文章術に興味があった。本多勝一「日本語の作文技術」は高校生の時に読み、目からウロコだった。この本は後に何回か頁をめくった。一方、読解力にはコンプレックスがあった。大学受験でも、どうして現代国語の点数があがらないのか悩んだ。そんなこんなで、この本を購入していた。


しかし、この本を購入したことなど、忘れてしまっていた。そして子どもの受験準備で、受験コーナーでの再会である。
「あ、この本!」と心の中で叫んだ。ウチにあるはずだ。まだ絶版にならずに生き残っているのかと少々驚きだった。しかし持っているずの本を、どこにしまってあるのか、にわかには思い出せなかった。なにしろ就職してからこの時まで9回引っ越しをしていて、読まない本はどの段ボールに入っているのか、またはどこかに置いてきてしまっていたから。


そして結局、後日、改めて購入した。
私と息子の「父と子の受験」それは、この本が後押ししてくれたと言っていい。
前半は、父親の中学受験体験記であり、後半に中学入試の国語読解法の“秘伝”が書かれている。
小学生に受験勉強をさせるというのは、(凡人の場合)本人の意志だけではなかなか難しい面がある。家族の様々な支援があって初めて成り立つ、と思う。

この本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、確か石原さんは、息子の受験のために引っ越しまでしたように記憶する。不得意な教科をどう後押しするか、親としてどう振る舞うか、言われてみれば親として「当然」のことかもしれないが、それはそれでとても参考になった。

「読解法」の本を何冊も著しているので、当然文章は非常にうまく読みやすい。これをきっかけに、石原さんの本の“愛読者”になった。

石原さんは漱石研究家で現在早稲田の教授。
以下には読書論の著書を紹介する。


ちくまプライマリー新書

「未来形の読書術」石原千秋著(2007 ちくまプライマリー新書)は、高校生くらいに是非読んでもらいたい本だ。読書術というとハウツーもののように思うかもしれないが、そうではない。どういう心構えで「文学」と向き合うことができるのか、また向き合った方がいいのか、わかりやすく導いている。

 石原さんは本書の中で控えめに「もし私の著書の愛読者というのがいるのなら、他で書いたことと重複している」と述べている。確かに「読者はどこにいるのか」(  )などと内容は重なるが、それでも構成が違い、書き方が違うから、新たな気分で読める本だ。



読書に没頭するとはどういうことか。本を読む前にわかること。本が他のメディアと違うところ。ヤウス「読者の期待の地平」、物語の4つの型など本をどう読むか分かりやすく書かれている。


印象深い部分を以下に引用
P21
若いということは今の自分に満足していないということでなければならない。いまの自分に満足している若者は現実にへたり込んだ精神的な「老人」である。精神的な若者はいつもいまの自分に不満を抱えている。だから「理想」の自分へ「成長」しようともがくのである。それは少しもみっともない姿ではない。「大人」はそういう「若者」を暖かく見守るものだ。
現実には未来に書かれた本はない。本はいつも過去に書かれている。しかし本の中に未来形の自分を探したいと願う人がいる限り、本はいつも未来からやってくる。そのとき、本には未知の内容が書かれてあって、そこにはそうありたい自分が映し出されている。これは理想の自己発見のための読書、未来形の読書と呼べそうだ。古典を新しいと感じることがあるのは、そのためなのだ。本はそれを読む人の鏡なのだから、その人が読みたいように姿を変えるのである。