2012年1月14日土曜日

新機軸を打ち出すのは、なかなか難しい。新聞各紙 新年企画 読み比べ

社説と並んで、新聞各紙が力を入れるのが、新年企画記事だろう。
それこそプロジェクトチームを組んで、構想を練り、テーマを絞り込み、そして“そのテーマに合う”素材を探して取材をする。全体を見渡す統括(論説委員クラスだろうか)がいて、おそらく彼が巻頭言を書き、兵隊(取材記者たち)が素材を見つけてきては「読み物」に仕立てる。こんな方法はあまり次代が移っても、また新聞社が違ってもあまり変わらないのではないだろうか。



○日経「C世代 駈ける」

20代の若者を「C」をコンピュータ(Computer)を傍らで育ち、ネットで知人とつながり(Connected)、コミュニティー(Community)を重視する。変化(Change)をいとわず、自分流を編み出す(Create)、「ジェネレーションC」と定義づけて、この世代への期待を込めて30代、40代も含めた「活躍しているヒト」を取り上げた企画。「20年後、20代の若者は社会のけん引役になっている。次の世代が描く未来図はどんな形だろう」と問いかける。しかし内容にあまり新味も面白さも感じられなかった。日経は「C」のように何かでくくった「こじつけ」げ結構好きなようだ。「大人」から「20代への期待」は、一見寛容な大人の態度で若者に理解を示しているポーズに見える。しかし、ちょっとうがった見方をすると、日経の読者が減っていく中で若者をもっと取り込もうというねらいが透けて見える。
日経の主な読者は中堅のビジネスマンだろう。少子化と就業の変化の中で、次世代の日経読者をどう獲得するかは、結構大きな課題なのだろう。日経を読むことが「ステータス」だと若者にもっと刷り込む必要がある。その結果生まれた「ジェネレーションC」だったのかもしれない。
内容にいちいちケチをつける程のものもなかった。


他社の企画も同様の傾向があるが、「活躍するヒト」「珍しい活動をしているヒト」「ほか様々珍しいヒト」を取り上げて物語として仕立てあげるのが定番だ。読者をひきつける記事に、他にいい方法がないのも確かだが、この手法自体、だいぶ手垢が付いている気がする。だから(後述する朝日もその典型だが)、取り上げるヒトがどんどんエスカレートしてくる。
ふつうの人には誰も振り向かないから。それはまるで民放テレビ番組のバラエティーと言われるジャンルが、同じような企画しか打ち出せない中で、より過激な表現・手法になっていくのに似ている。



○毎日「リアル30's」

毎日が争点を当てたのが30代。
「『失われた20年』に思春期を過ごした世代が今、30代を迎えている。仕事、結婚と岐路に立たされる年齢」と規定し、「社会は閉塞感に覆われ、どんどん生きづらくなっている。」「件名に考え、悩み、迷う30'Sを追う」のだと。
その背景に、彼らの世代が、就職氷河期とされる1993年~2005年に就職期を迎え、多くが正規雇用に就けず、低賃金で不安定であることだという。

日経の「20代」同様、この世代も、いわば将来の担い手。彼らの身の処し方、活躍次第で、社会が変革するかどうかにかかわっているというのは、その通りだろう。ねらいは悪くない。
しかし内容は、企画倒れになってしまっている。2回目以降を読む気にはなれなかった。。
なぜか。それは別項で。


○朝日「カオスの深淵」

「民主主義」に正面から取り組んだ、つもりらしい。かつて朝日も民主的でないと批判した(と自ら書いている)無投票で多選の首長が決まっていた大分県姫島村の話と、総選挙(ファン投票)で第一に選ばれた「AKB48」の前田敦子を並行して第一回で取り上げている。これで読者を「おや?」と思わせて引き付けようとしているのだろうが、どう読んでも、奇をてらったとしか思えなかった。論考は別項で述べる。


○ サンケイ 「The リーダー」。

「リーダー論」はこのところ様々なメディアで盛んな印象がある。これだけ政治が混迷すると、どの言論機関も「リーダー」を求めるのは、もっともな話だ。しかし、リーダー論の限界も同時に感じる。サンケイの企画は「平成の龍馬はどこに」と銘打ち、自社で行ったネット調査の結果を一面で載せている。
結果、現役政治家で1位になったのは、あの橋下だった。おそらくサンケイもこの結果を知った時点で、企画の「失敗」を悟っただろう。
なにしろ①坂本龍馬、②織田信長、③徳川家康、④小泉純一郎、⑤橋下徹、⑥松下幸之助なのだから。いくらサンケイさんでも、橋下を現代のリーダーと持ち上げる訳にはいかないだろう。どう企画記事の筆を進めるか迷ったにちがいない。5面で「東京編集局長」氏が、一昨年橋下と石原慎太郎の対談をセットしてそれに立ち会った時のことを書いている。「閉塞感を打ち破りたいと考える2人」そして「リーダーはどうあるべきか・・・真のリーダー像を見つけたい」と意気込む。

「リーダー論」は「プレジデント」や歴史雑誌の十八番企画だが、今年のサンケイ企画もこの路線の紋切型の「リーダー論」を抜け出せない印象は否めない。

○東京(中日)
「雨ニモマケズ 3・11から-連載企画10の数字」というのが、どうやら新年企画らしい。
切り口は「2012年問題が飛び交う今年、…日本を象徴する十の数字に着目」したという。そして「十の数字の背景にあるものを取り上げ、どう乗り越えていくのか考えていく」という。
その十とは
①OECD調査で「家族以外と交流のない人の割合、15%
②OECDの学習到達度調査で日本の数学的応用力が日本は2000年の1位から9位に転落
③国内の再生エネルギー割合3%
④去年4月から年末までに脱原発を訴えるデモが300件
→「政治家に頼らず直接世の中を変える新しい民主主義の動きと注目する見方もある。」と。
⑤1次産業に従事する人口4.8%.
⑥新卒で入った会社にとどまっている若年層の割合44%.
⑦科学技術費は民間企業の投資も含めて17兆円。
⑧カロリーベースの食糧自給率39%。
⑨社会保障費の伸び毎年1兆円。
⑩生活保護受給者206万人。
ん~~。それぞれに重要な課題であることは分かるが、改めて数字を見せられて「問題の所在を思い出す」以外、どれも重いテーマすぎて考えが深まらなかった。
ちょっと大上段に構えすぎではないだろうか。だいいちなぜこの10項目なのか、それが分からなかった。


2012年1月12日木曜日

元旦の各紙の社説を読み比べる

毎年1月1日の新聞は定期購読紙以外も購入し、よく読むようにしている。元旦の1面はどの新聞も企画に力を入れている。また社説も、その新聞の“姿勢”を知る上で参考になる。
さて、2012年1月1日の各紙(朝・毎・読・日経・サンケイ・東京)はどうだったか。
まず社説から
朝日…「ポスト成長の年明け・すべて将来世代のために」
毎日…「問題解決できる政治を」
読売…「『危機』乗り越える統治能力を~ポピュリズムと決別せよ」
日経…「資本主義を進化させるために」
サンケイ…「日本復活の合言葉『負けるな』」(年のはじめに 論説委員長署名記事)
東京…「民の力を今、活かそう」

印象で言うと、一番力が入っていたのは読売だ。
経済活性化は復興からと、成長促進を促しつつ、財政破綻もあり得ると、政治に党利党略を超えて財政再建に取り組み必要性を訴える。一方対中緊張への対応やTPP問題にも言及し、エネルギー政策については従来の主張である原発の再稼働を訴える。副題に「ポピュリズムとの決別を」となっているが、そのことには直接は触れていない。もちろんこれは政治を進めるために世論の反対があっても財政再建やTPP,原発再稼働等を進めてほしいというメッセージだろう。網羅的・具体的な社説で分かりやすいという点では光っていた。

読売新聞 2012年1月1日


対する朝日はどうか。
やはり財政赤字を心配するが、経済成長ばかりを追い求めることに異を唱える。去年ブームになったブータンの国民総幸福を引き合いに出し、草食系の若者の登場を「ポスト成長の環境変化に適応して進化」したからと言う新説を紹介。と、言いながら「新興国が激しく追い上げてくる大競争の時代」という認識を示しながら、「世界に伍していける若い人材」の育成を訴える。最期は、成長から成熟社会への転換を訴える。
論旨に一貫性を感じない、はっきり言って「分からない」社説だった。言いたかったことは成熟社会なのだろうが、それを実現させるのが、大競争時代に世界と伍していける人材というのは、どういう意味なのだろうか。理想主義を掲げるがその方法論や実現可能性に弱さがある、朝日の悪いクセとも言うべき内容だった。

朝日新聞 2012年1月1日
毎日。
マックス・ウェーバーやチャーチルの言説を引き合いに出しながら、「なぜ妥協しないのか」と、政治が進まない状況をもっぱら憂いているだけだった。
毎日新聞 2012年1月1日

日経。
グローバル化を経済再生のテコに資本主義の進化を訴える。

サンケイ。
「日本が強い国に生まれ変わるためには胆力と構想力を持った指導者が欠かせない」と、新年企画「The リーダー」と呼応した内容で、「がんばれ」と剛毅(ごうき)さ、克己、礼節を唱える精神論でまとめる。

東京。
民主党の消費税増税は公約違反だとして、また予算案を批判し、まず「無駄を徹底的に削る」ことが先決と、社民党の主張そのままみたいな論旨。最期は橋下の独裁を憂いて、デマに惑わされるなと締めくくる。新味のない東京(中日)の従来の主張だった。

こうしてみると、どれもアッと言うような斬新な主張はどれも感じられなかった。がっかりな社説ばかだ。朝日が2011年12月29日の「社説余滴」で「誰にも読まれる新聞社説を」と、読まれない社説に自戒を込めた一文を載せているが、ほとんど何も変わっていなかったと言わざるを得ない。
やはりこれでは読まれなくて当然だろう。
朝日の読者には富裕層でやや保守的な層からインテリ、組織労働者などおそらく幅広い層が想定されているのだろう。だからそれらの層すべてに「配慮」した言い回しになる。もっと言えば筆が甘くなっている。

それを克服しない限り、やはり社説は読まれない。当たり障りのない文章なんて読むだけ時間の無駄だから。

企画についての「感想」は次回に。

2012年1月9日月曜日

石原千秋さんの著書との出会い



子を持つ親として、教育は大きな関心ごとだろう。私自身も例外ではなかった。東京神田神保町の三省堂や新宿紀伊国屋の「受験コーナー」には、子どもが小学校2年くらいの時から足げく通い、親としての予習を行ってきた。


新潮選書「秘伝 中学入試 国語読解法」は、実は子どもを授かるかなり前、初版が出たころに購入して、“積ん読”しておいた書籍だった。


この時、なぜ購入したのかは、よく覚えていない。子どもを授かる見込みもない中で、将来を見据えてという訳ではなかった。ただ出たばかりで平積みになっていたこの本がなんとなく魅力的だったのだと思う。

おそらく一般書のコーナーに置いてあった。



もともと文章術に興味があった。本多勝一「日本語の作文技術」は高校生の時に読み、目からウロコだった。この本は後に何回か頁をめくった。一方、読解力にはコンプレックスがあった。大学受験でも、どうして現代国語の点数があがらないのか悩んだ。そんなこんなで、この本を購入していた。


しかし、この本を購入したことなど、忘れてしまっていた。そして子どもの受験準備で、受験コーナーでの再会である。
「あ、この本!」と心の中で叫んだ。ウチにあるはずだ。まだ絶版にならずに生き残っているのかと少々驚きだった。しかし持っているずの本を、どこにしまってあるのか、にわかには思い出せなかった。なにしろ就職してからこの時まで9回引っ越しをしていて、読まない本はどの段ボールに入っているのか、またはどこかに置いてきてしまっていたから。


そして結局、後日、改めて購入した。
私と息子の「父と子の受験」それは、この本が後押ししてくれたと言っていい。
前半は、父親の中学受験体験記であり、後半に中学入試の国語読解法の“秘伝”が書かれている。
小学生に受験勉強をさせるというのは、(凡人の場合)本人の意志だけではなかなか難しい面がある。家族の様々な支援があって初めて成り立つ、と思う。

この本の詳しい内容はもう忘れてしまったが、確か石原さんは、息子の受験のために引っ越しまでしたように記憶する。不得意な教科をどう後押しするか、親としてどう振る舞うか、言われてみれば親として「当然」のことかもしれないが、それはそれでとても参考になった。

「読解法」の本を何冊も著しているので、当然文章は非常にうまく読みやすい。これをきっかけに、石原さんの本の“愛読者”になった。

石原さんは漱石研究家で現在早稲田の教授。
以下には読書論の著書を紹介する。


ちくまプライマリー新書

「未来形の読書術」石原千秋著(2007 ちくまプライマリー新書)は、高校生くらいに是非読んでもらいたい本だ。読書術というとハウツーもののように思うかもしれないが、そうではない。どういう心構えで「文学」と向き合うことができるのか、また向き合った方がいいのか、わかりやすく導いている。

 石原さんは本書の中で控えめに「もし私の著書の愛読者というのがいるのなら、他で書いたことと重複している」と述べている。確かに「読者はどこにいるのか」(  )などと内容は重なるが、それでも構成が違い、書き方が違うから、新たな気分で読める本だ。



読書に没頭するとはどういうことか。本を読む前にわかること。本が他のメディアと違うところ。ヤウス「読者の期待の地平」、物語の4つの型など本をどう読むか分かりやすく書かれている。


印象深い部分を以下に引用
P21
若いということは今の自分に満足していないということでなければならない。いまの自分に満足している若者は現実にへたり込んだ精神的な「老人」である。精神的な若者はいつもいまの自分に不満を抱えている。だから「理想」の自分へ「成長」しようともがくのである。それは少しもみっともない姿ではない。「大人」はそういう「若者」を暖かく見守るものだ。
現実には未来に書かれた本はない。本はいつも過去に書かれている。しかし本の中に未来形の自分を探したいと願う人がいる限り、本はいつも未来からやってくる。そのとき、本には未知の内容が書かれてあって、そこにはそうありたい自分が映し出されている。これは理想の自己発見のための読書、未来形の読書と呼べそうだ。古典を新しいと感じることがあるのは、そのためなのだ。本はそれを読む人の鏡なのだから、その人が読みたいように姿を変えるのである。


2011年12月27日火曜日

発見!上野千鶴子と橋下の酷似性

フェミニストの“教祖様”上野千鶴子の言説には、首をかしげるものが結構ある。この人は、女性対男性、または男性が女性の妨げになっているという発想以外ないのではないだろうか。その発想にとらわれているため、議論が粗雑で非論理的なものになっていることに気付いていない。

2012年12月17日の朝日紙上の上野のオピニオンには驚かされた。政治学者・宇野重規氏がホスト役のインタビュー記事だ。
宇野氏が橋下現象に対して「閉塞感と不安にかられ魅力的に見える人に全部放り投げる。その人の破壊的な言動に快感を覚える。橋下らが支持されるゆえん。」と、ごく一般的な分析をしたのに答えて、
上野は、
「追い風は吹き荒れるが、その方向は問いません。その意味で強いリーダーシップへの期待は思考停止や白紙委任につながりかねません。“ハシズム”の風には不吉な予感がします。」と言う。
「追い風は吹き荒れるが、その方向は問いません」とは論理不明な一文としかいいようがない。「追い風」とは橋下に吹くものだが、「方向性は問わない」とは彼を支持する人々を指している。つまり彼女は、大衆批判をしたいが、ストレートに言うのははばかられるので、橋下現象がいかにもワルいという印象を先に与えているにすぎない。「思考停止」や「白紙委任」をしているのは、橋下を支持する人々の方であり、それによって「不吉な予感の追い風」が吹いているのだから、はっきり大衆の側の責任を言うべきではないのか。
2012年12月17日 朝日新聞

上野は続ける。
「郵政選挙で白紙委任状を与えたせいで、緩和につぐ規制緩和が行われ、格差が広がった。若者や女性は自分にしわ寄せがくる政策の推進者を支持した。最大のツケは原発事故。権力者任せでやってきた結果がこの惨状です。ここまで高い授業料を払った日本人が学ばないとすれば、どうすればいいのでしょう。」

 
この文章の論理の飛躍には、本当に驚かされる。前半は、これもまた小泉に投票した人々が白紙委任を彼に与えたと、大衆批判をして、そのツケが自らに降りかかったと言っている。


それはその通りだろうが、次の文章で原発事故について急に話が飛んでいる。
郵政選挙の結果と原発政策を同列に結び付ける乱暴な言説にまず驚かされる。原発事故については、なぜこんなことになったのか、もっと冷静で論理的な分析が必要なのは言うまでのない。郵政選挙のようにワンイシューで、総選挙を首相が行いその結果の政策が今の事態を招いたのではないだろう。本当に乱暴は論理のすり替えだ。

それぞれの事象には、それぞれの原因になる要素があり、様々な事情がからみあって結果を生んでいる。小学生でも理解することだ。上野の言説は、リテラシーのない大衆が「とかく役人は、・・・」とか、「政治家なんて・・・だ。」と十把ひと絡げでモノを言うのと同列だろう。

結局上野は、実は大衆にいら立っていながら、市民派としての自分の立ち位置を守るため、巧み(と本人が思っている)な言い回しで、無理やり論理展開しているにすぎない。これぞポピュリスト文化人の本領発揮であろう。

こうして「私は若者、女性の味方よ」と思わせる無理な論理展開をした上で、上野の批判の矛先は当然、男に向かう。
「現在の改革議論は小手先の微調整ばかりで抜本的なビジョンがない。経済成長のもと、日本型雇用と近代家族のペアで支えられてきた社会システムはもう終わったんです。年齢、性別にかかわらず、働く意欲と能力のある人は一生働き続ける。ただし将来や人生を一つの場所に預ける働き方はしない。そうなるためには、日本型雇用に崩壊してもらわなければなりません。」と続く。

上野が考える「日本型雇用と近代家族のペア」とは何か、そのあとに出てくる。
すなわち「『社畜とDV妻』のカップル」だという。日本型雇用=社畜、近代家族とは=DV妻だと言うのだ。この言説に同意する人はいったいどれほどいるだろうか。あまりにもまれはケースを一般化している論理ではないか。「社畜」の正確な定義は何か私は知らないが、仮に「会社(中心)人間」であり、「DV妻」を100歩譲って「会社中心人間の夫に仕える孤独な妻」程度としても、あまりにも一面的であろう。

上野は、自分の考えに都合のよい事象のみを取り上げていかにも一般的な事象のように言い換える。これって学者の言説と言えるのだろうか。

粗雑な言い回しはここにもある。
「現在の改革議論は小手先の微調整ばかりで抜本的なビジョンがない。」
具体的にどういうことが小手先でどうすれば抜本的なんだろうか。この言葉を借りれば橋下が行おうとしている大阪都構想や教育条例の改正はまさに「抜本的」な改革を目指している。こういう方法がいいと言っているのかな。

 政権の見方をする訳でもなんでもないが、彼らは彼らの立場でなんとか折り合いのつく解決策、善後策を考えているだろう。一挙にものごとが解決する魔法の方法などないのだから。その魔法があると言いつのっているのが、ほかならぬ橋下や河村たかしなのではないか。

つぎ。
「経済成長のもと、日本型雇用と近代家族のペアで支えられてきた社会システムはもう終わったんです。年齢、性別にかかわらず、働く意欲と能力のある人は一生働き続ける。ただし将来や人生を一つの場所に預ける働き方はしない。そうなるためには、日本型雇用に崩壊してもらわなければなりません。」
この言説によって上野が何を言いたいのかよく分からない。正規雇用などというのは既得権益に他ならないから、「働く意欲と能力のある」人が「一つの場所に預ける働き方」でなくて、自由に?働く労働環境になればいいということなのだろうか。
 現在の日本の労働市場や環境は、決していいとは言えないだろう。しかし上野が言うような労働環境を望む人はそう多くはないのではないか。
「あまり意欲も能力もない」人は切り捨てられる、完全競争社会ということだから。これが上野の望む労働環境なのだろうか。

「正規雇用を既得権として持っている人々が手放そうとしないから、旧モデルが延命しています。手放さない人たちの代表が連合のオヤジ労働者。政官財による共謀シナリオの労働ビックバンにも合意した。そのなかで、非正規雇用に追いやられ、最も大変な目にあっているのが若い女性たち。…家事手伝いという扱いで失業者扱いもされない。」
ここまで読んで、合点がいった。
上野は単にオヤジ批判をしたいがために、論理を飛躍させていたのだろう。

大衆に訴えかけるのに一番わかりやすいのは、敵をつくそれを叩いてみせること。小泉の郵政改革、名古屋の河村、そして大阪の橋下、内容に違いはあれどれも戦い方の構図は同じだ。そして上野の論理展開も同様である。
オヤジという若者、女性の「敵」を作り、それを批判することで、自らの考えを権威づけ支持を得ようとする点では酷似している。
こんな薄っぺらな言説を支持しる「若者」や「女性」て、それは橋下を支持する層とそう変わりばえしないのではないだろうか。それこそ宇野氏の指摘する「破壊的な言動に快感を覚える」人々に他ならない。
上野の手法は橋下と同じなのだ。単に自分のいらだちを「敵」に向けてそれで溜飲を下げているにすぎない。
私は女性の地位向上には賛成である。しかし上野千鶴子のような論理ともいえない論理で自説を押し出してくる「女性」には同意できない。
その言説を1面全部を使って無批判に展開する朝日新聞の見識を疑う。





「戦争が遺したもの」は、鶴見俊輔に、小熊英二と上野千鶴子がロングインタビューしている対談本である。
鶴見さんの言説は様々な本で同じようなことを言っている点もあり、何冊か読んでいるとちょっと退屈な面もある。
しかし小熊英二の鋭い質問や分析もあり、その点では面白い本だ。

この中で上野の言っていることにははちょっとピンとはずれなところもある。小熊は上野に批判的に言う部分も(確か)あるが、そこは大人。お仲間同士なのでうまく丸めている。

角川oneテーマ

内田樹さんの「フェミニズム批判」は、論理的でスジが通っている。この新書はフェミニズム初心者にも分かりやすい。この中で確か内田氏は、上野が論文の中で自分に都合のいい部分しか紹介しない、手法を紹介していた。(すぐ読める本ですので、ぜひどうぞ)


2011年12月22日木曜日

「サプライチェーン」。その先にいる最終消費者は“つながっている”

最近 経済用語で「サプライチェーン(supply chain)」という言葉をよく見聞きするようになった。「 供給の連鎖」。すなわち原材料の調達から生産・販売・物流を経て最終需要者に至る、製品・サービス提供のために行われる一連の流れのことを指す。

東日本大震災で東北地方の部品向上がストップすると自動車生産全体に影響したり、タイの洪水で現地の工場の停止が日本の工業製品全体に影響が出たりと、まさに生産過程が、国内だけでなく、海外の工場もふくめて「繋がっている」ことを改めて実感させられた。

普段の生活で、何かモノを購入する時、その生産はどこでどういう過程を経て製品として、いま買われようとしているのか思いを巡らすということはまれだろう。「世界の亀山モデル」と謳った液晶テレビや、フェアトレードと言ってNGOなどが売る開発途上国の製品。または産地や生産者限定で購入するコメや果物などは、多くの購入物の中では例外的存在である。

どこでどう作られようと、またそこがどんな人の手を経て手元に届くかということは、実は最終消費者にとってどうでもいいことでしかない。その製品の価格が購買者の価値基準の値段に収まっていて、機能やデザインが気に入っていれさえすればいいのである。


話しは飛ぶが、通勤電車の中で携帯ゲーム機に夢中になっている輩、スマートフォンをいじくりまわして時間を費やしている人。音漏れなぞおかまいなしの“音楽愛好家”たちに対して、他の乗客たちは、何も主張せず我慢している。なぜか。
“良識ある”新聞やテレビ局、雑誌が、「電車内では本を読め」と諭しているのをあまり見たことがない。ごく一部の“文化人”くらいだ。なぜか。
企業系シンクタンクのエコノミストが、「スマートフォンをいじくりまわしても教養は身に付かない」と主張することもない。なぜか。

考えてみれば当たり前のことだが、ゲーム機やスマートフォンや音楽プレーヤーの使用者(最終消費者)は、みなつながっているからなのだ。

真面目(そう)に日経を読んでいるサラリーマン、サラリーウーマンたち。、勤務先が電子部品会社であれば、ゲーム機のICチップを作っているかもしれない。あるいは家電メーカーの社員。あるいはそういう企業の広告を扱う代理店。みなチェーンでつながっているのだ。

だから迷惑な若者も、多くの「大人」たちにとって大切なお客様である、サプライチェーンの一番先端にいる人々なのであろう。文句の言いようがない。ただ「お買い上げいただきありがとうございます」と言うほかないのである。

エンドユーザーからサプライチェーンを逆方向にたどっていく要素が、実は通勤電車の中にあったのだ。出版産業は電子機器のサプライチェーンの前にはあまりにも小さな供給連鎖でしかない。
だんだん肩身が狭くなっていくのは必然である。

どこかの力ある出版社、あるいは出版社の連合体で電車の吊り広告を出してくれないかな。
「電子機器に夢中になっているあなた。本を読み、少しでも教養を深めなさい」と。

2011年12月8日木曜日

「市民ランナー」川内優輝への日本陸連の冷たいまなざし

asahi.comより引用

12月4日の福岡国際マラソンを終えて、五輪選手の選考を行う日本陸連の幹部が会見を行った。一言でいえば、「戸惑い」と、「川内への冷たさ」でしかなかった。

判官びいきでなくとも、市民ランナーとして自分で何でもやって日本人選手の最高位になった川内選手には、おそらく多くの人が賛美をおくったのではないだろうか。

実況中継のアナウンサーも、盛んに「埼玉県職員、市民ランナー」を連呼し、強調していた。
反対に、解説の瀬古利彦は川内にちょっと冷ややかな印象を受けた。


瀬古は日本陸連の理事。母校早大陸上部(駅伝)の監督や所属のSB食品の監督だ。しかし瀬  古自身が企業のお抱え選手として「万全の態勢」で臨んだロス五輪では惨敗した。
(瀬古についてはウィキペディアを参照されたい
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%8F%A4%E5%88%A9%E5%BD%A6 )
  高校時代から将来を嘱望された存在であり、長距離のいわばアリーと教育を受けてきた。ソウ   
  ル五輪では彼のために選考レースが加わったなどと揶揄された。しかし東京都の教育委員を
  勤めるなどちゃくちゃくと肩書きにハクを着け、日本陸連の王道を歩んでいる。


川内は五輪代表選考レースである東京マラソンにも出る意向を示した。しかし代表選考レースで
1位(日本人として)の選手が別の選考レースに出るのは異例のことらしい。次で負ければ元も子もなくなる、福岡の記録が台無しになるということらしい。
 今後の選考レースを静かに見守っていれば、かなりの確率で代表に選ばれるだろうに、自分が納得しないから、東京マラソンに出るという心意気は買いたい。

ネットから見られるニュースからは陸連幹部が川内本人と話し合い、東京マラソンに出ることを「容認」したと伝えている。(中日スポーツ、スポニチ等)。

どちらも陸連幹部の発言の引用部分は同じで、「好きなようにやったらいい」 と言われたそうである。中日もスポニチもどちらもこれを好意的に取り上げ、「陸連もお墨付き」という表現まで使っている。NHKはweb newsを見ると、陸連が「代表選考レースとしては非常に厳しい内容だった」と述べていると伝え、陸連がこのレース結果では代表にするかどうかわからないと予防線を張っている。


一連の報道や、5日夜のNHKスポーツニュースでの陸連会部の会見の模様の表情からは、陸連の冷たさが伝わってくる。ホント。
「好きなように・・・」という突き放した言い方、記録的には厳しい(これは本当だが)からは「容易には川内を代表にはしないぞ」という意思が伺える。 


日本陸連は、なぜこれほど川内に冷たいのか。
それは、彼が日本陸上競技連盟という「ムラ社会」の外にいる人間だからだ。

陸連は自分たちの仲間内の有望選手を五輪に送ってメダルを取らせることしかアタマにない。


高校駅伝の有望選手は、大学も駅伝有望校に進み、そこで実績をあげて実業団陸上部。ほとんどプロ選手として生活保証を受けて専属のコーチの下、科学的トレーニングとり理想の食事、そして高地トレーニングの環境も授けられる。のだと思う。瀬古自身もほぼそういうコースの人間だ。
陸連を頂点とするムラ社会を形成し、そのことで存在感を示していく。ムラにはボスがいて、全体を統率する。ここの掟から外れては将来日本陸上界の出世の階段は望めないのだろう。
瀬古はその王道を行っているのだろう。

こうしたムラ社会(それは「世間」とも言う)の中から有望選手が五輪で金メダルを取ることだけが、関係者の願いだ。外様の選手が代表になるだけでも、陸連が面目がつぶれるのに、もしメダルでも取ろうものなら、税金もつぎ込まれている陸連運営にも影響する。
陸連にとって川内選手のように自らの力で登りつめてきた人間は、要するに目障りなのだ。おカネもかけて大切に育ててきた選手を五輪に送り込みたいという“魂胆”がありありだった。

なんとも分かりやすい人々だ。陸連の面々は。
この人たちの人間的ないやらしさは、私は容認できない。

大きな背景には、日本の大衆が、「五輪で金メダル」をいつもスポーツ選手の至上命題として強いていることがあろう。「メダルの期待」というプレッシャーは、選手だけでなく、いやむしろ関係者の方が重荷なのかもしれない。
「国威発揚」というきな臭い言葉が、こと五輪スポーツには感じずにはおれない。

川内さん、陸連のムラ社会に負けるな。あまり見るスポーツは好きでない私だが、彼のことは応援する。埼玉県は彼を休職させるか、異動させてもう少しトレーニングができる環境に置いてあげればよい。国体開催権ではジプシー選手を県の外郭団体(スポーツ振興財団など)に雇って、総合優勝の点数稼ぎに使っているではないか。それにくれべれば、納税者の批判は少ないと思う。


そしてもうひとつ、メディアへの苦言。
スポーツ新聞は、陸連寄りの記事しか書かないのか。おそらくネタ元に睨まれると商売にさし障るからだろう。中日スポーツ、スポニチの記事にはがっかりした。(本誌を読んでいないので、詳細はわからないが。)

また、川内を市民ランナーとして持ち上げるのなら、企業選手と川内がどれほどトレーニング環境が違うかといった具体的な記事を読みたかった。
大会翌日の主催新聞社・朝日の記事を仔細に読んだが、そうした記事は見当たらなかった。
「25㌔で遅れたが、気力で挽回した」というステロタイプな、単純で中身のないスポ根解説を読まされただけだ。取材不足ですよ、朝日さん。主催者なのに。

市民ランナー川内の記録はもっと伸びる(はずだ)

ヒトの肥満度を表す指標として、身長と体重の関係から算出される「ボディマス指数」というのがある。通称BMIと言われ、多くの人が健康診断などで計算したことがあるだろう。、身長と体重の関係から算出される、22が標準とされている。BMIは、
\mathrm{BMI}=\frac{w}{t^2}
で表される。「t」は、メートルで表した身長、「w」は体重(㎏)


12月4日の福岡国際マラソンは、来年の五輪代表選考も兼ねていることから、(一部の人には)注目されていた。私も少し「走る」身なので、少なからず気になって、見てしまった。
下記の表は、公式サイトに載っていた招待選手の体格に、計算式を入れてBMIとまた標準とされる体重との差を計算したものである。
放送では紹介する選手の体格を表示していたが書きとめなかったので、優勝した「一般参加」のジョセファト・ダビリ選手やジェームス・ムワンギ選手までは分からない。


選手名順位年齢身長体重BMI標準体重差
川内 優輝3241746421.1 66.6 2.6
入船  敏11351765919.0 68.1 9.1
佐藤 智之40301675118.3 61.4 10.4
前田 和浩6301675620.1 61.4 5.4
今井 正人4271695519.3 62.8 7.8
瀬戸口 賢一郎12301664917.8 60.6 11.6
高田 千春
16301755919.3 67.4 8.4
        
ドミトロ・バラノフスキー7321735819.4 65.8 7.8
ドミトリー・サフロノフ5301907019.4 79.4 9.4
アレクセイ・ソコロフ10321746019.8 66.6 6.6
リドゥアヌ・ハルーフィ9301755417.6 67.4 13.4
フランク・デアルメイダ18281694917.2 62.8 13.8
マーティン・デント8321806921.3 71.3 2.3
アンドルー・レモンチェロ31291886618.7 77.8 11.8
アリステア・クラッグ-311806419.8 71.3 7.3


こうしてみると、日本人のマラソン選手は意外にみな体格が大きくないことに気付く。
優勝した川内選手は、大きい方かもしれない。

BMIは、ほとんどの選手が20を切っている。もちろん標準とされる体重よりも軽く、中には10㎏以上も軽い選手がいる。
その中で川内と、6位の前田、8位に入ったマーティン・デントは少し違う。BMIは20以上であり、川内とデントは標準体重との差も2㎏ちょっとしか違わない。

自分が走るようになって感じることだが、体重が2キロ違うと、走る時の負担がものすごく違う。軽い方が走りやすいのは、ふつうに考えても確かなことだ。

これに従えば、川内は体格に比して、他の選手より重い体重を引っ張って走ったということになる。それでも日本人の中で1位になれた。どうしてか。

筋力が勝っていた。心肺機能が上回っていた。エネルギー消費が効率的でロスが少なかった等々、様々考えられるだろう。

時事通信(yahoo news より引用)


素人考えだが、川内が、筋力その他の条件が同じで、身体を絞り込んで体重を軽くし、他の選手と同じくらいのBMIにすると、もっと記録が伸びるのではないか、と想像する。

他の多くの選手はほとんどマラソンに専念していて、専属のコーチの下、食事、体調管理、トレーニングを科学的行っていることだろう。だからマラソンに適した体を作っている。

しかし川内はすべて自分で単独に行っているらしい。週40時間労働を行いながらのトレーニングは大変だ。彼が専門的なトレーニングを行うことができれば、おそらく記録はもっと伸びる。



もちろんBMIはひとつの指標にすぎず、体脂肪率などは斟酌されないから、これだけで断定はできまい。体脂肪率で見ればすでに川内選手は他の選手並みなのかもしれないし、そうでないかもしれない。それは分からない。

アテネ五輪優勝の野口みずきは体脂肪率4%だと聞いた。これから推察するとマラソン選手は体脂肪率が低い方がよさそうだ。

ちなみにわが肉体は、4位に入った今井選手とほぼ同じ、169㎝、54.5kg、従ってBMIは1.91
で、体脂肪も10%を切るか切らないか位である。
しかし時速10㌔で12,3㎞を走るのがやっと。なぜこれほどまでに違うんだろうか。
当たり前と言えば当たり前だが、もしかすると練習次第では、3時間台で走れるようになるということか?

まあその「希望」だけは捨てずに走りたい。




2011年12月7日水曜日

いま国会で議論すべきことは何なのか

週明け月曜日(12月5日)のNHK国会中継を、仕事をしながら横目で見ていて気分が悪くなった。自民党の稲田朋美氏が延々と山岡大臣の献金疑惑について追及していた。この日の衆院予算委員会は「政治とカネ」の集中審議だったと翌日の新聞で知ったが、こんな時期に丸1日を費やして行うべき「審議」なのだろうか。

 審議内容はおそらく与野党の国会対策委員の話し合いによって決まるのだろう。民主党のイメージダウンにしかい関心がない自民党は「政治とカネ」の審議を要求し、民主党もガス抜きと思って応じたといったところか。

 この問題が大切でないとは言わない。が、予算委員会で“いま”やらなければならない問題なのだろうか。消費税の在り方や方法論など、本来ならば最大限時間を割かなければならない問題はあるはずだ。

 翌日の新聞各紙とNHKを見た。中継は行ったがNHKはニュースでは取り上げていなかった(と思う)。新聞は読売が「国会審議詳報」として全体を1面の3分の2近くを使い紙面にしていた。これは日中の国会中継を見られない層には有用な記事だと思う。朝日、毎日、東京、日経は無視。稲田氏の応援団、サンケイは下の方に500字程度で「追及」を伝えていた。ただし評価はなし。

メディアもわかっている。これから来年度予算審議をしなければならない時期に議論すべきこととは思っていないことを。それでも国会の場は丸1日費やされた。そこには資源としての国会議員や政府の人が使われていることは、忘れがちだ。

 この国会中継を見ていて、ずっと目をつぶって深く考え事をしている民主党の岡田氏の表情が印象的だった。能力的にはこの人が日本のリーダーになるべきだと、私は思っているのだが……。

メディアのインタープリンターとしての役割

すでに、一山超えた感のあるTPP参加是非の論争。これははたして「論争」と言えるものだったのだろうか。12月7日現在、「対立構造」としてのTPPの報道は、皆無と言っていいかもしれない。

 朝日新聞が、細々と朝刊経済面で「おしえて!TPP」の連載で、各論の解説記事を載せているくらいしか目につかない。あの劇場型の二項対立の興奮が去って、ようやくメディアも本来の役割をはたそうとしているかに見える。


日本科学未来館(お台場)
  メディアの本来の役割とは何か。もちろん権力の監視、警鐘といった“お約束”の役割は大切だが、もうひとつの役割は、権威・権力と大衆とのインタープリンター(interpreter)としての役目だろう。

 もともとは、自然と人との仲介、通訳・解説者という意味。転じて難しい科学知識を一般の人に分かりやすく解説するのが「インタープリンター」の役割だ。わたしはこの言葉を、かつて、子どもと訪れた日本科学未来館(東京・お台場) http://www.miraikan.jst.go.jp/
で知った。

  ゲノムやニュート・リノなど、言葉は知っているが説明せよと言われるときちんと言語化できない科学用語はたくさんある。それらを一般のわれわれに分からせてくれるのが役目である。
 私が「ニュートリノ」が「ニュー・トリノ」でなく「ニュート・リノ」であることを学んだのも未来館の展示解説だった。

 そのインタープリンターとしてのメディアの役割が、劣化していると思わずにはいられない。一連の原発報道だけでなく、様々な科学的事象や“事件”について正確で分かりやすい情報は、これだけ複雑化する世の中においては不可欠だ。

 TPPを始め、消費税増税議論、復興予算の使い道など、分かりずらいことを「説明」するのがマスメディアの役割なのではないか。しかしメディアの主張は、政府・権力者に「もっと説明を」と求める
ことの方が目に付く。人は全能ではない。首相や政府の人間でも同様だ。だからこそ集合知を生かした説明をメディアが担う必要がある。新聞社にはそれだけの人材がいるはずだ。
 
 「説明責任」はメディアに方にこそあると、心得るべきではないか。そのために毎月4,000円近くの購読料という情報量を支払っているのだから。なにもテレビ欄を見るためにお金を出しているのではない。

 ※この件に関しては、「もうダマされないための『科学』講義」(光文社新書)の第3章、松永和紀氏の文章に詳しい。また別項で紹介したい。

2011年11月30日水曜日

“代償”としての、再びの「ぎっくり腰」

再び、「ぎっくり腰」をやった。今度はじわっと来た。場所は前回(およそ1年前)と腰の反対側である。しかし今回は冷静に対処した。
 
◆経緯
 土曜日の朝、床に広げた新聞をしゃがんで見ている時に、ウッという感じで痛みを感じた。なんだかやばい気がしたが、そっと立ち上がるとそれほどでもなかったので、気を付けながら、この日も習慣にしている水泳に朝8時15分に出かけた。そして午前中2,000m泳いだ。
 悪化し始めたのは午後になってから、昼食を取るころには痛みが次第に大きくなり、昼寝をしたあと夕方には、パンツもはけない状態になった。これもいわゆる「ぎっくり腰」だろう。
 
 しかし今回は冷静に対応できた。
痛みは、座った状態から立ち上がる時、寝た姿勢から起き上がる時に感じる。ずっと立っているのは案外平気だ。なぜなのかは分からないが。
また前回購入したザムストのコルセットもあった。コルセットはそれ自体で症状を改善させるものではないが、痛みがある時、「腰砕け」を起こさないようにできる効果はある。
(もうひとつ意外な効果として、腹が締め付けられるため、つけ始めは便通が良くなる。次第になれてくるとその効果もなくなるが…)
◆対処法
以下はまったくの素人診断とその対処法である。
 椎間板ヘルニアではないと、これまでの経験から自己判断(去年整形外科にかかった時ヘルニハとは言われなかった)していることから、これはインナーマッスルの炎症だろうと断定。炎症が収まれば治ると考えていた。

 もちろん痛みはある。前述したように、パンツを履くのも苦労する。家の中、外を問わずトレッキング用ストックをついて歩く。痛みの走った翌日日曜日はまあ家で安静にすごし、月曜日はストックを2本ついて出勤。翌日、翌々日はストックを1本で出勤した。
 
 1週間もすると腰かけた姿勢から立ち上がる時と朝寝床から起きる時を除いて、ほとんど痛みを感じないので、ちょうと1週間後の土曜日には水泳を再開、日曜日には軽くジョギングも行った。(7㌔程)。 そういう行動をとった根拠は、何冊か読んだ腰痛の書籍に負うところが大きい。


◆書籍から学んだこと
 様々な腰痛の書籍を読む中で、共通していることがある。

▽整体などの施術は一時的な痛みの緩和などには効果があっても、「治療」には至らない。
▽ある程度筋肉を動かす方が、回復は早い。
その訳は、ヘルニア以外の腰痛は、ほとんどが「インナーマッスルの炎症」だからで、いわゆる「つる=こむら返り」だからだと言う。

この2冊は、地元の図書館で借りて読んで参考になった書籍である。基本的にこの2冊の「教え」に従った。
椎間板ヘルニアなど、治療が必要なものは別として、普通の腰痛は安易に整形外科や整体師に頼ることなく、自分で「なんとかする」ことが大切であろう。



翻訳本でちょっとうさん臭い面もあるが、
ななめ読みでつまみ食い



慈恵医大の脳神経外科医・谷諭教授による著書
納得の1冊である。



◆腰痛に対する(素人の)結論

  経験則で言うと、2回の「ぎっくり腰」は、いずれも運動が効果を出して体重が落ちている時に起こったように思う。体重が落ちる時は脂肪が燃焼するだけでなく筋肉にも何らかの影響を与えているのではないか。だから、前回のぎっくり腰の後は、筋トレを心掛けて週に1回を目標に、足腰を鍛えてきた。しかし素人の筋トレではいわゆるインナーマッスルまできちんと鍛えられていなかったのだろう。
 体も急激な変化には弱い。体脂肪も本当にゆっくりゆっくり落としていった方がいい。

 体脂肪率、ひとケタを維持するのは、このトシになると結構たいへんだ。目標にしてからかれこれ2年かかっただろうか。体重が落ちる時は一直線ではない。運動を同じように続けていても足踏み状態が続き、ある時押し始める。一定程度落ちるとまた足踏みが続く。この繰り返しだ。

 体脂肪減少の「代償」としての一時的な「ぎっくり腰」。これは「つりやすい筋肉」の持ち主なら致し方ないのかもしれない。
 腰痛のある方、ご参考にどうぞ。


2011年11月18日金曜日

TPPは「国論を二分」するほどの問題なのだろうか

「刺激」と「共感」。この2つが、大衆がメディアに求めている要素だ。

 テレビのニュース番組や新聞に限らず、(というか雑誌の方がより顕著だが)、センセーショナルな見出しと記事の扱い、そして・視聴者・読者に寄り添っていることを装う内容が、顧客を獲得し、視聴率や部数を伸ばす最も“安易”かつ“安上がり”な方法である。
 
 環太平洋パートナーシップ協定(通称TPP)に関する報道もまた、メディアにとっては結果としてその「刺激」と「共感」を生む道具でしかなかった。「結果として」というのは、伝え手は、その時その時でおそらくささやかな正義感と使命感に支配されながら善意で伝えていただろうから。それが「合成の誤謬」として結果としてどうなるかまでは計算していないから「結果として」なのである。悪意であればそれを攻めたてることは容易だが、善意にはそれがしにくい。特に日本人は。
  
 TPP報道を通じてメディアは、そのマッチポンプとしての機能を顕著に表していた。

 TPPは、国論を二分していたのか?.
10月の世論調査では「協議への参加反対」は10%だった。そして11月の世論調査では20%。賛成は36%。(そもそも電話によるRDD方式という世論調査自体に問題があるが、それは別項で考察することに。)

 この間何か状況が変わったというのだろうか。何も変わっていない。ただ反対派の活動が次第にエスカレートし、それが連日メディアで取り上げられることによって、更に反対派の活動は活性化する。このサイクルがメディアとしう触媒によってなされただけだ。実際、世論調査ではどの社のものでも、「わからない」「どちらとも言えない」が一番多かった。これはこれでまともな見解だろう。
 
 伝え手の未熟さと勉強不足は、主に2つの「主張」に回収されていた。ひとつは「政府は国民に説明を」という説明責任論であり、もうひとつは「TPPによって困る(と主張する)人々を繰り返し、取り上げる」分かりやすい、つまり安易で思慮のない報道である。 

 世の中の人がよくわかっていないTPPの内容やメリット、デメリットについて、「政府の説明不足」という、いくつかの「ニュース・ショー」で聞いたフレーズはそらぞらしく、メディアの当事者意識のなさを吐露していた。
 一般の人々がわからいことに「共感」して、自分たちも「わからない」と言いつのっているだけでなないか。いったいどんな内容ををどんな方法によって国民に「説明」するべきなのかは、まったく語っていない。自分たちも「よく分からないこと」を「政府は説明せよ」と愚痴を言っているようにしか見えない。勢い、分かりやすい、取材しやすい、書きやすい、「刺激的」な方向にベクトルは向く。

 反対運動そのものを取り上げること。困っている農業現場をとりあげる。これを刺激的かつ、読者・視聴者が共感できるように味付けして報道することが、王道となるのだ。

 また新聞のよくやる手は、賛成・反対の2人の論者の意見を「対論」として載せる記事である。これが有効である場合もあろうが、TPPに関して言うと、ハナから意見のかみ合わない、別の材料でお互い論じている識者の考えを並べても、なにも生み出していないということだった。

 一方は日本農業を擁護し、衰退を心配する。もう一方は、中小零細の、いわゆる町工場の生き残りや大企業の海外移転加速を懸念する。どちらも総論としては「正しい」ものを並べても、まったく無駄とは言わないが、あまり建設的ではない。

 まともなメディアならば、農業擁護論者にこそ、工業製品の貿易立国として生きて生きた日本の企業はどうなるのかと聞くべきだし、TPP推進論者には、農業はどうするのか聞くことが、本来の役割なのではないか。それが聞けないところに大手メディアの脆弱さがあり、そのことにうすうす気が付き始めた善良な人々が離反し始めているように思う。

 直面する課題を「深化」させる工夫をすることなく、「国論を二分している大問題」として、刺激に大上段でぶちあげて、それぞれの主張を“そのまま”載せる、あるいは映像化することのむなしさを感じないわけにはいかない。

 
 余談になるが一番滑稽だったのは、頑なに「反対」を唱え続けた民主党の 山田正彦元農林水産相と原口一博前総務相だ。
 反対運動中の山田氏のあの苦悩に満ちた顔は、農業を心配する苦悩ではなく、振り上げた拳を下ろすことができなくなって困った苦悩だったのだろう。
 野田首相が「協議への参加」という言い方で参加表明した後、「参加と言わなくてよかった」とホッと胸をなでおろしたのは、拳のもって行き先があってよかったという安堵にしか見えなかったのは私だけだろうか。

 いまどうしてるんですがね、山田さん。

この表情は何を物語るんだろうか


2011年11月14日月曜日

「国益を最優先に・・・・」という言葉のいやらしさ

  TPPを巡る首相や政府・与党、また野党の中にも「国益を考えて」とは「国益を最優先に」とか言っている。「国益」という言葉にはひっかかる。自分の国さえよければよいという本音が見え隠れしてはいまいか。

 「世界はグローバル化している。もっと広い視野で考えるべきだ」などと木で鼻をくくった言い方をするつもりはない。ただ今や「国」単位で物事を考える時代ではないのではないか。
 今度のTPP参加騒動のような利害に直結した話しになると、決まって偏狭な思いが頭をもたげてくるこの国のメンタリティーを問題にしているだけだ。これは何も日本人だけではないだろうが。

 家族→ムラ(コミュニティー)→世間(生活圏の人間関係)→小社会(都市機能を含んだエリア・都道府県)→日本→東アジア→環太平洋→世界→地球・・・・

 このようなカテゴリー分けが適切かどうかわからないが、こう書きだしてみると改めて見えてくるものがある。われわれはこの世にあって、家族を大事にしている(していない人もいるが)が、家族だけでは生きていけないから、より大きな枠組みに身を置いていきる。

 単純に言えば、人は農村では教育機会も職業も限られるので都会に出るし、産業は生産現場や市場をより広いエリアに求めていくのは、自明の流れだ。
 東京都内の農地や農業を守るため、埼玉県の農産物に高い関税(のようなもの)をかけるべきだという人はいないだろう。人が地域だけで生きられるよう、すべての市町村に農地から都市機能まですべてを備えるべきだという人もいまい。
 国内問題と国際関係はまったく違うというかもしれない。確かに一律には比べられないが、構図は同じである。そして何をどう守るのか、考える基礎になるのではないか。
 
 議論は、どちらが「国益に叶うか」に終始していた。これから「開発・発展」する国々も含めて、ともに繁栄できる生き方を探っていこうという前向きな発想は、今回のTPPの論争において、推進派にも慎重・反対派にも感じられなかった。日頃、アジア、全世界の人々と手を携えてとか言っている社民党なんかもTPPに関して「国を守れ」と言っているのは、ほとんどパロディに近い。

 もちろんアメリカ合州国を始め、各国はそれぞれ「国益」優先の思惑で動いているのは承知の上だ。だからこそ、それを乗り越える「大きな物語」を提示してほしかったな、野田さんには。
もしかしたらこの人は、そういう思いを持っていたのかもしれないが、様々な立場の人に配慮して「国益」と言わざるを得なかったのかもしれないが。

 全中(全国農協中央会)の会長がドスの利いた声で反対を叫ぶ姿は、悪いけど、この人の視野の狭さと、むき出しの利己主義的思想しか見えてこなかった。この人は国を守ると言っているが、実は、黄昏ている農協を守ることしかアタマにないのだろう。その応援団の議員たちのパフォーマンスも滑稽なものだった。

 11月06日の日経新聞「今を読み解く・TPP問題と日本の農業」で、経済金融部次長が署名記事で「毎日の食を担っている農業が滅びていいなどと思っている人はいない。けれどもその代弁者としての団体が拳を振り上げ叫ぶ姿には違和感を覚える。政治家の署名を集めて公表し、考え直せ迫るような手法に至っては、弱者の側を装う脅しのようだ。」と書いていた。そして「市場を開くか閉ざすか、保護か競争。生かすか殺すかといったいびつに単純化した論点になっている」「1999年のウルグアイ・ラウンド合意。1年1兆円、6年6兆円ものお金を投じて効果はあったのか。その検証も曖昧。」と指摘していた。まったく同感である。

単純な議論と権益団体の利益擁護運動、それに惑わされ、動かされる「大衆」という図式は古典的でさえある。なぜこの国では、こうした議論が深化しないのだろうか。

信用できない理由~「言説」を変えるには説明が必要だ~

前回の追記。
朝日新聞は、2011年11月13日の社説「政治を鍛える」で、「ひとたび総選挙で民意が示されれば、基本的には4年の任期を全うする慣行の確立が求められる」と論じた。またしてもあれれ・・である。 常日頃から、重要な政策決定には解散して民意を問えと訴えていた社説とは180度違うではないか。またこの社説では「衆院『尊重』の慣行を」とも言う。これもぶれた。民主党が初めて参院で第一党になった時、参院に示された民意をくみ取れと注文していたのではないか。

 この変節はどうしてなのか。あまりにも混乱し、足を引っ張りあう政治(業界では政局と言うらしい)の在り方に、さすがにまずいと思い始めたからだろう。おそらく。 それはそれで判断としては妥当だ。しかし社説を変えるのなら、読者、それも長年購読している定期購読者に対して、説明が必要なのではなかい。なぜ説を変えたのか。変えた理由はなにか。変えるに至った社内の議論はどうだったのか、検証すべきだ。

だって新聞は日頃言っているではないか、政府に対して、「もっと国民に説明を」と。その言葉をそのまま返したい。さもなくばますます読者は減っていきますよ。ご都合主義では。

 と、まあ新聞だけを責めてもちょっと酷かもしれない。

 自民党総裁・谷垣禎一氏は自民党の政治家としては結構まともで頭脳も明晰な人だと思っていた。彼はかつて日本の政治について、日本の政治には「解散」があり、そのためどうしても「政局」というものができてしまい、政治運営が行き詰まることがあると、日本の政治制度を嘆いていた。まっとうな認識である。

 しかし今彼は、自身が総理大臣になるには自分の総裁任期中に解散総選挙して勝利する以外に道はないと悟ると、これまでの言説や彼の本質的思考とは関係なく、常に与党の粗探ししと批判、そして解散総選挙を叫ぶことに終始するようになった。これは看過できない。

政治家を信用できないという大衆的一般世論(そんなものはメディアが作りだした幻想かもしれないが)とは別の次元で、「政治家としての、人を信用できない」という思いだ。

「人の醜さ」とは何かといえば、それはこうしたご都合主義にほかならないが、そうせざるを得ない「大衆社会」そのものが問題なのではないかと、オルデカなら言うだろう。